2022/11/11(金)相模朝倉氏の概要

相模に登場した朝倉氏

相模にいた朝倉氏については過去に駿河・伊豆・相模にいた朝倉氏で一度考察を試みたことがあるが、今回為昌や綱成を巡ってあれこれ試案を深めた結果として、もう少し細かく見られるようになったので追加で考察してみた。

朝倉右京による香林寺寄進

まず最初に見られるのが、朝倉右京が1531(享禄4)年に曹洞宗香林寺に宛てて「祖父の古播磨の通りに」と出している寄進状。

  • 戦国遺文後北条氏編0098「朝倉右京寄進書立写」(相州文書所収足柄下郡香林寺文書)

    香林寺開山以来祖父古播磨代寄進申分。拾貫文、西谷畠、大窪分。壱貫弐百文、南面田、同分施餓鬼免。弐貫四百文、織殿小路、同分本尊仏供免。壱貫弐百文、城下屋敷一間、古播磨同霊供。以上拾四貫文八百文。右、前ゝ寄進分書立、進之候、仍如件、
    辛卯十二月五日/朝倉右京(花押)/香林寺御納所

香林寺の本寺である海蔵寺は越前朝倉氏と親交があった(神奈川県史資料編3下7961)。恐らくこの繋がりは播磨守の寄進に影響があっただろう。

播磨守は右京の祖父だから、1484(文明16)年といわれる香林寺創建に関わっていた可能性も高い。そして、文明年間に小田原と関わりがあったとなると、この時期西相模に侵入してきた足利政知(堀越公方)の指揮下にあったのだろう。1462(寛正3)年に政知は松田左衛門尉の領地を鶴岡八幡宮に寄進している(鎌倉市史資料編1_096)。このことから見ても、伊豆の政知被官が相模西郡に関与していたとするのは妥当だろう。

江の島遷宮での寄進

次に朝倉氏が出てくるのが、初見から12年後の1544(天文13)年。江の島遷宮に際しての寄進一覧内に名前が見える(小田原市郷土文化館研究報告No.42『小田原北条氏文書補遺』p35)。朝倉は弥四郎・藤四郎・孫左衛門尉が、福島・桑原・松田と並んで名を連ねており、後北条被官としての地位を確実に得ていることが判るほか、花木隠居も参加している。

長文のため本文掲載は省くが、朝倉氏が最も集中して見られるのがこの文書となっている。

駿河朝倉氏の登場

駿河安倍川上流にある長津俣で領主となる

江の島で相模朝倉が勢ぞろいした4年後、今川義元判物写で駿河国に朝倉氏が現われる。義元が長津俣を浦田又三郎に与えたところ、その翌年、借金で困窮した又三郎が、朝倉弥三郎に売却してしまったという。それを聞いた義元が証文の旨を追認して弥三郎の知行を安堵した。

  • 戦国遺文今川氏編0881「今川義元判物写」(国立公文書館所蔵判物証文写今川二)

    駿河国中河内長津俣五ヶ村預職之事。右、去年補任于浦田又三郎之処、借物過分之条、依困窮売渡于朝倉弥三郎云々、然者、任証文之旨、彼職如先例可取沙汰之旨、所令領掌如件、
    天文十七十一月廿四日/治部大輔(花押影)/朝倉弥三郎殿

義元からすれば、浦田又三郎が宛て行なったその翌年に借金でいきなりいなくなって朝倉弥三郎という男に名義が代わっていたという形になる。そしてまた、これ以降で朝倉弥三郎・六郎右衛門は長津俣領主として登場するものの、一領主に過ぎず今川家中で活躍した訳ではない。駿河朝倉氏は異物としての扱いが近いように見える。

駿河朝倉氏は弥三郎から六郎右衛門尉に知行を受け継いているが、永禄3年の今川氏真書状(戦国遺文今川氏編1618)では、尊俣などの領地より「従前々在陣之時之金堀夫丸壱人之事=以前から在陣の時に金堀の作業員1名を提供すること」が明記されている。これは朝倉氏の支配する領域に金鉱があったことを示していて、同文書では「他者から領地を奪うための訴訟があるが気にしなくてよい」と氏真が恩着せがましく書き連ねていて、領地を狙う者が多かったと思われる。

