2017/09/24(日)戦国期の「嗜」の意味

後北条氏の例

個別の用例

被官に知行を宛行う際に、厳密な嗜みを求めたものがある。

  • 戦国遺文後北条氏編0506「北条家朱印状写」(相州文書所収大住郡武兵衛所蔵文書)

    伊波知行之書立。百九拾壱貫五百文、富田九拾壱貫六百文、生沢七拾壱貫文、宮分四拾九貫六百卅二文、杉崎分卅九貫百文、千津嶋之内、三浦分、以上四百四拾弐貫八百卅二文、此人数廿八人、此内六騎馬乗、大学、廿八人、同、修理、以上五十六、此内十二騎馬乗、右、人衆之嗜、如此可致、毎陣両人互相改、厳密ニ可申付、少人衆不定、又者武具以下嗜至于無之者、其者を払、後年ニ者一人ニ可申付者也、仍如件、
    弘治二年丙辰三月八日/(虎朱印)/伊波大学助殿・同修理亮殿

ここで「人衆之嗜」とあるのは、決められた動員数を揃えることを指す。次にある「武具以下嗜」は武装品を用意することを指している。この「用意」が数を示すものか、内容(外見・稼動可能性)を指すのかはここでは不明。

次に、大藤式部丞が着到定を出されたものを見る。この時は武田晴信との合同作戦が想定されていて、より厳密な規定が下されている。

  • 小田原市史小田原北条0504「北条家朱印状」(小田原市立図書館所蔵桐生文書)

    今度甲州衆越山儀定上、当月中必可被遂対談、然者人数之事、随分ニ壱騎壱人成共可召寄、并鑓・小旗・馬鎧等致寄麗此時一廉可嗜事。一、本着到、百九十三人也、此度四十四人不足、大藤、本着到、七十四人也、此度三十五人不足、富嶋、本着到、五十四也、此度二十八人不足、大谷、本着到、八十壱人也、此度三十一人不足、多米、本着到、六十人也、此度廿二人不足、荒川、本着到、卅人也、此度七人不足、磯、本着到、廿二人也、此度無不足、山田、本着到不足之処、如何様ニも在郷被官迄駆集、着到之首尾可合事、一備之内ニ、不着甲頭を裏武者、相似雑人、一向見苦候、向後者、馬上・歩者共、皮笠にても可為着事、右、他国之軍勢参会、誠邂逅之儀候、及心程者、各可尽綺羅事、可為肝要者也、仍如件、
    十月十一日/(虎朱印)/大藤式部丞殿・諸足軽

「この時だからこそ一層嗜むように」という指示の前には「一騎一人でも集めよ」という動員数での要望と「鑓・小旗・馬鎧などを美麗にせよ」という武装の外見向上の要望がある。恐らくこの2項目をまとめての嗜みなのだろうと考えられる。動員数については、この後の文で「前回動員時に不足していた人数」が事細かに書き出されている。

動員数厳守・武具美麗のほかの用途もまだあって、息子に「嗜みがなければ話にならない」と諭す氏康の書状もある。

  • 埼玉県史料叢書12_0362「北条氏康書状写」(新田文庫文書)

    (抜粋)一、矢鉄炮用所候由候、無際限召仕候、一疋一腰も不入候、何とて嗜無之候哉、不及是非候

この場合、氏邦からの矢・鉄炮の要請に対して「際限なく使うからだ、馬1疋、太刀1腰も入れられないとは、どうにも嗜みのないことだろうか。是非に及ばない」とある。前文が切れていて正確な情報は確定できないが、武具の数的準備不足を「嗜無之」としている。

一方で、武具については「稼動可能にするため」もしくは「外見を整えるため」のメンテナンスを嗜みとする例が多い。

  • 戦国遺文後北条氏編1696「北条氏邦朱印状」(逸見文書)

    (抜粋)いか様ニも兵粮を嗜

  • 戦国遺文後北条氏編1923「北条家諸奉行定書」(豊島宮城文書)

