2017/08/31(木)刀の贈答(馬の参考例つき)

贈答品としての刀

書面に現れた説明

贈呈された刀がどのようなものだったかを調べてみた。まずはその表記。単に「刀一腰」とだけ書かれたものが多かった。それだけ贈答品として気軽にやり取りされていたものだと思われる。

何も説明されていないものが21件。

これは無銘のものだったのか、記載していないだけで銘はあったのか、状況が不明。

刀鍛冶の名前が14件

このうちで助長・景光は各2件あったが、他は各1件でバラバラ。

  • 助長・助光・助包・景光・長光・正宗・末行・末紀・師光・盛光・国重・秋広
  • 助光・国重の刀では説明に「金覆輪」とある

基本的に刀鍛冶の名前で価値を計っていたのかと思われる。金覆輪を記したものは2件に留まっていて、それよりも来歴(誰がどう所持していたか)に大きな付加価値があるような感じがする。

俗称が3件

  • 岩切丸・菊一文字・一文字 ※岩切丸と一文字は要検討

刀の状況についての説明

1557(弘治3)年比定の氏康書状写では、父の氏綱がずっと離さず持っていた秘蔵品「菊一文字」を贈呈している。これは、豊前山城守が重要人物を医術で救ったことを賞してのもの。

今度彼病者、療治手尽既事極処、以良薬得減気、打続本覆之形ニ被取成候、誠不思議奇特、於愚老大慶満足不過之候、 鎌倉様へも意趣具可言上候、於東国御名誉不及是非存候、仍刀菊一文字、氏綱不離身致秘蔵候、此度進置候、猶遠山左衛門尉可申候、恐々謹言、
八月廿日/氏康(花押)/宛所欠(上書:豊前山城守殿 氏康)戦国遺文後北条氏編1092「北条氏康書状写」(豊前氏古文書抄)

1566(永禄9)年比定の氏政書状写では、同じく豊前山城守に対して息子も同じような状況で謝意を告げ正宗作の刀を贈っている。この際に「ずっと離さず持っていた」と書いている。

今度彼煩諸医者失行、既不可有存命由存処、貴辺以御療治得験気、平癒候、誠奇妙不浅次第候、於氏政厚恩不知謝所候、仍刀一[正宗]、久令所持不離身候、并黄金卅両、進之候、委細猶助五郎可申候、恐々謹言、
十月十一日/氏政/宛所欠
戦国遺文後北条氏編0985「北条氏政書状写」(豊前氏古文書抄)

1571(元亀2)年に垪和氏続が興国寺城で大活躍した際にも、氏政は秋広作の刀を贈っていて、こちらも「久しく所持」としている。

今度興国寺へ敵忍入、数百人本城江取入候之処、其方自身打太刀、敵於仕庭五拾余人被討捕、城内堅固、前代未聞之仕合、戦功無比類、誠感入計候、此度本意之上、進退可引立候、仍刀一[秋広]、久所持之間、進之候状如件、
元亀二年辛未正月十二日/氏政(花押)/垪和伊予守殿
小田原市史小田原北条1000「北条氏政感状写」(垪和氏古文書)

一方で要検討なのが以下の2つ。

今度高天神之一陣契約相整、令大慶訖、就中申談意趣被及同心満足候、依之為労芳志、刀一腰岩切丸贈之、猶期後音候、
天正八年八月十六日/御判/笠原新六郎殿
戦国遺文後北条氏編4490「徳川家康書状写」(紀州藩家中系譜)

上記のように「岩切丸」という俗称を用いた例はない上、伝来を追っても怪しい点が多い。

昨十日円能口敵相動処、最前ニ及仕合、敵五人討捕、殊自身致高名候、誠無比類感悦候、刀一一文字遣之候、弥可走廻候、仍状如件、
永禄十二年己巳七月十一日/氏政(花押)/宛所欠小田原郷土文化館研究報告No.42『小田原北条氏文書補遺』p27「北条氏政感状」(海老原文書)

こちらは文面がおかしいという訳ではなく、5名討捕の感状で一文字の刀を贈ったりするだろうかという疑問。氏康が豊前山城守に菊一文字を贈ったのは、足利晴氏室(芳春院殿)を救命し、後北条と古河公方の紐帯を確保したからで、局地戦での奮闘とはレベルが異なる。一文字の刀の割には来歴についても触れられてtおらず、不審である。

贈答馬の場合

馬では刀と違って毛色が重視され必ず書かれていたようだ。毛色を記載していないのは1例しかなかった。

  • 鹿毛×3
  • 栗毛×2
  • 河原毛
  • 青毛
  • 白馬
  • 黒馬
  • 表記なし「馬一疋」

特殊な例では、1556(弘治2)年に北条氏康が足利義輝に馬を献上した際のものがある。

就御馬速道御用之由、 上意去年被差下孝阿候、奥口ニも折節可然御馬無之候、雖然不勝黒一疋印十文字・糟毛一疋無紋、致進上候、可然様御披露所仰候、猶孝阿弥可為演説候、恐ゝ謹言、
正月廿日/氏康(花押)/謹上大館左衛門佐殿(上書:謹上大館左衛門佐殿 左京大夫氏康)
戦国遺文後北条氏編0502「北条氏康書状写」(類従文書抄)

ここでは毛の色だけでなく紋も書き込まれている。今川氏真が馬の献上をした際には紋までは書いていないので、ここにどのような意味合いがあったかは不明。

小倉内蔵助所持之馬鹿毛事、于今有之儀候哉、先々以来聞及候条、於差上者、尤可為満足候、猶量忠可申候也、穴賢、
永禄四年十月十三日/御判/今川上総介殿
戦国遺文今川氏編1757「足利義輝御内書写」(小倉文書)