2018/04/21(土)高白斎記に見る甲相駿三国同盟

三国同盟成立の瞬間

高白斎記に詳しく載っているので時系列で並べてみる。

天文13年

  • 1月2日:駒井政武は小山田居館を出る。恐らく相模に入り、後北条被官の桑原盛正と会う。対談し同盟条件を整える。向山又七郎が同心(同行)。その翌日に甲斐へ帰る。

天文14年

  • 4月2日:三国の和睦を促す聖護院が甲府に入る。
  • 8月5日:甲斐本栖に移動。温井丹波守が同心(同行)。
  • 8月7日:両人が帰宅。
  • 8月9日:政武のみで本栖に移動。
  • 8月10日:駿河善徳寺で、太原崇孚・高井兵庫・一宮出羽守に、晴信書状と口上を伝える。
  • 8月11日:巳刻に今川義元と対面、未刻に血判を作成、振舞を受ける。
  • 8月13日:帰府。
  • 9月9日:甲斐向山に武田晴信が出張。
  • 9月12日:晴信が甲斐本栖に移陣し、板垣信形が駿河大石寺へ移動。
  • 9月14日:北条氏康から書状が到着。
  • 9月15日:晴信が駿河大石寺に着陣。
  • 9月16日:後北条方の駿河吉原が自落。晴信が馬見墓に移動。その途中で義元と対面。
  • 9月17日:晴信が義元陣所に滞在。
  • 9月18日:晴信が辰刻に出発し、駿河今井見付に移動。
  • 9月19日:晴信が駿河千本松に移動。
  • 9月20日:晴信が駿河岡宮近隣の原に移動。義元は長窪に移動。
  • 9月21日:晴信が陣屋を構築。
  • 9月27日:黄瀬川に架橋。
  • 10月15日:巳刻に信形・又七郎・政武が連判状を持って、氏康陣所内で盛正に会う。戌刻に帰る。
  • 10月20日:長窪城を見分に行く。御宿某が死去。
  • 10月21日:上杉憲政・義元・氏康の起請文が揃う。この件で政武は3回崇孚の陣所に赴く。
  • 10月22日:停戦。
  • 10月28日:藤沢頼親が撤収。
  • 10月29日:「朝佐」陣所で談合。国境紛争は氏康に非がある・義元が停戦を破棄したので晴信が援軍に出た・この停戦が破棄されたら晴信は義元に味方するという3点を確認。「朝佐」と崇孚が花押を据えて信形・政武に渡す。
  • 11月1日:長窪に滞在。
  • 11月6日:敵が城を出る。
  • 11月8日:義元・晴信の間で、重要なことは自筆で直接やり取りすると合意。
  • 11月9日:義元・晴信が相互に自筆書状を受け取る。

高白斎記『武田史料集』(校注:清水茂夫・服部治則)

同書解題にあるように、栗原左兵衛の日記として伝来したために竄入部分がある。注記を元に竄入箇所を太字にした。

1544(天文13)年

同十三甲辰年。正月朔日庚子昨日着谷村。二日小山田宿所ヲ出。桑原九郎右衛門ニ致対談御条目ヲ申渡ス。向山又七郎同心仕ル。翌日帰ル。六日立春廿三日彼岸ニ入ル。菩提ノ観音御戸開。三月三州牛窪ノ浪人山本勘助召抱ヘラル。六日節。十三日壬子辰刻御主殿ノ柱立。廿四日丙刁御主殿棟挙風雨。四月大朔日己巳。八日節。十一日己卯信形上原ニ着城。十三日屋形様御着城。十五日上原ノ地普請終ル。七月大朔日戊戌信形諏訪ノ屋敷鍬立。六月節ノ内也。十日七月節。八月廿八日乙未信形丑刻ニ出府、諏訪郡ニ在城。十月十六日壬午屋形様御出陣。於礼拝場御馬鼻血出ル。不苦候ヤ其後何事ナシ。廿八日甲午在賀へ酉刻御着陣。廿九日御先衆荒神山ニ陣取。十一月朔日丙申為御使者荒神山へ打寄働ノ場近辺放火。於松島原敵ノ首二十六<栗原左衛門軍功。廿六日上原へ御着陣。九日甲辰御帰府。十四日己酉節。閏十一月朔日丙刁。十四日小寒。廿七日土用。十二月大朔日乙未大寒。十六日庚戌立春。廿二日丙辰御主殿へ御移リ御祝儀ノ御酒。

