2022/08/20(土)北条家過去帳の「高源院」は誰か

戒名比定の根拠

北条氏規妻の戒名が通説で「高源院玉誉妙顔大禅定尼」と比定されているのは、北条家過去帳の記載が根拠(下記リスト「平塚_北条家過去帳」タブ内、項番41)。

後北条氏関連人物過去帳

日牌 高源院玉誉妙顔大禅定尼  北条久太郎殿為曾祖母 寛永五戊辰六月十四日

ただ、これには疑問がある

  1. 院号の「高源院」は山木大方と同一。後北条家中での重複は他に例がない。
  2. 正確には「久太郎殿曾祖母」の戒名であり、氏規妻と限定できない。
  3. 「院」のあとに「殿」がない「大禅定」は、他に例がなく不自然。

3については恐らく、伝聞に基づいて不確かな戒名を記したか、「高源院玉誉妙顔禅定尼」もしくは「高源院玉誉妙顔大姉」の位階を強引に「大禅定尼」と変えたかではないかと推測している。父方・父方の曾祖母である氏規妻の戒名にしては、どうも他人事のような書き方だといえる。

「久太郎殿」は誰か?

この過去帳で「高源院」は「北条久太郎殿為曾祖母」となっている。北条久太郎殿が曾祖母のために位牌を立てたということだが、北条久太郎は二人存在する。

  • 氏勝の養子で玉縄北条家当主だった久太郎氏重(1595~1658年)
  • 氏規の孫で狭山北条家当主だった久太郎氏宗(1619~1685年)

過去帳に見られる「久太郎」記載の分布は1628(寛永5)年~1672(寛文12)年となっており、「高源院」記載が1628(寛永5)年6月14日でその最初に位置する。

氏重は1658年に亡くなっているから、久太郎は氏宗と見てよいだろう。

※北条家過去帳では「高源院」記述の後に「北条民部少輔氏重」(項番42)とあってなかなかにややこしいが、官途と命日(寛永十三年七月八日御命日)から見てこの氏重は氏盛の弟の方だろう。

北条氏宗の曾祖母は誰か?

簡単な図にしてみた。

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氏宗曾祖母のうち、素性が判るのは北条氏規の妻・船越景直の妻・佐久間盛次の妻。それぞれの可能性を検討してみる。

A)氏規の妻

 彼女が「高源院」であった場合、綱成の娘か氏規の妻、もしくは氏盛の母と書くはず。他の記載もすべて娘・妻・母の関係性で記述されている(「祖父」は1例。「祖母」はない)。北条家過去帳は江戸北条と狭山北条の両家があれこれ手を加えているが、狭山北条だけでなく、玉縄北条の嫡流を自認する江戸北条家にとっても、氏規妻の存在は重要である筈だから、異例の「曾祖母」とだけ書くとは思えない。また「院殿」とすべきところで「殿」とする誤記をするとも思えない。

 また、後北条家中で位が高かった山木大方(氏綱娘)の法名が「高源院」。このことは彼女の生前から文書で関係性があったことが確認できる。この名前をわざわざ綱成の娘につけるだろうかという強い疑問もある。

B)船越景直の妻

 寛政譜によると池田輝政被官の野田三右衛門の娘だという。父の祖母だから関係性として低くはない。ただ、彼女だった場合、Aと同じ理由で、氏盛の妻・氏信の母と書くのが普通だろう。やはり違和感がある。

C)佐久間盛次の妻

 寛政譜によると柴田勝家の姉だという。勝家は1522(大永2)年生まれなので、その姉となると明らかに世代が合わない。柴田家の誰か他の女性が盛次の妻だったとしても、あまりに情報が少なく判断が難しい。「氏信祖母」でもあるからそちらの記載が適切かとも見られる一方で、母方の系譜なので発起人である氏宗からみた係累を記述した可能性はある。

D)その他の女性

 さらに情報がないのは佐久間安政の妻で、勧修寺晴豊の娘(土御門氏)という情報がネット上にあったものの、根拠に乏しい。安政は一時期小田原にいたと寛政譜にあるため、小田原ゆかりの女性である可能性もある。何れにせよ判断するだけの材料がない。

 氏宗にしか関わりがないために父母・祖父母を飛ばして「曾祖母」にしたとすると、氏宗妻の曾祖母(氏宗から見て義理の曾祖母)であった可能性の方も捨てがたい。ところが、図にあるように妻の曾祖母を弔った可能性もあるかと調べてみたところ、氏宗の岳父である大久保幸信の妻がいきなり不明で、大久保と石川しか追えなかった。このどちらも、大久保忠世の妻とか、石川家成の妻とか書いた方が江戸期は箔がつくだろうから、言葉少なく「曾祖母」とだけ書いたのは不自然である。

 以上を勘案すると、父系のAとBは候補から外れ、Cの可能性がわずかにありつつ、全く不明な人物の方が有意に蓋然性が高いといえる。つまり、氏規の妻が高源院である可能性は候補者の中で最も低いことになる。