2017/09/28(木)明智光秀の軍規

明智光秀の書状で、陣中での行動を指示したものがあったので読んでみる。

  • 八木書房刊明智光秀091「明智光秀書状」(大阪青山歴史文学博物館所蔵・小畠文書)

乍些少、初瓜一遣候、賞翫尤候、已上、
城中調略之子細候間、不寄何時、本丸焼崩儀可有之候、さ候とて請取備を破、城へ取付候事、一切可為停止候、人々請取之所相支、手前へ落来候者ハかり首可捕之候、自余之手前へ落候者、脇より取合討捕候事有間敷候、縦城中焼崩候共、三日之中ハ、請取候之可蹈陣取候、其内ニ敵落候者令捨遣可討殺候、さ候ハすハ人数かた付候、味方中之透間と見合、波多野兄弟足之軽者共、五十・三十ニて切勝候儀可有之候、従之彼■可相蹈と申事候、若又々つれ出候ニをいてハ、最前遣書付候人数之手わり、可相励可有覚悟候、猶以、城落居候とて彼山へ上、さしてなき乱妨ニ下々相懸候者、敵可討洩候間、兼々乱妨可為曲事之由、堅可被申触候、万於違背之輩者、不寄仁不背、可為討捨候、於敵ハ生物之類、悉可刎首候、依首褒美之儀可申付候、右之趣、毎日無油断下々可被申聞候、至其期不相残物候、可被得其意候、恐々謹言、
五月六日/光秀(花押)/彦介殿・田中■助殿・小畠助大夫殿

結構長いから敬遠しがちだが、極端に短い文章よりもヒントが多数ある分だけ長文の方が読み易い。途中で「これは判らない」という部分が出てきても、その前後から推測できるので。

年比定は1579(天正7)年。丹波八上城を攻囲した際のものと考えられている。これは城攻めの様子が描かれている点、敵方として「波多野兄弟」が出てくる点から。

冒頭にある追伸(追而書)

最初に書かれているのは、ちょっと変だけど追伸。現代だと本文の後ろに置くが、先頭に配置することもある。

「乍」は返読文字なので、一旦飛ばす。「些少」は現代語と同じで僅かで少ないこと。「些少ながら=僅かではありますが」となる。

じゃあ何が僅かかというと、次の「初瓜一=初物の瓜が1つ」ということで、この時代だと初物は珍重されていたとはいえ、1つは確かに少ない。「遣」は「つかわす」と読んで、送ること。

「賞翫」は今でも「ご賞玩下さい」という風に使うけど、もう殆ど死語かも知れない。味わって楽しむことを指す。

「尤」は「もっとも」で、現代語だと「ごもっとも」で生き残っている言葉。この時代は結構多用していて、「より望ましいこと」という漠然とした意味合いで使われる。相手に指示する時に、ちょっと遠慮して「お願い」っぽくしている感じで「~するのがもっともです」みたいに使われるのをよく見かける。

「已上」は「以上」と同じで、追伸の結びなどに使われる。本文だと「恐々謹言」とか「仍如件」みたいに結句=結びの言葉があって「ああここで終わりなんだな」と判るのだけど、追伸は余白に小さく書かれているので判り辛いから「以上」で締めくくっているのだと思う。

これらを踏まえて追伸をなるべく現代語に近くして読んでみる。

僅かではありますが、初物の瓜を1つ送ります。お召し上がり下さい。以上です。

いよいよ本文の第1文

城中調略之子細候間、不寄何時、本丸焼崩儀可有之候、

「城中」はそのままの意味。この後の繋がりから、どうやら光秀は城を攻めているところだと判る。

「調略」は作戦の具体的な行動を指すように思う。直接的な軍事行動だと「行=てだて」や「働=はたらき」を使うことが多い。調略は敵の一部を寝返らせたり偽情報を流したりも含まれるような、もっと幅が広い感じ。

「子細」は事情・詳細・状況とかを指す。

「候間」は「~なので」となって繋いでいる。

「不寄何時」は「不」「寄」の2文字が連続して返読になっている。返読文字は前の語の後ろにつくから、まず「不」が「寄」に乗る。ところが「寄」も返読だから「何時」に乗る。そうして最終的に、何時→寄→不の順で読むことになる。

