2018/01/28(日)北条氏政が、弟の氏規に番編成を指導したのはいつか?

比定年が異なる文書

番の編成を、北条氏規に代わって兄の氏政が代行したという書状が残されている。この文書の年比定については、小田原市史と戦国遺文で1年異なっている。

原文

一、河尻・鈴木今十日罷立候、一、韮山之番帳進之候、一、長浜之番帳進之候、能ゝ御覧届、長浜ニ可被置候、其方之早船八艘之内七艘、三番ニ積候、番帳ニ委細見得候、一、韮山外張之先之城ニ候間、悉皆其方遣念、可有下知候、為其其方之舟衆三番ニ置候、一、長南之儀ニ付而之書状、態進迄者無之故、此者ニ進之候、日付相違可申候、一、東表動前候間、如何様ニも早速普請出来候様ニ可被成候、恐々謹言、
三月十日/氏政(花押)/美濃守殿

  • 小田原市史小田原北条2042/戦国遺文後北条氏編3430「北条氏政書状」(宮内直氏所蔵文書)

解釈

  1. 河尻と鈴木が今日10日に出発します。
  2. 韮山の番帳を送ります。
  3. 長浜の番帳を送ります。よくよくご覧になって、長浜に置かれますように。そちらの早船8艘のうち7艘を、3つの番に編成しました。番帳で委細が見られるでしょう。
  4. 韮山の外張の先にある城ですから、しっかりと念を入れて指示を下されますように。そのためにそちらの舟衆を3番に置きました。
  5. 長南のことについての書状は、わざわざお渡しするまでもなかったので、この者に渡しました。日付が違っているようです。
  6. 東方面の作戦直前なので、どのようにしてでも早く普請が完成するようにして下さい。

この文書について「東表動前候間」を重視したと思われる戦国遺文・下山年表は天正17年と比定。対して小田原市史は天正17年に「東表動」があったとは考えにくく、であれば韮山・長浜の軍事通達がある点から天正18年と比定すべきではないかとする。

どちらの比定も難点あり

天正18年の場合、眼前に羽柴方が進駐してきて散発的に戦闘も発生しているような状況で、「東表動前」だから普請を急げとは言わないように思う。氏政の意識は西に集中していたのは、他の文書を見ても判る。

しかし、天正17年3月というのもおかしい。この時点で後北条氏は足利表の平定に注力していて氏直が出馬した形跡はない。

それよりは、氏直が確実に常陸に出馬した天正16年に遡った方が信憑性が高いのではないか。

廿三日之一翰、今廿八日未刻到来、仍府中・江戸再乱、双方随身之面々書付之趣、何も見届候、当時西表無事、如此之砌、一行之儀、催促無余儀候、当表普請成就、定急度氏直可為出馬候、其方本意不可有疑候、弥手前之仕置専一候、猶此方之儀、争可為油断候哉、委細陸奥守可為演説候、恐々謹言、
二月廿八日/氏政在判/岡見治部大輔殿

  • 埼玉県史料叢書12_0848「北条氏政書状写」(先祖旧記) 1588(天正16)年

爰元帰陣休息、雖不可有程、向常陸へ氏直ニ令出陣候条、着到無不足有出陣、別而被相稼、可為肝要候、恐ゝ謹言、
三月廿五日/氏政/押田与一郎殿

  • 戦国遺文後北条氏編3297「北条氏政書状写」(押田家文書中)

押田蔵人事、以書付被申越候、旧規之様子者、当時不及糺明儀ニ候、畢竟邦胤時菟角無裁許、被打置候儀迄、只今鑿穿信事思慮半候、近年不成様可被取成候ハゝ、殊一手之内之事ニ候間、聊も構別心無之候、雖味過間敷候、猶同名与云、旧規之筋目与云、何とそ被取成候ハゝ、異儀有間敷と校量候、恐ゝ謹言、
閏五月廿日/氏政判/押田与一郎殿

  • 戦国遺文後北条氏編3326「北条氏政書状写」(内閣文庫本古文書集十五)

氏直出馬の面倒をあれこれ見ていたのが氏政で、この辺の状況を見ても天正16年の方が自然に感じられる。