2022/05/01(日)新出虎朱印状を巡る諸情報の覚書

新府中市史研究第4号で新出の後北条氏文書2通が紹介されているとの情報をフォロワさんからいただき、早速実見。新出文書は2件で、どちらも宛所は山上強右衛門尉で、伝来も同じく府中市内の押立金井家。このうち、1589(天正17)年比定2月2日付けの北条氏直書状は足利表での戦功を賞した感状で、他者宛てと齟齬がない。今回の覚書からは除外する。

新出虎朱印状

  • 新府中市史研究第4号「北条家虎朱印状」(押立金井家文書)

    前々横地知行
    西郡飯田之内堀内分弐拾六貫四百文出置候、自当秋可致所務候、此替松井田新堀之内弐拾六貫四百文可指上者也、仍如件、
    天正十三年乙酉七月九日/日付に(虎朱印)垪和刑部丞奉之/山上強右衛門尉殿

前々の横地知行。西郡飯田のうち堀内分26貫400文を拠出する。この秋より所務するように。この替え地として、松井田新堀のうち26貫400文を返上するように。

概観

これは北条氏直が自身の被官である山上強右衛門尉に相模国西郡の堀内(以前横地某の知行だった領域)で26.4貫文を与えるとしたもの。そして同額の知行を、上野国松井田の新堀から差し引くとする。松井田の強右衛門尉知行は、この前年3月22日に100貫文が与えられていた(戦国遺文後北条氏編4750「北条氏直判物」山上文書)。

この朱印状が出された1585(天正13)年は、北条氏直が上方との決戦を意識し始めた頃で、東山道の玄関口となる松井田の整備に取り組んでいたと思われる。その中で一定領域を確保する必要があり、知行地が関係していた山上強右衛門尉に替え地を命じたのだろう。この点に加えて『新府中市史研究第4号』では氏直による側近集団の整理といった要因が挙げられているのでご参照を。

横地知行の考察

「前々横地知行」はこの文書だと「飯田之内堀内分」となっている。「飯田」には武蔵国や相模国東郡にも当該地名があるが、所領役帳で横地図書助が知行しているという点から見て相模西郡と見て間違いないだろう。この時の数値は48.58貫文。山上に与えられたのは26.4貫文なので、旧横地知行のうち一部を宛てがったことになる。

そこで改めて役帳を見ると、相模国西郡には飯田・飯田岡・飯田堀内がある。文書と役帳を合わせて考えると、飯田という領域内の一部に岡・堀内と呼ばれる地域があり、そこから現在の字名である「飯田岡」「堀之内」が残ったのだろう。

相模国西郡の「飯田」は役帳によると595.57貫文の土地を8名の知行主が分割統治している。

  • 飯田

    • 上総分108.4貫文(江戸衆・富永弥四郎)
    • 田中分80貫文(御馬廻衆・狩野泰光)
    • 壱岐分60貫文(御馬廻衆・石巻康保)
    • 円応寺分33.5貫文(諸足軽衆・加藤四郎左衛門)
    • 富永知行23.75貫文(小田原衆・松田憲秀)
    • 上総分内桑原分20貫文(松山衆・芝田彦八郎)
  • 飯田岡

    • 飯田岡分160貫文(御一門衆・北条氏尭)
    • 飯田岡孫太郎分61.34貫文(小田原衆・松田憲秀)
  • 堀内
    • 堀内48.58貫文(御馬廻衆・横地図書助)

近隣の飯泉(180.391貫文)・延沢(157.557貫文)・成田(102.987貫文)・鬼柳(326.02貫文)では、どれも知行主が一名に集約されている。一方で飯田は、上総分が更に桑原分に分割されていることや、上総・田中・壱岐などの前所有者と現行知行主が異なることから見て、この知行主は細分された上で頻繁に変わっているようだ。

氾濫ごとに地形が変わる酒匂川流域の微高地を「飯田」として広範に定義づけていたのだろう。また所領役帳での知行主に根本被官や一門衆が名を連ねていることから見て、彼らの知行高を調整するための予備地であった可能性が考えられる。

酒匂川水系保全協議会『酒匂川』

画面やや左上に飯田岡・堀ノ内がある。戦国期の酒匂川は蛇行しており、当時の堀之内・飯田岡は酒匂川東岸に位置し、向かい岸には大森氏拠点だった岩原や、小田原城の兵粮蔵が置かれたとも言われる多古がある。「堀之内」は中世武家の居館跡でよく使われる地名で、もしかしたらここに鎌倉・室町期の在地勢力(中村・小早川・曽我)辺りの拠点があったのかもしれない。

