2018/06/11(月)朝比奈文書にある謎文書

朝比奈文書にある謎の書付

戦北に北条氏規書状として掲載されている書付がある。これは朝比奈泰寄の家に伝来したもので、異筆で「御返事 にら山ニて給候御文」とあるだけで、月日・差出人・宛所の何れも欠いている。親しい間柄で短く返信してきたのだろう。韮山で受け取ったとある。この内容が難しい。

志かとそのくつハ仕置可被成候、五日のうちたるやう候、いくたひ何分申候へ共、御聞わけなく候、あさましき御存分にて候と存候て、くちおしく候、彼またにハあしかる共百余人さし置候、その物主一人二人ハかくしてかなわす候、そもゝゝ其方なとあるへき所に候や、見まいも更ニ不入候、日のうち一度ハかりさへ見まわり候へハすミ候、此度に分別不参候と存候て、あさましく口惜候、二人の子共ニ二度あり不申候、ほう偽にハ不申候、謹言、
月日欠/差出人欠/宛所欠[後筆:御返事 にら山ニて給候御文]

  • 戦国遺文後北条氏編4030「北条氏規書状」(朝比奈文書)

伝来や書き方から考えると、宛所は朝比奈泰寄・差出人は北条氏規で良いだろうけど、確信はない。とはいえややこしいので以下【泰寄】【氏規】と書く。

文全体から掴みとってみる

全体の文意を見ると、3つの軸がある。

  1. 轡の仕置きを5日の内に行なうよう、差出人が厳重に言ったのに従わなかった。
  2. 足軽共100余人の物主(責任者)は命じられない。
  3. 2人の子供に2度目はない。

鍵になるのは「二人の子共ニ二度あり不申候」で、【泰寄】・【氏規】のどちらかが、この息子2人の父親なのだろうと推測できる。そう考えると、以下の点が具体的に解釈できる。

  • 「その物主一人二人ハ」と、2人とも物主にするか、少なくとも1人はするかを匂わせている点。「その物主ハ」でも文意が通らなくもないのに、「一人二人」を挿入しているということは、息子2人とも物主に命じたい意向が【氏規】にあったからだと解釈できる。

  • 「そもゝゝ其方なとあるへき所に候や」と、そもそも何故お前がいるのだと、問うている点。この書付が返書であることから、まず轡仕置きの遅滞を咎める【氏規】の書面が兄弟(息子2人)の元に届き、兄弟に代わって返信したのが【泰寄】という経緯があり、それに【氏規】が返信したのがこの書付と考えられる。兄弟に宛てたのに【泰寄】から返信があったからこその「なぜお前が」という苛立った問いかけになっている。


