2018/04/07(土)興津摂津守の行動
興津摂津守の活動履歴
1562(永禄5)年
最初の登場は遠州大坂の新船に関する判物。今川氏真から貰っている。
1月11日
遠州大坂之内知行浜野浦爾繋置新船壱艘之事
右、於諸浦湊諸役并船役舟別、為新給恩永令免許畢、不準自余之条、役等一切不可有之、同立使肴買等不可申懸之、雖然海賊惣次之時者、櫓手役可勤之者也、仍如件、
永禄壬戌年正月十一日/氏真判/興津摂津守殿
- 戦国遺文今川氏編1786「今川氏真判物写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂所収興津文書)
1568(永禄11)年
年月日全てが失われている書付のような文書だが、文面から永禄11年12月の武田方侵攻を受けてのものと推測される。この時は氏康が活動を評価しているが、氏真についての言及もある。
月日未詳
其地昼夜其[共]走廻由候、誠御忠節候、弥被尽粉骨此時候、氏真御本意上者、御褒美儀、必可申立候、為其及一札候、恐ゝ謹言、
月日欠/氏康(花押影)/興津摂津守殿
- 戦国遺文今川氏編2243「北条氏康書状写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂所収興津文書)
1569(永禄12)年
年頭になると興津摂津守の知行80貫文が武田方に接収され、その後で安東織部佑に下されている。
1月11日
定
一、八拾貫文、興津摂津守分、河辺村
一、五拾五貫文、糟屋弥太郎分、瀬名川
一、参拾六貫文、糟屋備前・三浦熊谷分、細谷郷
一、五拾貫文、由比大和分、鉢谷
一、百弐拾貫文、本地、菖蒲谷
都合参百五拾貫文
今度朝比奈右兵衛大夫忠節之砌、令用心瀬名谷江被退条神妙之至候、仍如此相渡候、猶依于戦功可宛行重恩者也、仍如件、
永禄十二己巳年正月十一日/信玄(花押)/安東織部佑殿
- 戦国遺文今川氏編2242「武田晴信判物」(高橋義彦氏所蔵文書)
その後の3月に出された書状は差出人が不明で、戦国遺文では後北条の誰かだと推測している。
3月23日
城中自始馳走感悦也、弥忠節奉公不可有由断由肝要候、然者同名将監跡職、被官給共、知行分宛行所不可有相違候也、仍如件、
三月廿三日/差出人欠/興津摂津守殿
- 戦国遺文今川氏編2244「北条某書状写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂所収興津文書)
再び氏真からの書状に戻る。朝比奈泰朝とともに活動しているのが判る。
12月18日
就今度不慮之儀、当城相移之処、泰朝同前、不準自余令馳走之段忠節也、然者本地之儀者不及是非、急度可加扶助之旨、備中方へ以自筆雖申付之、弥不可有相違、猶於走廻者、別而可令扶助候、謹言、
巳十二月十八日/氏真判/興津摂津守殿
- 戦国遺文今川氏編2434「今川氏真感状写」(諸家文書纂所収興津文書)
年未詳
恐らくは永禄12年の3月に出された氏真書状。興津氏が美濃入道・与右衛門・摂津守らが結束して活動しているのが判る。
3月吉日
就所用、諸事同名摂津守鶴見可致馳走之由内義、太不準自余、奉公役申付候段、調 祝着由可申候也、かしく、
三月吉日/(花押影)/興津美濃入道殿・同与右衛門殿