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横地図書助の推定

役帳でこの堀之内を知行していたとされる横地図書助は、他の史料には出てこない。後北条家中で名が通っている横地氏には、後に氏照付きの被官筆頭となる横地監物丞吉信がいる。しかし「横地監物丞」は役帳内で別に名が挙がっている(御馬廻衆・相模国西郡願成寺分28.7貫文)。

横地氏が後北条家中で初めて見られるのは1544(天文13)年の「岩本坊江島遷宮寄進注文」で、後北条被官に混じって「横地助四郎」が布を一反寄進している。

次いで1559(永禄2)年に北条氏照朱印状の奉者として「横地」が出現。翌年には商取引における撰銭基準を示した虎朱印状が「横地監物小路奉行」である久保孫兵衛と「横地代八木」に宛てられている。久保は内田と共に御台所奉行を務めており、また横地氏の代官と思われる八木は役帳の職人衆で「銀師八木」とある。

1570(永禄13)年の虎朱印状で徴兵目的の住民調査を行なった際の奉者が「横地助四郎・久保惣左衛門尉・大藤代横溝太郎右衛門尉」。

まとめると、横地監物丞(吉信)は小田原市街地で食料・鉱物を扱う繁華街的な地域を統括しており、横地助四郎は吉信と同時期に活動しており、有力被官として住民台帳管理に携わっていた。

一方で横地図書助は、所領役帳に吉信と並んで名を出しているものの、吉信や助四郎のように文書で出てくることはない。

とすると図書助は誰なのか。

ここで着目されるのが、北条氏邦同心と見られる横地氏である。氏邦が「横地」に言及した文書には要検討ながら1562(永禄5)年のものがある。そして、1585(天正13)年に鑁阿寺に向けて書状を発した横地左近大夫勝吉は、氏邦の意を奉じて戦時の折衝を行なっていた。また年未詳の氏邦朱印状写によると、武蔵国榛沢辺りに「横地備前守跡八幡社前」という地名記述がある。

  • 小田原市郷土文化館研究報告No.50『小田原北条氏文書補遺二』p29「北条氏邦朱印状写」(北条氏歴代朱印・花押写)年未詳

武州榛沢郡榛沢村・原宿村・横地備前跡八幡社前・上州緑埜郡谷岸南方観音石ヲ限リ、中沢播磨跡谷川村・片岡郡吉昌庄・吾妻郡円通寺領、右之処、養父岩田彦次郎跡無相違充行者也、
九月九日/日付に(朱印「翕邦把福」)/中山玄蕃頭殿

これらを合わせると、横地氏は小田原を中心にした都市整備に関わりつつ、2系統が分派したと見ることが可能。そこに官途名が図書助の人物が入れる余地があるとすれば、受領成りして備前守となった氏邦同心の系統(恐らく勝吉の父)しかいない。また助四郎については、2回の登場で26年が空いていることから、図書助と勝吉が父子で同じ仮名を名乗ったことが考えられる。

  • 氏照同心:監物丞吉信・与三郎(吉清?)

  • 氏邦同心:(助四郎)図書助(備前守)・(助四郎)左近大夫勝吉

史料が少なく明確ではないが、氏照同心の系統は出向後には氏照指揮下での行動に専念している。氏邦同心のほうは氏邦朱印状の奉者にもならず、虎朱印状奉者に名を出すなどで当主指揮での活動も見られるといえそうだ。

2022/03/22(火)今川氏真帰国後の居所

掛川退去後の氏真はどこにいたか

永禄11年12月に本拠地である駿府を武田晴信に追われた今川氏真は、掛川で籠城する。ここで徳川家康に攻囲されるものの、伊豆から海路やってきた後北条方の援軍を得て善戦。やがて北条氏政が家康との停戦交渉に成功し、掛川から出ることとなる。遠江国は徳川分国となり、永禄12年5月、氏真は自身の被官と後北条方援軍を伴って駿河へ入った。

  • 5月18日:氏政は大叔父の北条宗哲への書状で状況を報告

    「氏真御二方各無相違、昨日蒲原迄引取申候」(戦国遺文今川氏編2367)

  • 5月28日:氏政は自身の被官清水新七郎へ、掛川に援軍として駐屯したことを賞しつつ氏真帰国に言及

    「終氏真并御前御帰国候」(戦国遺文後北条氏編1228)

