2017/07/11(火)「三州手始令落之候」とは何か

今川義元が終わりに向かった理由

今川義元が1560(永禄3)年5月19日に尾張と三河の国境で不慮の戦死を遂げている。

このことについて、三河を始めとして尾張など複数の国を攻略しようとした挙句の失敗だとする通説がある。その典拠として、関口氏純の有名な書状が挙げられるが、書状の言い回しには韜晦しているような疑いがある。解釈は慎重に行なうべきだと思うので、ちょっと解析してみた。

珍札披見本望候、仍去年有太神宮御萱米料之儀被仰越間、雖斟酌申候、春木方達而被致候故、及披露、返事之旨申入候、遠州之義者、去年被申分候条、不及是非候、参州之事者領掌候、但三州手始令落之候、相残候国々之儀、同前ニ可被仰越候、将亦近日義元向尾州境目進発候、芳時分可被聞召合事専要候、就中私江御祓并砂糖二桶送給、目出存候、随而菱食令進入候、寔御音信迄候、猶重可申述候、恐々謹言、
三月廿日/氏純(花押)/作所三神主殿御返報
戦国遺文今川氏編1504「関口氏純書状」(京都大学所蔵古文書集八)

「遠州之義者、去年被申分候条、不及是非候、参州之事者領掌候、但三州手始令落之候、相残候国々之儀、同前ニ可被仰越候」という部分。三河からの徴収を受諾しつつ、但し書きをつけている。ここの「落」は通説では「攻め落とす」という解釈になっているが、国単位での攻略であれば「平均」「本意」を用いる筈で微かに疑問を覚える。更に、その後に書かれた義元出兵との接続部分が「将亦」と、前の文を受けていない辺りに、こちらはより明確な違和感を覚える。この解釈ならば、「然者」「因茲」などが入ると思う。

では「三州手始令落之候」は何を指すのだろうか。

「落」という字は意外と意味するところが広く、落城・落居・自落・没落といった「陥落」の意味と、落着・落置といった「決定」を表わすもの、欠落・力落といった「喪失」に繋がる語義がある。但し、「落」単体で用いる例は少なく、私が見た中では、懸案の文書の他には3例しかない。

大和田江相動、惣兵衛構相落、当地悉令放火、敵一両人討捕、注進状令披見候、快然候、手負少々雖有之、不苦之由尤候、近日出馬候之条、期其時候、恐々謹言、
十二月廿日/氏真判/奥平監物殿
戦国遺文今川氏編2661「今川氏真感状写」(松平奥平家古文書写)

これは単体の「落」に「相」がつき、拠点を陥落させることを意味している。これならば通説解釈と合うけど、「将亦」への違和感は解消しない。

他の2例は、喪失に近い、抜け落ちることを指している。

1つは、後北条の着到定で記載漏れがあったときのもの。「馬鎧落候」=「馬鎧のことを書き落とした」という内容。

以前之書出ニ馬鎧落候、為其重而遣之候。馬鎧金紋をハ如何様ニ可出も随意ニ候。已上、
辛巳七月十七日/(朱印「印文未詳」)/道祖土図書助殿
戦国遺文後北条氏編2257「太田源五郎ヵ朱印状」(道祖土文書)

もう1つは今川義元判物で、支配権の散逸を禁じたもの。

年来同名三郎左衛門尉、同織部丞・同新左衛門尉令同意逆心之儀、先年奥平八郎兵衛尉為訴人申出之上、今度林左京進令相談、為帰忠以証文言上、甚以忠節之至也、因茲同名隅松一跡之儀、所々令改易也、然者前々知行分際田菅沼之内市場名、并善部平居内井道同代木、養父半分、武節友安名之内中藤、同田地八段、杉山之内田四段、畠、宇利之内田地五段・屋敷一所、如前々収務永領掌了、勅養寺・松山観音堂同寺領・霊峰庵如前々可支配、但三ヶ所、人給ニ不可落也、平居内田地五貫六百文地、庭野郷内米五石并於庭野郷三人扶持、如年来永領掌ゝ并、新七給分也、為今度忠賞、本知田内拾六貫五百文、近来増分弐貫文、鵜河九貫五百文、近年増分三貫文、此内代官免壱貫三百文、糸綿分壱貫七百文、以上三拾壱貫文為本知行上還附之、布理并一色拾八貫文、龍泉寺之持副三貫文、但此弐貫文者可進納、以上五拾貫文分永所宛行之也、但此貫数五拾貫文之分、至于後年百姓指出之上令過上者、為上納所可進納、弥可抽忠節者也、
天文廿二年癸丑九月四日/治部太輔/菅沼伊賀殿
戦国遺文今川氏編1154「今川義元判物写」(浅羽本系図三十三)