    (抜粋)無嗜ニてさび、引金以下損かつきたる一理迄之躰、以之外曲事候

  • 戦国遺文後北条氏編3237「北条氏照朱印状写」(武州文書所収多磨郡木住野徳兵衛所蔵文書)

    (抜粋)天下御弓矢立の儀ニ候間、諸待之嗜此時候、鑓・小旗を始、諸道具新敷きらひやかに可致事

前述した大藤式部丞での例では、着到で定めた定員を厳守することが嗜みだったが、これに加えて「嗜み」として自発的に動員することも指していて例が多い。

  • 戦国遺文後北条氏編2316「北条氏邦朱印状写」(彦久保文書)

    (抜粋)秩父差引之外嗜

  • 戦国遺文後北条氏編3380「権現山城物書立写」(諸州古文書十二武州)

    (抜粋)新左衛門尉嗜

  • 戦国遺文後北条氏編3790「北条家朱印状」(大阪城天守閣所蔵宇津木文書)

    (抜粋)着到之外、少ゝ相嗜

  • 戦国遺文後北条氏編3229「北条氏政着到書出写」(井田氏家蔵文書)

    (抜粋)来春夏之弓箭専一之間、縦五十人之間ニ候共、着到之外被相嗜者、可為真実之忠信候

  • 戦国遺文後北条氏編3261「北条氏忠朱印状写」(諸州古文書五)

    (抜粋)然者着到之人衆之儀者不及沙汰、此時ニ候間一騎一人も相嗜可走廻

まとめ

  1. 動員数の厳守
  2. 武具の数値的準備
  3. 武具のメンテナンス確保
  4. 規定動員数以外の動員

後北条以外の例

葛山氏元の場合

後北条氏の例で分類した、武具の数値的準備を指していると思われる。但し、100貫文を宛行って具足・馬などの嗜みを求めるが、数値は決めていない。

  • 戦国遺文今川氏編0959「葛山氏元朱印状」(沼津市獅子浜・植松松徳氏所蔵文書)

    今度尾州へ出陣ニ、具足・馬以下嗜之間、自当年千疋充可遣之、弥成其嗜可走廻者也、仍如件、
    天文十九年庚戌八月廿日/(朱印「万歳Ⅰ型」)/植松藤太郎殿

これは相手によって要望が制限されているようで、後北条氏もこの植松藤太郎には厳密な数値は決められなかった。

  • 戦国遺文今川氏編2395「北条家朱印状」(沼津市獅子浜・植松文書)

    五十貫文、給。此内、廿五貫文、段銭にて被下。廿五貫文、於神山之内給田ニ被下。右員数、葛山一札之任筋目遣之候、無相違可請取、猶弓矢方相嗜走廻次第、可被重御恩賞者也、仍如件、
    巳閏五月十四日/(虎朱印)/植松右京亮殿

念のため同じ時期の清水新七郎宛のものを見ると、きっちり軍役の賦課数が決まっていた。これは清水が既に後北条被官だったからで、植松の場合は今川被官との両属状態にあったためだと考えられる。

  • 戦国遺文後北条氏編1233「北条氏政判物写」(高崎市清水文書)

    感状之知行書立之事、千八百七拾四貫文、葛山領佐野郷弐百貫文、ゝ、葛山堀内分百貫文、ゝ、清五郷以上弐千百七拾四貫文此内、千貫文 先日感状之地、千七拾四貫文、一騎合百六騎但、壱人拾貫文積、百貫文、歩鉄炮廿人。右、以今度之忠功如此申付候条、父上上野守走廻間者別様ニ致立、其方一旗ニ而可取、以恩賞之地致立人数、可及作謀者也、仍而状如件、
    永禄十二己巳壬五月三日/氏政公御有印綬有/清水新七郎殿

明智光秀の場合

光秀は被官の野村七兵衛尉の戦功に対して「勝利したのは連綿と嗜んだから」と賞している。この嗜みは、後北条でいう動員数厳守を指すように見える。

光秀についてはもう1例ある。

  • 八木書房刊明智光秀039「明智光秀書状写」(松雲公採集遺編類纂・野村文書)