朝倉氏は、さらに永禄6年になると以下の13ヶ村に領域が拡充されている(戦国遺文今川氏編1918)。

  • 村又村、坂本、長津又、柿島
  • 池谷、大淵、横沢、大沢
  • 腰越、内匠村、平瀬、落合
  • 萓間

上記のように、駿河朝倉氏は安倍川上流で金鉱を掌握して資本を拡張していた。この一族は永禄12年の今川家撤退後も生き残り、武田晴信から同地を保証されている(今川方として最後に一揆を率いたり、武田方では小山籠城戦に参加するなどして、この頃は例外的に武功を挙げている)。武田氏滅亡後は徳川氏につき、中村氏を経て再び徳川氏に所属して材木奉行に任じられた後に旗本になっている。

『後北条氏家臣団辞典』では、寛政譜の記述を受けて「今川氏を経由して後北条被官となった」と説明されている。しかし、このように同時代史料を見ていくと、駿河朝倉氏はどうも資本家の雰囲気があるし、相模朝倉氏より後で確立されている。相模・伊豆辺りから経済圏を安倍川上流にまで広げていく中で、拠点を得たという感じだろう。

相模朝倉氏の出自と浄土宗

駿河で時系列が下ってしまったが、一旦相模で話を戻す。朝倉氏の出自を探る上で最も重要な史料が登場する。

伊豆の住人だった朝倉一族

像がある大長寺は浄土宗で、胎内銘にある安養院住持から名越派であろうと思われる。為昌が支援した鎌倉光明寺は白旗派なので、ここに齟齬がある。名越派は越前にも教線を伸ばしているから、越前朝倉本家との関係もあるかもしれない。

  • 戦国遺文後北条氏編0355「朝倉氏像銘」(大長寺所蔵)

    「胎内腹部」

    造化御影像之事
    右、彼施主古郷豆州之住呂、名字朝倉息女、北条九郎之御前、御子ニハ北条佐衛門大夫綱成、同形部少輔綱房、同息女松田尾州之御内也、爰以至衰老、中比発菩提心、為逆菩提、奉彫刻木像也、
    「胎内背部」
    并奉寄進拾二貫文日牌銭、法名養勝院殿華江理忠大姉相州小坂郡鎌倉名越、安養院住持第十六代高蓮社山誉大和尚、仏所上総法眼、使者大河法名善信、謹言、敬白
    于時天文拾八年己酉九月十八日

この鎌倉大長寺は浄土宗で、鎌倉名越の安養院もまた浄土宗。当初は曹洞宗だったと思われる朝倉氏だが、天文18年には既に改宗しており、娘が木像を使って自らの生前供養をするようになっていた。

また、この胎内銘では、為昌妻を伊豆住人としている。既に見たように朝倉播磨守が文明年間には小田原に勢力を持っていたとするなら、足利政知の入部に伴って伊豆入りしたという堀越公方官僚出自説が更に補強される。1549(天文18)年当時に「衰老」となったとするなら、40歳の初老初年だと考えても、彼女の生年は1499(明応8)年以前だろう。

良心寺の創建

天正に入ると朝倉能登守が、横須賀の良心寺を創建して浄土宗に深く帰依する。

  • 戦国遺文後北条氏編1790「朝倉景隆寄進状写」(相州文書所収三浦郡良心寺文書)1575(天正3)年比定

    われゝゝこおもち申さぬゆへ、ミなたにんにいへをいたし候、しかるニきんねんはしりめくり候ゆへ、上いも御かいほう候、しかしなから、こせのためにハ、いつれもまかりならす候間、小寺をとりたて候、右馬助ハにやいに、ちりやうつけをき候、これもなお、かさね申へく候、われゝゝハ、大もりにて、二くわん、とうねんいのとしよりきしん申候、これも又、かさね申へく候、もし両人のことも、われらしに候のち、いらん申候ハゝ、このせうもんを 上いへさし上られ、御わひ事あるへく候、このきミらくちやくニなされ候ハゝ、てらハたいてん申へく候、さやうニ候てハ、きんねんわれゝゝはしりめくりハ、なに事もむた事たるへく候、このところさへけんこに候へハ、へつにわれゝゝのそミなく候、そのため一さつしんちをき候、以上、
    いの六月廿六日/朝倉能登守(花押)/りやうしん寺へ参

