2017/10/15(日)織田信長への皆川広照初信

織田信長の対応

下記は全て1581(天正9)年に比定されている、皆川広照関連文書。

  • 増訂織田信長文書の研究0959「織田信長朱印状」(下野・皆川文書二)

馬一疋到来候、誠遼遠之懇志、悦喜無他候、殊更葦毛別而相叶心候、馬形・乗以下無比類、彼是秘蔵不斜候、仍褶百瑞・虎革五枚・紅緒五十結相送之候、祝儀計候、謹言、 十月廿九日/信長(朱印)/長沼山城守殿

  • 増訂織田信長文書の研究0960「織田信長朱印状」(下野・皆川文書二)

此使者至常州蜷川差越候、相模へ相送、自其彼方へ参着様、馳走専一候、此旨相州へも能々可申越候、猶西尾可申候也、 十月廿九日/信長(花押)/滝川左近殿

皆川広照は、その初信において「長沼」という本姓を名乗った。葦毛の逸物だったようで、形や乗り心地にまで珍しく言及している。そして信長は滝川一益に、この使者を相模まで送り、相州=北条氏直にも保護を通達するように指示している。

そして、「皆川」を「蜷川」と呼び間違えている。聞き違ったのと、それほど関心がなかったように見える。

取次の堀秀政の対応

  • 増訂織田信長文書の研究下巻参考p650「堀秀政副状」(下野・皆川文書二)

珍札令披見候、仍上様江為御礼、御馬三疋御進上候、即令披露候之処、被成御祝着候、殊葦毛別而御自愛候、委細以御書被成仰出候、次私へも同一疋栗毛、被懸御意候、寄思召御懇信珍重候、向後於此地相応御用被仰越、不可有疎意候、猶智積院前坊令申候間、不能審候、恐々謹言、 十月廿九日/秀政(花押)/皆川山城守殿御返報

秀政は信長と同日付で「馬3疋を進上したところ、葦毛を特別に気に入ったようだ。私にも栗毛馬をいただき光栄です。更に智積院が申します」と書いている。さすがに秀政は正しく「皆川」と呼んでいる。

  • 増訂織田信長文書の研究下巻参考p651「堀久太郎覚書案」(下野・皆川文書二)

覚。下つけの国みな川と申もの、いまた御礼不申上候、冥加の為ニ御座候条、御馬三進上申度候由候てひき上申候、その内くろあしけの御馬、関東においてすくれたるはや道之由申候、残二疋之儀ハよくも御座なく候へ共、はしめて進上仕候ニ、一疋ハあまり物すくなニ御座候とて、右分ニ御座候此御使ハみな川おぢ坊主智しやく院と申候、廿ヶ年はかり以前よりねころへかくもんに罷越在之を、去年わさとよひくたし、只今又さし上申候、然ハこゝもと一円無案内ニ御座候ニ付而、前坊を以申上候、以上、

これは秀政が使者に渡した覚書のようだ。ここでは種明かしがされていて、本当は葦毛の1疋を贈ろうとしたが、数が少ないのも如何なものかと3疋贈ったと書かれている。また、使者の智積院は広照の「おぢ=伯父・叔父」で20年前から根来にいたという、彼を去年下野に呼んで、今年また上方に上らせたとある。

徳川家康の対応

  • 増訂織田信長文書の研究下巻p652参考「徳川家康書状」(下野・皆川文書二)

今度安土江御音信、馬御進上候、遠路之儀、御造作令推察候、併信長馬共一段自愛被申、御使者等迄、各馳走可申候由被仰付、東海道公儀之上、無異儀帰路候、か様被入御念御懇之儀、於爰元始而之御儀候、於上方之御仕合共様子、彼使者淵底存知之事候、我々迄大慶ニ候、然者此方之儀、幸上辺路次中之儀候条、相応之儀ハ、不仰共不可有疎心候、次為書音之、乍さ少無上三斤、進覧候、委曲関口石見守令言上与口上候、恐々謹言、 十一月十二日/家康(花押)/蜷川山城守殿

相模までの路次保証を命じられた一益から要請を受けたのか、家康が広照に挨拶している。ところが、信長が始めた聞き違いが一益経由で家康にも及んでいて、やはり「蜷川」と呼んでしまっている。

2017/10/15(日)織田になりたかった信康

「織田信康」という概念

信康が、松平なのか徳川なのかというのは専門家が検討しているところだと思うが、信康本人は「織田信康」になりたかったんじゃないかと、ふと思ってみた。後北条でいうと娘婿とはいえ被官だった綱成が、その息子の代に一門格になった例もあるから、それを狙ったんじゃないかと。