  • 閏5月3日:北条氏康は、氏真被官の岡部大和守に戦況を報告

    「氏真御二方、無相違至于沼津御着候」(戦国遺文今川氏編2382)

  • 閏5翌4日:氏政被官の遠山康光は、上杉輝虎被官の松本景繁に戦況を報告し氏真近況に触れる

    「只今者、三島近所号沼津地被立馬」(戦国遺文後北条氏編1240)

  • 閏5月21日:氏真は輝虎に宛てた書状で近況を報告

    「去十五日駿州号沼津地納馬候、当地氏政陣下三島為近所之間、諸事遂談合」(戦国遺文今川氏編2400)

5月17日に遠江国の掛川から駿河国の蒲原に移る。ここには北条宗哲の息子である北条氏信が在城。翌閏5月3日には更に東へ移動して沼津に入った。黄瀬川を挟んだ三島には氏政の本陣があり、ここに居を据えて駿河国全域の奪還を目指すと上杉輝虎に伝えている。

このように、氏真を擁した後北条方は駿河国から武田方をほぼ撤退させるに至るものの、7月3日には富士大宮城を奪われてしまう。その後晴信の小田原急襲を経て、同年12月6日に蒲原城、12日には薩埵峠も失陥。深沢城・興国寺城は維持していたものの、戦況は悪化しており、氏真は沼津から離れたようだ。

  • 12月18日:氏真は自身の被官興津摂津守の功績を称える

    「就今度不慮之儀、当城相移之処、泰朝同前、不準自余令馳走之段忠節也」(戦国遺文今川氏編2434)

文面から緊急退避した様子が伺われる。対比先の「当城」は地理的に考えて韮山城だろう。

上記を勘案すると、閏5月3日から氏真は沼津にいて12月18日より前に韮山城へ退去したと考えるのが妥当である。氏真が退避したのは蒲原・薩埵の陥落によって沼津近郊の安全が保証されなくなったためだと思われる。

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氏真が大平にいたとする仮説の信憑性

通説での氏真は沼津から南にある戸倉か大平にいたとされる。戸倉にいたとするのは江戸期の編著史料である『北条記』によるもので、大平とするのは同時代史料の存在が影響している。

北条記による戸倉説は同時代史料の範疇外なので顧慮しないとして、氏真が駿河大平にいたというのは以下の虎朱印状の解釈による。

後北条家、吉原の矢部将監に鈴木某の身元調査を命ず

原文

鈴木令帰往由、入御耳候、彼者親敵へ相移由候条、実否可令糺明間者、可他出由申付処ニ、不審候、若者大平へ如何様ニも申上有仁、被為返候哉、自最前之筋目知候間、申付候、彼者糺明之間、吉原ニ置事無用候、此印判を大平へ致持参、右趣可申上候、猶鈴木父、信玄へ不出仕条、歴然之所申開ニ付而者、不可有別条状如件、
巳潤五月十五日/日付に(虎朱印)石巻奉之/吉原矢部将監殿

戦国遺文後北条氏編1250「北条家虎朱印状」(矢部文書)1569(永禄12)年比定

解釈

鈴木が帰住したと耳にした。彼の父は敵方へ移ったというので、実否を調査している間は追放せよと指示していた。不審なことだ。もしかしたら、大平に巧妙に申告した者がいて帰住したのだろうか。直近の状況を知っているので指示する。彼を調査している間は吉原に置くことは無用である。この印判を大平に持参し、右の趣旨を申し上げよ。なお鈴木の父が信玄へ出仕していないのが明白ならば、帰住に問題はない。

これは吉原の矢部将監に宛てたもので、鈴木某が吉原に帰住したと聞きつけた氏政が発したもの。これより先に、鈴木の父は武田方に寝返ったという情報があり、その真偽を確認するまでは鈴木を吉原から追い出せと指示していた。この時に氏政は「大平は鈴木父の件を知っているのか」と疑問を感じており、経緯を大平と共有するように矢部へ命じている。

この鈴木某は、恐らく鈴木善右衛門尉だろう。開戦最初期の永禄11年12月24日に吉原へ宛てた虎朱印状では宛所の名義が「矢部将監殿・渡辺兵庫助殿・鈴木善右衛門尉殿・石巻代市川殿・山角代鈴木弾右衛門殿」となっているが、1月晦日の虎朱印状では「太田四郎兵衛殿・鈴木弾右衛門尉殿・矢部将監殿」と、後北条家中の江戸衆である太田四郎兵衛、小田原衆山角氏の被官鈴木弾右衛門尉の名が先に挙げられ、今川家中では矢部将監しか残されていない。