1545(天文14)年

同十四乙巳年。正月小朔日乙丑。二月小甲午。六日己亥高国寺客殿柱立。同日駒井ノ鳥井立。十五日戊申火焼。十八日辛亥節。四月小癸巳二日甲午。シヤウゴン院御着府。十一日癸卯向ニ高遠御出馬。雨。十四日未刻上原へ御着城。細雨。十五日丁未杖ツキ峠御陣所雖被為取候昼夜雨。十七日己酉諏訪頼継自落。十八日高遠屋敷御陣所。廿日壬子節、高遠御立。午刻ニ箕輪へ御着陣。廿九日辛酉鎌田長門守討死。五月大壬戌廿一日節。相州・羽州竜崎動。廿二日癸未駿州松川ヨリ御加勢。六月大壬辰板垣駿河守竜ヶ崎落城。敵ノ首四十六討捕於栗原左衛門手ニ首十七討捕晴信公ヨリ感状ヲ賜。六月十日辛丑藤沢次郎和ノ義落書。十一日藤沢次郎身血。其上藤沢権次郎為人質穴山陣所へ参。敵城放火。十三日甲辰辰刻箕輪ヲ御立塩尻御陣所。於高白陣所鶉ヲトラへ進上。十四日林近所迄放火。桔梗原御陣所熊野井ノ城自落。子刻十五打立小笠原ノ舘放火。六月十五日於桔梗原勝鬨、十六日御帰陣。十七日御着府。八月大辛卯五日乙未本須迄温丹為同心行。七日帰ル。又九日高白計本須へ行。十日庚子富士ノ於善徳寺御一書並御口上之旨雪斎・高井・一ノ宮方へ申渡ス。細雨。十一日辛丑巳刻義元ニ被成御対面未刻御身血ナサレ御振舞飯麺子御盃一度御刀被下。十三日帰府。十七日丁未山下源三出仕。廿三日節。九月大。九日己巳細雨未刻御出張向山迄。十二日本須御陣所。板垣・栗原ハ大石寺迄。夜大雨。十四日甲戌従氏康御状来ル。十五日大石寺ニ御着陣。十六日丙子辰刻吉原自落。馬見墓御陣所。於半途義元御対面。十七日義元御陣所ニ御留候。十八日辰刻打立。今井見付御陣所。十九日千本松御陣所。廿日岡宮近所ノ原御陣取。義元ハ長窪。廿一日陣屋ヲカケル。廿四日甲申節。廿七日キセ川ノ橋掛サセラル。十月朔日辛卯十五日従巳刻半途へ出。板垣・向山・高白三人連判。氏康陣所桑原方へ越、戌刻帰ル。廿日長窪ノ城見分ニ行。御宿生害。廿四日節。管領・義元・氏康三方輪ノ誓句参候。此義ニ付高白三度雪斎陣所へ行。廿二日互ニ矢留。廿八日箕輪次郎帰陣。廿九日於朝佐陣所談合。境目城ヲ捕立非分ニ氏康被懸取候ナリ。既ニ義元落着ノ義ヒルカエラレ候者、晴信則可入馬之事。此間之落着ヲヒルカエシ難タヒ承ナリ。氏康ヲ捨義元へ同意可申事。右此三ヶ条合点申候由、朝佐・雪斎判形ヲスヱ板垣・高白へ給リ候間罷帰。戌刻上ル。十一月大朔日庚申長窪六日乙丑敵出城。八日義元晴信互ニ大事ノ義ハ自筆ヲ以可申合ト被仰合翌九日互ニ自筆御請取渡候ナリ。

2018/04/08(日)他国衆関連文書

1557(弘治3)年比定。後北条被官の伊東氏に同心としてつけられた他国衆「香坂甲斐」は、妻子を持たず派遣されたので、その地に赴くとし、他国衆だからよくよく親切にするよう指示している。

伊東同心香坂甲斐衆、妻子不持間、当陣取遣候条、其地へ越候、当陣之間預ヶ申候、他国衆候間、能ゝ可有懇候、仍如件、
巳三月十三日/伊東奉/左衛門太夫殿

  • 戦国遺文後北条氏編0542「北条家虎朱印状写」(甲斐国誌七十二)

以前から決まっていた三島大社の神事銭の納付を渋っていることが判った。代官・百姓を殺そうとしたが、稲取片瀬が他国衆「毛利丹後守」の知行であることから赦免している。

三島御神事銭之事、従早雲寺殿御代定来処、只今令難渋由、入御耳候、不及糺明、代官・百姓雖可為生害候、毛利丹後守他国衆之儀ニ有之候間、当代官若其委細之儀不存人、爰以一往御用捨候、如古来五日之内可相済、此上就及菟角者、速可行重科者也、仍状如件、
永禄十二己巳壬五月四日/(虎朱印)山角奉之/稲取片瀬代官・百姓中

  • 戦国遺文後北条氏編1236「北条家朱印状写」(伊豆三島宮文書)

1577(天正5)年比定。他国衆「小甫方備前守」の生産を妨害するなと指示。何事であっても邪魔をする者は処罰するとしている。

小甫方備前守、他国衆ニ候、彼家中仁只今手作之所、努ゝ違乱不可申、細事等成共横合就申懸者、可令遂御成敗旨、被仰出者也、仍如件、
丑卯月廿六日/(朱印「印文未詳」)大石信濃守奉之/祇園触口諸触口中

