2017/04/20(木)北条氏康条書で前と後が欠けているもの

越相同盟を巡る交渉で、氏康が出した条書のうちで欠落があるものを並べてみた。2については氏康の脳卒中と絡めて元亀比定しているが疑問は残る。

1)戦国遺文後北条氏編1211「北条氏康条書」(庄司哲子氏所蔵伊佐早文書)※1569(永禄12)年4月頃に比定されている

<<解釈>>

条目

遠路で口上を届けるのが難しいので、思慮を捨てて糊づけの書状で申し入れます。お考えを糊づけでご返答いただければ本望です。

一、先年は亡父の氏綱が上意に応えて進発し、総州の国府台において一戦を遂げました。まぐれ当たりに、小弓公方の父子3人を討ち捕りました。この勲功で、管領職を仰せ付けられる御内書両通を頂戴しました。この筋目は申し開きはできますが、既に氏政の実子を御名跡としてお決めいただいたとのこと、このようなご昵懇をいただいたからには、申し上げることはありません。

一、河内(利根川右岸)において、年来氏政に従い指示に忠実に従って活躍した者が何人かいます。今になって氏政の手元から離れるというのは外聞が『折角』となります。それぞの所領をこちらの配属にしていただけるならば、かたじけなく、またご芳志といえるでしょう。但し、ご納得いただけないのでしたら、どうしようもないでしょうか。とりわけて今回松本石見守が遠山康光・垪和氏続に対し「去る申年(永禄3年)に越後方へ馳せ参じた者だ」と6か所の書立を示しました。今越相で同盟するのですから、申年の是非は入れなくてよいのではないでしょうか。既に全てをお任せした上ですが、あの6か所は武蔵の中にあります。伊豆・相模も加えて3か国は、代を限らず戦功で与えたものなので、お聞き届けいただければ本望です。

一、公方様の御座を移すことについて。藤氏様のご進退のことは、松本石見守に申しました。遠国で伝わらなかったのでしょうか。去る寅年(永禄9年)ご他界なさいました。義氏様へ晴氏様よりのご相続は事実です。既に越相のご和融の上は、義氏様の御筋目は紛れもないことですから、そのようになるでしょうか。慎重にご検討下さい。

右の条々合意の上は、一日も早く信州へご出張なされませ。氏政自身は甲州へ乱入するでしょう。この度は信玄敗北の時です。鉾を醒ますことなく、信甲のご退治下さい。念願はこのほかありません。もしもし、この上遅々とするならば(後欠)

<<原文>>

条目

遠路口上難届存ニ付而、捨思慮、以糊付申入候、御存分、糊付之御返答、可為本望事

一、先年亡父氏綱応 上意令進発、於総州国苻台、遂一戦、稀世 御父子三人討捕申候、依勲功官領職被仰付、 御内書両通頂戴候、此筋目雖可申披所存候、既氏政実子御名跡可被定置由候、如此御入魂之上者、申処無之候、任置貴意事

一、於河内、年来随氏政下知無二走廻輩、数ヶ所候、只今可離氏政手前事、外聞令折角候、彼所ゝ此方へ於被付者、忝可為芳志候、但、御納得有之間敷付而者、不及是非歟、就中今度松石対遠山左衛門尉・垪和六ヶ所被書立、先年申歳越苻御陣下へ馳参由候、只今越相和融一味之間、申歳之是非不入歟、既悉皆任御作意上者、彼六ヶ所者、武州之内ニ候、於豆相三ヶ国者、不限代戦功相拘候条、被聞召分、可為本望事

一、公方様 御座移之儀ニ付而、 藤氏様御進退之儀、松石被申候、遠国無其聞歟、去寅歳御他界ニ候、 義氏様へ自 晴氏様御相続無其隠候、既越相御和融之上者、 義氏様御筋目無紛候条、可然歟、不可過御塩味事

右条ゝ申合上者、一日も急速、至信州御出張、氏政自身甲州へ可乱入候、此度信玄敗北之砌、不被醒鉾、信甲御退治念願之外、無他候、若ゝ此上御遅ゝ付者(後欠)

2)戦国遺文1475後北条氏編「北条氏康書状」(上杉文書)※1573(元亀4)年4月15日に比定されている(高村私見では永禄12年比定も可能性あり)

<<解釈>>

(前欠)一、ご加勢はあるべきでしょう。当家は全員が輝虎のご威光によって、素早く本意を達するだろうと、和睦以来思っていたところ、日を追って弓矢で『折角』となりましたので、ますます氏政の手元を見限っています。国中のどの措置も手に余っています。必ず必ず7月上旬にはご出馬あって、当家をお引き立て下さい。

一、相模と甲斐が和睦したと、言った人がいたのでしょうか。これによって起請文をいただきました。かたじけなく、また困惑しています。ご越山の名分を争っていることから、虚言を受けることとなり、このように言われるのでしょうか。讒言する者のやることは昔から変わりません。よくよくご調査されるに限ります。氏康父子に私曲がないこと、伊勢右衛門佐によって申し届けました。きっとお聞き届けになるでしょう。