    今度者、各依粉骨得勝利候、連々嗜之様現形候、仍疵如何候哉、時分柄養生簡要候、早々可越候之処、爰元取乱遅々相似疎意候、尚追々可申候、恐々謹言、
    九月廿五日/十兵衛尉光秀(花押)/野村七兵衛尉殿

これは家中軍法で触れられた「嗜」で、着到定めの定員を決めた後に「さらに相嗜みは寸志でも見逃せない」となっている。「寸志」の他例が手持ちになくて、現代語と照合すると規定外動員の推奨にもとれる。但しこの後に、分際(恐らく動員数)に満たない者は応相談としている。

このことから、一先ずは動員数の厳守と規定外動員の推奨を兼ねた文言だと考えておきたい。

蛇足だが、これに続けて「外見を省みないとは言ったが~」と書かれていて、事実、後北条のように軍備の美麗さや寸法などは規定にないことから、光秀の軍はこの辺はバラバラだったと考えられる。

  • 八木書房刊明智光秀107/108「明智光秀家中軍法」

    (抜粋)猶至相嗜者寸志も不黙止、併不叶其分際者、相構而可加思慮、然而顕愚案条々雖顧外見、既被召出瓦礫沈淪之輩、剰莫太御人数被預下上者、未糺之法度、且武勇無功之族、且国家之費頗以掠 公務、云袷云拾存其嘲対面々重苦労訖、所詮於出群抜卒粉骨者、速可達 上聞者也

2017/08/31(木)刀の贈答(馬の参考例つき)

贈答品としての刀

書面に現れた説明

贈呈された刀がどのようなものだったかを調べてみた。まずはその表記。単に「刀一腰」とだけ書かれたものが多かった。それだけ贈答品として気軽にやり取りされていたものだと思われる。

何も説明されていないものが21件。

これは無銘のものだったのか、記載していないだけで銘はあったのか、状況が不明。

刀鍛冶の名前が14件

このうちで助長・景光は各2件あったが、他は各1件でバラバラ。

  • 助長・助光・助包・景光・長光・正宗・末行・末紀・師光・盛光・国重・秋広
  • 助光・国重の刀では説明に「金覆輪」とある

基本的に刀鍛冶の名前で価値を計っていたのかと思われる。金覆輪を記したものは2件に留まっていて、それよりも来歴(誰がどう所持していたか)に大きな付加価値があるような感じがする。

俗称が3件

  • 岩切丸・菊一文字・一文字 ※岩切丸と一文字は要検討

刀の状況についての説明

1557(弘治3)年比定の氏康書状写では、父の氏綱がずっと離さず持っていた秘蔵品「菊一文字」を贈呈している。これは、豊前山城守が重要人物を医術で救ったことを賞してのもの。

今度彼病者、療治手尽既事極処、以良薬得減気、打続本覆之形ニ被取成候、誠不思議奇特、於愚老大慶満足不過之候、 鎌倉様へも意趣具可言上候、於東国御名誉不及是非存候、仍刀菊一文字、氏綱不離身致秘蔵候、此度進置候、猶遠山左衛門尉可申候、恐々謹言、
八月廿日/氏康(花押)/宛所欠(上書:豊前山城守殿 氏康)戦国遺文後北条氏編1092「北条氏康書状写」(豊前氏古文書抄)

1566(永禄9)年比定の氏政書状写では、同じく豊前山城守に対して息子も同じような状況で謝意を告げ正宗作の刀を贈っている。この際に「ずっと離さず持っていた」と書いている。

今度彼煩諸医者失行、既不可有存命由存処、貴辺以御療治得験気、平癒候、誠奇妙不浅次第候、於氏政厚恩不知謝所候、仍刀一[正宗]、久令所持不離身候、并黄金卅両、進之候、委細猶助五郎可申候、恐々謹言、
十月十一日/氏政/宛所欠
戦国遺文後北条氏編0985「北条氏政書状写」(豊前氏古文書抄)