※ちなみに。戦北では「その物主一人二人ハかくしてかなわす候」の「かくして」を「隠して」と注記しているが、「斯くして=このようにして」の方が「かなわす=適わず」に繋がり易いと思う。「斯」は「如斯」という言い回しが多いが、このような書付ではより砕けた言い回しになり「如」は用いずに強い口調になっていると思われる。 # 難読部分の解釈 文書全体の方向性が見えたところで、通常の読み方では把握できない部分を細かく見ていく。 >「志かとそのくつハ仕置可被成候」 この「仕置」は「調達」だろうと考えている。後段で1日1回見回ればよいだけなのに、それもできないのかという指摘があるため、「くつハ」という在所の管理という解釈も可能ではある。ただ「五日のうちたるやう候」という条件が加えられていることから、これが納期だと考えると、馬具の轡を調達しようとしていた可能性が非常に高い。この「五日のうち」が、当該月の5日が締め切りということを示すか、5日間以内ということを示すかは、この史料からは判らない。 > 「彼またにハあしかる共百余人さし置候」 足軽100余人を配置した「彼また」は地名か地形を指すのかと考えたが、「また」が「表」の誤翻刻だとすれば意味が通り易い。原文を見ていないため推測になるが、「彼表」としておきたい。 > 「ほう偽にハ不申候」 「ほう」が判らない。この文は「2人の子供にもう2度と機会は与えない」という脅しの後に入っていて、この後は「謹言」で終えている。かなり強い言い切りに続けて「これは嘘ではない」と補強しているから、「ほう」が「万々」の誤翻刻だと見て「万々偽には申さず=少しも偽りではない」とすると意が通る。こちらも原文を見ていないので推測だが、仮定しておく。 # 読み下してみる 仮置きした部分は『』で括ってある。 > しかとその『くつは=轡』仕置きなられ候、 五日の内たるやう候、 幾たび何分申し候へども、 お聞き分けなく候、 浅ましきご存分にて候と存じ候て、 口惜しく候、 彼『また=表』には足軽共百余人差し置き候、 その物主一人二人は『かくして=斯くして』適わず候、 そもそもその方などあるべきところに候や、 見舞いも更に入らず候、 日の内一度ばかりさえ見回り候へ済み候、 この度に分別参らず候と存じ候て、 浅ましく口惜しく候、 二人の子供に二度あり申さず候、 『ほう=万々』偽りには申さず候、 # 現代語に解釈してみる 轡を調達するように、5日の内にと、しっかり何度も指示したのに、お聞き分けがありません。 浅ましいお考えと思い、悔しいです。 あの方面には足軽100余人を配置しました。 その物主<として>1人か2人を<と考えていましたが>これでは<任命も>適いません。 そもそも、あなたなどがいるべきところでしょうか。 さらには見舞いもしていません。 1日1回だけ見回れば済むことです。 今回分別できないことを思うと、浅ましく悔しいです。 2人の子供に2度<と機会>はありません。少しも偽りには申しません。 謹言 # 子供2人の正体 この息子の父親はどちらだろう。 ## 氏規が父親? 氏規には氏盛・辰千代がいるが、もしこの兄弟だとすると、齢から見て天正17~18年だろう。天正15年3月21日に泰寄が辰千代の陣代に命じられていて状況から見ると違和感はない(戦北3067)。 ただ文面が適さないように見える。絶望的な戦いを前に氏規は兄に逆らっていたりもするが、この文書にはそうした切迫感が薄い。せいぜい「2度目はないぞ」が決死の意味を帯びてくると思うのだが、ではなぜ、轡の調達がそんなに重要なのか、そしてそれを弱年の息子たちに任せた理由も判らない。 ## 泰寄が父親? 泰寄の場合、家臣団辞典によると泰之(六郎大夫)が嫡男と目されている。泰之は1571(元亀2)年に初出。1574(天正2)年には高野山高室院に書状を出しているので、氏盛・辰千代より年長だった可能性が高い。 >雖未申通候、一筆令啓入候、仍南条因幡守在陣ニ候之候間、拙者委曲可申達候由、氏規被申付候、然者石塔又日牌銭之末進之儀、弐拾参貫文、今度慥御使僧ニ渡置申候、重而御便宜ニ御請取候段、御札可蒙仰之、并毎年百疋并御返札是又慥此御使僧ニ渡申候、猶以重而之御便宜ニ右之分御請取之由、御札待入申候、委曲期来信之時候、可得尊意候、恐惶敬白、 八月五日/朝比奈六郎大夫泰之(花押)/高室院参御同宿中 - 戦国遺文後北条氏編4060「朝比奈泰之書状写」(集古文書七十六)※戦国遺文では年未詳としていて家臣団辞典でなぜ天正2年比定をしたかは不明。恐らく「南条因幡守在陣」と絡めての比定で、妥当性があると考えるのでこれに従う。 この泰之と兄弟(某)が対象だったとすれば、この書付が出されたのは天正9年に伊豆が主戦場になった対武田戦が見込まれると思う。この時は笠原正晴が武田に寝返ってしまい、後北条方は劣勢に陥っている。 >寄親候松田上総介、対勝頼忠節之始、去十月廿八日向韮山被及行処、北条美濃守出人数間遂一戦刻、頸壱討捕条、神妙候、仍大刀一腰遣之候、自今以後弥可励武功者也、仍如件、 十二月八日/勝頼(花押)/小野沢五郎兵衛殿 - 戦国遺文武田氏編3632「武田勝頼感状」(愛知県南知多町・加古貞吉氏所蔵文書) 武田勝頼に追い込まれていて、物主として強引にでも若手を起用したかったのではないか。ただその切迫度は、「戦う前から負ける」と判っていた天正18年よりはかなり低い。これは、若者の未熟に愚痴ったり叱責して育てようとしたりという文脈とも合致する。 そう考えると、泰寄の息子2人(泰之・某)に直接指導していた氏規が、割り込んできた泰寄もろともに兄弟を叱った書付という仮説が成り立つだろう。ただ、泰之は泰寄との血縁関係を直接明示した史料が残されておらず、この解明が必要になる。 また、同書によると別系と比定されるものの、「朝比奈右衛門尉」がいる。この官途を名乗った綱堯が1521(永正18)年~1542(天文11)年に活動した史料が残されている。1585(天正13)年と1588(天正16)年に氏規奉者として「朝比奈右衛門尉」が登場するので、この右衛門尉は、綱堯の後継者である可能性が高い。但し家臣団辞典では1590(天正18)年7月の北条氏規朱印状に登場する「朝比奈兵衛尉」をもこの綱堯後継者に比定しているが、泰寄は1592(天正20)年の北条氏盛判物(戦北4322)に登場することから、そのまま泰寄に比定すべきだと思う。 >知行方 弐百石、丈六 三百石、南宮村 以上五百 右、従 関白様被下知行ニ候間、進之候、其方之事者、はや三十余年一睡へ奉公人御人ニ候、我ゝニも生落よりの指引、苦労不及申立候、就中、小田原落居以来之事、更ゝ不被申尽候、一睡同意存候、存命之間、何様ニも奉公候而可給候、進退之是非ニも不存合御身上与存候得共、若ゝ我ゝ身上於立身者、何分ニも随進退、可任御存分事不及申候、為其一筆申候者也、仍如件、 天正廿年壬辰三月十五日/文頭(北条氏規花押)・氏盛(花押)/朝比奈兵衛尉殿 - 戦国遺文後北条氏編4322「北条氏規袖加判・北条氏盛判物」(朝比奈文書)