一、国境の防御拠点の措置のこと。仰せをいただき、本当にご懇切なこと、本望で満足しています。紙には書けない程です。そもそも、信玄と氏政が血縁となって以来、こちらの方では国境の内と外という意識がなかったところ、信玄が裏切って近年放置できずに伊豆・相模の国境警備を堅固にしていました。ふいに駿河を攻撃したので、義によって甲斐と交戦することになりました。それ以来急に処置したので、数か所の街道は普請ができていません。今では苦労しています。更なる油断ではありません。

一、諸人が力づけられることは、お考えの通りです。とにもかくにも、貴国以外はどこも頼れません。氏政をご後見いただけるなら、来る7月に極まります。ここに至ってお見捨てになれば、こちらの侍どもは氏政を見捨てること、歴然ではないでしょうか。

一、諸証人のこと、ご越山されるならばすぐにお渡ししますこと、先にも申しました。更なる異議はありません。氏政のこと、少しのお疑いがあってはなりません。一度国分けを取り決めた上は、甲斐・信濃に侵攻するお覚悟があるのですから、一人の諸証人でも手元で惜しみはしません。

一、来る秋に信玄が出撃する際には、即座に後詰をいただくとのこと、本当にかたじけないことです。西上州にでも、信濃にでも、一心に行軍なさることをお願いすること、先に伊勢右衛門佐が申していました。敵の行動が火急のこと告げています。早速のご出動に極まります。こちらよりご報告していては手遅れになります。同時に敵の行軍状況を逐一ご連絡します。

<<原文>>

(前欠)一、御加勢者、可有之儀ニ候、当家之大小者、輝虎以御威光、頓速ニ可達本意由、一和以来存候処、遂日弓箭折角ニ成候条、弥氏政手前を見限、何共国中之仕置、致余候、必ゝ来秋者、七月上旬ニ有御出馬、当家被引立可給事

一、相甲遂一和由、申人候哉、依之、御誓詞給候、且忝、且迷惑候、争御越山御大儀ニ付而、虚言を蒙仰様ニ可存候哉、讒者之所行、古今之習候、能ゝ御糺明ニ極候、氏康父子無私曲処、以伊勢右衛門佐、申届候キ、定可被聞召届事

一、境目之要害仕置等之儀、蒙仰候、誠以御懇意之段、本望満足、難尽紙面候、抑信玄・氏政結骨肉以来、当方之事者、無内外存処、信玄表裏、近年不打置、豆相境目普請仕置被致堅固、不慮ニ駿州を打候間、任儀理、相甲令鉾楯以来、俄及仕置故、数ヶ所之口ゝ普請以下無成就、于今令苦労候、更油断ニ者無之事

一、諸人ニ可付力之由、尤得其意候、菟ニも角ニも、貴国之頼より外、大小無之候条、氏政於可被御覧続者、来七月ニ極候、此処於有御見除者、当方之侍共、氏政可見捨事、可為歴然候歟之事

一、諸証人之事、於御越山者、則相渡可由、先段も申候、猶以無異儀候、氏政手前之儀、少も御疑心有間敷候、一度国分申定、甲信可撃覚悟ニ候上者、諸証人之拘惜、一切無之候、仮令可被召寄模様可有之候、沼田へ御越山ニ付而者、一人も不可残置事

一、至于来秋、信玄出張ニ付而者、則刻可有後詰由、誠忝存候、西上州へ成共、信国へ成共、一途御行頼入由、以伊右申候キ、敵動火急之由申唱候、早速御出勢ニ相極候、自是注進申よりしてハ可為遅ゝ候、併敵動之模様をハ、節ゝ可申入候、恐ゝ謹言、

