2022/11/06(日)花木隠居・花木殿・花之木の実体
後北条家中で花木隠居・花木殿・花之木という人物がいた。それぞれを連携して考証した例がなかったので、事例を並べつつ考えをまとめてみた。
花木・花之木の比定地
家臣団辞典では「花之木」の比定地を金子郷(埼玉県入間市花ノ木)に求めている。これは所領役帳に出てくる「花之木」の知行地に「金子郷」があり、比定地とされる入間市に「花ノ木」があるため。しかし、後述するように役帳の「花之木」が知行した金子郷は寄子のために特別給付されたもので、根本的な知行ではない。この比定は可能性が低いだろう。
次に目につくのが、室町後期に名が出てくる「花之木」(神奈川県横浜市南区花之木町)。ここに因んだ名乗りである可能性もなくはない。
ただ、花木殿の所在地は高室院月牌帳で小田原となっており、関連するだろう花木隠居もまた小田原花ノ木にいたことはほぼ確実だろうと思われる。また、役帳の「花之木」も後述するように知行地が直轄領から拠出されている小田原衆であり、小田原花之木に起居したことからの呼称と見てよいだろう。
上記より、花木・花之木は小田原市浜町2丁目近辺(蓮上院・新玉小学校近く)と見られる。
養勝院殿とは何者か?
ここでまず、北条為昌妻、もしくは綱成母と言われる養勝院殿の実態を検証・確認してみる。「花木殿」が北条綱成室であるため、姑に当たる彼女の存在をまず前提におく必要があるためだ。
鎌倉大長寺には木像があり、その胎内銘にその名が残されている。
- 戦国遺文後北条氏編0355「朝倉氏像銘」(大長寺所蔵)
「胎内腹部」
奉
造化御影像之事右、彼施主古郷豆州之住呂、名字朝倉、息女北条九郎之御前、御子ニハ北条佐衛門大夫綱成、同形部少輔綱房、同息女松田尾州之御内也、爰以至衰老、中比発菩提心、為逆菩提、奉彫刻木像也、
「胎内背部」
并奉寄進拾二貫文日牌銭、法名養勝院殿華江理忠大姉相州小坂郡鎌倉名越、安養院住持第十六代高蓮社山誉大和尚、仏所上総法眼、使者大河法名善信、謹言、敬白于時天文拾八年己酉九月十八日
- 解釈
奉る。御影像を造化すること。この施主は故郷伊豆国の住人で朝倉名字の息女。北条九郎の御前で、お子には左衛門大夫綱成・同刑部少輔綱房・松田尾張守の妻がいる。老衰となったので菩提心を発して木像を彫刻した。並びに、12貫文の日牌銭を寄進奉る。法名は「養勝院殿華江理忠大姉」。相模国小坂郡鎌倉名越の安養院住持16代「高蓮社山誉大和尚」・仏師は上総法眼(後藤宗琢)・使者は大河(法名:善信)。
この銘の解釈では当初、北条九郎を彦九郎為昌と比定し、その養子に綱成・綱房・盛秀妻がいたとしていた。しかし当時の養子記載は男系に限られるため、盛秀妻を記載しているのは実子関係を記述したのだろうということで、北条九郎・養勝院は綱成の実親であり、為昌とは無関係という仮説も出てきた(では「北条九郎」は誰かというと、この説は不明とされている)。
しかしこれは、前記事『北条氏時・為昌の出自』で考察したように、福島為昌が北条家に養子入りしてその息子が綱成だとすれば、北条九郎は為昌ということですっきりと繋がる。以下、これを前提にして論を進める。
花木隠居
「隠居」としての記録
「隠居」という扱いで所領役帳に登場するのはこの人物だけなので、かなり特殊な存在。
- 登場部分1 玉縄衆 左衛門大夫殿(北条綱成)内の項目
買得、百貫文、梅名内、元朝倉平次郎知行、但隠居買得
- 登場部分2 玉縄衆 花木隠居の項目
一、買得、九拾貫文、東郡、津村内、花木隠居
- 登場部分3 江戸衆 朝倉平次郎の項目
百弐拾九貫五百五拾文、豆州、梅名内
此外五拾貫八百文、花木隠居永代買得依之役左衛門太夫殿勤之
北条綱成・朝倉平次郎の各項目で「役の負担は綱成」とあるので、花木隠居本人名義とされる相模東郡津村内の90貫文(これも買得)もまた、恐らく綱成の役負担だったと思われる。役を負担できない点から女性と見られ、玉縄北条氏と朝倉氏を繋ぐ人物であるから養勝院殿が想起される。なおかつ役帳で隠居となっている点から見ても、為昌死後の養勝院殿が該当する。
そして、こちらもまた花木隠居と同一人物と思われるが、1544(天文13)年、江の島弁天遷宮での寄進で、松田殿、朝倉藤四郎殿名義で絹2疋を、孫九郎殿、朝倉弥四郎殿名義で小袖1重を、それぞれ「ゐんきよ」が提供している(小田原北条氏文書補遺p35)。