- 戦国遺文今川氏編2651「今川氏真書状写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂八所収興津文書)
2018/04/07(土)北条氏規と朝比奈泰寄
1568(永禄11)年の駿府陥落に際しての行動が、岡部和泉守と似ているのが朝比奈泰寄(甚内・右兵衛尉)。2人は北条氏規に同行して駿河を西進したのだろうと思われる。
親族が氏真と共に懸川城にいながら、北条氏規の奉者となっている。
岡部和泉守:父の大和守が懸川籠城、兄弟の次郎兵衛尉は武田方へ。
朝比奈泰寄:兄弟の泰勝が懸川籠城、兄弟の四宮泰雄は戦死しその妻子は甲府へ。
ところがその後の動向は大きく異なっている。
岡部和泉守が北条氏政・氏康に直接指示されて最前線を転戦。その後は正式な知行を得られず断絶している。
一方で朝比奈泰寄はそのまま氏規被官となる。3月26日には四宮泰雄の妻子引き取りについて今川氏真から指示を受けているが、翌月には氏規朱印を伊豆の多賀郷に発している。多賀は熱海南方なので前線ではない。
その後も引き続き氏規被官として活躍して、氏規次男辰千代の陣代も務めている。
1568(永禄11)年
12月15日
龍雲院は沼津地域。岡部和泉守が同じく氏規奉者を務めた禁制(12月18日付)は吉原地域が対象。
制札
右、今度加勢衆濫妨狼藉不可致之、当方為御法度間、於背此旨輩者、急度注進可申候、其上可被加下知者也、仍如件、
辰十二月十五日/(朱印「真実」)朝比奈甚内/多肥龍雲院
- 戦国遺文後北条氏編1122「北条氏規制札」(龍雲院文書)
1569(永禄12)年
3月3日
四宮泰雄が戦死した後を受けて、敵地にいる子供から1人を引き取って相続させるように、今川氏真が朝比奈泰勝に指示しているが、その際に子供が幼少の間は泰勝、もしくは泰寄が名代を務めるようにと書き添えている。
四宮惣右衛門尉宛行知行分并同心給屋敷等之事
右、彼実子雖有兄弟之、未敵地仁取置之間、令馳走両人、一人引取一跡可申付、雖然幼少之間者、泰勝可相計、但於可致甚内相越名代之儀之者、可任其儀、兼又同心之儀及異儀者、如先判可加下知、被官以下者泰勝可為計者也、仍如件、
永禄十二年三月三日/氏真(花押)/朝比奈弥太郎殿
- 戦国遺文今川氏編2299「今川氏真判物」(国立国会図書館所蔵武家文書所収)
3月26日
於大平之郷出置福島伊賀守代官給百貫文事。右、如伊賀守時不可有相違、惣右衛門尉今度遂討死、致忠節為跡職之間令馳走、自甲府妻子於引取者、彼郷ニ而堪忍之儀可申付、并陣夫参人於徳倉・日守郷可召遣之者也、仍如件、
三月廿六日/文頭に(今川氏真花押)/朝比奈甚内殿
- 戦国遺文今川氏編2324「今川氏真判物」(鎌田武勇氏所蔵文書)
4月24日
多賀郷代官・百姓ニ其方借シ置候兵粮、何も難渋不済之由申上候、厳密催促可請取候、於此上も不済候ハゝ、急度可遂披露候、得上意其科可申懸候、人之物借済間敷、御国法無之候、如証文鑓責候て可請取者也、仍如件、
己巳卯月廿四日/(朱印「真実」)朝比奈兵衛尉奉之/岡本善左衛門尉殿
- 戦国遺文後北条氏編1201「北条氏規朱印状」(岡本善明氏所蔵文書)
1570(永禄13/元亀元)年
2月12日