  • 解釈

    私達には子がいないので、全て他人に家を継がせています。そうしたところ、近年は活躍したので上の覚えもめでたくなりました。とはいえこの栄達が後生のためにはなりませんから、小さな寺を取り立てて、右馬助が相応の寺領をお渡しします。これも更にご連絡します。私達は大森で2貫文、今年亥年より寄進します。これもまた、更にご連絡します。私が死んだあとに違乱があったなら、この証文を上へ差し上げて陳情するように。このことが落着しなければ寺は退去するでしょう。そのなっては、近年の私達の活躍は全て無駄になってしまいます。この地所が堅固に寄進されているなら、私達に他の望みはありません。そのために、一筆ご進呈いたします。

「子がいない」と明言している一方で「右馬助が寺領を渡すだろう」と書いているので、右馬助は能登守の弟か甥ぐらいの近親者で、彼にも子がないものの、死去は能登守よりは後だろうという見込みで文章を構成している。

能登守の寄進から8年後、能登守の意図通りになり、右馬助は良心寺へ更に寄進を行なっている。この寺には「大旦主、大慈院殿法誉良心大姉 朝倉能登守奥、天正十一年六月十日」との墓碑銘があるという(家臣団辞典・朝倉景隆の項目)。恐らく、能登守の妻が亡くなった翌日に改めて寄進を行なったのだろう。

  • 戦国遺文後北条氏編2548「朝倉右馬助寄進状写」(相州文書所収三浦郡良心寺文書) 1583(天正11)年比定

    能登守為後世、小寺家を被致建立候、依之拙者も其旨存候而、知行之内浦之郷ニ而、御堪忍分五貫五百八十文之処、寄進申候、但五百文者、寺屋敷候、於能登以後も、為違乱有間敷、如此候、仍如件、
    未六月十一日/朝倉右馬助(花押)/良心寺へ参

  • 解釈

    能登守は後生のため、小さな寺を建立されました。これにより拙者もその旨を知って、知行のうち浦郷にて御堪忍分5.58貫文の地所を寄進します。但し500文は寺屋敷となります。能登守以後になっても違乱がないように。

所領役帳の朝倉氏

御馬廻衆に3人、玉縄衆と江戸衆でそれぞれ1人が見られる。知行規模でいうと、右馬助が本家筋で平次郎が分家の有力者、右京進は氏康側近として配属されたという感じだろう。

御馬廻衆

一、朝倉右京進 (43貫815文)
廿壱貫文、豆州、鎌田
廿弐貫八百拾五文、西郡、大窪分
以上四拾四貫八百拾五文

一、卅弐貫文、西郡、佐須分、朝倉孫左衛門 (22貫文)

一、百三拾六貫七百三拾四文、久良岐郡、太田郷、朝倉又四郎 (136貫734文)
此内拾六貫七百卅四文、癸卯増分
以上

玉縄衆

一、朝倉右馬助 (299貫340文)
買得、百弐拾貫文、三浦、浦郷
卅弐貫三百四拾文、同所辰増
七拾弐貫文、豆州、玉川
以上弐百弐拾四貫三百四拾文
此内
百九拾貫文、自前々致来知行役辻
残而
卅四貫文三百四拾文、従昔除役間可為其分、人衆着到出銭者可懸高辻、但浦郷辰増分者重而惣検地上役可被仰付者也
此外
五拾貫文、上総、篠塚
廿五貫文、同、杉谷村
以上七拾五貫文、役惣次重而可被仰付

江戸衆

一、朝倉平次郎 (235貫900文)百弐拾九貫五百五拾文、豆州、梅名内
此外五拾貫八百文、花木隠居永代買得依之役左衛門太夫殿勤之
五拾六貫三百五拾文、葛西、木毛川
此半役二拾八貫百七拾五文
以上百八拾五貫九百文
此内
百廿八貫百七拾五文、知行役、但木毛川半役共
五拾貫文、御蔵出、此内拾五貫文引銭
以上

武士としての功績

合戦に関わった文書として下記2通が挙げられる。前者では下総原氏への使者を務め、後者では間宮康俊と共に佐竹方の監視役となっている。どちらも直接的な戦功を挙げたものではない。

  • 小田原市史資料編小田原北条0352「北条氏康書状」(千葉市立郷土博物館所蔵原文書)1556(弘治2)年比定

    動之様体如何、無心元候、昼夜辛労、令識察候、仍柳一荷進候、猶朝倉遠江守可申候、恐ゝ謹言、
    三月廿六日/氏康(花押)/宛所欠

  • 戦国遺文後北条氏編1947「北条氏政書状写」(武家事紀三十三)1577(天正5)年比定

    佐竹動之由候処、于今是非之無註進候、如何程進候処、油断之様候、箇様之砌者、其元弥万端遣念肝要候、当表之事者、勝海へ押詰候処、様ゝ悃望候、三日之内可為落著候、謹言、
    九月廿二日/氏政/間宮豊前守殿・朝倉能登守殿