念のため調べてみたが、女性が「隠居」を称するのはごく僅かだが他例もある。「妙春尼書状写」で妙春尼は自署で「いんきよ」と書いている(愛知県史資料編12_525・上宮寺文書)。また、「北条氏康書状」で氏康は東慶寺住持の松岡殿の引退を「御いんきよあるへきにつゐて」と記している(戦国遺文後北条氏編1541・東慶寺文書)。
所領役帳に載っている女性
花木隠居の状況を確認するため、女性で役帳に載っている例を次に挙げてみる。
新五郎娘
小机衆にいる彼女に与えられた30貫文の知行(伊豆・田代)は、同族と見られる笠原弥十郎が負担している。
赤沢千寿の母
江戸衆で江戸高田内に15貫文を与えられている「赤沢千寿」は、千寿が成人するまでは後家が差配し、その間は役を免除されている。
北条宗哲の妻
北条宗哲の知行一覧内に「御新造様知行分」310貫文がある(白根内箱根分、戸田分、太平)。こちらの役は宗哲が代行して負担しているので、花木隠居と同じ方式。
有滝某の母
諸足軽衆にいる「有滝母」は10貫960文の知行(江戸、安方分)を与えられ、こちらは役を負担しているようだ。
有滝氏は当主の死で領地が解体されたようで、31貫文(小机、一宮)を御馬廻衆の関兵部丞が、56貫581文(江戸、小石川本所方)を江戸衆の桜井某が、それぞれ有滝氏から買得している。また、1566(永禄9)年8月20日には江戸城の有滝屋敷を豊前山城守に与える旨の虎朱印状が存在する(小田原市史資料編小田原北条651)。
つまり、解体過程にあった有滝知行地の残存部がその母名義で残っていた。諸足軽衆に配属されたのは、残存兵員の有効活用を図ったのだろう。諸足軽衆には、他の衆に所属する兵員も給田を与えられて集められているので、都合がよかったものと思われる。
以上を考えると、有滝母が例外措置で、赤沢後家のように後継者が立つまで無役とするか、宗哲妻・花木隠居のように代行者が役を負担するかの方法で男性当主不在に対応していたものと思われる。
まとめ
花木隠居は1544(天文13)年には既に「隠居」しており、1559(永禄2)年の所領役帳作成時までは存命だった。土地買収を繰り返した形跡があり、江の島への寄進でも子供たちを支援している。彼女は資産家だった可能性が高い。
花木殿
高室院月牌帳に出てきた「北条上総御内方」
寒川町史にある高野山高室院月牌帳に出てくる「北条上総殿御内方花木殿」は、綱成の妻と見てよい。1587(天正15)年11月21日に「春誉馨林禅定尼」の戒名で逆修(生前供養)を行なっている。
一方で通説の綱成妻は、新編相模国風土記により「大頂院殿光誉耀雲大姉」の戒名で1558(永禄元)年9月10日に死去しているという。
両方を合わせて考えるならば、大頂院殿が亡くなったのちに花木殿が後妻となったのかとも見えるが、高室院月牌帳を見るとその可能性は低そうだ。
まず同書での「花木」を追ってみると7件出てくる。
| 項番 | 戒名 | 補記 | 地名 | 人名 | 取次 | 日付 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 49 | 真哲恵玉 | 相模国西郡小田原 | 花木兵部卿立 | 1551(天文20)年3月22日 | ||
| 603 | 妙慶 | 相模国西郡小田原・花木 | 宗賢寺 ■■ | 1585(天正13)年 | ||
| 767 | 光数禅定尼 | 相模国西郡小田原 | 花木小相宰 | 1587(天正15)年2月5日 | ||
| 768 | 理栄 | 相模国西郡小田原 | 花木小宰相母 | 1587(天正15)年2月5日 | ||
| 783 | 月窓宗光 | 順修 | 相模国西郡小田原 | 花木殿女房衆 | 玄仙坊 | 1587(天正15)年5月13日 |
| 780 | 春誉馨林禅定尼 | 逆修 | 相模国西郡小田原 | 北条上総殿御内方花木殿御自分 | 玄仙坊 | 1587(天正15)年11月21日 |
| 781 | 西来院殿 | 逆修 | 相模国西郡小田原 | 苅部殿内女 | 1587(天正15)年某月21日 | |
| 782 | 正仏 | 逆修 | 相模国西郡久野 | 御前方宮内殿 | 玄仙坊 | 1587(天正15)年11月21日 |
| 860 | 栄覚春慶 | 逆修 | 相模国西郡小田原 | 花木■之内衆 | 徳蔵院 | 1589(天正17)年2月18日 |
「花木兵部卿」は恐らく、蓮上院関係の高位の僧侶だろう。官途名の「兵部卿」は武家では通常用いられず、出家者が兵部卿・民部卿・治部卿を用いた例がある。