これは3つの寺への支配継続を認めたものだが、「但三ヶ所、人給ニ不可落也」ということで、但し書きでこの三か所は他者への給として「落として」はならないとする。

「落」=「抜け落ちること」であるならば、「三河のことは諒解しました。但し三河を手始めに(徴収の)欠落があれば、残りの国々のことも同じようになるだろうとの仰せです」となり、関口氏純は義元がこのような懸念を持っていることを伝えている。つまり、三河での徴収がうまくいかないなら他の国々(遠江・駿河)も駄目じゃないかなという警告である。

この後に「将亦近日義元向尾州境目進発候、芳時分可被聞召合事専要候」と、義元の軍事行動に話を移して「ところで、義元が近日尾張との国境に進軍します。よい時分にまたご相談するのが大切でしょう」としている。話題を変えたかのような書き方だが、このつなぎ方は、要はこの作戦が成功したなら三河での徴収もうまく行き、遠江・駿河も徴収できるだろうという意向にもとれる。ただ保証はしたくないから、婉曲に伝えているような感じだと思う。

伊勢神宮に関わる戦国遺文今川氏編の文書

乍恐啓上候、 抑就 神宮御造営萱米之儀、従作所殿以各代御申候、然者御国之儀、御馳走候者、御神忠可目出候、我等茂急度可罷下候間、致程候、御礼可申上候、可得御意候、恐惶謹言、
六月吉日/末■(花押)/謹上朝比奈左京亮殿参人々御中
戦国遺文今川氏編1466「某末繁カ書状(切紙)」(伊勢松木文書)

就太神宮造替書状、殊御祓太麻并二種珎重候、随太刀一腰進之候、将又参州萱米之事、委曲関口刑部少輔可申候、恐々謹言、
八月十五日/義元御判/外宮三神主殿
戦国遺文今川氏編1473「今川義元書状写」(京都大学所蔵古文書集八)

珍札披見本望候、仍去年有太神宮御萱米料之儀被仰越間、雖斟酌申候、春木方達而被致候故、及披露、返事之旨申入候、遠州之義者、去年被申分候条、不及是非候、参州之事者領掌候、但三州手始令落之候、相残候国々之儀、同前ニ可被仰越候、将亦近日義元向尾州境目進発候、芳時分可被聞召合事専要候、就中私江御祓并砂糖二桶送給、目出存候、随而菱食令進入候、寔御音信迄候、猶重可申述候、恐々謹言、
三月廿日/氏純(花押)/作所三神主殿御返報
戦国遺文今川氏編1504「関口氏純書状」(京都大学所蔵古文書集八)

太神宮御祓之箱頂戴、目出度候、仍葛西庄御神領之由承候、至于可為如上代者、其類可多候、宜諸国之次候、伏所冀者、以 神慮、房総可令本意候、此願令成就者、新御神領可令寄進候、委細者、石巻父子可申上也、仍状如件、
二月廿七日/平氏康(花押)/太神宮禰宜中
戦国遺文後北条氏編1523「北条氏康書状写」(鏑矢伊勢宮方記)

太神宮立願之事
右、就三州本意者、於彼地一所永可奉寄附之、但錯乱之間者、先於駿・遠之中毎年弐百俵、為日御供奉納之処、不可有相違者、以此旨弥於御神前、可為専武運長久・国家安全之丹誠之状如件、
永禄四辛酉年八月廿六日/氏真(花押影)/亀田大夫殿
戦国遺文今川氏編1737「今川氏真判物写」(勢州御師亀田文書)

就 太神宮正遷宮、遠州萱米之事承之間、十付進之候、仍一万度御祓太麻并三種到来珍重候、弥於 御神前、可被抽武運長久之懇丹肝要候、猶三浦右衛門大夫可申候、恐々謹言、
四月十一日/氏真御判/二神主殿
戦国遺文今川氏編2652「今川氏真書状写」(神宮関係古文書写集)

2017/06/12(月)北条氏康の「次男」は誰か?

