2018/01/18(木)解釈が難しい伊勢盛時書状

解釈に疑義のある文書

伊勢盛時が、三河吉良氏被官の巨海越中守に出した書状がある。

今度氏親御供申、参州罷越候処、種ゝ御懇切、上意共忝令存候、然而、氏親被得御本意候、至于我等式令満足候、此等之儀可申上候処、遮而御書、誠辱令存候、如斯趣、猶巨海越中守方披露可被申候由、可預御披露候、恐惶頓首謹言、
閏十一月七日/宗瑞(花押)/巨海越中守殿

  • 戦国遺文今川氏編0187「伊勢盛時書状」(徳川黎明会所蔵文書)1506(永正3)年比定

この度氏親にお供して三河国にやってきたところ、色々とご親切にしていただき、上意ともどもかたじけなく思っています。そして氏親がご本意を得られました。私めにしましても満足させていただきました。これらのことを申し上げるべきだったところに、かえって御書をいただき、本当にお恥ずかしいことです。このような趣旨で、更に巨海越中守から披露なさるでしょうこと。宜しくご披露をお預けします。

これを指して通説では、三河出兵に巨海越中守が協力した礼を盛時がしているとする。しかし、文中で軍事的な表現はない。特に「種ゝ御懇切」という言い回しは平時に用いられるものだし、「罷越」は進軍ではない。

更に言うと、宛所が巨海越中守なのに、その取次を本人が行なうことになっている点、結句が「恐惶頓首謹言」と厚礼過ぎるのではないかという点が奇妙である。この2年後に盛時が出した書状を以下に挙げるが、こちらは出兵が明確に読み取れるし、結句も「恐々謹言」で通常のものとなっている。

今度於参州十月十九日合戦、当手小勢ニ候之処、預御合力候、令祝着候、御粉骨無比類之段、屋形様江申入候、猶自朝比奈弥三郎方可在伝聞候、恐々謹言、
十一月十一日/宗瑞(花押)/巨海越中守殿

  • 戦国遺文今川氏編0219「伊勢宗瑞書状写」(徳川林政史研究所所蔵古案五冊氏康所収)1508(永正5)年比定

この文書は「合戦」とあるし、「御粉骨」もよく軍事用語で使われる。この文書には疑問点はない。

宛所が実態と異なる事例

これらから、この盛時書状は実は巨海越中守宛ではなく、より高位の人物に宛てたものだろうと想定される。書面の宛所と実際の宛所が異なる例は、北条氏政から遠山康英に宛てたもので例がある。

結句に「恐惶謹言」を用いており、実際の宛所が足利義氏と想定されるもの。

追而、今朝井上儀致失念不申上候、自信州罷帰候哉、尤当陣下へ可被下候、信州へ者、節ゝ申通候、此旨可預御披露候、恐惶謹言、
九月六日/氏政(花押)/遠山新四郎殿

  • 戦国遺文後北条氏編1096「北条氏政書状」(北条文書)1568(永禄11)年比定

急度註進申候、今夜子刻、敵新太郎・大道寺、左の手先、是者寄合衆之番所ニ候、彼三口へ同時ニ致夜懸候、何も味方得勝利、敵敗北、討捕注文為御披見、別紙ニ進上申候、随而本郷越前守、於新太郎手前致討死候、其身十廿之間人衆召連、敵取懸模様見届ニ、山半腹へ落下、其侭敵ニ出合、越度之間、無了簡仕合候、本郷者一人同時ニ致討死候、其外手負にても無之候、此旨可預御披露候、恐惶謹言、
三月十四日/氏政(花押)/遠山新四郎殿

  • 戦国遺文後北条氏編1181「北条氏政書状」(小田原城天守閣所蔵文書)1569(永禄12)年比定

結句が「謹言」で薄礼である本来の形のもの

先日酒井入道ニ薩埵陣之刻、伝馬之御判ニも為無之、恒之御印判に而被下候、一廻物書誤か思、是非不申候、然ニ今度板倉ニ被下御印判も、伝馬を常之御印判ニ而被下候、御印判之事候間、無紛上、無相違候得共、兼日之御定令相違候間、一往其方迄申遣候、不及披露儀候哉、先日酒井ニ被下も、又此度も、其方奉ニ候間、申遣候、始末此御印判ニても、伝馬被仰付候者、其御定を此方へ被仰出模様、御落着可然候歟、伝馬之者も可相紛候哉、用捨候て可披露候、謹言、
五月十九日/氏政(花押)/遠山新四郎殿

