2017/10/11(水)史料解釈の混乱~武田義信室の伊豆逗留~

なぜか注目されていない史料

三国同盟崩壊の前奏曲

武田義信室は夫の死後に駿河国に戻るが、その途中、後北条氏が伊豆国三島に引き取ったという文書がある。余り言及されることはないものだが、翻刻に問題があったので史料がどう紹介されたかを時系列で書き出してみる。

  • 戦国遺文後北条氏編1010「北条氏政書状」(小出文書)花押型により永禄10年に比定。

    於三島御新造宿之儀、護摩堂ニ落着候、相当之普請罷越見届、可被申付候、先日湯道具時可申遣を失念候、西降をは護摩堂ニ新可被申付候、恐ゝ謹言、 二月廿一日/氏政/清水太郎左衛門尉殿

三島における御新造の宿のこと。護摩堂に落着しました。相応の普請となるように直接見届け、指示して下さい。先日の湯道具の時にお伝えするのを忘れていました。『西降』を護摩堂に新設するようご指示下さい。

1990年刊行の戦国遺文後北条氏編によると『西降』という謎の言葉が出てくる。また、北条氏政の花押型から永禄10年と比定しているのだが、氏政の花押はちょうどこの頃に形態を変えている。

北条氏政花押

小田原北条氏花押考(田辺久子・百瀬今朝雄)1983年

  • 一類二型 永禄5年4月19日~永禄10年8月25日
  • 一類三型 永禄10年9月10日~永禄13年4月20日

文書は2月21日だから、永禄10年比定なら一類二型、永禄11年比定なら一類三型となる。この見分け方は判り易い。左下にある横棒が、縦棒とぶつかって突き抜ければ二型、手前で留まれば三型以降となる。

ところがこの翌年に刊行された小田原市史で状況が変わる。

  • 小田原市史小田原北条710「北条氏政書状」(小出文書)花押型により永禄11年に比定。

    於三島御新造宿之儀、護摩堂ニ落着候、相当之普請罷越見届、可被申付候、先日湯道具時可申遣を失念候、西浄をは護摩堂ニ新可被申付候、恐ゝ謹言、 二月廿一日/氏政/清水太郎左衛門尉殿

まず翻刻だが「西降」となっていたものが「西浄」になっており、注釈がつけられている。

  • 西浄「禅院で西序(首座・書記等)の用いる厠」

つまり、氏政がうっかり伝え忘れたのは厠の新設指示だったとなる。とすればその手前にある「湯道具」も茶の湯や炊事というより、入浴用の備品か設備を指すように見えてくる。つまり、義信室と娘はある程度の期間滞在することが見込まれていたのだろう。

小田原市史では他の史料から、この護摩堂は三島大社別当の愛染院と比定し、永禄6年11月9日に後北条氏が「拾貫文之田地、百姓共ニ」を復活させていると指摘している(市史578/579)。この知行を愛染院が失ったのは天文12年と史料に書かれているから、20年ぶりに回復させたことになる。

愛染院は、今では溶岩塚しか残されていないが、近世までは結構規模の大きい真言寺院だった。

2月21日に氏政が工事を急がせていることから、3月には義信室が後北条分国に引き取られることになったのかも知れない。そこで氏政は寄り道としては最短になる三島を用意した。この位置は永禄12年以降戦場になるから、比定として永禄11年にしたのは無理がない。

義信室はいつまでここに滞在したか

下の文書は、今川被官の三浦氏満・朝比奈泰朝が、上杉被官に状況の説明をしたものだが、「以前に何でも情報共有するとの取り決めだったので報告します」という説明を足しつつ、北条氏康父子が仲介した義信室の駿河帰国に当たって、武田晴信が誓詞(起請文)を求めたことを書いている。

  • 戦国遺文今川氏編2174「朝比奈泰朝・三浦氏満連署書状案写」(歴代古案二)

