2017/09/24(日)織田信長は家臣の築城場所を決めていた?

織田信長から長岡藤孝への書状

奥野高広氏が『増訂織田信長文書の研究』で「信長の許可がなければ、その家臣は築城できない」ということを指摘している。

  • 増訂織田信長文書の研究下巻p526

    居城は新しく宮津に築きたいとの希望と、普請を急ぎたいとの上申を諒承した。そして「惟任光秀(光秀は丹波亀山城にあった)の方にも朱印状を発給したから相談をし、堅固に築城することが肝心である。」と指令し、次に十五日に大坂に行き、畿内地方の城郭の大略を破却した旨を附加している。宮津城は宮津市の東方宮津湾の湾首に位置している。信長の指示によって惟任光秀の方から人夫を多く送った(『丹州三家物語』等)。大名が居城を築くに当たっても信長の許可を要したことが看見される。そして畿内地方で城破りが実行されている。

ところが、その根拠となる文書を見てみると、そうは言っていないようにも受け取れる。

  • 増訂織田信長文書の研究0889「織田信長黒印状」(肥後・細川家文書二)

折紙披見候、仍其面之儀、無異儀之由、尤以珍重候、然者、居城之事、宮津与申地可相拵之旨、得心候、定可然所候哉、就其普請之儀、急度由候、則惟任かたへも朱印遣之候間、令相談丈夫ニ可申付け儀肝要候、次去十五日至大坂相越、幾内ニ有之諸城大略令破却候、漸可上洛候之条、猶期後音候也、謹言、
八月廿一日/信長(黒印)/長岡兵部太輔殿

お手紙を拝見しました。さてそちら方面のこと、異常はないとの由、ごもっともで素晴らしいことです。ということで居城のこと、宮津という地にお作りになるとの旨、心得ました。きっと適した所なのでしょうね。その普請についてお急ぎとの由、すぐに惟任方にも朱印状を送りましたから、相談していただき、頑丈に指示することが重要です。次に、去る15日に大阪へ行き、畿内にある諸城を大体破壊しました。何れ上洛するでしょうから、更に後の連絡を期します。

藤孝が信長に「宮津に城を築きます。急いで作りたいので物資徴発の許可を下さい」という連絡をしたのだろう。だから信長は応じて光秀にも助力の指示を出した。宮津に築城することを決めたのは藤孝であって、それを信長と情報共有はしているが、追認すら得ようとはしていない。

ここを詳しく見て、奥野氏が何故読み違えたのかを検討してみたい。

宮津与申地可相拵之旨、得心候

「与」は仮名の「と」と同じ。ここの「可」は命令という場合と、未来予測という場合、両方で解釈が可能だが、この後の「得心候」がここで変わってくる。

宮津という地にお作りになるべきとの旨、心得ました。

  1. 宮津という地にお作りになるようにとの旨、決裁しました。
  2. 宮津という地にお作りになるだろうとの旨、承知しました。

どちらかはまだ決められないのだが、しかし次の文で信長は重要なことを書いている。

定可然所候哉

「定」は「定而」の略で「明らかに・必ずや・きっと」。「可然所=しるべき所」はより適した場所を指す。これに「哉」で疑問形にしている。自問しているような形で「~なのだろうね」という言い回しでも使う。

つまり、独り言のように「きっといい場所を選んだんだろうなあ」と書いている。宮津築城が信長の指示によるものだとしたら、この書き方はおかしい。たとえば藤孝が宮津築城を申請して信長が決裁するのだとしても、無責任な言い方になってしまう。

そもそも信長が行なった具体的支援は普請へのリソース確保だけで、強力な統制をかけたとはとても言えない。近世に行なわれた「一国一城令」や、徳川家の大名統制を念頭に置いて読んだために、奥野氏の解釈は偏ってしまったのではないか。

北条氏政の場合

最後に、北条氏政が猪俣邦憲に出した書状を見てみる。ここで氏政は「状況が判らなくて不審だ」「兵数が足りていないだろうから、普請を安心してやらせるために、真田は置くな」「絵図に描いて再度報告しろ」と書いている。

  • 戦国遺文後北条氏編3446「北条氏政書状」(東京大学史料編纂室所蔵猪俣文書)

書状具披見候、なくるミへ矢たけ之権現山取立儀、難成子細候、度ゝ模様不審ニ候、留守中ニ而、自元人衆も可為不足候、普請心易させて、真田者置間敷候、如何様之品ニ候哉、委細ニ成絵図、重而早ゝ可申越候、一段無心元候、謹言、
卯月廿七日/氏政(花押)/猪俣能登守殿

これに比べれば、先の信長の書状は放任に近いようなものだろう。