何で返読が入っているかというと「乍」と同じで漢文の文法を踏まえていて、目的語は後に来るようになっていから。ただ、必ずしもこの漢文ルールが適用されている訳ではないのが悩ましいところ。上記の文だと「不寄」だけでは意味をなさないので判断できるけど、微妙な書き方のものもあって、ここを読むときはひやひやする。

これを受けて一文を読むと、

「なんどきと寄せず=いつ何時とも言わず」が現代語に近い感じかと思う。

次がちょっとややこしい。

「本丸焼崩」は「漢文ルールではない→現代語から見たら目的語なのに返読しない」という実例になっていて「本丸を焼き崩す」なら「焼崩本丸」となる筈がそうなっていない。

実はこれ「本丸の焼き崩し」と読んで、後に続く「儀=~のこと」と組み合わせ「本丸の焼き崩しのこと」と読んでいたのだろうと思う。今の日本人だと「本丸を焼き崩すこと」と読んだ方が自然に感じられてついついそっちに寄ってしまうので、要注意だったりする。

「可有之」は物凄くよく出てくる言葉で「可有之=これあるべく=これがあるだろう」となる。

ここの「之」は「本丸焼崩儀」を指す。こういう構造は、英語でいう関係代名詞(that)のような使い道というと判り易いだろうか。

「<本丸焼崩>儀

   ↓

可有<之>候」

という構造。現代語からすると

「可有<本丸焼崩>候」

とシンプルにした方が理解できるのだと思うが、こういう言い回しになっているので致し方ない。

まとめてみると、

「城中で調略しているので、いつ本丸が焼き崩れてもおかしくないでしょう」

となる。

第2文 油断するなという釘差し

さ候とて請取備を破、城へ取付候事、一切可為停止候、

「さ候=左候=然候」は「しかり=そう」の略語。「とて」は現代語だと「~したとて」という形で残っている言葉。「そうだとして」という意味になる。「もうじき本丸が焼き崩れる」という朗報を書いた後で、光秀は水を差してきた。

「請取=うけとり」は、受領することを指す場合が多いが、合戦時には「受け持ち・担当」を示す。後ろに「備=そなえ」とあるので、「担当の備え=受け持ち区域」的なものを指すと思われる。

「を破」は、本来だと目的語の前に持ってくる「破」を、漢文文法から口語文法に移して後ろに持ってきた状態。なので「を」がついている。このように、同じ書状の中でも文法が変わることがある。

「城へ取付候事」は送り仮名を補えばほぼ現代でも通じる。「城へ取り付き候こと」で、城壁に接近して攻撃すること。

その次の「一切」と「停止」の間に挟まっているのは「可為=たるべく」となり、「可」「為」が返読。この可は命令を意味する。「一切停止となすべし」は、強い禁止命令となる。

つまり、戦況が有利だからといって、持ち場を放棄して城壁に攻めかかるのは一切禁止ですよ、という文章になる。

第3文 あるべき手本を示して作戦を指示し、禁止事項を付け足す

ではどうすればいいのかということを明確にしたのが以下になる。この部分は少し長いけどひとまとまり。

人々請取之所相支、

「人々=全ての兵員」が「請取之所=担当場所」を「相支=あい支え」という文で、これは比較的容易に読めるだろう。

手前へ落来候者ハかり首可捕之候、

「手前=てまえ=身の回り・近く」に「落来候者=落ちて来た者」が主部で、これに「ハかり=ばかり=~だけ」がくっついている。

「首可捕之」は「~儀可有之」と同じ構造で、「首=之」を捕るべし、「首を捕れ」という意味になる。

「皆で担当場所を支えて、近くに来た敵の首だけ取るように」ということで、前の文と呼応していて、こうすればよいという点を最初に指摘している。

続いて書かれるのは「これは禁止」部分。

自余之手前へ落候者、脇より取合討捕候事有間敷候、

「自余」は「他」という意味で、他の備えの近くに落ちた者がいて、それを脇から「取合」をして討ち取ることは「有間敷=あるまじく=あってはならない」としている。「取合」はとても広い範囲で使われる、語義が曖昧な言葉だけど、ここでは「奪い合って」ぐらいの意でよいと思う。