1571(元亀2)年に垪和氏続が興国寺城で大活躍した際にも、氏政は秋広作の刀を贈っていて、こちらも「久しく所持」としている。

今度興国寺へ敵忍入、数百人本城江取入候之処、其方自身打太刀、敵於仕庭五拾余人被討捕、城内堅固、前代未聞之仕合、戦功無比類、誠感入計候、此度本意之上、進退可引立候、仍刀一[秋広]、久所持之間、進之候状如件、
元亀二年辛未正月十二日/氏政(花押)/垪和伊予守殿
小田原市史小田原北条1000「北条氏政感状写」(垪和氏古文書)

一方で要検討なのが以下の2つ。

今度高天神之一陣契約相整、令大慶訖、就中申談意趣被及同心満足候、依之為労芳志、刀一腰岩切丸贈之、猶期後音候、
天正八年八月十六日/御判/笠原新六郎殿
戦国遺文後北条氏編4490「徳川家康書状写」(紀州藩家中系譜)

上記のように「岩切丸」という俗称を用いた例はない上、伝来を追っても怪しい点が多い。

昨十日円能口敵相動処、最前ニ及仕合、敵五人討捕、殊自身致高名候、誠無比類感悦候、刀一一文字遣之候、弥可走廻候、仍状如件、
永禄十二年己巳七月十一日/氏政(花押)/宛所欠小田原郷土文化館研究報告No.42『小田原北条氏文書補遺』p27「北条氏政感状」(海老原文書)

こちらは文面がおかしいという訳ではなく、5名討捕の感状で一文字の刀を贈ったりするだろうかという疑問。氏康が豊前山城守に菊一文字を贈ったのは、足利晴氏室(芳春院殿)を救命し、後北条と古河公方の紐帯を確保したからで、局地戦での奮闘とはレベルが異なる。一文字の刀の割には来歴についても触れられてtおらず、不審である。

贈答馬の場合

馬では刀と違って毛色が重視され必ず書かれていたようだ。毛色を記載していないのは1例しかなかった。

  • 鹿毛×3
  • 栗毛×2
  • 河原毛
  • 青毛
  • 白馬
  • 黒馬
  • 表記なし「馬一疋」

特殊な例では、1556(弘治2)年に北条氏康が足利義輝に馬を献上した際のものがある。

就御馬速道御用之由、 上意去年被差下孝阿候、奥口ニも折節可然御馬無之候、雖然不勝黒一疋印十文字・糟毛一疋無紋、致進上候、可然様御披露所仰候、猶孝阿弥可為演説候、恐ゝ謹言、
正月廿日/氏康(花押)/謹上大館左衛門佐殿(上書:謹上大館左衛門佐殿 左京大夫氏康)
戦国遺文後北条氏編0502「北条氏康書状写」(類従文書抄)

ここでは毛の色だけでなく紋も書き込まれている。今川氏真が馬の献上をした際には紋までは書いていないので、ここにどのような意味合いがあったかは不明。

小倉内蔵助所持之馬鹿毛事、于今有之儀候哉、先々以来聞及候条、於差上者、尤可為満足候、猶量忠可申候也、穴賢、
永禄四年十月十三日/御判/今川上総介殿
戦国遺文今川氏編1757「足利義輝御内書写」(小倉文書)

2017/08/17(木)遠山康光の実像

2009(平成21)年のNHK大河ドラマ『天地人』で過剰な悪役演出をとられ、またWikipediaの記述も現在停止中となっている遠山康光について、その実像に近い情報を掲出してみたいと思う。

武蔵遠山氏の概要

『北条早雲と家臣団』『後北条氏家臣団人名辞典』より、まとめてみる。

この氏族は、幕府奉公衆だった美濃国明智景保の嫡男直景が堀越公方の足利政知に従って伊豆に行き、後に伊勢宗瑞に仕えたのが始まりという。美濃遠山庄は、天竜寺香厳院に1460(寛正元)年に寄進されており、この香厳院は足利政知が入院したことがある。この縁で同行したのだろう。遠山直景というと、江戸衆を率いて第1次国府台合戦に勝利した功績が大きく取り上げられるが、実態としては内務官僚であり、寺社や古河公方との折衝も務めた。

