2017/04/20(木)北条氏政引き籠り事件はあったのか?

上洛を嫌って引き籠もったという説を持っている北条氏政だが、事実はどうだったのかを史料から検討

 「氏政が上洛を渋った」という論拠になったかも知れないのが『氏政引き籠もり事件』の存在。これは北条氏規書状写(11月晦日付け・酒井忠次宛・戦北3548)に書かれている。戦北ではこの状況を開戦直前の天正17年に比定、その前後にある「氏政上洛遅延」と絡めて解釈している。ここから「上洛するのが嫌で開戦した氏政」みたいな評価にも繋がっている可能性があるなと。

 ただこの文書は、下山年表や黒田基樹氏『小田原合戦と北条氏』で天正16年比定としていて、私もこちらの比定が正しいと考えている(11月に入ってすぐに名胡桃事件が発生していてタイミングがおかしい点、引き籠もりの契機となった氏規上洛は天正16年8月で、それが同年11月まで継続したと考えた方が自然な点から)。

 問題の箇所は、氏規が忠次に書いたと思われる書面「御隠居様又御隠居」に対応して、その理由を説明した部分になる。

問題箇所原文

去拙者上洛之時分より無二御引籠、聊之儀ニも、重而者御綺有間敷由、仰事ニ御座候シ、無是非御模様与奉存候

下山氏

北条氏政は氏規の上洛に反対して屋敷に引き籠もり無言の抵抗をしている

黒田氏

氏規の上洛以後、それに反発して政務の場に出なくなって、一切政務に口出ししないという状態

高村

前に私が上洛した時分から強引にお引き籠もりになり、少しのことであっても、再び変更を言い立ててはならないと仰せになっていました。揺るぎないご様子だと思っています。

 下山氏・黒田氏ともに、フィルタを通して解釈してしまっているように見える。氏政の上洛が遅延したことは事実であり、それと結び付けて「氏規の上洛に反対する氏政」という思い込みから解釈しているのではないか。

 また、恐らく「重而者綺有間敷」と「無是非御模様」の解釈も、それぞれの両義性を無視してしまい、一面的に解釈しているのではないか。

 「綺=いろい」の意味は実例を見ても「異議申し立て・再審議要求」で問題ないと考えられる。下山・黒田各氏の解釈だと「(上洛してほしくない氏政の気持ちには)少しも再度の変更はない」といった感情面に行き過ぎた、括弧書きの多い内容になってしまう上、「綺」をこのような用途には使わないという点に難がある。

 「聊之儀ニも=ほんの少しのことでも」「重而者=かさねて=二度と」「綺有間敷=異議申し立てしてはならない」と言って氏政は引き籠もったのであって、そのまま解釈すればよいと思う。

 ということで、異議申し立てを禁止するからには何かを決定したのだろう。そして、その決定の再審を封印するために隠居の上の隠居を敢行したと言える。

 一方の「無是非=ぜひもない」は実例を見るとA~Dの4パターンが存在する。私が収集した文書データで検索をかけると、この文書を除いて48例が見つかった。

  • A)やむを得ない 19例 不本意な状況で
  • B)明白・明らか 16例 証明する状況で
  • C)手の打ちようがない 7例 状況不明で
  • D)弔辞 6例 「不本意」のバリエーション

 基調となる意味は「論ずるまでもない」でよいのだが、語の範囲が広い。氏政の行動を「無言の抵抗」とまで言う下山氏解釈はA、それよりは中立的な黒田氏解釈はCに該当すると思われる。私は、再審を禁じた氏政の行動を受けての文なのでBではないかと考えている。

 では、氏政が固守しようとした「決定」とは何なのか。

 北条氏規の上洛は天正16年8月のこと。この前の5月21日付けの家康起請文で「進退の保証はするから兄弟衆を上洛させよ。従わないなら家康娘を返してほしい」と言われている時期で、7月23日になっても「濃州上洛依遅延」で家康から催促されている。この混乱を経た氏規上洛で「後北条は羽柴に出仕する」という関係が固められた。氏政籠居はこの従属関係を固定させるためのもので、何者かが「従属か決戦か」の判断を覆し、再論にまで引き戻そうとしていたのだと考えられる。