第4文 ここも同じく手本を示してから禁止事項を挙げている

縦城中焼崩候共、三日之中ハ、請取候之可蹈陣取候、

「縦=たとえ」は「仮令」とも書く。後ろにある「共=~とも」と組み合わさって「たとえ~であっても」という仮定での否定を表わす。最初にあった「城中焼崩」があっても、「三日之中ハ=3日間は」、「持ち場を離れるな」としている。最後の部分がややこしいので、読み方を書いてみる。

「請取」 →これは持ち場を示すから「陣取」にかかる文

之     →同じ字だが「~の」で「これ」ではない、文の間を何となく繋いでいる

「可蹈陣取」→「蹈=踏」は居続けることで、その場所を守る意味合いもある

読み下すと「請け取り候の陣取りを踏むべく候」となる。最後が返読連発になって混乱するかも知れないが、「之」でパーツを切り離して考えると読み易い。

其内ニ敵落候者令捨遣可討殺候、

「其内ニ=そのうちに」「敵落候者=敵で落ちて来た者」

ここが難解だが「令捨遣」は「捨てて遣わせしめ」だと意味がとれないから、「捨て遣り=すてやり=捨て鉢」という意味なのだろうと推測できる。「可討殺」はまた命令で「討ち殺せ」ということ。

攻めている側があれこれ動かずにいれば、逃げ場を失って自棄になった兵が来るだろうから、存分に討ち果たせ、ぐらいの意味。

さ候ハすハ人数かた付候、味方中之透間と見合、波多野兄弟足之軽者共、五十・三十ニて切勝候儀可有之候、

ここからが禁止事項。城内が焼け崩れても3日間は包囲を解くなといった光秀の意図が説明される。

「さ候ハすハ=そうでなければ」「人数=にんずう=武装した集団を指す」が「かた付候=撤収」した際に「味方中之透間と見合=味方の中(間)の透間(すきま)を見合(見計らって)」とある。これは、撤収時の混乱や隙を待っていて、味方の薄い所を狙われるという推測。

波多野兄弟は城主で、彼らが率いる「足之軽者共=足軽たちかも知れないが、ここでは足弱(女性・子供・老人)以外の成人男子を指すと思う」が来るとしている。次の「五十・三十ニて」は50・30が並ぶと現代だと意味不明で30~50人と受け取るかも知れないが、「五三日」というと「数日」「五三人」だと「数人」「五三年」は「数年」という慣用句になっていて、100人足らずの数十人という表現になる。

「切勝候儀可有之候」の文の構造は前に紹介したものと同じになるので省略。「切勝」は切り付けるような接近戦で敵を押すことを指す。

つまり、焼け崩れて3日見張っていれば敵の反撃はないだろうが、落城したと早とちりして撤収を始めると、その隙をあらかじめ待っていた決死の突撃を受けるのだという理由を挙げている。

従之彼■可相蹈と申事候、若又々つれ出候ニをいてハ、最前遣書付候人数之手わり、可相励可有覚悟候、

「従」は名詞の先頭について「~より」を示すから「従之=これにより」となる。■は不可読文字だが、恐らく「備」だろう。前述した決死隊が出てくるから、あの備えを守れと言っているのだと、くどく念を押している。このくどさはこの時代だとよくある。

「若」は、文頭にあれば大体のものは「もし~」と読んでいいと思う。「又々つれ出候」がよく判らないが、結びが「覚悟を持って励め」なので、何だか話が落城処理後に行ってしまっているようだ。

〇段階をおって読み下しにしてみる

「最前遣書付候人数之手わり」  ↓「最前に書付を遣わし候人数の手わり」  ↓「以前に覚書で送った動員数の『手わり』」  →※「手わり」は判らないが「手賦=準備」なのかも知れない。

第5文 民衆への影響と最後の念押し

猶以、城落居候とて彼山へ上、さしてなき乱妨ニ下々相懸候者、敵可討洩候間、兼々乱妨可為曲事之由、堅可被申触候、

「猶以=なおもって」は、更に重ねて説明を加えること。「城落居候とて=城が落居(落城)したからといって」ということで話は落城後の処理に移っている。こういういつの間にかな話題転換は、当事者同士だと意外と気にならず多用される。「彼山へ上」でいう「あの山」がどこかは不明だ。落城で手が空いた者が真っ先に向かうと考えると、波多野方の百姓たちが隠れている山だろうか。