1552(天文21)年3月21日に長男が亡くなると、氏康の次男氏政が繰り上がりで長男となる。

この後、1555(弘治元)年11月~翌年10月の間に、北条氏康の次男が頻出する。「藤菊丸」は古河公方・座間との関係性から見て北条氏照であり、伊豆若子は助五郎の仮名を持つ北条氏規である可能性が高いとされる。

  • 弘治元年11月23日の足利義氏元服式に登場する「北条藤菊丸氏康二男」
  • 弘治2年5月2日座間鈴鹿明神社棟札にある大檀那「北条藤菊丸」
  • 弘治2年10月2日『言継卿記』で駿府にいた伊豆若子「大方の孫相州北条次男也」

これは、古河公方を初めとする関東には氏照が次男、今川義元を初めとする上方には氏規が次男という二枚舌を氏康が用いたことになるのだが、そのようなダブルスタンダードを安易に用いるのだろうか。ここに疑問がある。

氏規が言継に次男と認識された背景には、既に氏照が大石家の養子になっていて繰り上がったのではとも指摘されるが、藤菊丸は一貫して「北条」であり「大石」ではない。藤菊丸はあくまで氏規で、弘治2年5月以降に駿府へ移り、その後を幼名不詳の氏照が継承した可能性は存在する。

氏照は「委細息源三」(氏康)「氏政舎弟北条源三」(輝虎)「委細弟候源三可申候」(氏政)と書かれていて、次男であるという記載はない。これは助五郎氏規も同様である。ただ、氏照が「奥州様」と呼称される一方で氏規は「美濃守殿様」と呼ばれることもあり、格差はありそう(埼玉県史料叢書12_0697「酒井政辰書状写」)。

この点から、氏規は一貫して次男待遇であり、藤菊丸だった可能性もまた同様に高いのではないかと思われる。氏照は氏規より年下だった可能性も検討すべきではないかと思う。

2017/05/18(木)所領役帳の寺領筆頭「泰平寺殿」は何者か?

所領役帳の寺領筆頭である「泰平寺殿」が誰なのかは近藤出版の所領役帳では「不明」となっているのだが、戦国遺文後北条氏編の索引を見ると「太平寺殿」がいる。

をそれなから申上候、太平寺殿むかい地へ御うつり、まことにもつてふしきなる御くわたて、せひニおよはす候、太平寺御事ハ、からんの事たやし申よりほかこれなく候、しかる所ニ、又御しんさうをぬすミ申よりほかこれなく候、よくゝゝきゝとゝけ申候、玉なわへうつし申へく候、かたく御いけんあつて、日けんのことく入御うあるへく候、若とかくあつてハ、その御寺へうらミ入申へく候よし御ひろう、かしく、
卯月廿三日/うち康/東慶寺いふ侍者
戦国遺文後北条氏編「北条氏康書状」(東慶寺文書)

この「むかい地=房総」に移った東慶寺関係の人物を考えると、青岳尼が該当する。吉川弘文館『戦国人名辞典』によると、足利義明の娘である「青岳尼」は1556(弘治2)年に里見義弘が鎌倉に侵入して連れ去ったとある。

この情報の典拠は不明で確認ができないのだけど、弘治2年は正しいのだろうか。永禄2年2月成立の所領役帳に名があるということは、青岳尼が房総に移ったのは少なくともこの後になり、この弘治2年という話と矛盾してしまう。

とはいえ、役帳において東慶寺・雪下御院・金沢称名寺などを抑えて筆頭となった理由は、義明娘がいたからと考えるのが妥当だ。

永禄2年以降で、東慶寺にいた青岳尼が房総に移るタイミングというと、永禄4年3月~閏3月に鎌倉を上杉方に押さえられていた時が思い当たる。上記の氏康書状の日付が4月23日という点とも自然に繋がる。

弘治2年説の典拠が判るまではこちらを優先したい。