「花木小宰相」とその母は、日付が同日なので恐らく逆修。取次の名がないので、死期が迫った綱成を前にして独自に逆修したのだろう(綱成死去は天正15年5月6日と伝わる)。禅定尼の位を持つ娘に添えられていることから、母の出自は低いと見られる。取次・日程が正室である花木殿と乖離しているため、綱成より年下の側室とその母親かもしれない。
これに比較して花木殿は二重に「殿」が用いられているほか、自らを指す「自分」に敬称が添えられ「御自分」となっている。「御自分」を使われているのは彼女と「山木様」にだけ(同書中他の19例は全て「自分」)。この待遇から考えると北条氏綱娘である山木大方と並ぶ存在。
加えて、花木殿には女房衆・内衆を抱えていたほか、氏光妻の侍女と見られる「苅部殿内女」が花木殿と同日で逆修をしている。更に取次「玄仙坊」を同じくする「御前方宮内殿」は、氏隆妻の侍女と思われる。
まとめ
これらから推測すると「花木殿」は綱成に嫁したと言われる氏綱娘本人であるといえる。綱成の妻には他に「花木小宰相」がいたようだ。
また、通説では綱成妻とされる大頂院殿は時期から見て為昌の母か姉ではないか。為昌没後も丁重に扱われていることから、為昌母(綱成祖母)という可能性が若干高いように思う。
花之木
小田原衆の謎の人物
所領役帳に登場するこの人物は、小田原衆にいた比較的大規模な被官であるにも関わらず、その後の動向が全く不明。であれば、謎の人物が混ざり込んだというよりは、既知の人物が小田原花ノ木の地名を名乗っていたと考えるべきだろう。元服し、文書発給を始めていた有力被官の中で役帳に出てこないのは、北条氏秀、北条氏繁、吉良頼康。
このうちで武蔵吉良の頼康は可能性が低い。同氏は、後北条氏との度重なる婚姻関係にも関わらず、過去帳にも一切登場せず滅亡も共にしなかった。独立性が高いが故に役帳に出てこなくても不思議ではない。もし現われるとしても、小田原衆というのは奇妙で、御家中衆か江戸衆、もしくは他国衆だろう。
北条綱成の弟である氏秀も出てこないが、当時沼田康元と呼ばれていたこの人物は、対上杉の最前線である上野国沼田にいたので載せられなかったものと思われる。
消去法で候補に残るのは氏繁だが、もし氏繁だとするなら、当時は「善九郎康成」と名乗っていた彼が役帳にその名で載っていないのはなぜか。
「花之木」の正体
改めて「花之木」の知行地を見てみる。
一、花之木
百貫文、中郡、小磯
百拾貫文、同、恩名及川
百五拾貫文、東郡、一宮之内
四拾六貫文、西郡、下中村惣領分
以上四百六貫文
此外、三百八拾壱貫六百文、金子郷、寄子給
小磯は先頭にあって本知と思われるが、その由来は不明。高野山高室院月牌帳には170の地名が延べ600回記載されているが、そのうちで「小磯」は12件があり、それなりの人口規模とは思われる。ところが役帳で「小磯」が見られるのはここだけなので、役帳範囲外に存在したと思われる直轄領の可能性がありそうだ。
高室院月牌帳に載っている相模国の地名(延べ600、地名数179)から上位を抽出すると、小田原が圧倒的に多数を占めている。他は少なく見えるが、5回以下の地名が圧倒的多数なのでそれなりの規模の集落だったと思われる。

恩名・及川は、1582(天正10)年8月27日に綱成が堀内七郎衛門に「中郡恩名之郷弐拾貫文」を与えている(戦北2406)から、玉縄北条家と関係が深い。
東郡一宮は後北条当主に近しい人物が分け合っている(小田原衆の花之木、御馬廻衆の山角四郎右衛門、河越衆の山中彦八郎、御家中衆の山中彦十郎・富塚善十郎)。これは、後北条直轄領を氏康が一時的に預けていた可能性が高い。寄子給として花之木に与えられた金子郷にしても、1561(永禄4)年4月2日には虎朱印状で金子大蔵丞にこの金子郷は返還されている。この迅速な対応は、直轄領として扱われていたからこそのものだろう。
下中村は一貫して本光寺領(為昌菩提寺)。下中村惣領分を見ると、花之木の名前の後に続く、渡辺左衛門と西右衛門へ50貫文ずつ与えられている。
これらをまとめると、直轄領からの支給が631貫600文、玉縄系が110貫文、本光寺系が46貫文となる。
ここまでくれば、役帳に出てくる花木隠居が想起される。花木隠居が為昌妻で綱成母(氏繁祖母)とすれば、氏繁が花ノ木にいたのは不自然ではないし、小田原衆に所属するのも、同衆の筆頭が松田憲秀で、氏繁から見れば従兄弟(父の姉妹が盛秀に嫁ぎ、盛秀の息子が憲秀)だから、あながち妙な話ではない。1560(永禄3)年以前の氏繁は下総国東庄にいた東修理亮と氏康との仲介をしていたのみで、玉縄在地は確認できない。むしろ、戦果報告に際して氏康と緊密に連絡を取り合っていたことから、氏繁が氏康に直属していたことが窺われる(北条氏繁の初期所属を参照のこと)。