「さしてなき乱妨ニ下々相懸候者」の「さしてなき」がちょっと読み取れない。「無指儀=さしたる儀なく」というのは「大したこともなく」という意味なので、「さしてなき=大したこともない=無用の」という風に発展させると、「する必要もない乱暴を下々にするならば」となるだろう。

「いわれのない暴力を下々に振るう」というこが招く結果が続けて書かれている。「敵可討洩候間」だから「敵を討ち漏らしてしまうだろうから」となる。光秀としてはこれを心配していて、無駄な乱暴をするなという禁止令に繋がっていく。

「兼々=かねがね」の「乱妨=乱暴」が「可為=たるべく」「曲事=くせごと=いけないこと」だと書いているが、それに「之由=~の由」という伝聞表現を入れているから、乱暴を前々から忌避しているのは信長だろうと推測される。続く文の「堅=かたく」「可被=らるべく・『被』は敬語として使われる例が圧倒的に多い」「申触=もうしふれ=布告」という部分からも信長の意であると考えられる。

万於違背之輩者、不寄仁不背、可為討捨候、

信長まで持ち出して強く禁止した結びもまた強い言葉。

「万=よろず=どれでも・何であれ」

「於=おいて・返読」

「違背之輩=違反した者」

「不寄仁不背=背かざる仁に寄せず=裏切らない=忠義者であろうと」

「可為=なすべく・返読」

「討ち捨て=その場で殺して事後処理もしない」

まとめると、どのような形であれ、どのような忠義者であれ、違反者は討ち捨てにする。ということになる。

最後の部分で矛盾が……

於敵ハ生物之類、悉可刎首候、依首褒美之儀可申付候、

「敵においては、生物のたぐいであれば、ことごとく首をはねるべし。首により褒美の儀申し付くべく候」

すなわち、敵でさえあれば生き物の首は全て刎ねろという指示。馬や犬、鶏などといった動物も殺せと。そして、その首をたくさん持ってくれば、それに応じて褒美を与えようという。

ここでおかしなことに気づく。文書の前半ではあれだけ、規律を守れとか持ち場を離れるなと繰り返していたのが「首をありったけ持ってこい、褒美はそれ次第だ!」みたいな無秩序推奨の実力主義に変わってしまっている。

恐らくこれは、文脈が変わったことによるものだろう。民衆への略奪を禁じた後だから「敵だったら何でも首をとっていいぞ。その首によって褒美をやろう」と告げている。光秀がこれを書いている時に最優先で考えていたのは略奪の禁止で、そのためには罰則というムチだけでなく、褒美というアメを使った。。

このように、書いている光秀側としては、攻囲中の秩序維持と落城後の実力評価で切り分けていたのだろうけど、命令を受けた側の国衆たちからすると、混乱しか感じられなかったように思われる。

国衆からすれば、知行という長期資産を入手したかっただろう。そのためには首を取って感状を得たい。ところが、規則で雁字搦めになっていて自由競争の要素が激減。じゃあ集団のためにルールを守って粛々とやるか、と思って読み進めた挙句、「褒美は首の数次第」と言われた訳だ。

右之趣、毎日無油断下々可被申聞候、至其期不相残物候、可被得其意候、恐々謹言、

「右のおもむき、毎日油断なく下々に申し聞かせらるべく候、その期に至りて、あい残らざるものに候、その意を得られるべく候」

読み下すと大まかに意図が掴めると思うが、「あい残らざるもの」というのが意図不明。前後から推測するならば「残念なことなく」ぐらいの意味に感じられる。

2017/09/28(木)明智光秀の着到定

明智光秀の家中軍法

軍法といいつつ、着到定にもなっているという文書があったのでちょっと整理。

以前書いた記事家忠日記に出てきた着到で、徳川と後北条の着到定を比較したものあるので、更に明智のものと比べてみる。

1石が6人という条件を当てはめると、池田孫左衛門(後北条被官)は56人なので933石取り相当となる。又八家忠(徳川被官)は261人で4,350石取り相当。

鉄炮の数だけで比較すると、池田孫左衛門は4~5(実際には3)、又八家忠は21(実際には15)を装備することになる。色々と条件が異なり過ぎて比較するのは注意が必要だけど、明智被官は鉄炮装備率が高かった可能性がある。