織田分国における後継者レースと考えると、天正3年に信忠合力で出張したがった信康の意図が判るような気がする。だがそれは信長に謝絶されてしまう。その辺は下の史料で判る。

-愛知県史資料編11_1114「織田信長黒印状」(野崎達三氏所蔵文書) 1575(天正3)年比定

廿五日折紙今日廿八到来披見候、仍武節落居候段、誠以早速入手候事、感悦無極候、併無由断情を入如此候条珍重候、殊即至岩村出陣事、尤以可然候、旁祝着不斜候、度々如申菅九郎若年之間、万々肝煎専一候、就其松平三郎出張事、於此上者不入事候、被相留候由近比可然候、我々昨日廿七京着候、岩村表事節々注進簡要候、恐々謹言。猶々炎天之時分、方々辛労ニ候、 六月廿八日/信長(黒印)/佐久間右衛門殿

25日の書状、今日28日に来て拝見しました。武節が落居し、本当に素早く入手できたとのこと。感悦極まりありません。そして油断なく精を入れてこのようになったのは、珍重です。特に、すぐに岩村に出陣したことは、もっともで然るべきことです。色々と祝着なのは斜めならざることです。度々伝えているように、菅九郎は若年ですから、全てにわたって肝煎が大切です。それについて松平三郎が出張することは、この上においては要らざることです。お留めになるのが、近頃では然るべきことでしょう。私は昨日27日に京に着きました。岩村表のことは、細かく報告するのが大事です。 なおなお、炎天の時分で皆さんご辛労です。

この年の12月に水野信元が死に追いやられている。信元・家康の認識では、水野・徳川は織田の同盟相手だった。家康は微妙に従属を認めていたものの、信元は、被官になることを明白に拒絶し殺されたのではないか。信元の死に当たって、同じような曖昧な隙間にいた久松俊勝は隠居したとも伝えられ関連が想像される。

信康は焦ったのではないか。信元の死によって事実上の被官化を認めさせられた徳川にあって、信忠はさておき、信孝・信澄・信孝に水を明けられた状況が、信康の反抗を促し、信長娘との不和を招いたか。

若手の競合

信康が競合相手と見なす候補は4人いる。

生年

信忠 1557(弘治3)年

信澄 1558(永禄元)年?

信康 1559(永禄2)年

信雄・信孝 1570(元亀元)年

初陣

信忠 1572(元亀3)年

信康 1573(天正元)年?

信孝 1574(天正2)年

信澄 1575(天正3)年

信雄 1574(天正2)年

この5人の出世レースはかなりシビアだったのかも知れない。信康が「不覚悟」で失脚したのも、信雄が焦って伊賀に攻め込んで敗退したのも、明智光秀が信長を討った際に「信澄が噛んでいる」という噂がしきりに出たのも。

図抜けた存在のはずの信忠ですら、甲信攻めでは拙速で功を求めている。「そろそろ戦乱も終わりそう」という時代の空気が、こういった若手の内部闘争を引き起こしたのかも知れない。。

2017/10/13(金)六郎と氏忠が同一人物かどうか

1575(天正3)年に比定されている虎印判状で、宛所の「六郎」と文中の「氏忠」が別人物と解釈できることから「北条六郎」という、氏忠ではない人物がいると黒田基樹氏が指摘したが、その後『』で両者は同一人物であると再比定されている(p79)。

ただ、ネット上ではいまだに「六郎と氏忠は別人」という古い指摘が流布している。改めて、史料から比定を検討して、黒田氏再比定が妥当であることを検証してみようと思う。

そもそも、六郎と氏忠が別人物だとすると「本しやうつほね書状」(埼玉県史料叢書12_0408・岩本院文書)で、氏政・氏照・氏真・氏規・氏邦・氏光と並んでいる「六郎殿」が誰だか判らなくなってしまう。

うちまささま、うちてるさま、うちさねさま、五郎殿・六郎殿・大郎殿・四郎殿

黒田氏が別人説を当所見出した懸案の文書は以下のとおり。

  • 小田原市史小田原北条1176「北条家虎朱印状写」(相州文書・高座郡武右衛門所蔵)