    態可申入之処、此方使ニ被相添使者之間、令啓候、仍甲州新蔵帰国之儀、氏康父子被申扱候処、氏真誓詞無之候者、不及覚悟之由、信玄被申放候条、非可被捨置義之間、被任其意候、要明寺被指越候時分、相互打抜有間鋪之旨、堅被申合候条、有様申候、雖如此申候、信玄表裏候ハゝ、則可申入候、猶委細遊雲斎可申宣候、恐々謹言、 四月十五日/三浦次郎左衛門氏満・朝比奈備中守泰朝/直江大和守殿・柿崎和泉守殿御宿所

恐らく、この4月15日以前に誓詞取り交わしが終了していて、それを上杉被官に知らせたのだと思う。とすると、4~5月のどこかで駿府に移ったと考えてよさそうだ。

問題となるのは、花押型が異なる永禄11年に新たに比定されたこと。小田原市史資料編小田原北条は、当主発給文書に採集を絞ってより厳密に比定をしている点から、花押型は一類三型であるという判断があったのだろうと思う。

『後北条氏家臣団人名辞典』(2006年)も『戦国時代年表後北条氏編』(2010年)も永禄11年比定となっている。

と、ここで収束するはずなのだが、この後がどうも混乱している。

ここからが問題点

戦国遺文今川氏編2165でこの文書が採集され、永禄11年比定となっているところまではよいのだが、翻刻が『西降』のままになっている。この史料集は2012年刊行で、明らかに小田原市史を参照せず、家臣団辞典か年表だけを見て比定年を修正しつつ、戦国遺文後北条氏編の翻刻をそのまま記載したのではないか。

更に翌2013年に『北条氏年表』が刊行されるが、ここではこの文書については触れられず、近世編著から全く史料と合わない記述をしている。

  • 永禄10年11月19日

    氏康・氏政の仲介によって、武田信玄の嫡子義信の妻であった今川氏真妹の駿河帰国が実現している[武徳編年集成]」

考証が進んでいるだろうという仮説に基づいて、刊行年が後の書籍を重視していたのだが、この考え方は改めないといけないようだ。先行研究を重視し、拙速よりは巧遅を尊ぶのが専門家の流儀かと考えていたのだが……。

2017/10/09(月)氏康が左京大夫から相模守になった時期

氏康と氏政はいつ官途を変えた?

永禄2年12月に隠居した氏康はその後も左京大夫の官途を使い続けている。比定ではない確実な史料で見ると、永禄11年に官途の入れ替えが確認できる。私の調査不足かも知れないが、年が判るものは今のところこれだけ。

  • 永禄11年2月8日の吉田兼右書状案(戦北4445)で「北条相模守」、同日吉田兼右書状案(戦北4446)で「北条左京大夫」。これは日記内に記載で年比定は確実。

年比定の文書でもうちょっと検討。

「左京大夫氏康」

  • 永禄3年8月8日の伊達晴宗宛ての書状(戦北638)
  • 永禄3年9月22日の蘆名修理大夫宛ての書状写(戦北642)

「北条左京大夫」

  • 永禄4年1月20日の足利義輝御内書(戦北4435)

「左京大夫氏康」

  • 永禄4年2月18日の佐々木近江守宛ての書状(戦北1521)
  • 永禄8年3月23日の上杉輝虎宛ての書状(神三下7433「足利義輝御内書」/7435「大館晴光添状」)
  • 永禄12年1月2日の松本石見守・河田伯耆守宛ての書状写(戦北1134)※初信のため旧官途を名乗った?

「相模守」

  • 永禄9年5月晦日の足利義氏書状(戦北4443)

「左京大夫」

  • 永禄9年6月27日の足利義氏書状写(戦北4444)
  • 永禄10年6月27日の足利義氏条書(埼玉県史料叢書12_314)※同書は氏康比定

「左京大夫氏政」

  • 永禄10年8月25日の細川兵部大輔宛ての書状(戦北1033)
  • 永禄11年5月26日の足利義氏宛ての書状(戦北1075)
  • 永禄12年3月26日の細川兵部大輔宛ての書状写(戦北1193/1194)
  • 永禄12年4月23日の伊達輝宗宛ての書状(戦北1199)
  • 永禄12年12月26日の上杉輝虎宛ての書状(戦北1365)

「相模守氏康」

  • 永禄12年3月21日の細川兵部大輔宛ての書状(戦北1185)