光秀が着到定を発令した動機は佐久間信盛の追放にあって、それは文面の最後に書かれているように見えるのだけど、解釈が難し過ぎて細かいところが読み取れない……。

読めない箇所は『』で括ってみた。

八木書房刊明智光秀108「明智光秀家中軍法」(尊経閣文庫所蔵)同書107号御霊神社文書より一部補訂。

定、条々
一、武者於備場、役者之外諸卒高声并雑談停止事、付懸り口其手賦鯨波以下可応下知事
一、魁之人数相備差図候所、旗本侍着可随下知、但依其所為先手可相斗付者、兼而可申聞事
一、自分之人数其手々々相揃前後可召具事、付鉄炮・鑓・指物・のほり・甲立雑卒ニ至てハ、置所法度のことくたるへき事
一、武者をしの時、馬乗あとにへたゝるニをいてハ、不慮之動有之といふとも、手前当用ニ不可相立、太以無所存之至也、早可没収領知、付、依時儀可加成敗事
一、旗本先手其たんゝゝの備定置上者、足軽懸合之一戦有之といふとも、普可相守下知、若猥之族あらハ不寄仁不肖忽可加成敗事、付、虎口之使眼前雖為手前申聞趣相達可及返答、縦蹈其場雖遂無比類高名、法度をそむくその科更不可相遁事
一、或動或陣替之時、号陣取ぬけかけに遣士卒事、堅令停止訖、至其所見斗可相定事、但兼而より可申付子細あらハ可為仁着事、付陣払禁制事
一、陣夫荷物軽量京都法度之器物三斗、但遼遠之夫役にをいてハ可為弐斗五升、其糧一人付て一日ニ八合宛従領主可下行事
一、軍役人数百石ニ六人多少可准之事
一、百石より百五拾石之内、甲一羽・馬一疋・指物一本・鑓一本事
一、百五拾石より弐百石之内、甲一羽・馬一疋・指物一本・鑓二本事
一、弐百石より参百石之内、甲一羽・馬一疋・指物二本・鑓弐本事
一、三百石より四百石之内、甲一羽・馬一疋・指物三本・鑓参本・のほり一本・鉄炮一挺事
一、四百石より五百石之内、甲一羽・馬一疋・指物四本・鑓四本・のほり一本・鉄炮一挺事
一、五百石より六百石之内、甲二羽・馬二疋・指物五本・鑓五本・のほり一本・鉄炮弐挺事
一、六百石より七百石之内、甲弐羽・馬弐疋・指物六本・鑓六本・のほり一本・鉄炮三挺事
一、七百石より八百石之内、甲三羽・馬三疋・指物七本・鑓七本・のほり一本・鉄炮三挺事
一、八百石より九百石之内、甲四羽・馬四疋・指物八本・鑓八本・のほり一本・鉄炮四挺事
一、千石ニ甲五羽・馬五疋・指物拾本・のほり弐本・鉄炮五挺事、付、馬乗一人之着到可准弐人宛事
右、軍役雖定置、猶至相嗜者寸志も不黙止、併不叶其分際者、相構而可加思慮、然而顕愚案条々雖顧外見、既被召出瓦礫沈淪之輩、剰莫太御人数被預下上者、未糺之法度、且武勇無功之族、且国家之費頗以掠 公務、云袷云拾存其嘲対面々重苦労訖、所詮於出群抜卒粉骨者、速可達 上聞者也、仍家中軍法如件、
天正九年六月二日/日向守光秀(花押)/宛所欠

