2018/04/08(日)他国衆関連文書

1557(弘治3)年比定。後北条被官の伊東氏に同心としてつけられた他国衆「香坂甲斐」は、妻子を持たず派遣されたので、その地に赴くとし、他国衆だからよくよく親切にするよう指示している。

伊東同心香坂甲斐衆、妻子不持間、当陣取遣候条、其地へ越候、当陣之間預ヶ申候、他国衆候間、能ゝ可有懇候、仍如件、
巳三月十三日/伊東奉/左衛門太夫殿

  • 戦国遺文後北条氏編0542「北条家虎朱印状写」(甲斐国誌七十二)

以前から決まっていた三島大社の神事銭の納付を渋っていることが判った。代官・百姓を殺そうとしたが、稲取片瀬が他国衆「毛利丹後守」の知行であることから赦免している。

三島御神事銭之事、従早雲寺殿御代定来処、只今令難渋由、入御耳候、不及糺明、代官・百姓雖可為生害候、毛利丹後守他国衆之儀ニ有之候間、当代官若其委細之儀不存人、爰以一往御用捨候、如古来五日之内可相済、此上就及菟角者、速可行重科者也、仍状如件、
永禄十二己巳壬五月四日/(虎朱印)山角奉之/稲取片瀬代官・百姓中

  • 戦国遺文後北条氏編1236「北条家朱印状写」(伊豆三島宮文書)

1577(天正5)年比定。他国衆「小甫方備前守」の生産を妨害するなと指示。何事であっても邪魔をする者は処罰するとしている。

小甫方備前守、他国衆ニ候、彼家中仁只今手作之所、努ゝ違乱不可申、細事等成共横合就申懸者、可令遂御成敗旨、被仰出者也、仍如件、
丑卯月廿六日/(朱印「印文未詳」)大石信濃守奉之/祇園触口諸触口中

  • 戦国遺文後北条氏編1905「北条氏照朱印状」(矢島文書)1577(天正5)年比定

1582(天正10)年に比定。他国衆の「伴野兵衛殿」の母親を居住させるために、奔走するよう指示。「うせうけ」は「無精気」か。

伴野藤兵衛殿御老母、其地へ指移申候、然者、宿之事、其方所ニ置可申候聞、苦労ニ候共、やと可致之候、他国衆之事ニ候間、一入於何事も不在無沙汰、懇比申、万馳走可為肝要候、用所之義をハ、何事成共、筑後守ニ可相談候、毛頭もふせうけ間、躰無沙汰者、弥不可有曲候、猶馳走専要候、仍如件、
十月二日/政繁(花押)/次原新三郎殿

  • 戦国遺文後北条氏編2423「大道寺政繁判物写」(武州文書所収入間郡新兵衛所蔵文書)

年未詳文書。何があろうと徳川方と騒ぎを起こすなという指示。他国衆はそもそも優遇していたが、喧嘩両成敗を適用したくないので、我慢しろという。

遠州衆為証人在府ニ付而申断候一、如何様之法外を致候共、他国衆之事ニ候間、当意遂堪忍、則様子可披露事
一、不論理非致于及喧嘩之者者、双方生害古今之掟ニ候、扨於此度之掟ハ他国衆ニ候間、一往可堪忍由遂下知処、至于背其法者妻子迄可行死罪事
右、定置所、如件、
八月三日/(虎朱印)/大道寺新四郎殿(上書:大道寺新四郎殿 自小田原)

  • 戦国遺文後北条氏編3810「北条家朱印状」(大道寺文書)
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