 この、通説と異なる氏政像は他の文書と矛盾するだろうかと、色々と見ているがこれまでのところ矛盾は見つからず、かえって補強する材料が出てきている。

 たとえば、沼田接収での差配も氏政が氏邦に指示を出しているし、その書状の中でも自身の上洛を「我ゝ一騎上ニ而済候、多人衆不入候」と、少人数での実施として現実的に想定している(小田原市史資料編小田原北条1952・北条氏政書状)。

 では、何故氏政が主戦・独立派として通説に上がってくるのか。

 天正15年と17年の12月、戦闘が近づくと氏政は招集や普請に関する書状を出し始める。これをもって、氏政が独立派であり上洛を忌避したというストーリーが組み立てられたのではないだろうか。

 ところが、史料から見られる像としてはむしろ氏規と連携した従属派に近いと思う。独立派として私が現段階で想定しているのは、伊達家との同盟を過信した氏直・氏照だが、こちらはまだまだ実証にまでは至らない。

 実はこの文書、とても重要なことが書かれているのは確かなのだけど、読めば読むほど解釈が判らなくなる魔魅のような存在で、私の力量では仮説を立てるのも覚束ない難物。このほかにもいくつもの疑問点があるが、上記のように、とりあえず判るところだけを書きぬいてみた。

原文

内ゝ今日者可申上由、奉存候処、一昨廿七日之御書、只今未刻奉拝見候、一、軈而御帰可被成由、被仰下候、此度者懸御目不申候事、折角仕候、二月者御参府ニ可有御座間、其時分懸御目申候て可申上候、一、御隠居様又御隠居之由、被仰下候、去拙者上洛之時分より無二御引籠、聊之儀ニも、重而者御綺有間敷由、仰事ニ御座候シ、無是非御模様与奉存候、一、一両日以前、妙音院・一鴎参着、口上被聞召届候哉、拙者所へも冨田・津田状を越申由、一昨廿七日之御書、参候シ、自元口上者、是非不承届候、将亦一昨日朝弥・家為御使参候、此口上を家へも自関白殿被仰越候間、可然御返事尤由、比一理にて参由申候シ、朝弥、自妙音院申候とて物語申候分者、此度之儀者、沼田之事ニ参候、御当方御ために可然御模様之由申候シ、定而御談合可有御座候、珍儀御座候者、可被仰下候、一、足利之儀、如何様ニも可被為引付儀、御肝要与奉存候、定而自方ゝ扱之儀、可有御座候、御味方ニさせらるゝ程之儀ニ御座候ハゝ、殿様御手前相違申候ハぬやうニ、兼而被御申上、御尤ニ御座候歟、但何事も入不申御世上ニ御座候、我等式者、遠州之事ニも何ニも取合不申候、年罷寄候間、うまき物を被下度計ニ御座候、返ゝ此度懸御目不申候事、何共ケ共迷惑不及是非奉存候、猶自是可申上旨御披露、恐惶謹言、追而、一種被下候、拝領過分奉存候、併はや殊外之まつこに罷成候、又一種進上仕候、御披露、
十一月晦日/美濃守氏規(花押)/酒井殿
戦国遺文後北条氏編3548「北条氏規書状写」(武州文書十八)

2017/04/20(木)徳川家康の前室について

磯田道史氏コラム

いわゆる『築山殿』について、歴史学者磯田道史氏の新聞コラムで史料の誤読があり、伝承の推測ができたので書いてみた。

2015/3/25『読売新聞』「磯田道史の古今おちこち」

「築山殿は新婚時代には瀬名の御前とか「瀬名の御新造」(『言継卿記』)とよばれ、」

とあるが、これは誤りと言っていい。静岡県史資料編を読んでそのカラクリが判ったので記す。

徳川家康前室(俗に言う『築山殿』)の比定について。以下は全て『言継卿記』により、文書番号は静岡県史資料編7のもの。

弘治2年11月23日に

五郎殿女中江ヒイナハリコ以下一包、数十五、金竜丹五貝、送之

との記述がまずある(2429)。これは氏真室の蔵春院殿を指すだろう。この後、11月28日に

瀬名女中へ[号新造、太守之姉、中御門女中妹也]麝香丸、五貝、自老母取次遣之

とある(2423)。今川義元の長姉が中御門信綱室であり、次姉が瀬名女中(新造)という記述だ。言継は直接渡さず母を介している。ヒイナハリコ=雛人形(?)は別記述で中御門の姫御寮にも送っているから、五郎殿女中がまだ若く、瀬名女中は麝香を使う成人女性だったと推測できる。