直景の嫡男綱景は父の活動を継承し、鎌倉代官も務めて江戸城代・葛西城主となる。しかし1564(永禄7)年1月の第2次国府台合戦で嫡男隼人佑とともに戦死。この辺りから遠山氏の影響力は低下し始めていく。

遠山康光の出自

康光は綱景の弟で、氏康側近となり『康』の偏諱を受ける。官途名は左衛門尉で略称が「遠左」。仮名、生没年は不詳。嫡男は新四郎康英で、官途は同じ左衛門尉。康英の息子が新次郎直吉なので、康光の仮名は「新~郎」だった可能性がある。

妻は三郎景虎の母(氏康側室)の姉だと伝わる。これは恐らく系図からの引用だと思われるが、ごく普通に考えれば康光の義妹が氏康側室だったというより、綱景・康光の妹が氏康の側室になったと理解した方が、綱景の母である「まつくす」が氏康・宗哲と並んで氏康室を気にかけていたこととも自然に連携できる。

生年は伝わっていないが、1544(天文13)年には外交交渉を担っていること、永禄初年に息子の康英が活動を開始していることから考えると、氏康とほぼ同年代か少し上かと思われる。

康光のように有力被官の分家が当主側近をつとめた例は、ほかに笠原康明・垪和康忠・大道寺直昌がある。彼らは本家筋との関係よりも、側近としての活動内容が多いのが特徴。

特に遠山康光は、それまでの大道寺盛昌・石巻家貞といった軍政両面を見た第一世代から分離して、当主のエージェントをしての色合いを帯びた最初の人物といえるだろう。

笠原康明・大草康盛が永禄初年、康忠が永禄12年に登場したことを考えると、天文20年には活動し始めていた康光は彼らの先駆的存在で、のちに安藤良整・板部岡融成・幸田与三などの官僚的奉者制度を具現化した人物ともいえる。

虎朱印状の初期奉者

虎朱印状に出てきた最初の奉者は康光の父である直景。その後で康光も登場していることから、内務官僚・側近としての職務は、兄の綱景ではなく康光が継承したと判る。

  • 1522(大永2)年09月11日 遠山[直景]・奉之戦北0052「伊勢家朱印状」(三島神社文書)

  • 1523(大永3)年3月12日 奉者・遠山[直景](花押)戦北0055「伊勢家朱印状」(長慶寺文書)

  • 1533(天文2)年3月18日・石巻勘解由左衛門[家貞]・奉戦北0105「北条家朱印状写」(弘明寺文書)

  • 1553(天文22)年閏1月19日・大道寺源六[周勝]・奉之戦北0431「北条家朱印状」(仏日庵文書)

  • 1553(天文22)年4月1日・遠山左衛門尉[康光]・奉之戦北0437「北条家朱印状写」(武州文書所収比企郡永福寺文書)

  • 1554(天文23)年10月06日・大道寺駿河守[周勝]・奉之戦北0472「北条家朱印状」(小幡洋資氏所蔵文書)

弘治年間になると多様な奉者が登場してくるが、その前段階では奉者は選ばれた少数の者しかいない。

改めて史料から追ってみる

遠山康光の文書初出は1551(天文20)年。

  • 「巳年遠山左衛門尉駿府へ被遣候」(戦北405「清水康英屋敷売券写」)

巳年は天文13年で、駿府の今川氏と小田原の後北条氏は交戦状態にあった。但し、翌年11月に武田晴信が「北条事御骨肉之御間、殊駿府大方思食も難斗候条、一和ニ取成候」(戦今783)と言及しており、難航はしているものの、今川・後北条間の和睦の案件があり、それで駿府に向かったのだと思われる。後北条が一方的に押されている状況で敵国本拠に乗り込んだことは、康光の交渉能力を氏康が大いに買っていたことを示すだろう。

1557(弘治3)年比定の北条氏康書状では、某(晴氏室?)の危篤状態を救った豊前山城守に感謝の意を伝える使者として名前が出ている。古河公方が絡んでいること、この時に氏綱秘蔵の太刀を贈呈していることを考えると、康光が儀礼と外交の両方に通じているからの起用だったかと思われる。