  • 戦国遺文後北条氏編1905「北条氏照朱印状」(矢島文書)1577(天正5)年比定

1582(天正10)年に比定。他国衆の「伴野兵衛殿」の母親を居住させるために、奔走するよう指示。「うせうけ」は「無精気」か。

伴野藤兵衛殿御老母、其地へ指移申候、然者、宿之事、其方所ニ置可申候聞、苦労ニ候共、やと可致之候、他国衆之事ニ候間、一入於何事も不在無沙汰、懇比申、万馳走可為肝要候、用所之義をハ、何事成共、筑後守ニ可相談候、毛頭もふせうけ間、躰無沙汰者、弥不可有曲候、猶馳走専要候、仍如件、
十月二日/政繁(花押)/次原新三郎殿

  • 戦国遺文後北条氏編2423「大道寺政繁判物写」(武州文書所収入間郡新兵衛所蔵文書)

年未詳文書。何があろうと徳川方と騒ぎを起こすなという指示。他国衆はそもそも優遇していたが、喧嘩両成敗を適用したくないので、我慢しろという。

遠州衆為証人在府ニ付而申断候一、如何様之法外を致候共、他国衆之事ニ候間、当意遂堪忍、則様子可披露事
一、不論理非致于及喧嘩之者者、双方生害古今之掟ニ候、扨於此度之掟ハ他国衆ニ候間、一往可堪忍由遂下知処、至于背其法者妻子迄可行死罪事
右、定置所、如件、
八月三日/(虎朱印)/大道寺新四郎殿(上書:大道寺新四郎殿 自小田原)

  • 戦国遺文後北条氏編3810「北条家朱印状」(大道寺文書)

2018/04/07(土)興津摂津守の行動

興津摂津守の活動履歴

1562(永禄5)年

最初の登場は遠州大坂の新船に関する判物。今川氏真から貰っている。

1月11日

遠州大坂之内知行浜野浦爾繋置新船壱艘之事
右、於諸浦湊諸役并船役舟別、為新給恩永令免許畢、不準自余之条、役等一切不可有之、同立使肴買等不可申懸之、雖然海賊惣次之時者、櫓手役可勤之者也、仍如件、
永禄壬戌年正月十一日/氏真判/興津摂津守殿

  • 戦国遺文今川氏編1786「今川氏真判物写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂所収興津文書)

1568(永禄11)年

年月日全てが失われている書付のような文書だが、文面から永禄11年12月の武田方侵攻を受けてのものと推測される。この時は氏康が活動を評価しているが、氏真についての言及もある。

月日未詳

其地昼夜其[共]走廻由候、誠御忠節候、弥被尽粉骨此時候、氏真御本意上者、御褒美儀、必可申立候、為其及一札候、恐ゝ謹言、
月日欠/氏康(花押影)/興津摂津守殿

  • 戦国遺文今川氏編2243「北条氏康書状写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂所収興津文書)

1569(永禄12)年

年頭になると興津摂津守の知行80貫文が武田方に接収され、その後で安東織部佑に下されている。

1月11日


一、八拾貫文、興津摂津守分、河辺村
一、五拾五貫文、糟屋弥太郎分、瀬名川
一、参拾六貫文、糟屋備前・三浦熊谷分、細谷郷
一、五拾貫文、由比大和分、鉢谷
一、百弐拾貫文、本地、菖蒲谷
都合参百五拾貫文
今度朝比奈右兵衛大夫忠節之砌、令用心瀬名谷江被退条神妙之至候、仍如此相渡候、猶依于戦功可宛行重恩者也、仍如件、
永禄十二己巳年正月十一日/信玄(花押)/安東織部佑殿

  • 戦国遺文今川氏編2242「武田晴信判物」(高橋義彦氏所蔵文書)

その後の3月に出された書状は差出人が不明で、戦国遺文では後北条の誰かだと推測している。

3月23日

城中自始馳走感悦也、弥忠節奉公不可有由断由肝要候、然者同名将監跡職、被官給共、知行分宛行所不可有相違候也、仍如件、
三月廿三日/差出人欠/興津摂津守殿

  • 戦国遺文今川氏編2244「北条某書状写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂所収興津文書)

再び氏真からの書状に戻る。朝比奈泰朝とともに活動しているのが判る。

12月18日

就今度不慮之儀、当城相移之処、泰朝同前、不準自余令馳走之段忠節也、然者本地之儀者不及是非、急度可加扶助之旨、備中方へ以自筆雖申付之、弥不可有相違、猶於走廻者、別而可令扶助候、謹言、
巳十二月十八日/氏真判/興津摂津守殿

  • 戦国遺文今川氏編2434「今川氏真感状写」(諸家文書纂所収興津文書)

年未詳

恐らくは永禄12年の3月に出された氏真書状。興津氏が美濃入道・与右衛門・摂津守らが結束して活動しているのが判る。

3月吉日

就所用、諸事同名摂津守鶴見可致馳走之由内義、太不準自余、奉公役申付候段、調 祝着由可申候也、かしく、
三月吉日/(花押影)/興津美濃入道殿・同与右衛門殿

  • 戦国遺文今川氏編2651「今川氏真書状写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂八所収興津文書)