翌弘治3年1月15日に駿府で火事があって大騒ぎとなる。山科言継は記す。

葛山近所ヨリ火事、片時ニ百余間焼失云々、東漸寺之寮社悉焼云々

そして彼は、大方(寿桂尼)と御黒木(中御門信綱)へは直接見舞いに行き、関口刑部少輔・瀬名御新造・斎藤佐渡守・同弾正へは使者として大沢左衛門大夫を送っている(2491)。

「瀬名御新造」は前出の「瀬名女中」と同一人物と見てよい。さらにこの後の2月2日に「次瀬名女中[大方女、中御門之妹]」とあるから、1月15日の「瀬名御新造」はどう考えても、義元次姉である。

静岡県史によるミスリード

では磯田氏は何故勘違いをしているのか。それは静岡県史の当該ページ構成によると考えられる。

同書では1月15日の火事直前の2490号で「松平元康(徳川家康)、駿河国関口氏広の娘と結婚するという」という『家忠日記増補追加』の記述を入れている(注記として『松平記』には弘治2年1月、他に弘治3年5月15日という記述があることも紹介、この真偽は不明)。想像でしかないが、磯田氏は2490号の記述を(後世編著史料であるにも関わらず)絶対視して、更に言継卿記の前後を確認することなく「関口刑部少輔・瀬名御新造」の記述だけに囚われてしまったのだろう。

そもそも、山科言継滞在中の駿府で義元姪の婚儀があったら記述がない筈がない訳で、そこからしておかしい(伊豆若子=氏規の祝言は記載されている)。

注記

静岡県史資料編が、家康婚姻について、それを1月15日と記す『家忠日記増補追加』で立項し、日付が異なる編著を参考情報としている点から考えると、同書も言継卿記をご解釈し、その同日記述を家康婚姻の傍証とする意図があったと当初考えていた。しかし、その意図は明確に記述されていないため、確定はできない。矛盾する史料を併記してその課題点を指摘しようとした意図も考えられなくもない。静岡県史の判断は通史編を参照する必要があるだろう。

後世編著への影響

さらに穿った考え方をすると、磯田氏と同じ勘違いを、近世御用学者もまたしたのではないか。そもそも、いくら同門とはいえ、瀬名と関口を混同することは今川家の視点からするとあり得ない。言継卿記でもきちんと使い分けており、「瀬名殿」と呼ばれる存在と「関口刑部少輔」では貫目が違う。

とすれば、家康前室には出自が全く残っておらず、近世の編纂者が必死にこじつけたのではと思えてくる。戦今1455の松平元康定書に「一、万事各令分別事、元康縦雖相紛、達而一烈而可申、其上不承引者、関刑・朝丹へ其理可申事」とあるので、そこから関口刑部少輔を舅としたが実名が判らず、親永・氏広と名づけたような感触がある。そして、その関口刑部少輔が出てくる言継卿記の1月15日項を読んで「関口刑部少輔・瀬名御新造」を父娘にし、同日を婚姻日としたのではないか。だから「関口の娘で瀬名を名乗る」奇妙な存在が生まれたのかと。

「とにかく家康前室の出自を確認したい」と熱望して史料を見れば、磯田氏のようにここに焦点が合ってくるように見える。史料は幅広い視点で注意深く見ることが大事だと、改めて肝に銘じなければならない。

参考:言継卿記に登場する松平氏

同書には大給松平の親乗が「和泉守」として登場。また、引馬の飯尾善四郎が岡崎城番となって赴いている。

1557(弘治3)年

1月8日「松平和泉守来」

1月9日「松平菱食一送之」

1月12日「松平和泉守来、一盃勧了」

<1月13日氏真歌会始。出席者に松平の名はなし>

1月14日 「早旦自住持白粥に被呼之間罷向、松平和泉守、同与力両人、隼人、寺僧両三人等相伴也」

3月9日 「着引馬、宿之事宗右衛門申付、当所之飯尾善四郎、三州岡崎之番也、留守云々」