「北条左京大夫・北条相模守」

  • 永禄12年11月23日の上杉輝虎覚書写(戦北4459)

もう少し検討。

永禄12年1月2日の書状写を除外すれば、永禄8年3月23日~永禄9年5月29日の間に官途の変更というのが、年比定文書からの検討結果となる。その間にあった出来事のうち、氏康引退に関係しそうなものを列挙してみる。

  1. 永禄8年8月24日の武蔵御嶽出陣が氏康最後の出征となる
  2. 永禄9年3月13日に武田晴信が倉賀野攻囲で氏康・氏政が出陣予定と記述
  3. 永禄9年3月20~25日に上杉方が臼井攻囲に失敗
  4. 永禄9年3月28日に足利義氏が臼井後詰で氏康・氏政が出陣予定だったと記述
  5. 永禄9年5月13日に氏康隠居印「武栄」が現われる

1、3も契機になりそうな感触はあるが、4で出陣予定が語られていることから、5の直前ではないかというのが妥当かと思う。当初は永禄2年の隠居の後で様子を見てと思っていたのが、越後からの侵攻でそれどころではなくなり、臼井城からの撤退で上杉方が関東の中心部から撤退したのを見届けて官途の差し替えをしたのかなと。

2017/10/09(月)「五人扶持」はどんな価値?

秀吉の「扶持」

羽柴秀吉の新出文書で「五人扶持」を支給せよという指示があり、報道記事では「五人扶持は現在の100万円ほどの価値」とあった。ちょっと疑問に思ったので検証。

『豊臣秀吉文書集』をざっと見たところ、簡易な記述で宛行いをしているものが複数あったが、何れも「石」を単位としている。「扶持」による記載は福島正則へ渡す米についてのもの。

  • 豊臣秀吉文書集0193「羽柴秀吉切手」(青木氏蒐集文書・東大史影写)

    ふちかた八木出来事。四人、五十日分、馬之大豆三斗、福島市松 此ほかにまめ壱石とらせ可申候、 天正七年五月十四日/秀吉(花押)/藤右衛門

 ここでは4人分・50日分と明記している。これだけで藤右衛門が諒解して支給できるというのは、ある程度時価によらない「人扶持」基準があったのだろう。と思っていたら、次の文書を見つけた。

  • 豊臣秀吉文書集0583「御次衆扶持方判物」(大阪城天守閣)

    御次様衆扶持方十日分かし候 三百拾人、田中小十郎 三百人、谷兵介 三百人、藤懸三蔵 百八拾人、石川小七郎 六拾人、渡部勘兵衛 百人、高田小五郎 以上、千弐百五拾人 此米、六拾弐石五斗 天正十一年二月六日/秀吉(花押)/宛所欠

御次様衆に対して10日文の貸しとして米を渡すように指示している。1250人で米が62石5斗。

6250升÷10日=625升/日

625÷1250人=0.5升=5合/人

つまり、1日・1人当たりに換算すると5合の米が「扶持」として与えられたことになる。これを福島正則に当てはめると100升=1石となる。

新出文書では「五人扶持」としか書かれていないが、特に明記がなければ1年分となるのが後北条や今川で見られる形なので、とりあえずそう考えてみる。

0.5升×5人×354日=885升=8.85石(1人は1.77石)

そもそも、経済と生産の状況が全く異なる戦国期の「扶持」を現代の価値に置き換えること自体に無理がある(というか破綻している)と思うのだが、強引に計算を続けてみよう。

米の価格は玄米60kgが平成28年度の全国平均で1万4千円程度。これを1俵=4斗と考えると40升だから、1升は350円。885升では309,750円。むしろ100万円にもならない。

貫高での「扶持」

石高を使っていない、今川・後北条での「扶持」を見てみる。一人当たりに換算したもの。

  • 5貫文「其時五拾貫拾人扶持分」戦今634・天文8年
  • 6貫文「乗組四十人、此扶持給弐百四拾貫文」戦北1742・天正3年
  • 5.9貫文「拾人、鉄炮衆(中略)五拾八貫六百七十文」戦北2734・天正12年
  • 5貫文「百貫文、鉄炮衆弐十人之扶持給、但、一人四貫文之給、壱貫之扶持也」戦北3312・天正16