この「大平」を地名と解釈し、氏真が大平にいたと読んだのが大平居住説の論拠だろう。しかしこの解釈は無理がある。三島にいた氏政からすれば、吉原の矢部に「大平へ問い合わせろ」というよりも直接大平の氏真に確認した方が早い。その上で鈴木の帰住許可をどうするか矢部に指示するのが合理的だ。

武田家内通を疑っている人物が吉原に入り込んでいるかもしれない時に、氏政が「この印判を大平に持参しろ」と書いているのも妙だ。矢部が吉原から大平移動せねばならず、その間は吉原が手薄になってしまう。氏政は基本的に現場判断に委ねつつ「ちょっと事情を確認して。前に疑いがあったから」と、咄嗟の念押しをしている。仰々しく三島・吉原・大平を言ったり来たりするような内容ではない。

また、虎朱印状は後北条家中で効力を発揮するものであり、当主が被官に対して発するのが前提である。さらに言うと、朱印・黒印といった印判状は薄礼で後北条氏でも外交文書や感状にはほぼ使われない。分国が崩壊したとはいえ駿河太守である氏真に対して、この朱印状を見せろと言うだろうかと疑問に思う。虎朱印状内で「これを代官・抗議者に見せろ」と書いている例はあるが、家中外に向けて掲示させるような例はない(戦国遺文後北条氏編1776・小田原市史資料編小田原北条1391/1572など)。

対武田方戦をともに行なっていた今川家有力被官(富士兵部少輔・岡部和泉守・三浦左京亮)に対しても、氏政は虎朱印状を使わず書状で連絡している。

※一方で、矢部・杉本・秋山・武藤といった駿東の小規模被官には虎朱印状を用いている。これは永禄11年12月の開戦初頭からのもので、戦時制圧した領地は終戦まで実効支配するという枠組みによるものだろうか。この点は検討を要する。

何れにせよ、対等な太守である氏真を自身の朱印状で追求する行動を氏政がとるとは考えづらい。

このように、行動手順・書札礼から考えれば「大平」は人名で、吉原の後北条方拠点にいた責任者だったとする方が齟齬がない。

後北条方では4月15日に大平右衛門尉が確認できる。

  • 4月15日:虎朱印状で大平右衛門尉・江戸刑部少輔・江戸近江守を緊急動員

    「敵動火急之由告来候間、早ゝ人数を集、来廿一日当地迄着陣待入候、普請動無寸隙、御苦労無是非候、雖然、自敵至懸儀無拠候者、塩味専要候、猶御仁体へ、重而可申候」(戦国遺文後北条氏編1408)

この書状は永禄13年に比定されているが、その前年の比定でも矛盾は生じない。また、大平右衛門尉と同じく武蔵吉良家に仕えている高橋郷左衛門尉は永禄12年1月13日にはこの戦線への投入が確認されている。このことから、永禄12年閏5月15日時点で大平右衛門尉が吉原にいる可能性はある。

氏政が大平に直接朱印状を発しなかった理由は不明だが、吉原統括者となって日が浅い大平よりも、元から吉原にいた矢部を動かした方が早いと判断したと考えられる。

この時点で沼津が戦場だったか

もう1点、氏真が狩野川より南にいたと判断された根拠として武田晴信の3通の書状がある。永禄12年比定で「伊豆に攻め込み三島で勝利した」と自身の被官に報じたもの。これがあるため「武田方は三島まで攻め込んでいるため沼津は拠点確保できなかった」という先入観を持つこととなり「氏真が沼津に留まり続けられる筈がない」という予断を招いたものと思われる。

武田晴信、某に駿河国への攻撃状況を伝える

原文

今度向豆州出馬任存分、則当城へ移陣候、仍富士兵部少輔属穴山左衛門大夫、種々懇望之旨候、但分量之外訴訟数多之間、可赦免哉否思案半ニ候、何ニ当表之本意可為五三日之内候条、可心易候、次ニ由比又四郎召寄候之処、存命不定之煩、因茲先方万沢迄返候、猶土屋平八郎可申候、恐々謹言、
七月朔日/信玄御居判/宛所欠

