2018/06/02(土)鉄砲衆は諸被官から集められていたらしい

1572(元亀3)年

小山孝哲 → 岩上筑前守

夜前被罷着様体無心元候間、態以脚力相尋候、何も路次中辛労之由申遣度候、一、栗橋之手成定而其地へ可聞候、濃ニ注進尤候、一、自当真昨日付之一書今朝巳刻披見、存分候間、不被致用捨、彼一札写并返書之案文八郎殿へ可被為見申候、一、義重以川井甲斐守昨暮当城へ被届旨候、于今在滞、佐・宮半途之備遅々、口惜由遂侘言迄候、一、鉄炮衆番替明晩可指越候、つゝ引かへ候も六ヶ敷候間、其侭十丁をハ玉薬ニ厳密ニ可差置由、必々十人之者共之方へ被申調可然候、相残三ちやうハ、彦五郎方家風粟宮・小曽戸かせ者ニ候間、筒をも持可帰迄候、此番替ハ小薬之鉄鋒衆三人三丁申付候、玉薬其外厳密ニ彦左衛門・五郎右衛門ニ相渡可罷帰由、是又無失念可被申付候、一、昨於備場其方同道、両人尤之由加詞候キ、荒豊一人計可然候、其外をハしかと陣屋ニ日数之間、不致随意有之様、堅可被申候、第一大酒・火事・無政道、彼是を始、書付之透仕置専一候、謹言、
十二月六日/孝哲(花押影)/岩上筑前守殿

  • 埼玉県史料叢書12_0419「小山孝哲書状写」(松羅館集古八)

1575(天正3)年

織田信長 → 長岡藤孝

此表之様子、先書ニ申候、今日自早天取賦、数刻及一戦、■残敵討捕候、先■■下数多候間、仮名改首注文自是可進候、自兼如申候、始末無相違候、弥天下安全之基候、仍鉄炮放被申付候、■祝着候、爰許隙明候条、差上候、旁以面可申展候、謹言尚以、爰元之事、九■左衛門可申候、
■月廿一日/信長(朱印)/長岡兵部太輔殿

  • 増訂織田信長文書の研究0511「織田信長朱印状」(肥後・細川家記二細川家文書二)

1577(天正5)年

後北条氏 → 北条氏繁

新田へ鉄砲衆合力候、五挺可然放者可被申付候、明後可遣候、島津左衛門自馬廻遣候間、従者可同心旨可被申付候、掟従是委以書出可申付候、万端遣念可被申付候、仍如件、
五月十九日/(虎朱印)/常陸守殿戦国遺文後北条氏編1911「北条家朱印状写」(小田原編年録附録四)

1585(天正13)年

後北条氏 → 神宮武兵衛

鉄炮衆一、六挺、両後閑衆
一、三挺、木部宮内衆
一、弐挺、和田左衛門衆
一、壱挺、同兵部衆
一、壱挺、高山彦四郎衆
一、七挺、倉ヶ野淡路衆
一、拾挺、神宮衆
以上卅挺
右之鉄炮衆大戸へ為加勢指越候間、此飛脚来十四日可参着候間、翌日一日支度而、何れも召連、一同相移、房州如作意可走廻、仍如件、
九月十日/(虎朱印)/神宮武兵衛殿

  • 戦国遺文後北条氏編2856「北条家朱印状写」(後閑文書)

1586(天正14)年

北条氏直 → 簗田晴助

壬生へ万一敵至于相動者、加勢之儀壬生所望候、然者奥州注進次第何時も其人衆払而小山へ被相移、自彼地弓・鉄炮足軽を壬生へ加勢候様可有下知、委細奥州可為演説候、恐々謹言、
卯月十一日/氏直(花押影)/簗田中務太輔殿

  • 埼玉県史料叢書12_0779「北条氏直書状写」(温故知新集)

後北条氏 → 北条氏照

壬生へ加勢衆廿挺、鉄炮卅人、弓鑓、合五十人水海衆
右、佐竹向壬生・鹿沼、動火急ニ相催由、注進候、依之手先之衆先加勢遣候条、記右人数、能物主指添、自小山大石信濃寺注進次第、不移時日、小山へ被相移、小山衆同断ニ壬生へ移、走廻候様、可被申付旨、水海衆へ可被御届候、猶依注進、自分可令出馬間、無油断可有支度旨、能ゝ可有演説候、仍如件、
七月十八日/(虎朱印)/陸奥守殿

  • 戦国遺文後北条氏編2972「北条家朱印状写」(楓軒文書纂六十)

年未詳

北条氏照 → 大石四郎右衛門尉・大石左近丞

加勢衆鉄炮
一丁、石原主膳
二丁、島村
二丁、由木
一丁、車丹波衆
一丁、大石四郎右衛門衆
一丁、同左近衆
二丁、大藤手組之内
以上十丁
一、右衛門佐殿御手前、敵之取寄近来候、今夜為加勢遣候、申端可被仰所、加治左衛門ニ指添可遣事
一、玉薬二百放可指添候、■■可渡事、加治■■一、加治左衛門為物主指越候、彼者如申可走候、少も油断不可致、虎口可走事
右之条ゝ、猶仰所、直ニ可被申付候、以上、
廿日/氏照(花押)/大石四郎右衛門尉殿・大石左近丞殿

  • 戦国遺文後北条氏編3921「北条氏照書状」(秋山断氏所蔵文書)