解釈案

定、条々
一、武者は備場において、役者のほか、諸卒は高声と雑談は禁止する。付則:攻撃起点とその手配、鯨波以下は下知に応じること
一、先駆けを配置して指図しているところは、旗本侍に着いて下知に従うように。但し、その先手となる所によって計るべき者は、事前に確認しておくこと
一、自分の手勢の各員は前後を揃えて随伴させるべきこと。付則:鉄炮・鑓・指物・幟・甲立・雑卒に至っては、置き所を法度の通りにするべきこと
一、『武者押し』の時、馬乗者の後ろに隔たっては、不意に働きがあってもすぐに対応できない。とても思慮の足りないことだ。早々に知行を没収する。付則:時宜によって成敗を加えるべきこと
一、旗本の先手がそれぞれの備を定め置いた上は、足軽『懸合』の一戦があったとしても、全員が下知を守るように。もし守らない者がいれば、誰であろうと粗忽と見なし成敗を加えるべきこと。付則:虎口の使者が眼前で各自に向かって言い立てたとしても、報告してから返答するように、たとえその場に踏み止まり高名に比類がなかったとしても、法度に背くその罪は更に逃れられないこと
一、働きか陣替の時に、陣取と言って抜け駆けをし、士卒を送ることは、堅く禁止している。その場所に行って見るだけに決めておくべきこと。但し、事前に指示された事情があれば『仁着』をなすべきこと。付則:陣払いは禁止ていること
一、陣夫・荷物の計量は京都法度の器物3斗とする。但し遠隔地の夫役では2斗5升とするように。その食料は1人当たり1日に8合で、領主より下行するべき事
一、軍役人数は100石に6人。その前後はこれに準じること
一、100石より150石未満は、甲1羽・馬1疋・指物1本・鑓1のこと
一、150石より200石未満は、甲1羽・馬1疋・指物1本・鑓2本のこと
一、200石より300石未満は、甲1羽・馬1疋・指物2本・鑓2本のこと
一、300石より400石未満は、甲1羽・馬1疋・指物3本・鑓2本・幟1本・鉄炮1挺のこと
一、400石より500石未満は、甲1羽・馬1疋・指物4本・鑓4本・幟1本・鉄炮1挺のこと
一、500石より600石未満は、甲2羽・馬2疋・指物5本・鑓5本・幟1本・鉄炮2挺のこと
一、600石より700石未満は、甲2羽・馬2疋・指物6本・鑓6本・幟1本・鉄炮2挺のこと
一、700石より800石未満は、甲3羽・馬3疋・指物7本・鑓7本・幟1本・鉄炮3挺のこと
一、800石より900石未満は、甲4羽・馬4疋・指物8本・鑓8本・幟1本・鉄炮4挺のこと
一、1,000石には、甲5羽・馬5疋・指物10本・幟2本・鉄炮5挺のこと。付則:馬乗1人の着到は2人分に準じること
右は、軍役を定め置いたものだが、更に嗜みについては少しであっても看過できない。そしてその負担にたえられない者は、調べて考慮するだろう。
そうして愚案の条々は外見を憚るとはいえ、既に召し出された瓦礫沈淪のやから、あまつさえ莫大なご人数を預かった上は、法度を未だに糺さず、かつは武勇の功がないやから、かつは国家の費用を公務と称して盗む。『袷』といい、『拾』といい、その嘲りと思い、皆に苦労を重ねることとなった。

『云袷云拾』が難解。「云A云B」とした場合「AといいBといい」と読んで前提条件を表し、その後に続く文で意味をなす。この場合は、背任横領の部分と、嘲られるという部分の間に入っている。

となると「拾」の意味は「おこぼれに預かる」とか「恵んでもらう」とかの蔑みに繋がると思うのだが「袷」が判らない。ネット上にあった御霊神社文書の写真を見るとはっきりと「袷」と書かれ、誤翻刻ではない。

普通に読めば「あわせ」。強いて言うなら裏地がある衣装である袷から「表裏がある」という意味の隠語・慣用句なのかも知れない。


追記

Twitter上で、「云袷云拾」は「云袷云恰」の誤字で情報をいただいた。

『古文書難語辞典』で確認したところ、以下の項目があった。

とにもかくにも「袷恰」あれこれにつけて。何事につけても、何にしても。かれこれ「左右・故是・袷恰」あれこれ。

このため、解釈文の末尾を以下のように変更する。

そうして愚案の条々は外見を憚るとはいえ、既に召し出された瓦礫沈淪のやからだ、あまつさえ莫大なご人数を預かった上は、法度を未だに糺さず、武勇の功がないやからだとか、国家の費用を公務と称して盗んだなどと、かれこれそのような嘲りと受ける思い、皆に苦労を重ねることとなった。