今度彼病者、療治手尽既事極処、以良薬得減気、打続本覆之形ニ被取成候、誠不思議奇特、於愚老大慶満足不過之候、 鎌倉様へも意趣具可言上候、於東国御名誉不及是非存候、仍刀菊一文字、氏綱不離身致秘蔵候、此度進置候、猶遠山左衛門尉可申候、恐々謹言、
八月廿日/氏康(花押)/宛所欠(上書:豊前山城守殿 氏康)
戦国遺文後北条氏編1092「北条氏康書状写」(豊前氏古文書抄)

軍事的な活動としては、1558(弘治4)年には浦賀で水軍を率いている部隊に名が出ている。

  • 「左衛門大夫父子・遠山左衛門・布施・笠原已下人数、たふゝゝと指置候、可被存心安候」(戦北675)

更に1568(永禄11)年には、帰国したがる梶原水軍を慰留する虎朱印の奉者をつとめている(戦北1087)。

このほかにも寺社への禁制発給や代官職の遂行などで活躍している。

補記:越相同盟以降

その後どうなったかは概略で。

ここまでは側近としてエリートコースを歩んでいた康光が、ついに越相同盟に関わる瞬間がやってくる。

永禄12年2月2日の遠山康英覚書に「拙者親子」として登場する。最終的に越後へ行き戦死した康光が大きく印象に残っているが、越相同盟に関しては、当初康英も大きく関わっていた。


一、此度以使僧、氏康父子証文可被進置由候事
一、相甲御対陣間近間、御弓矢火急候、同者越之御人数、早ゝ被打出、沼田御在城衆ハ、青戸・岩櫃筋へ、被上火手様、念願被申候、此方之人数ハ、自其方随作意可被及行事
一、彼飛脚、来十四五可致帰路歟、十六七ニ拙者親子之間、金山迄可被指越由、内儀候、御両所於半途有御対談、可被仰合歟、然者御日限可蒙仰事
以上、
二月二日/遠山新四郎康英(花押)/松本石見守殿・河田伯耆守殿・上野中務少輔殿
戦国遺文後北条氏編1147「遠山康英覚書」(上杉文書)

数ある同盟交渉の中でも異例の難航ぶりを示した越相同盟交渉で、康光は徐々に責任を押し付けられていく。難航した要因は康光の不手際だと、そもそも無理筋の同盟を号令した氏康から指弾される状態にもなり、後北条家中で身の置き所を失っていく。これは氏康が卒中で倒れた後に加速していき、元亀元年8月に小田原の様子を記した大石芳綱書状では「殊ニ遠左ハ不被踞候、笑止ニ存候」とあり、「混乱の責任をとれ」とばかりに、あちこちに駆り出されている状況が判る。

越後に行った康光はその後史料で見られなくなるが、御館の乱では三郎景虎と北条氏政との連絡に活躍する。1578(天正6)年10月28日、赤川新兵衛尉宛の景虎朱印状で奉者として名があるのが終見。