  • 戦国遺文後北条氏編1223「北条氏政書状」(長府毛利文書)1569(永禄12)年比定

すなわち、巨海越中守は取次役だから「猶巨海越中守方披露可被申候由、可預御披露候」という文言が入るのであり、そう考えれば不自然な点はない。

そこで考えられるのが、当時在京していた巨海越中守の主人、吉良義信。この時義信は、足利義澄に追放された足利義稙を復活させる動きをしていた。この2年後に義稙は帰洛するのだが、その際に今川氏親が遠江守護に任じられている。

  • 『戦国時代年表後北条氏編』永正5年より抜粋

6月 今川氏親が足利義稙の入京を祝し、義稙から遠江国守護に任じられる(永正御内書御案文)。
7月13日 足利義稙が今川氏親に、遠江国守護職の任官謝礼としての銭100貫文の贈呈に謝礼する(同前)。

つまり氏親・盛時は、巨海越中守→吉良義信→足利義稙という経路で復帰支援を約束し、引き換えに遠江守護就任の内定をもらった。

当初は堀越公方茶々丸追放の件で義澄と連携した氏親・盛時だが、この時点では義澄を離れ、対立する義稙に派閥を変えていることが知られている。このこととも符合する。

家永氏の解釈

ここまで推測した上でネット上を検索したところ、以下の記述を持つ論文が見つけられた。

-『永正年間の今川氏と西三河の諸勢力について』(松島周一)

<高村注:戦国遺文今川氏編0187「伊勢盛時書状」の全文を掲載>
この難解な史料に正確な解釈を施したのは家永遵嗣氏であり、「今川氏親の三河侵攻が上首尾であったことを、『(前将軍義尹に対しては)私(巨海越中守)から披露いたします』と(吉良義信に対して)申し上げてほしい」との意に受け取ることを示された。

義信を介して義稙に宛てたものという指摘は同感だが、その他の解釈には違和感を感じる。

まず、文章全てを掬い取っていない点に問題があるように思う。盛時は「本来ならこちらからお礼をいうべきところを、わざわざご連絡をいただき恥ずかしい」としているのであって、今川方の軍事的成功を自発的に連絡したという解釈は成り立たない。

次いで、これだと話法が入り組んでいて判りづらい。これは、家永氏が従来の解釈に引きずられてしまった影響だと考えられる。「本意=遠江守護就職」「上意=その内示」と捉えれば自然に解釈できるものを、氏親の三河侵攻が主題として無意識に固着してしまって曲芸的な解釈文になっている。

もう少し踏み込み

三河に氏親・盛時が揃って出向いたということは、義信が下向してきた可能性を示すようにも見える。これは、永正3年とされる今橋攻めの最中の出来事かも知れない。ただ、今橋攻めを取り巻く史料には年表記がなく、これまで永正3年8~9月に今橋城攻略、翌々5年11月に西三河侵入とされてきたものが、永正5年8月~11月に三河侵攻とひとまとめにできる可能性がある。

※永正5年11月に今川方が三河から退却したのは「参川国去月駿河・伊豆衆敗軍事語之」とある『実隆公記』(愛知県史資料編10_0721)で確定できる。

※閏11月が存在するのは永正3年なので、懸案の盛時書状が永正3年なのは動かない。

2018/01/17(水)第2次国府台合戦報告書

永禄7年の国府台合戦に関して、北条氏康・氏政が連署して、小田原にいたと思われる留守衆(北条宗哲・松田盛秀・石巻家貞)に戦況報告をした書状写が残されている。

  1. 油断して渡河して崩れた江戸衆を支えたのは氏政旗本であること
  2. 氏康旗本は地形上緒戦の状況を把握できていなかったこと
  3. 氏照・綱成・氏繁・憲秀(または氏規)・氏邦(または氏信)が活躍したこと
  4. 江戸衆の敗兵を再編成して追撃、18時前後に決戦をしたこと
  5. 太田資正は重傷を負って退却したこと
  6. 里見義弘を討ち取ったという報告があるが首級は確認できていないこと