伝肇寺の移設

後北条氏が中央政局に巻き込まれ臨戦態勢が一段と強化される1584(天正12)年になると、城郭の整備が大々的に行なわれるようになる。その一環として、城下の伝肇寺の立ち退きが検討される。

  • 埼玉県史料叢書12_0707「北条家虎朱印状」(伝肇寺文書)

    奥州屋敷構要害之内へ不入而雖不叶地形候、寺内可鑿事無心ニ候ニ付而、先打過候、此度火事出来与云、とても不鑿不叶地与云、此節申付候、堀よりも内之分之地形、何間も候へ、於他所所望次第、可渡置候、扨又堀よりも其寺之方者、勿論可為随意間、如此間在寺尤候、堀端三尺置、木を成共、藪を成共植、寺をかこわるへく候、仍如件、
    三月三日/日付に(虎朱印)/伝肇寺(上書:伝肇寺 天正十二年申甲三月三日御印判也)

  • 解釈

    北条陸奥守氏照屋敷は防御設備内へ入れなくてはならない地形です。寺地を削ることになるので、まず見合わせていました。今回火事があったといいます。とても削れる土地ではありませんが、今回はご指示がありました。堀から内側になる地形の代替として、どんな面積であっても望みの通りにお渡ししましょう。さてまた、堀よりもそちらの寺の土地は勿論ご随意なのですから、以前通り寺を保っても問題ありません。堀端3尺を置いて、木でも藪でも植えて寺を囲われますように。

全く同様の措置として常勝寺も土地の割譲を求められているから、かなり大規模な工事だったのだろう。その2年後に、伝肇寺は朝倉右京進との間で土地売買の訴訟を起こしている。伝肇寺は浄土宗で朝倉氏は熱心な宗徒だったから、右京進が自らの知行を売って代替地を用意しようとしたのだろう。

  • 小田原市史資料編小田原北条1814「北条家虎朱印状」(小田原市・伝肇寺所蔵)

    伝肇寺就訴状、朝倉右京進以論書遂糺決畢、然而右京進知行之内為寺屋敷買得、彼改替遅ゝニ付而、以利米可請取旨雖申、証文無之上者、右京進申所不可有之旨、依仰状如件、
    天正十五年丁亥卯月廿八日/日付に(虎朱印)評定衆上野介康定/伝肇寺

  • 解釈

    伝肇寺の訴状について。朝倉右京進が反訴状を出したので決裁しました。さて右京進の知行の一部を寺屋敷のためとして買得しました。ところがその履行が遅かったために、右京進は利息となる米を受け取りたいとの旨でしたが、証文がなかったので、この申出は不可となりました。

しかし、ここで右京進は「土地を売ったのに決済が遅れている。だからその期間の利息を払え」と伝肇寺に迫ったようだ。そこで寺は後北条氏に訴え出で評定衆の裁許となる。結果としては、売買証文の不備によって右京進の敗訴となった。そこで改めて両者で売買証文が作られる。

拙者私領大窪分之内八貫百文之所、東ハ山角上野介方藪際、西者山中大炊助方藪際、北者新堀はたを限、南者井神之森際、但古道を限而東之分、無年貢、永代売渡申候、於後年棟別・諸公事等不可有之候、然者右之替代、如大法六増倍之積、兵粮雖百六拾弐俵候、江雪斎御指引ニ付而、弐貫弐百五十文之兵粮指置、残所無未進請取申者也、仍後日状如件、
丁亥六月二日/朝倉右京進(花押)/伝肇寺参

  • 戦国遺文後北条氏編3110「朝倉政元証文写」(相州文書所収足柄下郡伝肇寺文書)
  • 解釈

    私の領地大窪分のうち、8貫100文の地所。東は山角上野介方の藪際、西は山中大炊介方の藪際、北は新堀までを限り、南は井神神社の森際(但し古道から東の分)。年貢もなく、永代売り渡し申ます。後年において棟別・諸税があってはなりません。ですから右の代替として、大法にあるように六倍増額して、兵粮162俵となりますが、江雪斎のご提案があったので、2貫150文の兵粮で決定。残額なく全て受領しました。