康光嫡男の康英は関東に留まり、後北条滅亡後は中村一氏に出仕したという。

参考:大石芳綱書状 1570(永禄13/元亀1)年比定

今月十日、小田原へ罷着刻、御状共可差出処ニ、従中途如申上候、遠左ハ親子四人薤山ニ在城候、新太郎殿ハ鉢形ニ御座候間、別之御奏者にてハ、御状御条目渡申間敷由申し候て、新太郎殿当地へ御越を十二日迄相待申候、氏邦・山形四郎左衛門尉・岩本太郎左衛門尉以三人ヲ、御状御請取候て、翌日被成御返事候、互ニ半途まて御一騎にて御出、以家老之衆ヲ、御同陣日限被相定歟、又半途へ御出如何ニ候者、新太郎殿ニ松田成共壱人も弐人も被相添、利根川端迄御出候て、御中談候へと様ゝ申候へ共、豆州ニ信玄張陣無手透間、中談なとゝて送数日候者、其内ニ豆州黒土ニ成、無所詮候間、成間敷由被仰払候、去又有、御越山、厩橋へ被納 御馬間、御兄弟衆壱人倉内へ御越候へ由、是も様ゝ申候、若なかく証人とも、又ぎ[擬]見申やうニ思召候者、輝虎十廿之ゆひよりも血を出し候て、三郎殿へ為見可申由、山孫申候と、懇ニ申候へ共、是も一ゑんニ無御納得候、余無了簡候間、去ハ左衛門尉大夫方之子ヲ、両人ニ壱人、倉内へ御越候歟、松田子成共御越候へと申候へ共、是も無納得候、 御越山ニ候者、家老之者共、子兄弟弐人も三人も御陣下へ進置、又そなたよりも、御家老衆之子壱人も弐人も申請、瀧山歟鉢形ニ可差置由、公事むきニ被仰候、御本城様ハ御煩能分か、于今御子達をもしかゝゝと見知無御申候由、批判申候、くい物も、めしとかゆを一度ニもち参候へハ、くいたき物ニゆひはかり御さし候由申候、一向ニ御ぜつないかない申さす候間、何事も御大途事なと、無御存知候由申候、少も御本生候者、今度之御事ハ一途可有御意見候歟、一向無躰御座候間、無是非由、各ゝ批判申候、殊ニ遠左ハ不被踞候、笑止ニ存候、某事ハ、爰元ニ滞留、一向無用之儀ニ候へ共、須田ヲ先帰し申、某事ハ御一左右次第、小田原ニ踞候へ由、 御諚候間、滞留申候、別ニ無御用候者、可罷帰由、自氏政も被仰候へ共、重而御一左右間ハ、可奉待候、爰元之様、須田被召出、能ゝ御尋尤ニ奉存候、無正躰為躰ニ御座候、信玄ハ伊豆之きせ川と申所ニ被人取候、日ゝ薤山ををしつめ、作をはき被申よし候、已前箱根をしやふり、男女出家まてきりすて申候間、弥ゝ爰元御折角之為躰ニ候、某事可罷帰由、 御諚ニ候者、兄ニ候小二郎ニ被仰付候而、留守ニ置申候者なり共、早ゝ御越可被下候、去又篠窪儀をハ、新太郎殿へ直ニ申分候、是ハ一向あいしらい無之候、自遠左之切紙二通、為御披見之差越申候、於子細者、須田可申分候、恐々謹言、追啓、重而御用候者、須弥ヲ可有御越候哉、返ゝ某事ハ爰元ニ致滞留、所詮無御座候間、罷帰候様御申成、畢竟御前ニ候、御本城之御様よくゝゝ無躰と可思召候、今度豆州へ信玄被動候事、無御存知之由批判申候、以上、
八月十三日/大石惣介芳綱(花押)/山孫参人々御中
神奈川県史資料編3下7990「大石芳綱書状」(上杉文書)

今月10日小田原へ到着した際に、御状などをお出ししたので、途中から申し上げます。遠山左衛門尉(康光)は親子4人で韮山に在城しています。新太郎殿(北条氏邦)は鉢形にいらっしゃいますので、別の取り次ぎ役では御状の条目を渡せないと言われ、新太郎殿がこちらに来るのを12日まで待ちました。氏邦・山角四郎左衛門尉(康定)・岩本太郎左衛門尉(定次)の3人が御状を受け取って翌日お返事なさいました。

 互いに途中までは1騎でお出でになり、家老衆を使って同陣の日限を定めるか。または、新太郎殿に松田なりとも1人も2人も添えて、利根川端までお出でになって会談されては、と申しましたが、伊豆国に信玄が陣を張っており、手が足りないので、会談などといって数日を送るなら、その間に伊豆国が焦土と化して困るので、行なえないと却下されました。

 そしてまた、御越山により厩橋に馬を納められた前提として、ご兄弟衆1人を倉内へ送らせる件ですが、これも色々と難航しています。

 もし長く証人となるなら、また知行宛行ないを考えようとの(輝虎の)お考えがあり、輝虎が10~20も指から血を出して血判し三郎殿(景虎)へ見せるだろうと、山吉孫五郎が申していると、親しく申したのですが、これも全員ご納得なく。