永禄7年の1月8日はグレゴリオ暦で3月1日であり、17時35分に日没。薄明が終わるのが18時過ぎ。月の入りは20時22分で月齢2.5。月明かりは期待できない。こうした暗夜にまでもつれた合戦を指して「夜戦」と誤解されたのかも知れない。軍記ものでは緒戦の勝利に浮かれた里見方が油断した隙を狙って夜戦を仕掛けたとあるが、先勢敗退後に反撃した氏政によって里見方は後退している。更に、後北条方の接近を知って里見方も備を寄せたとあるので、奇襲ではない。

  • 小田原市郷土文化館研究報告No.50『小田原北条氏文書補遺二』p17「北条氏政・氏康連署書状写」(大阪狭山市教育委員会所蔵江馬文書)

    八日一戦勝利注進之間、即従仕場遣之、今度■前代未聞之儀候、最前敵退由申来を勝利存、先衆車次々之瀬を取越候、敵者大将里見義広為始安房・上総・岩付勢、鴻台拾五町之内備相手候、此有無不知遠山以下聊爾ニ鴻台上候処ニ、敵一銘押掛候間、於坂半分崩、丹波守父子・富永其外雑兵五十被討候、能時分ニ氏政旗本備寄候間、即押返、敵共討捕候、切所候故、氏康旗本者不知彼是非候、既先勢如此仕様、相続行兼術無了簡候処、跡者召集鍛直、無二一戦例落着、従鴻台三里下へ打廻候、敵も添而備寄候間、及酉刻遂一戦、即伐勝候、正木弾正・次男里見民部・同兵部少輔・荒野神五郎・加藤・長南・多賀蔵人を為始弐千余人討捕候、太田美濃も深手負下総筋へ逃延候、此衆太田下総・常岡・半屋を為始悉討捕候、雖義広討死候由候、其頸未見来候、椎津・村上両城自落之由申来候、源蔵・左太父子・左馬介乍常兼粉骨候、新太郎事、能時分従川越走着走廻候、此度之軍始中終両旗本を以切留候、此上者向小田喜・左貫可相動之条、先今度者可治馬覚悟候、謹言、
    正月八日/氏政・氏康/幻庵・松田尾張守殿・石堂下野守殿

8日の一戦の勝利を戦場から報告する。

今度は前代未聞のこと。

直前に敵を退けて勝ったと思ったようで、先衆が次々と瀬を越えた。

敵は大将が里見義弘の安房・上総・岩付勢。

国府台15町(約1.6km)の内に相手が備えを置いていた。

この存在を知らずに、遠山以下の者が迂闊に国府台に登った。

敵が一斉に押し寄せたので坂の半ばで崩れた。

遠山丹波守父子(綱景・隼人佑)・富永(康景)その他の雑兵50が討たれた。

良い時機に氏政の旗本備が攻め寄せたので、すぐに押し返し敵を討ち取った。

切所だったので氏康の旗本はこれを知らなかった。

先勢は既にこのようになり、続いての手立ても思いつかずにいたので、追撃のため編成し直した。

無二に一戦して決着をつけるため、国府台より3里(約2km)下へ出撃した。

敵も近づいて備えを寄せたので、酉刻(18時頃)になって一戦を遂げてすぐに切り勝った。

正木弾正・次男里見民部・同兵部少輔・薦野神五郎・加藤・長南・多賀蔵人をはじめとして、2,000余人を討ち取った。

太田美濃は重傷で下総方面へ逃げ延びた。

この衆は太田下総・恒岡・半屋をはじめとして全て討ち取った。

義弘は討ち死にしたとのことだが、その首級をまだ見ていない。

椎津・村上の両城は自落したとのこと。

源蔵(氏照)・左太父子(綱成・氏繁)・左馬介(憲秀or氏規)がいつもながら粉骨した。

新太郎(氏邦or氏信)はよい時機に川越より走り着いて活躍した。

今度の軍は最初から最後まで両旗本によって切り留めた。

この上は小田喜・佐貫に向かって作戦するだろうから、まず今回は帰陣するつもり。