年未詳の断片

いつのものか不明なものもあって、ここでは2,000石で鉄炮5となっている。前述文書によると1,000石ごとに鉄炮5となるから、それよりも前の段階のものかも知れない。

小者には鉈・鎌を装備させよとしている点が興味深い。

  • 八木書房刊明智光秀170「明智光秀軍役之条々」(国立公文書館所蔵・古文書纂)

軍役之条々
  一、騎馬三人、   一騎ハ馬取二人、鑓一本
   一騎ハ馬取二人
   一騎ハ馬取一人
一、二千石
  一、長柄、八本
  一、持鑓、三本
  一、甲持、一人
  一、持筒、五挺
  一、指物持、一人
  一、持弓、一張
一、長柄乃もの羽織はれんの事
一、小者共ニハなた鎌をさゝすへき事
一、若党ハ腰おけ、小者ハめんつうを可着事、
月日欠/明智日向守光秀(花押影)/宛所欠

2017/09/06(水)今川攻めで徳川が武田を利用した可能性

井伊谷占領時の但し書きに武田が出てくる件

1568(永禄11)年に今川氏真を攻める際、徳川が遠江、武田が駿河という分割協定があったと通説で言われているが、史料を見るとそんな単純な話じゃないように見える。

12月12日の起請文・判物で、徳川家康は井伊谷侵攻に当たり、武田晴信から何を言われようと与えた知行は保証するとしている。

  • 戦国遺文今川氏編2200「徳川家康起請文写」(鈴木重信氏所蔵文書)

    「若自甲州彼知行分如何様の被申様候共、進退ニ引懸、見放間敷候也、其外之儀不及申候」

  • 戦国遺文今川氏編2201「徳川家康判物写」(鈴木重信氏所蔵文書)

    「若従甲州如何様之被申事候共、以起請文申定上者、進退かけ候而申理、無相違可出置也」

これは、今川攻めが武田主導で行なわれていて、三河に隣接する井伊谷ですら家康が保証できるか不透明だったことを示す。

武田晴信の怒り

その後家康は後北条と手を組んで、武田とは敵対する。この裏切りへの怒りを、晴信は織田信長にぶちまける。

  • 戦国遺文今川氏編2371「武田晴信書状」(神田孝平氏所蔵文書)

態令啓候、懸川之地落居、今河氏真駿州河東江被退之由候、抑去年信玄駿州へ出張候処、氏真没落、遠州も悉属当手、懸河一ヶ所相残候キ、経十余日、号信長先勢、家康出陳、如先約、遠州之人質等可請取之旨候間、任于所望候シ、其已後、北条氏政為可救氏真、駿州薩埵山へ出勢、則信玄対陣、因茲向于懸川数ヶ所築取出之地候故、懸河落城候上者、氏真如生害候歟、不然者三尾両国之間へ、可相送之処ニ、小田原衆・岡崎衆於于半途、遂会面、号和与、懸川籠城之者共、無恙駿州へ通候事、存外之次第候、既氏真・氏康父子へ不可有和睦之旨、家康誓詞明鏡候、此所如何、信長御分別候哉、但過去之儀者不及了簡候、せめて此上氏真・氏康父子へ寄敵対之色模様、従信長急度御催促肝要候、委曲可在木下源左衛門尉口上候間、不能具候、恐ゝ謹言
追而、上使瑞林寺、佐々伊豆守越後へ通候、津田掃部助者為談合、一両日已前着府候、
五月廿三日/信玄(花押)/津田国千世殿・夕庵

「遠州も悉属当手」とは、武田主導で今川を攻めたのだから遠江は武田のものという認識。

「号信長先勢、家康出陳、如先約、遠州之人質等可請取之旨候間、任于所望候シ」は面白い。家康は信長の先方衆として出陣したという指摘がまずある。晴信としては信長との共同作戦という座組みがまずあって、その中で家康が一部隊として動いたという認識だ。そして事前の約束として、家康が遠江の人質等を回収することを希望したので任せた、ということになる。