氏繁が「花之木」と呼ばれることの特異性
上記をまとめると、氏康が氏繁を側近として育てる意図で、小田原内の居所を為昌妻と近い花ノ木として、綱成とは一旦切り離していたと考えるのが妥当だろう。
では他の一門のように名前で呼ばれなかったのはなぜなのだろうか。この時点で氏繁は官途を持っていないものの、宗哲嫡男は「三郎殿」と記されているから、「善九郎」という仮名で記載されるのが本来の姿。それをわざわざ地名表記にしている。
地名が表記されたのが判る例としては、他国衆での「油井領」と江戸衆での「本住寺領」がある。このほか「~跡」という当主不在な領地があり、御馬廻衆での「西原弥七跡」、江戸衆での「小野跡」「川村跡」が見られる(恐らく、これ以外にも領域名があると思うが名字と区別できないため未詳)。
北条から切り離された氏照の名が出ずに「油井領」とされていたことを考えると、「花之木」は花木隠居(祖母)・花木殿(母)の後継者としての氏繁を指していて、綱成とは分立した存在だった可能性も考えられる。しかしながら、氏繁は明確に綱成の嫡男であり、それも考えづらい。氏繁が次男ならば、笠原康明・遠山康光・垪和康忠のように分家筋を直参として取り立てた例は複数存在するが、その可能性も低い。やはり、綱成嫡男を分立した意図はどうにも判らない。
あれこれ考えてみるほどに、花木集団が後北条政権の中で異端児だったとしか考えようがない。
余談だが、名字だけしか記載されなかった例として、河越衆筆頭の「大道寺」がある。名字しか書かれていないものの、この人物が源六周勝なのは確実で、4人挟んで名が出てくる一族の大道寺弥三郎の項目では「源六拘=源六の所有」という語が3回も出てくる。周勝の名が禁忌という訳でもないのだが、大道寺氏の当主が、盛昌のあとは周勝・周資で不安定だった可能性がある。名字以外を書いてしまうと揉めるため、わざと避けたのだろうか。
2022/11/01(火)北条氏繁の初期所属先
北条氏繁の初期行動
北条氏繁は当初父の綱成に付随して行動していたと考えていたが、彼が最初に発した文書を見るとどうやら北条氏康に直属していたようだ。よくよく考えてみると、永禄3~4年に上杉方が大挙して関東に攻め込んだ際に、綱成は遠方にいて参戦できていないが、混乱の真っ最中である2月28日に氏繁は玉縄にいたことが判っている(戦国遺文後北条氏編665)。氏繁は3月4日に江の島、翌日には鶴岡八幡宮に禁制を発している(戦国遺文後北条氏編671/672)。
氏繁の最初の文書を読み解く
氏繁がどのような立場にあったかを考えてみるため、彼が最初に発した書状を追ってみよう。
1558(永禄元)年の6月21日に氏繁は東修理亮の戦功を賞している。下総方面で戦っている修理亮の戦功を、氏康に報告する役目を担っていたようだ。
北条氏繁が東修理亮の戦功を賞す
戦国遺文後北条氏編0584「北条氏繁書状写」(川辺氏旧記)1558(弘治4/永禄元)年比定
昨今之御高名、誠以御走廻之御心懸、感入外無他事候、弥以御頼も敷候、則小田原江具申上候間、定而可有御感候、子細期来可申候、恐ゝ謹言、
六月廿一日/善九郎康成(花押)/東修理亮殿御宿所- 解釈
昨今のご高名、本当にご活躍なさるお心がけで感じ入るほかありません。ますますもって頼もしいことです。すぐに小田原へ詳しくご報告しますから、きっと感状が来るでしょう。詳しくは返信が来たら申します。
北条氏繁が東修理亮の戦功を賞す
戦国遺文後北条氏編0585「北条氏繁書状写」(川辺氏旧記)1558(弘治4/永禄元)年比定
敵之伏兵出処、貴所物主御越、被押散、殊更自身御高名之由候、■何感入候、御走廻之旨趣昨今日、上意へ申上候、御褒美之御状重而可進之、恐ゝ謹言、
六月廿一日/善九郎康成(花押)/東修理亮殿御貴所- 解釈
敵の伏兵が出てきたところ、あなたが物主として出撃し押し散らし、ことさらに自身でご高名を挙げたとのこと。感じ入りました。ご活躍の趣旨は昨今上意へ申し上げました。ご褒美の書面を重ねて進呈するでしょう。
上記の2通はほぼ同じ意味合いのもので、なぜこれを同日に発行したかは謎ではある。しかし、まだ若年だったことや戦場の混乱を考えると、重ねて発した可能性も考えられなくはない。
これに対応して、氏康が修理亮に感状を与えている。氏繁からの報告とは書いていないものの、先の2通からそれは確実といえる。