このように、時代を問わず5~6貫文が1人扶持となる。

但し、後北条氏では一騎合は「壱人拾貫文積」(戦北1233)としているから馬上の扶持は10貫文としている。その一方で「歩鉄炮廿人」は100貫文積であって5貫文の原則は守っている。このことは、明智光秀の「馬上は2人分にカウントする」とも合致し、全国的に相場が合っていたという点で興味深い。

ではこの1人扶持は実際にどの程度の財産だったのか。金山在城を指示した後北条氏の朱印状に明細が載っている。このときの1人当たりの扶持は2.4貫文で、臨時に4~6ヶ月分の扶持を支給したものと思われる。

  • 2.4貫文「弐拾四貫文、同心上下廿人扶持銭、於館林麦百六十四俵二斗、大藤長門守・森三河両人前より、可請取之」戦北2882・天正13年

同心上下20人の扶持銭として24貫文が支給されているが、具体的には館林に行って、大藤長門守・森三河守から麦164俵2斗を受け取れとしている。

後北条氏は1俵が3斗5升(戦北3055)となる。俵から升へ換算してみると、

  • 164俵×35升=5,740升

ここに2斗を追加

  • 5,740升+20升=5,760升

1文当たりの麦容量を計算

-5,760升÷2,400文=2.4升

在城期間は具体的に書かれていないが、この文書は3人の被官に全く同一金額が明示されているから、何らかの基準に沿って導き出されたと考えてよいだろう。

年間扶持給での麦容量に換算してみる。

-2.4升×5,000文=12,000升=約343俵 -2.4升×6,000文=14,400升=約411俵

5~6貫文の年間扶持は、麦に換算すると大体343~411俵。これを升に直して1日当たりの分量に変えてみる。

  • 34,300升÷354日=約97升/日
  • 41,100升÷354日=約116升/日

秀吉の例で見た、米5合/日が、関東での麦だと970~1,160合と、200倍にもなってしまう。麦と比較することに無理があるのか……。

兵粮から見た米の価格

気を取り直して、兵粮として米を扱っている場合の価格を探ってみる。

「陣中兵粮ニ詰、野老をほり候てくらい候よし申候、兵粮一升ひた銭にて百文つゝ、是もはや無売買由申候」(戦北3691)は、天正18年に関東に押し寄せた羽柴方が兵粮に窮していると松田康長が評したもの。「米1升が鐚銭100文もしたのが、いよいよそれも売られなくなった」と書いている。誇張表現だろうが、1升100文が法外な価格であるという認識は採用できる。

以下の文書では、22人・2ヶ月分の兵粮が20俵12升=712升となる。

  • 戦国遺文後北条氏編0459「北条家朱印状」(鳥海文書)

    峯上尾崎曲輪下小屋衆廿二人之内、二ヶ月分兵粮廿俵十二升、此内拾俵六升、只今出之候、残而十俵六升、来三月中旬ニ可出之候、当意致堪忍、可走廻候、猶致忠節ニ付而者、始末共ニ給恩重而可相定者也、仍如件、 二月廿七日/(虎朱印)/尾崎曲輪根小屋廿二人衆・吉原玄蕃助

1人・1日に換算する。

  • 712升÷22人÷60日=約5.4合

これは秀吉の場合の扶持と近似する。となると関東の米価が大きく異なった訳ではなく、麦の価格が米の1/200だった可能性が考えられる。

まとめ

間に兵粮という概念が入っているので確証はないが、今川・後北条が5~6貫文とした扶持が、秀吉の1.77石と合致すると想定してみて、米1升の価格を計算してみる。

  • 5,000文÷177升=約28文/升
  • 6,000文÷177升=約34文/升

松田康長は「鐚銭で100文」と書いており、鐚が1/4程度の価値だとすればむしろ安価ではないかと考えられる。ここは難題。ただ、東西で鐚銭・精銭の考え方が異なったという永原慶二氏の指摘もあり、遠征した羽柴方が使ったのが西国で主流の宋銭で、それが康長には鐚と認識された可能性もある。