戦国遺文今川氏編2407「武田晴信書状写」(塩山市・菅田天神社文書)1569(永禄12)年比定

解釈

今度伊豆国に出馬して思うがままにし、すぐにこの城へ陣を移しました。富士兵部少輔は穴山左衛門大夫に属したいと様々に懇望しています。ただ、とても訴訟が多いため、赦免するかどうかは思案半ばといったところです。どちらにせよこの方面で目標を達成するのは数日でしょうから、ご安心下さい・次に、由比又四郎を出仕させようとしたところ、生死も危うい病気ということで先方が万沢へ返しました。更に詳しくは土屋平八郎が申します。

武田晴信、玉井石見守に駿河国内の戦況を伝える。

原文

従是可申越之処、態音問祝着候、抑今度向豆州、及不虞之行、三島以下之悉撃砕、剰於于号北条地、当手之先衆与北条助五郎兄弟遂一戦、味方得勝利、小田原宗者五百余人討捕候、則小田原へ雖可進馬候、足柄・箱根両坂切所候之条、駿州富士郡へ移陣候、然者大宮之城主富士兵部少輔、属穴山左衛門大夫、今明之内ニ可渡城之旨儀定、此上者早速可令帰国候、猶土屋平八郎可申候、恐ゝ謹言、
七月二日/信玄(花押)/玉井石見守殿

戦国遺文今川氏編2408「武田晴信書状写」1569(永禄12)年比定

解釈

こちらからご連絡しようとしたところ、わざわざご連絡いただき祝着です。今度は伊豆国へ思いがけず作戦を行ない、三島以下全てを撃破。更には北条という地で、こちらの先遣隊が北条助五郎兄弟と一戦を遂げて味方が勝利し、小田原方の主な者500人余りを討ち取りました。、すぐに小田原へ馬を進めようとしましたが、足柄・箱根の両坂は険難なので、駿河国富士郡へ陣を移しました。大宮城主の富士兵部少輔は穴山左衛門大夫に属して今日・明日のうちに城を明け渡すのは確実です。この上ですぐに帰国するでしょう。更に土屋平八郎が申します。

武田晴信、大井左馬允入道に駿河国の戦況を伝える

原文

従三島直ニ向大宮出張、諸虎口取破詰陣候之処、対于穴山左衛門大夫、城主冨士兵部少輔悃望之間、令赦免、城請取、当表悉達本意候、此上城内法置等成下知、三日之内ニ可納馬候、可被存心易候、恐々謹言、
七月三日/日下に(朱印「晴信ヵ」)/大井左馬允入道殿

戦国遺文今川氏編2409「武田晴信書状写」(大井文書)1569(永禄12)年比定

解釈

伊豆国三島からすぐに駿河国富士大宮に出撃し、諸虎口を破って陣を詰めたところ、穴山左衛門大夫に対して、城主の富士兵部少輔が懇願したので赦免して城を受け取りました。この方面は全て望み通りとなりました。この上は城内に法を置いて指示を下して、3日以内に帰陣するでしょう。ご安心下さいますように。

ところが、この段階で武田方が三島に到達した証跡はない。北の御厨口は深沢城があり、西は蒲原・薩埵・富士大宮を抑えている。この直後に武田方が富士大宮を無力化させたのは確かだが、三島から富士大宮に行ったのではなく、右左口か身延を経て甲斐から直接攻撃したのだろう。実際、武田家の禁制は身延から富士大宮に向かう範囲にのみ出されている(静岡県史資料編8_45・46・53・54・55・56・57・58)。

晴信は虚報を発する例がある。たとえば、下記のように「伊豆一国を撃破して先月下旬に帰還し、更に5日には武蔵国御獄城を乗っ取り軍備を整えた」とある。

武田晴信、太田資正に伊豆・武蔵の戦況を伝え協力を求める。

原文

其已後者、通路無合期故、絶音問意外候、仍去月、向豆州覃行、一国悉撃砕任存分、下旬之比帰府、剰云五日、武州御獄之城乗取、則令普請、移矢楯・兵粮、甲信之人数千余輩在城候、然而至関東、早々可致出陣候、弥味方中無異儀様、調略憑入存候、恐々謹言、
六月廿七日/信玄(花押)/太田美濃守殿