    (前欠)小曲輪 十人、内村屋敷へ出門 十人、板部岡曲輪 十人、関役所二階門 六人、同所蔵之番 十人、鈴木役所之門 以上 一、門々明立、朝者六ツ太鼓打而後、日之出候を見而可開之、晩景ハ入会之鐘をおしはたすを傍示可立、此明立之於背法度者、此曲輪之物主、可為重科候、但無拠用所有之者、物主中一同ニ申合、以一筆出之、付日帳、御帰陣之上、可懸御目候、相かくし、自脇妄ニ出入聞届候者、可為罪科事 一、毎日当曲輪之掃除、厳密可致之、竹木かりにも不可切事 一、煩以下闕如之所におゐてハ、縦手代を出候共、又書立之人衆不足ニ候共、氏忠へ尋申、氏忠作意次第可致之事 一、夜中ハ何之役所ニ而も、昨六時致不寝、土居廻を可致、但裏土居堀之裏へ上候へハ、芝を踏崩候間、芝付候外之陸地可廻事 一、鑓・弓・鉄炮をはしめ、各得道具、今日廿三悉役所ニ指置、并具足・甲等迄、然与可置之事 一、番衆中之内於妄者、不及用捨、縦主之事候共、のり付ニいたし、氏忠可申定者、可有褒美候、若御褒美無之者、御帰馬上、大途へ以目安可申上候、如望可被加御褒美事 一、日中ハ朝之五ツ太鼓より八太鼓迄三時、其曲輪より三ヶ一宛可致休息、七太鼓以前、悉如着到曲輪へ集、夜中ハ然与可詰事 以上 右、定所如件、 乙亥三月廿二日/(虎朱印)/六郎殿

注意書きの部分を解釈してみる。

一、各門の開け閉めは、朝は六つ太鼓を打ったあと、日の出を見て開くように。晩は入会の鐘が終わってから閉めるように。この開け閉めの規則を破った者は、この曲輪の責任者が重く罰すること。但し、やむを得ない用事がある場合は、責任者で協議して一筆書き出し、日誌につけておき、帰陣した時に提出するように。隠れて脇から出し入れしたことが判明したら、処罰の対象とする。 一、当曲輪の毎日の掃除は厳密にするように。竹木は何があっても切ってはならない。 一、たとえ代理の者が出てきたとしても、病気になったりして欠勤する際、または所定の人員に不足があった際は、氏忠へ申請し、氏忠の考えに添うように。 一、夜間は、どの設備も6時まで寝ずの番をして土塁警邏をするように。但し、土塁や堀の裏へ上がったら芝を踏み崩してしまうので、芝生の外を歩くこと。 一、鑓・弓・鉄炮をはじめ、各自の道具を集め、今日23日に全ての設備に配置、具足・甲などまで迄、しっかりと置くこと。 一、番衆の中で不埒な者がいれば、たとえ主人だったとしても容赦なく、糊付けにして氏忠に報告すれば、褒美を出すだろう。もし御褒美がなければ、帰還後に目安として大途へ申し上げるように。望みの通り御褒美を加えられるだろう。 一、日中は朝の五つ太鼓から八つ太鼓までの三刻、その曲輪より3分の1ずつ休息するように。七つ太鼓以前には、全員が着到通りに曲輪へ集り、夜中はしっかり詰めておくこと。

ここで「氏忠」が出てくるのは、欠勤や兵員報告の向き先、かつその対処を一任されている存在として、また、密告者の情報の向き先である。

恐らく「六郎」が「氏忠」であった場合、「密告しても氏忠が褒美をくれなかったら、後で氏政に直訴せよ」と規定している点からだろうと思う。氏忠本人にこれを言うだろうかと疑問に思うのも無理はない。だが、それは近代的な文書様式による偏見に過ぎない。

この時代は、その文書によって利益を受ける人間がそれを保持する。利益を侵害されそうになった際に、文書を見せて権利を守るためだ。この場合、軍律を守ることが六郎の利益であり、それを支えるために発給されたのであれば、六郎=氏忠で特に問題はない。

六郎=氏忠が、指示に従わない者にこれを提示したシーンを思い浮かべてみよう。


あれこれ規則を読み上げるが、皆はうんざりして「まあ守れるようなら頑張ろうかな」ぐらいの温度だったとする。ところが、密告推奨の条文の辺りで舌打ちをしただろう。しかも「氏忠が応じなくても氏政が応じる」という念押しまである。現場の見逃しで氏忠をごまかせても、やたら細かい氏政は徹底的な調査を命じるだろう。

押し黙る部下を前にして、氏忠は「私自身にも密告はどうにもならぬ。せめて厳密に守備をしよう」と、物主たちの肩を叩いて励ます。

そして、宛所では仮名や官途で呼ばれながら、文中ではその本人を実名で呼ぶこともまた多い。

解釈を浅めに捉えて、六郎と氏忠が別人と考える論も全く無理ではないのだが、それに伴って「六郎と氏忠が別人だと、その他の解釈がより自然になる」という展開は特に見当たらない。むしろ「じゃあ六郎って誰?」になってしまい、それは比定の方向として宜しくない。