余りに理解がなかったので、ならば左衛門尉大夫(北条綱成)の子を、どちらか1人倉内へ送るのか、松田(憲秀)の子でもいいので送ればと申しましたが、これも納得ありませんでした。

ご越山が実際に行なわれてから、家老たちの子・兄弟を2人も3人も御陣の下に進め置き、またそちら(越後)よりも、ご家老衆の子を1人も2人も申し受けて滝山か鉢形に置いておくだろうとのことを、建前論で仰せられました。

ご本城様はご病気が進んだか、今は子供たちをはっきりと見分けられなくなったとの風聞があります。食べ物も、飯と粥を一度に持って行けば、食べたい物に指だけをお指しになるとのこと。一向に舌が回らぬようなので、大途のことなどは何もご存知ないとのこと。少しでも快復なさっていれば、この度の事柄は一気にご意見あるのでしょうか。

一向に定まりませんので、是非もないこととそれぞれが噂しています。(こういう状況で)特に遠山左衛門尉は奔走させられていて、気の毒なことです。

私のことは、ここに滞留して一向に用事もないのですが、須田を先に返し、私はご連絡あるまで小田原にいるようにとご指示がありましたから、滞留しています。別段用事がないのであれば帰ってよいと氏政からも言われてはいますが、重ねてご連絡があるまでは、待つつもりです。

こちらの様子は、須田を呼び出して色々とお尋ねになるのがよいでしょうが、正体のない体たらくと言えます。信玄は伊豆の黄瀬川というところに陣取っています。毎日韮山を攻撃して、作物を剥いでいると申されました。以前は箱根を押し破り、男女のほか出家まで切り捨てたので、いよいよこちらは手詰まりです。

私に帰るようにと、ご指示されるなら、兄である小二郎にご指示下さい。留守に置いた者ではありますが、早々に(こちらへ)送って下さいますように。また、篠窪治部のことは、新太郎殿へ直接申しています。これは一向に応答がありません。

遠山左衛門尉から振り出された切紙(書状)2通を、お見せするためお送りします。詳細については、須田が申すでしょう。

追伸:追加の御用では、須田弥兵衛尉を派遣されるのでしょうか。繰り返しますが、私はこちらに滞留し、することもありません。なので、帰還のご指示をなさるよう、御前にてご申告下さい。御本城様の様子は全く体をなしていないとお考え下さい。この度伊豆国へ信玄が出撃したこともご存じないのだと噂になっています。

残筆

1578(天正6)年に比定されている、由良成繁の書状写がある。私が好きな文書の一つで、切なく優しい文面は読むほどに引き込まれる。

不思儀之便候間、以切紙申候、さてもゝゝ近年於其国之御苦労、不及申次第候、景虎江御家督参候由承及、目出御本望令察候、然者、小田原御一類、何茂無何事御繁昌候、可御心安候、就中愛満殿、氏直へ一段御意能御奉公之間、可為御悦喜候、自新四郎殿去十日計以前ニも、貴所之御左右有御聞度候由、示給候キ、御世上在御一統、以面上連続之義申承度心中迄ニ候、将又、此方無何事候、可御心易候、三山又六殿御堅固候哉、御床敷之由、御伝語頼入候、申述度儀雖千万候、残筆候、恐ゝ謹言、
卯月晦日/信濃守成繁/遠左御宿所
戦国遺文後北条氏編4479「由良成繁書状写」(歴代古案一)

越相同盟で共に苦労した遠山康光に宛て、三郎景虎が上杉の家督となること、そして小田原では息子康英が活躍し、孫の愛満(後の直吉)も氏直の覚えがめでたいことを伝え、祝している。家族ぐるみの付き合いがあったのだろう。

この直後に成繁は没し、康光もまた史料から姿を消す。自身の余命、距離、政情から、成繁は「直接会って話したい」とは書けなかったのだろうけれど、文末の「申述度儀雖千万候、残筆候」からその思いが感じられる。