鴨居之郷観音堂寺中竹木切取事、堅可令停止并号飛脚押立与出家役等、向後不可申付、諸条狼藉等遂申者於有之者、自今以後者注交名可申上者也、仍如件、
永禄十三年庚午二月十二日/御朱印・朝比奈甚内奉之/観音寺別当
- 戦国遺文後北条氏編4686「北条氏規朱印状写」(諸国高札二)
1571(元亀2)年
7月15日
急度飛脚被遣候、則披露申候、仍今度之御動之儀、無比類被成様共前代未聞之義、従 殿様此段具可被仰下候へ者、御城爾于御座候間、寸之御透も無之候間、此趣我ゝ方巨細申候得由、御意ニ候、猶自今之義者海上動所ハ一円御父子へ被相任候由、堅御意ニ候、於我等満足此事ニ候、弥ゝ御走廻肝要ニ候、 御本城様其煩于今爾候旨、無之候間、何様昼夜御詰城被成候間、御障無之候、拙者も韮山之番被仰付候、有御用一昨日此方へ罷越候、明後日罷越候、重而御用候者、六郎大夫ニ可被仰渡候、何事も近内口上ニ申候間、早ゝ申候、恐ゝ謹言、
七月十五日/朝甚泰寄(花押)/山信・同新御報
- 戦国遺文後北条氏編4059「朝比奈泰寄書状」(越前史料所収山本文書)
1574(天正2)年
11月20日
「六大夫」とあるのは「六郎大夫泰之」で、泰寄の後継者(子弟)と見られている。
奉建立鹿島御宝前
大檀那朝比奈六大夫敬白。相州三浦須賀郷之内、逸見村百姓中并代官、今■■■当大夫宮内丞
当大工山内六郎左衛門、当鍛冶小松原満五郎
于時天正甲戌年閏霜月廿日、諸願成就、皆令満足、筆者平朝臣賢清、
古記録
- 戦国遺文後北条氏編1748「鹿島社棟札銘写」(新編相模国風土記稿三浦郡逸見村之条)
1576(天正4)年
9月11日
出家した今川氏真が朝比奈泰勝の労をねぎらった際に、泰寄にも宜しく相談するようにと指示している。
万々渡海之儀辛労ニ候、然者家康申給候筋目於相調者、一段可為忠節候歟、甚内方へ能々可申計候也、仍如件、
九月十一日/宗誾(花押)/朝比奈弥太郎殿
- 戦国遺文今川氏編2584「今川氏真判物」(神奈川県川崎市・鎌田武男氏所蔵文書)
1577(天正5)年
4月6日
仰出之条ゝ
一、山本左衛門尉就進退不成、参拾貫文之所十年期ニ売度由、尤相心得候事
一、伊豆奥就手遠、三浦之在陣走廻も不成之由、知行替之侘言任存分候、別紙ニ書付被下候事
一、知行役之儀、参■■■■十年期明間者■■■■可致之事
右、如此之条ゝ雖為有間敷子細、信濃入道者自前ゝ忠信至于今走廻、子ニ候左衛門太郎者於眼前討死、忠信不浅候、只今太郎左衛門尉事者、乍若輩海上相任無二走廻之間、全人之引別ニ不成之候、依之如申上御納得被仰出候、弥抛身命可走廻段、可為申聞太郎左衛門尉者也、仍如件、
丁丑卯月六日/(朱印「真実」)朝比奈右兵衛尉奉之/山本信濃入道殿・同太郎左衛門尉殿
- 戦国遺文後北条氏編4721「北条氏規朱印状」(越前史料所収山本文書)
8月20日
北条氏規が陸奥の遠藤基信と連絡を取った際に、泰寄が間に入っている。「不思議之得便宜」とあり、もしかしたら泰寄が基信と先に知り合ったのかも知れない。
乍卒爾之儀、企一翰意趣者、貴国之儀年来承及候、去春不思議之得便宜、朝比奈右兵衛尉ニ内意申付、貴殿御事承及候間申届候処、此度態以飛脚御報候、遠国之儀寔御真実之至本望忝候、抑貴国与当国可被仰合筋目念願候、両国於御入魂者、天下之覚相互之御為不可過之候歟、有御塩味御取成肝要候、於当国者乍若輩涯分可令馳走候、委細右兵衛尉可申入間令省略候、恐ゝ謹言、