北条氏康が東修理亮に感状を発し、太刀を与える。
小田原市史資料編小田原北条0403「北条氏康感状写」(川辺氏旧記三)1558(弘治4/永禄元)年比定
今度向其地敵相動候之処、両三度及戦、被走廻由候、高名之至感悦候、仍太刀一腰進之候、尚可抽忠儀事、可為肝要候、恐ゝ謹言、
六月廿七日/氏康(花押)/東修理亮殿- 解釈
今度その地へ向かって敵が動いたところ、3回戦闘となりご活躍されたとのこと。高名の至りで感悦しました。太刀一腰を進呈します。さらに忠義にぬきんでることが大切でしょう。
翌月になって氏繁が修理亮に書状を発し、今後の活躍を氏康も期待している旨を通達している。小田原の氏康との連絡を担当していた氏繁が、この日に感状と太刀を渡したのだろう。
北条氏繁が東修理亮に感状と太刀を渡し、今後の活躍を期待している旨を伝える。
戦国遺文後北条氏編0589「北条氏繁書状写」(川辺氏旧記)1558(弘治4/永禄元)年比定
先日御走廻段、具申上候処、今般御感状并御太刀一腰令進候、弥御加世儀候得候由、従貴所可申入旨候、子細民部丞口状候、恐ゝ謹言、
壬六月七日/善九郎康成(花押)/東修理進殿へ人ゝ御中- 解釈
先日ご活躍されたこと、詳しく申し上げたところ今回御感状と御太刀一腰を進呈なされます。ますますお稼ぎなされるよう、あなたより申し入れてほしいとのこと。詳細は民部丞の口上となります。
奇妙な綱成文書
ここで奇妙な文書が出てくる。氏繁が感状と太刀を渡したのと同じ日付で、氏繁の父である綱成が修理亮に書状を発している。明らかに要検討だが、内容をひとまず確認する。
北条綱成が東修理亮への感状と太刀を渡し、今後の活躍を期待する。
戦国遺文後北条氏編0588「北条綱成書状写」(川辺氏旧記)1558(弘治4/永禄元)年比定
去月其口へ敵相動候処、両日御高名御粉骨之段、氏康不■事。満足之由候、因茲、感状并金覆輪太刀壱腰、為御証文、被進置候、於此上も、弥以抽而御走廻御心懸純一之由、被申事候、猶巨砕、木村民部之丞口上令附候、恐ゝ謹言、
壬六月七日/右衛門大夫綱成(花押)/東修理亮殿御宿所- 解釈
去る月その方面へ敵が動いたところ、両日でご高名と粉骨されたこと、氏康は大変ご満足とのこと。これにより、感状と金覆輪の太刀一腰、ご証文としてお渡しします。この上もますますぬきんでたご活躍を心がけて専心するとのこと、申されました。さらに巨細は木村民部丞の口上に付与しています。
まず人物名称がおかしい。本来「左衛門大夫」である綱成が「右衛門大夫」となっているのは筆写時の誤記とも考えられるが、氏康・氏繁氏繁書状にも出てくる使者「民部」を「木村民部之丞」としている。しかし、同年7月17日に正木弥五郎に宛てた氏康書状写では「諸軍油断有間敷旨、以中村民部丞申遣候」(市史338)とあり、「民部」は「中村民部丞」が正しい。また、与えられた感状・太刀を証文として渡すという文言は他に例がない。
氏繁・氏康の文書を元にして、氏繁がいたなら綱成もいたはずという見込みで後世作られた文書の可能性が高い。
上記より、氏繁は綱成と離れて、氏康直属で当初活動していたと考えられる。
2022/11/01(火)北条氏時・為昌の出自
北条為昌とは何者か
為昌の名の由来
後北条一門の中で際立って異彩を放つ実名を持つのが北条為昌で、直系の中で唯一「氏」の通字を持たない(氏直世代になると「直」の偏諱を持つ者もいるが、彼らと為昌は50年ほどの差があり、両者に相関性はなさそう)。
下山治久氏・黒田基樹氏の説では「大道寺盛昌が烏帽子親で『昌』を受け取った。『為』は冷泉為和からもらった」としている。しかし、通例の偏諱では目上から受け取っているから「冷泉為和から『為』の偏諱をもらった」とだけすればよい。しかし、小田原に数回来ただけの為和から偏諱を受けるのは違和感があるため、この説では河越・鎌倉で領域的に近しい盛昌を最初に持ち出したのだろう。
よくよく考えてみれば、為昌が後北条一門で異例の名乗りであるのと同様に、盛昌もまた大道寺一門では異色の名乗りだ(他は周勝・資親・政繁・直繁・直次・直英で、直昌だけが通字を持っている程度)。
当時の養子関係が史料からでは判りづらいのは、小幡源二郎の出自である程度把握できてきた。氏康子息とされている氏忠・氏光が、氏康の甥(氏尭の息子)と比定されているのも、比較的近年になるまで仮説が立てられていなかった。そう考えれば、明らかにおかしい為昌の命名にもっと疑問をもってしかるべきだろう。