仲介として板部岡融成が入り、買得金額の受領も完了している。そして、更に翌年の上期〆となる6月末で、寺地の免税が最終的に確認された。

  • 小田原市史資料編小田原北条1903「北条家虎朱印状」(伝肇寺所蔵)

    伝肇寺新地屋敷之儀、朝倉右京進知行之内、永代買得不可有相違、諸役令免許候、猶横合非分之族有之者、可有披露者也、仍如件、
    天正十六年戊子六月廿一日/日付に(虎朱印)宗悦奉之/伝肇寺

  • 解釈

    伝肇寺の新地屋敷の件。朝倉右京進知行の内、永代買得したのは相違ありません。諸税は免除します。なお、横から異議を唱える者がいれば報告して下さい。

ここで興味深いのは、浄土宗徒だから伝肇寺移転で助力したものの、寺の決済遅れに異議を唱え利息取り立てに及んだ右京進の行動である。信仰心は持っているものの、金銭に関してはきっちりしている側面が窺われる。

相模朝倉氏のまとめ

相模朝倉氏は熱心な浄土宗信者である一方で、資本家としての性格が強く出ているといえる。むしろ、経済活動に利があるからこそ浄土宗を支援した面の方が大きいのかもしれない。

戦闘に直接参加した形跡はなく、経済系の文官だったのは確実だろう。これは借財を契機に駿河国内に領地を得た駿河朝倉氏とも通ずるものがあり、相模から伊豆へ分派した流れが想起される。

こうした性格は、伊豆堀越公方についてきて土着した流れと関係があるかもしれない。鎌倉にも伊豆にも財源を持たないまま赴任してしまった足利政知は行動が著しく制限され、政知被官達による押領が頻発していた。そういった中で頭角を表した朝倉氏が、資本の収奪と運営能力に長けていたのだろう。

後世編著で当てにはならないが、天正17年末に羽柴秀吉と外交が決裂し開戦不可避になった際に、北条氏勝ともども伊豆山中城への籠城を命じられた朝倉能登守は、以下のように毒を吐く。

  • 小田原北条記・関八州古戦録・改正三河後風土記

    「今度の一挙当家運の究ける処歟、山中の白は旧臘より修営ありといへ雖踈々にして全からす。大軍の囲を請てやわか久敷は持タるへしとは覚へす。然るを屋形御思案なく爪牙の功臣四人迄被差置ラルル事は可惜一命を無下に棄損せらるゝ者也」

この態度は独特のもので、開戦準備で不服を唱えて氏政に叱られた氏規を想起させる。氏規は海運と外交関係を背景に独自の地位を保持していたと思われるが、朝倉能登守もまた異色の位置取りをしていた可能性が窺われる。

2022/09/23(金)所領役帳のデータ化

いわゆる『小田原衆所領役帳』と呼ばれる、後北条氏の所領役帳を完全にデータ化してみた。

所領役帳データ

計上された貫高のうち、買得時の貫高、御蔵出の引銭以外の全ての数値は文単位で数値化している。

また、私自身よく判っていなかった知行役について、普請役の名を借りた陣夫役だろうという仮説で被官ごとに動員陣夫数を仮定したほか、軍役(着到)の定数と実態を書き出してみた。

追記:比定されている現在の地名を入れて、Google Mapに落とし込んでみた。

所領役帳の給地一覧

転記内容については3回確認をしているものの、誤記や記入漏れも多々あるかと思われるので、ご不明点のご指摘を乞う。

2022/08/19(金)北条家過去帳まとめ

寒川町史の高野山高室院過去帳に加えて、平塚市史付録の北条家過去帳をデータ化してみた。

後北条氏関連人物過去帳

このシートで、どちらも見られるようになっている。

気づいた点を挙げておく。

  1. 北条氏長による介入が思ったよりも全般に及んでいる。
  2. 北条氏規の妻の戒名と死去年月日には疑問がある(氏宗曾祖母が他に3名いるため)。
  3. 平塚市史が指摘しているようにこの過去帳は供養目的とは思えない(寒川町史の月牌帳と比較)。
  4. 氏繁二男が無理やり挿入されており、何かの意図が感じられる。
  5. 玉縄系の江戸北条家が途中強力に入ってくるものの、その前後は本家系の狭山北条家が記載を行なっており、氏長一代での介入が想定される。