その後、北条氏政が駿河に出てきて晴信が手間取っている間に、家康は後北条と「号和与=和睦と称して」掛川で籠城していた者を逃がしてしまった。これを晴信は

「存外之次第候、既氏真・氏康父子へ不可有和睦之旨、家康誓詞明鏡候」

「思ってもみなかった状況だ。氏真・氏康・氏政への和睦をしないことは、既に家康の起請文で明らかだ」

と糾弾する。これを信長はどう考えるのか、とまで詰め寄った後で一転して、とはいえもう過ぎてしまったことだから、これからはせめて家康に、今川・後北条と敵対するよう指導してくれと依頼している。

家康は、晴信を利用して遠江を奪い、武田が駿河で敗色濃厚と見るや、掛川を確保するために独断で後北条と結んだ。結果が全ての戦国期でも、さすがにあざとい動きでこれは見事。ただ、その反動は後々まで残って、武田が遠江と三河へ執拗に攻撃をかけるようになる。

限られた史料ではあるが、このように理解するとすっきりする。

だけど、近世の価値観では「神君がそのような卑怯な行動はしない」と躍起になったのではないか。通説だと「晴信が先に遠州にちょっかいをかけたので、家康は報復として氏真を助けた」みたいに書かれている。

その以前に家康が今川氏真に逆心した時のことを「あれは仕方がなかった」というストーリーに仕立てた近世編著からしたら、この逆心もあれこれ捻じ曲げた解釈を広めた可能性があるだろう。

人質の安否

家康が今川・後北条と和睦するに当たり、徳川から武田に渡されていた人質はどうなったのだろうか。2月23日に出された山県昌景書状がその時の様子を少し窺わせている。この書状で昌景はごまかしているが、武田方は敗色が濃厚になっていて駿府を一時奪われている。

昌景書状によると、酒井忠次から「人質替=人員変更」に関して武田方に申し出たものの返信がなかったのがまずあったようだ。昌景は担当の3人(上野介・朝比奈駿河守・小原伊豆守)が安部山地下人の反乱に連座して出仕を停止されていたとする。昌景自身はこの人質替の事情を知らなかったと弁明しつつ、「最終的には甲府のご息女はお返しするでしょうから、ご安心下さい」と結んでいる。

とすると、この人質替とは他例でいう人員変更ではなく、当座の人質を返還することを意味するようだ。忠次の娘が無事に帰れたかは判らないが、和睦と掛川開城が5月になったのはこの辺の事情もあったのかも知れない。

  • 戦国遺文今川氏編2280「山県昌景書状」(東京都・酒井家文書)

今廿三日下条志摩守罷帰、如申者、向懸川取出之地二ケ所被築、重而四ケ所可有御普請之旨候、至其儀者、懸川落居必然候、当陣之事、山半帰路以後、弥敵陣之往復被相留候之条、相軍敗北可為近日候、可御心安候、随而上野介・朝比奈駿河守・小原伊豆守人質替、最前之首尾相違、貴殿へ不申理候由、御述懐尤無御余儀候、惣而駿州衆之擬、毎篇自由之体、以此故不慮に三・甲可有御疑心之旨、誠於于其も迷惑に候、此度之様体者、当国安部山之地下人等企謀叛候之間、過半退治、雖然、山中依切所、残党等于深山に楯籠候、彼等降参之訴詔、頼上野介・朝駿候、為其扱被罷越、永々滞留、既敵近陣候之処に、雖地下人等降参之媒介候、経数日駿府徘徊、信玄腹立候キ、三日以前告来候之者、人質替之扱之由候、信玄被申出候者、於于甲州大細事共に不得下知而不構私用候、況是者敵味方相通儀に候之処、不被窺内儀而如此之企無曲候、以外無興、上野介被停止出仕候、小伊豆・朝駿事者、唯今之間屢幕下人に候之間、無是非之旨候、是も信玄腹立被聞及候哉、無出仕之体に候、元来於某人質一切に不存候、御使本田百助方に以誓言申述候、尚就御疑者、公私共に貴方不打抜申之趣、大誓詞可進置候、所詮甲州に候御息女之事返申之旨候之間、可御心易候、委曲之段、本田百助方被罷帰候砌、可申候、恐ゝ謹言、
二月廿三日/山県三郎兵衛尉昌景(花押)/酒井左衛門尉殿御陣所