静岡県史資料編8_0039「武田晴信書状写」(太田文書)1569(永禄12)年比定

解釈

それ以後は交通阻害で意に反してご無沙汰していました。去る月伊豆国に作戦を行ない一国全てを撃破し思うままにしました。更には5日に武蔵国御獄の城を乗っ取ってすぐに普請し、矢盾・兵粮を移して甲斐国・信濃国の兵員数千人余りを在城させています。そして関東に向かって早々に出陣するでしょう。味方に対しては異議が発生しないように、ますますの調略をお願いします。

ところが実態は異なり、伊豆国襲撃がないどころか、武蔵国御獄城から上野国長根城付近に攻め込まれ小幡三河守が後北条方に寝返っている(埼玉県史料叢書12_0360/戦国遺文後北条氏編1265/1271)。対抗する後北条方が虚報を伝えている可能性もあるが、氏政から由良成繁への援軍依頼や、平沢政実による長根への禁制から見ると他者をより多く巻き込んでいる点や、文書で登場する地名・人名が具体的であることからその可能性はないと見てよいだろう。

こうした晴信の虚報には氏康も翻弄されたようで、氏邦に対して注意を喚起している。

北条氏康、駿河国戦況を伝え、北条氏邦に武蔵国での軍事行動を指示

原文

■三日書状廿八日到来、具令披見候、一、今春向西上州相動、所ゝ放火敵数多討捕之由心地好候、各参陣人数又無分■人数書立令披見候、一、敵重而大瀧筋日尾之山口動候哉、か様之せゝり動ハ五■■七日不経可有之候、各為宗者懸廻ニ付而ハ不残可■兵候、其口ニ者請取之人数を定、切所際ニ指置郷人等をも相集、兼日ニ路次をも切塞、以普請待懸ニ付者、待方ニ可有勝利候、只兼日普請ニ極候、一、信玄ハ向富士城大宮ニ被陣取候、多勢之由申候、大瀧口へ出張者可為虚説候、口ゝにて信玄をかさし物ニ申候、大宮口ハ、歴然之陣取たる虚説有間敷候、一、矢鉄炮用所候由候、無際限召仕候、一疋一腰も不入候、何とて嗜無之候哉、不及是非候、一、御獄仕置先書如申、先当意者なため、小田原へ非可申入儀間、平沢・浄法寺共可致和融由、如何にも身ニ成懇ニ可被申候、猶致様者以使可申候、恐ゝ謹言、
六月廿九日/氏康(花押)/新太郎殿

小田原市史資料編小田原北条0978「北条氏康書状写」(新田文庫文書)1570(永禄13/元亀元)年比定

解釈

23日の書状が28日に到来し、詳しく拝見しました。
一、今春に西上州へ作戦を行ない、あちこち放火して敵を多数討ち取ったとのこと、心地よい思いです。おのおの参陣した兵員数の一覧を拝見しました。
一、敵は重ねて大瀧筋の日尾之山方面に動いているのでしょうか。そのようなつっつきは5~7日を経ずに起きるでしょう。おのおので主だった者を駆け回らせるよう兵を集めておくように。要路には受け持ちの部隊を定めて、要所に配置し村人も集めなさい。その前に道路を塞いでおき、普請して待ち受ければ勝利するでしょう。ひたすら、事前の普請で決まります。
一、信玄は富士城大宮へ陣取りました。多勢とのこと。大瀧口への出撃は虚説でしょう。口々に信玄をかざして言っているのです。大宮口は歴然とした陣取りで虚説ではありません。
一、矢・鉄炮が必要らしいですが、際限なく徴発すれば兵站は不要です。どうして事前の準備がないのでしょう。是非もありません。
一、御獄城の措置は先の書状で伝えた通りです。まず当意の者をなだめ、小田原へ訴えることがないように、平沢・浄法寺を和解させるよう、どうやっても懇切に説得するように。更なる指示は使者が申します。

まとめ

氏真滞在状況の史料精査から見て、彼が永禄12年の閏5月3日から12月17日までは確実に沼津に拠点を据えたと考えられる。

翌永禄13年4月26日に、北条氏康は小田原西方の海蔵寺・久翁寺に宛てて禁制を出し、この保証者に富士常陸守・甘利佐渡守・久保新左衛門を指名している。これは、早川右岸に今川被官が駐屯しており、近隣の寺社を保護する必要があったものと思われる(富士常陸守・甘利佐渡守については、後に武田氏が今川旧臣として記載)。

状況を考えると、永禄12年12月18日以降に氏真は韮山城を出て小田原西方の早川村近辺に転居したのだろう。