そこで、大道寺盛昌・北条為昌の実名が、今川被官である遠江福島(くしま)氏と近接していることに着目してみた。戦国遺文今川氏編の索引を見ると、福島一門の実名にはよく使われる字がある。
- 「春」助春・氏春・春興・春久・春能
- 「昌」助昌・元昌
- 「盛」盛助・盛広
- 「助」助春・助昌・盛助
- 「為」範為 ※「範」は今川氏の通字
- 「能」範能
このうち、明応から永正年間に活躍した世代が、左衛門尉助春・玄蕃允範能・和泉守範為となる。
「為」を継承していること、範為が宗瑞と親交があったことから、為昌は範為に近い関係だったと推測される。加えて範為は在京した徴証があり、山城国大道寺郷との関連もあるかもしれない。
遠江福島氏の活動状況
盛昌と為昌が遠江福島氏の出自だったとして、いつ小田原に来たのだろうか。その時期を考えてみるため、福島氏の活動状況を確認する。
今川家中で福島氏が登場するのは1501(明応10)年の福島助春が最初で彼が従えていたのが範能。1510(永正7)年から範為が出てくるようになる。その後は登場史料が減って1524~5(大永4~5)年に盛広が見られるだけになるが、1536(天文5)年に発生した花蔵の乱で福島越前守・彦太郎・弥四郎が今川義元に敗軍し一時期姿を消す。
そのまま消えるかと思えた福島氏は1548(天文17)年から再び登場してくるが、その過程で遠江小笠原氏が入り混じって姿を現すようになる。この小笠原氏は、福島氏と同じ遠江国土方周辺を根拠地としているほか、福島十郎左衛門助昌は1569(永禄12)年に小笠原十郎左衛門助昌として改姓している。更に小笠原氏興は、福島右馬助の寄進を1548(天文17)年に岡崎龍巣院に対して保証している。このことから考えると、福島・小笠原は同族的結合があったようだ。花蔵の乱で失脚した福島氏は、一部の者に「小笠原」を名乗らせることで復活を企図したようにも見える。
この小笠原氏は信濃の一族と考えるにしては、余りに福島氏に近接し過ぎている。この中心人物「氏興」が1544(天文13)年から登場したことから、範為の妻が氏綱母の小笠原氏の親類で後北条と血が繋がっていた可能性を考えてみた。かなり証跡の薄い推測にはなるが、為昌が氏興と同じく範為の息男だったとすれば、為昌と氏綱は血縁だったのかもしれない。
母親の名字を名乗ることを願い出た例には、埼玉県史料叢書12_726の「小鷲直吉名字譲状」(福田文書)がある。母の名字である「福田」が途絶えることを憂いた岡左衛門尉が小鷲直吉に願い出て、自らも含む三兄弟が福田を名乗る許可を得ている。
盛昌・為昌の軌跡
遠江福島氏の状況から鑑みると、まず福島盛昌が伊勢宗瑞に従って伊豆・相模に入り「大道寺」を名乗る。今川分国からの移籍は、石巻家貞・関為清・興津加賀守などが見られる。そして、その後に福島為昌が移った。為昌が北条を称したことは確実なので、名字を替えた盛昌とは異なり、彼は氏綱の養子に入ったと考えた方が合理的である(詳細は別記事で説明するが、為昌妻が朝倉氏なのはほぼ確実なので、婚姻による養子ではない)。
そしてこの仮説だと、従来は余りに若年だった為昌の年齢問題が解決する。
通説の為昌は1542(天文11)年5月3日に23歳で死没したとある。逆算すると生年は1520(永正17)年(但し、この死没年は北条家過去帳からとっているようだが、これは供養した日付。もし死没年なら氏時死去が同年10月18日となってしまう)。朱印状での為昌初見は1532(享禄5)年なので通説通りなら僅か13歳、そこから富岡八幡造営の指揮をとりつつ、江戸湾を渡海したり河越へ攻め込んだりと転戦していて、とても若年とは思えない。氏直の代くらいになれば周囲に人材を配置できるから年少でも対応可能だろうが、この頃の後北条家は本当に人材が払底している状態なので、臨機応変に陣頭指揮をとれなければ務まらない。よく考えれば、30代以降の行動と考えるのが妥当だろう。
快元僧都記での呼称を見るとかなり変化していて、途中で氏綱養子となって一門化した様子が窺われる。
1533(天文2)年
- 閏5月2日 為昌彦九郎殿
- 6月17日 彦九郎殿
- 10月28日 彦九郎殿、孫九郎殿、九郎殿、九郎殿
1534(天文3)年
- 2月17日 九郎殿
- 3月1日 九郎殿
- 6月16日 彦九郎殿
1535(天文4)年
- 3月14日 彦九郎殿
- 6月10日 氏康・為昌玉縄着城
- 6月26日 為昌
- 10月14日 彦九郎為昌
- 10月17日 彦九郎為昌
1536(天文5)年
- 8月1日 氏康・為昌
