2017/04/20(木)家忠日記に出てきた着到

『家忠日記』にあった着到の情報を少し細かく見てみる。着到状ではなく日記内の記述なので色々と情報が足りないような気がするが、とりあえず。

又八家忠着到(天正6年11月11日・家忠日記)

駒澤大学の電子貴重書庫で原文を確認(冊1の38コマ目)家康よりちやくとうつけ被侍八十六人中間百二十六人鉄放十五(左に小さく:ハリ)弓六張鑓廿五本有鑓持三人

原文では「侍八十六人」とも「侍ハ(は)十六人」とも読めるためパターンをAとBに分けてみる。但し、「侍」の下に若干の余白があるのに改行している点から考えて、片仮名の「ハ」という可能性は低いように思うが念のため。

パターンA(合計261名)

割合
86 33%
中間 126 48.3%
鉄炮 15 5.7%
6 2.3%
25 9.6%
鑓持 3 1.1%

パターンB(合計191名)

割合
16 8.4%
中間 126 66%
鉄炮 15 7.9%
6 3.1%
25 13%
鑓持 3 1.6%

次に、延べ数表記ではなく、鉄炮・弓・鑓・鑓持が内訳表記だと想定してみる。この場合、人数は侍と中間で、その他は装備品の数、「鑓持」は備考追記という想定。

*パターンA' 212名(侍40.6%:中間59.4%)

*パターンB' 142名(侍11.3%:中間88.7%)

これを後北条氏の着到と比較してみる。

池田孫左衛門尉(天正9・戦北2258)

382.1貫文の着到=56名(うち112貫文は御蔵出)

割合
大小旗持 2 3.6%
指物持 1 1.8%
5(うち1が弓侍、4は弓持) 8.9%
歩鉄炮侍 3 5.4%
22 39.3%
馬上 20 35.7%
歩者 3 5.4%

上記を又八家忠の着到分類に近づけると以下になる。

割合
侍(馬上、歩鉄炮侍、弓侍) 24 42.9%
中間(旗持・指物持・弓持・歩者・鑓) 32 57.1%

侍と中間の率が池田孫左衛門尉と最も近いのはパターンA'。

単純に人数割りした一人当たりの役高は、池田孫左衛門尉の場合は@6.5貫文となり、当てはめると又八家忠の役高は1441.6貫文相当になる。後北条所領役帳でいうと松田憲秀の1768貫文に準じる程の禄となり違和感を感じる。最も人数の少ないパターンB'の人数でも923貫文で、清水康英の847貫文を上回る。役高設定の違いか、三河と関東での生産力の差か、その他の要因かは不明だが、興味深い相違。

ちなみに、パターンA'B'ともに、武装が49しかないので、中間77名が手明となる計算(61%)。後北条氏の着到での手明は42%(12人中5人)、24.3%(41人中10人)という例があるが、これと比較すると高い。後北条氏で必ずカウントされる旗持・指物持が明示されていないため、そう見えるのかも知れない。

武装数を弓・鉄炮・鑓で単純比較すると、又八家忠の方がバランスが良く見える。但し、後北条氏では小曾戸丹後守のように全体の74%を鉄炮が占める例もあり、一概には比較できない。

割合
又八家忠 49 (鉄炮31%、弓12%、鑓57%)
池田孫左衛門尉 30 (鉄炮17%、弓10%、鑓73%)