八月廿日/氏規(花押)/遠藤内匠殿参
- 戦国遺文後北条氏編1936「北条氏規書状」(斎藤報恩博物館所蔵遠藤文書)
1587(天正15)年
3月21日
改進置知行
弐百貫文、知行辻
此出所
百六拾五貫三百十四文、小磯夏秋
卅四貫六百八十六文、蔵より可出
此上弐百貫文
右、龍千代陣代被走廻付而、如此進置候、陣番無患可被走廻者也、仍如件、
天正十五丁亥三月廿一日/氏規(花押)/朝比奈兵衛尉殿
- 戦国遺文後北条氏編3067「北条氏規判物」(朝比奈文書)
入間・指田・落合・山根替進置分
百貫文、知行辻。此出所
七拾六貫五百六十六文、白子
廿三貫四百卅四文、蔵より可出
以上、百貫文
右之知行之替進置候、毎年如此可有所務者也、仍如件、
天正十五丁亥三月廿一日/(朱印「真実」)/朝比奈兵衛尉殿
- 戦国遺文後北条氏編3068「北条氏規朱印状」(朝比奈文書)
1588(天正16)年
5月24日
任望下一宮百卅七貫百五十余、白子ニ取替進候、自戊子夏可有所努候、伊豆奥之不足銭此内ニて進候而も、廿貫余過上ニ候へ共、少之事候間其報進候者也、仍如件、
戊子閏五月廿四日/氏規(花押)/朝比奈右兵衛尉殿
- 戦国遺文後北条氏編3327「北条氏規判物」(朝比奈文書)
1592(天正20/文禄元)年
3月15日
知行方
弐百石、丈六
三百石、南宮村
以上五百
右、従 関白様被下知行ニ候間、進之候、其方之事者、はや三十余年一睡へ奉公人御人ニ候、我ゝニも生落よりの指引、苦労不及申立候、就中、小田原落居以来之事、更ゝ不被申尽候、一睡同意存候、存命之間、何様ニも奉公候而可給候、進退之是非ニも不存合御身上与存候得共、若ゝ我ゝ身上於立身者、何分ニも随進退、可任御存分事不及申候、為其一筆申候者也、仍如件、
天正廿年壬辰三月十五日/文頭(北条氏規花押)・氏盛(花押)/朝比奈兵衛尉殿
- 戦国遺文後北条氏編4322「北条氏規袖加判・北条氏盛判物」(朝比奈文書)
年未詳
6月30日
北条氏規から成田氏長への使者として泰寄が動いている。また、氏規を介して徳川家康からの進物を与えられている。
遥ゝ在御音信与従濃州預御使候、殊従家康被進物数多被懸御意候、寔畏入存斗候、内ゝ従此方も節ゝ雖可申達候、韮山為御番御在城、御帰府之時分を不存知候間、御無沙汰申、本意之外候、可然様御心得任入候、仍自貴所も鯨一合給候、御志即賞翫申候、何様従是可申述候、委細者福長頼入候、恐ゝ謹言、
六月晦日/成下氏長(花押)/朝兵御宿所
- 戦国遺文後北条氏編4190「成田氏長書状」(荻野仲三郎氏所蔵文書)
8月5日
朝比奈泰之は、泰寄の後継者と見られる。
雖未申通候、一筆令啓入候、仍南条因幡守在陣ニ候之候間、拙者委曲可申達候由、氏規被申付候、然者石塔又日牌銭之末進之儀、弐拾参貫文、今度慥御使僧ニ渡置申候、重而御便宜ニ御請取候段、御札可蒙仰之、并毎年百疋并御返札是又慥此御使僧ニ渡申候、猶以重而之御便宜ニ右之分御請取之由、御札待入申候、委曲期来信之時候、可得尊意候、恐惶敬白、
八月五日/朝比奈六郎大夫泰之(花押)/高室院参御同宿中
- 戦国遺文後北条氏編4060「朝比奈泰之書状写」(集古文書七十六)