- 8月28日 北条孫九郎
- 閏10月9日 為昌
- 閏10月10日 氏綱、氏康、為昌
1538(天文7)年
- 2月14日 北条為昌
1539(天文8)年
- 5月21日 彦九郎殿
1540(天文9)年
- 11月4日 北条孫九郎殿
1533(天文2)年閏5月で最初に登場した時こそ「彦九郎為昌」と書いているが、以降は単に「彦九郎殿」で、作業が慌ただしくなった10月には「孫九郎殿」と誤記したり、略して「九郎殿」と書いたりしている。様変わりしたのは1535(天文4)年6月に氏康と共に登場した時で、氏康と併記して「為昌」と記し、その後は北条と冠するか実名の為昌を付けるようになっていて、北条一門である扱いとなる(天文8年のみ例外的に「彦九郎殿」と呼ぶ)。「孫九郎」の誤記は最後まで続いていて、この点から孫九郎綱成との混乱を招いているが、綱成が確実な史料で登場するのは1544(天文13)年だから、快元僧都記の孫九郎は為昌と見てよいだろう。
駿河から小田原に赴いた冷泉為和は『為和集』にて1536(天文5)年2月13日に「本城において、彦九郎為昌興行当座」と記した。歌会を主催為昌が主催できたということは、和歌に造詣があってある程度の年齢だったことを示唆する。
彦九郎為昌が福島氏出身であることは、断片的ではあるが同時代史料でも補強できる。1548(天文17)年7月17日に岡部親綱が氏親菩提寺である増善寺への寄進物を列挙している(戦国遺文今川氏編874)。その中に異筆で「一法華経一部、紫表紙折本也、福島九郎置之、椎尾御塔頭 宗久侍者ニ渡之」と書かれている。恐らくは氏親没後に「福島九郎」が法華経を増善寺に納めたことを指しているのだろう。福島九郎はここでしか登場しないので詳細は不明だが、氏親近臣だったことが窺われる。
氏親死没直後に政争があったことは宗長日記に記されているが、これを契機に福島九郎が後北条に移った可能性は高いように思う。氏親死後はその妻である寿桂が家中を仕切る傾向が出てくるが、宗長はこれをよく思っていなかった。そして、幼童抄紙背文書で判明したように、宗長は盛昌と親しい関係にあった。反寿桂派同士ということで福島九郎が宗長に助けを求め、宗長が昵懇である盛昌に紹介したという流れだ(名乗りから見て盛昌もまた福島氏である可能性があり、氏綱への推挙もより強いものになっただろう)。
大道寺家譜・北条家過去帳に引っ張られて、大道寺発専(盛昌父)が宗瑞の従兄弟、為昌が氏康の弟という先入観を持っていたのがこれまで通説だったが、上記のように史料を敷衍するならば、為昌・盛昌は遠江福島氏の出自であるのが確実といえそうだ。
北条新六郎左馬助氏時とは何者か?
氏綱の弟とされる北条氏時は殆ど文書が残されておらず、謎の人物とされている。
新編相模国風土記稿にある二伝寺の記事で、1531(享禄4)年8月18日に氏時没とされる。二伝寺は浄土宗白旗派の鎌倉光明寺の末寺で1505(永正2)年に忍蓮社誉正空が創建という。正空は品川が出自で北条時国の系譜という人物。この創建には村落の福原左衛門忠重も助力したという。
氏時は文書を2通しか発給していないので実像が定かではないが、「氏時」「左馬助氏時」を名乗っている(戦北88・89)。一方で鎌倉円光寺の毘沙門天像の銘では「北条新六郎殿氏時」と記載されている。
- 戦国遺文後北条氏編0090「毘沙門天立像銘」(鎌倉円光寺所蔵)
(後頭部内) 檀那 北条新六郎殿氏時 作者上総法眼長■ 享禄二年十月吉日 (胎内背面) 諸願成就 南無光明天王五大力菩薩 皆令満足
「新六郎」の仮名は一門としては異色で、他氏族の出自を窺わせる。
「新六郎」を名乗ったのは、太田康資・松田政晴・勝部政則・吉良氏朝・豊島貞継・藤田信吉・用土某。このうち、氏時が現れる1529(享禄2)年に確実に時代が合うのは太田康資のみ。
「左馬助」を名乗ったのは、桑原某・高橋頼元・手島長朝・比企則員・北条氏規・北条直重・松田(大石)憲秀・松田直秀。同様に氏時と時代が合うのは、松田憲秀・高橋頼元。
ここで着目されるのが松田氏で、同氏の仮名では六郎系で助六郎(康長・直長)、六郎左衛門(康定・康郷・某)がいて、総合的に考えると、氏時は憲秀本人の別称だったか、憲秀の異母兄だった可能性が高そうに見える。更に、為昌の娘が松田盛秀に嫁しているから、為昌とも関与があっただろう。
氏時・為昌登場時の時系列・状況
ここで時系列を整理してみる。氏綱生年は同時代史料である快元僧都記で確認されるので確定。氏康・綱成の成年は後世編著での比定だが、史料的に近い年齢だろうから同年と考えてもよいだろう。為昌が氏綱養子となったとすると、少なくとも氏綱より年少だろうから10歳下と仮定してみよう。氏綱は29歳で氏康を得て、為昌は19歳で綱成を得たという時間軸になる(仮説部分は<>で表示)。
1487(長享元)年 伊勢氏綱が生まれる『快元僧都記』
1495(明応4)年 伊勢宗瑞の伊豆での活動が確認される(戦北1)
1497(明応6)年 <福島九郎為昌が生まれる>
1498(明応7)年 「大道寺」が伊勢宗瑞書状に現われる(戦北4599)
1515(永正12)年 <伊勢氏康・福島綱成が生まれる>(氏綱29歳、為昌19歳)
1522(大永2)年 伊勢氏尭が生まれる『兼見卿記』(氏綱36歳、為昌26歳、氏康・綱成7歳)
1523(大永3)年 伊勢氏綱が北条に改姓する(戦北56・市史61)
1525(大永5)年 白子原合戦で伊勢九郎(櫛間九郎)が戦死<戦死は虚報で福島九郎の援軍参加か?>
1526(大永6)年 今川氏親が死す『宗長日記』(氏綱40歳、為昌30歳、氏康・綱成12歳、氏尭4歳)
1527(大永7)年 <福島九郎が法華経を増善寺に奉納し小田原へ移る>
1529(享禄2)年 北条氏時が登場する(戦北88)(氏綱43歳、為昌33歳、氏康・綱成15歳、氏尭7歳)
1531(享禄4)年 北条氏時が死す
1532(享禄5)年 北条為昌が朱印状を出す(戦北102)(氏綱46歳、為昌36歳、氏康・綱成18歳、氏尭10歳)
1535(天文4)年 北条氏康の妻が嫁す<福島為昌が北条へ養子に入る>
1536(天文5)年 北条氏繁が生まれる(氏綱50歳、為昌40歳、氏康・綱成22歳、氏尭14歳)
1541(天文10)年 北条氏綱が死す『快元僧都記』(氏綱55歳、為昌45歳、氏康・綱成27歳、氏尭19歳)
1542(天文11)年 北条為昌が死す
氏時・為昌がその名乗りから考えて他家からの養子だとする前提で考えると、1529(享禄2)年時点で後北条一門の成人男性は、氏綱・宗哲のみになる。しかも戦況は悪化しており、大永年間からずっと劣勢が続いて江戸・鎌倉は何とか確保しているものの、岩付を失い、相模国の大磯・平塚まで攻め込まれることもあった。
窮余の一策として、松田盛秀の嫡男を養子にし、北条の名字と「氏」の通字を与えて氏時とした。が、わずか3年で急死してしまう。そこで、30歳代半ばで嫡男・次男がいる為昌に白羽の矢が立った。3年ほど様子を見てから、氏綱養子扱いで北条名字を与えたものの、今川からの異物ということで、通字は与えなかった。
こうした例外が可能だろうかという疑問があるものの、新興勢力の後北条氏としては、北条へ改姓して10年ほどという時期で例外措置が挟みやすかったといえる。それよりも、四の五の言っていられないほど一門人数が枯渇していたという要因が大きく作用していただろう。何よりこの措置によって、為昌という成人男性に加えて氏康と同年の嫡男も手に入る。また、1535(天文4)年になって為昌養子入りが確定したのは、嫡男綱成の妻が懐妊したことも契機となるかもしれない。
蛇足
念のため記しておくと、為昌が氏綱の息子で氏康の弟と書いているのは北条家過去帳と鶴岡御造営日記。北条家過去帳は後に北条氏長の手が大幅に入っており、過去帳というよりは玉縄北条家の系図のようになってしまっているし、氏繁次男を無理に挿入するなど操作の形跡がある。綱成の前に存在していた氏時・為昌への情報操作も窺われ、この点では信頼性に瑕疵があるといえる。
『快元僧都記』と『鶴岡御造営日記』は、どちらも天文年間の鶴岡八幡宮修復作業にまつわる内容を記載しているので、同時代史料だとされる。しかし、よく引用される『鶴岡八幡御造営日記』の塀普請割振状には不可解な記載があって不審。
12間 北条氏康弟、彦九郎殿
南大門6間 北条氏綱弟、幻庵
6間 北条庶子、左衛大夫
寄子也、間宮豊前守
北条宗哲を「幻庵」としているが、宗哲が幻庵と呼ばれる最初の例は1558(永禄元)年(戦国遺文今川氏編1236)で、1546(天文15)年の自称では「長綱」(戦国遺文後北条氏編0279)であり、快元僧都記でも一貫して「長綱」と呼んでいる。
また、ここで「左衛大夫」と呼ばれた綱成だが、彼が左衛門大夫と名乗るのは1549(天文18)年以降であり、少なくとも1544(天文13)年までは「孫九郎」を自称していた。
この割振状に出てくる他の名前を見ていると、どうも所領役帳を参考にして工夫して入れ込んでいるような感触もある。