卯月十五日/氏康(壷朱印「機」)/山内殿

2017/04/20(木)次郎直虎出現の背景 井伊谷徳政を巡るゴタゴタ

井伊谷徳政を巡る文書8通を、戦国遺文今川氏編からデータ化。現代語に置き換えたものは、素人が手掛けた暫定のものなので、不明点があればご指摘下さい。

◆永禄10年6月30日 匂坂直興、祝田禰宜に、徳政推進の状況を伝える

彼一儀種々越後殿へ申候、先年御判形のすちめにて候間、御切紙御越候ともくるしからす候へ共、我等共御奉行まへにてさいきよニむすひ候て、御ひらうなきまへニいかゝのよしおほせ候、又二郎殿のまへをなにとかとおほしめし候やうに候間、小但へ申候而、次郎殿御存分しかときゝとゝけ候て、早々被仰付候而尤之由、次郎殿より関越ヘ被仰候様ニ、小但へ可被申候、我等方よりも小但へ其由申候、たとへ次郎殿より御状御越候ハす候共、小但より安助兵まて尤之由被仰候と、御切紙とりこされへく候、二郎殿もそれにて関越へ可申候、小但へ能々談合候へく候、恐々謹言、
六月卅日/匂左直興(花押)/祝田禰宜、「上書:自駿府 匂左近まいる ほう田の禰宜とのへ」
戦国遺文今川氏編2134「匂坂直興書状」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 あの一件を色々と越後殿(関口氏経)へ申しました。先年御判形で決まったことですから、御切紙をお送りいただいても構わないのですが、私たちが御奉行のもとで裁許を受けて、御披露する前に何を仰せなのか、また、次郎殿ことを何かとお心がけになるなら、小野但馬守へ申して、次郎殿ご存分を確実に聞き届けて、早々にご指示なさるのがもっともです。次郎殿から関口氏経へお伝えになるよう、小野但馬守へ申されますように。私の方からも小野但馬守へそのことを申します。たとえ次郎殿より関口氏経へご連絡がなかったとしても、小野但馬守より『安助兵』(安西)まで「もっともである」との御切紙をお送りになるように。次郎殿もそれを使って関口氏経へ申し上げますように。小野但馬守へよくよく相談なさいますように。

◆永禄10年10月13日 今川氏真、瀬戸方久に、買い取った土地の保証をする

於遠州井伊谷之内永代買之事。一、居屋敷壱所之事[本銭五貫文也、次郎法師有印判]、坂田入道前[伹是者助六郎買得云々、一、田畠弐段事[本銭四貫文也]、須部彦二郎前、一、都田瀬戸各半名事[本銭参拾貫文也、信濃守有袖判]、袴田対馬入道前、已上、右、何茂永代買得証文明鏡之条、縦彼売主等、以如何様之忠節雖企訴訟、一切不可許容、於子孫永不可有相違、信濃守代々令忠節之旨申之条、向後弥可勤奉公者也、仍如件、
永禄十丁卯年十月十三日/上総介(花押)/瀬戸宝久
戦国遺文今川氏編2150「今川氏真判物」(浜松市北区細江町中川・瀬戸文書)

 一、住んでいる屋敷1箇所のこと(本銭5貫文。次郎法師の印あり)。坂田入道の前(ただしこれは助六郎が買い取ったという)。一、田畑2段のこと(本銭4貫文)。須部彦次郎の前。一、都田・瀬戸それぞれ半名のこと(本銭30貫文。信濃守の印あり)。袴田対馬入道の前。以上。右は何れも永代で買い取った証文がはっきりしていますから、たとえ売主などがどのような忠節をなして、訴訟を企てたとしても、一切許容しない。子孫に至るまで相違があってはならない。信濃守の代々忠節のことを言ってきたので、今後はますます奉公を勤めるように。

◆永禄10年12月28日 匂坂直興、祝田禰宜に、徳政が認可されるとの状況を伝える

月はくニ候而無御披露候ゆへ、当年相澄候ハす候而、此方ニ而越年候、さりなからかわる儀候ハぬ間、可有御心易候、就中、彼儀も御そうしや少も御隙なく候而、相とゝのわす候、はるハ早々相調可申候間、我等ニまかせられへく候、小但と此方ニ而談合申候、可有御心易候、何も此分御心得候へく候、よくゝゝそなたにて御おんみつニ候へく候、恐々謹言、
十二月廿八日/匂左近直興(花押)/祝田禰宜殿まいる、「上書:自駿府 匂左近 祝田禰宜殿まいる」
戦国遺文今川氏編2160「匂坂直興書状」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 年末でご披露がないので、当年では済まず、こちらで年を越します。とはいえ変わることはありませんので、ご安心くださいますように。とりわけ、あのことは仲介者に少しの隙もなくて調整できませんでした。新春は早々に調整していきますので、私にお任せ下さいますよう。小野但馬守とこちらで打ち合わせました。ご安心下さい。どれもこの調子で行けばご承認いただけるでしょう。くれぐれもあなたは内密になさいますように。

◆永禄11年8月3日 匂坂直興、祝田禰宜に、徳政執行に当たり礼物を出すことを要求する

徳政之事すまし候て、関越より御状井次ヘ一つ、家中衆へ一つ遣之候、先以御心易候、都田のも一つ取候、祝田・都田両郷之事ハ、何も惣次■■へく候、小但へ委細申候間、小但を能々被頼入候て、軈而井次より被仰付候様ニ尤候、此上者誰人も異儀被申間敷候、一ちんせんの事ハ銭主申やう有間敷候、我等主ニなり候て、御城の用意ニてつはうなり共たまくすりなり共、一かたかい候て御城ニ置候ハんよし、此方ニ而関越へも安助へも申定候、殊ニ二三年銭主方なんしう申候而、田畠渡候ハぬ上者、とかく申やう有ましく候由、小但へも申入候、能々小但ニ談合尤候、一御礼物之事、関越へ五貫文、安助へ三貫文ニ約束申候而、我等此方ニ而一筆を仕候、今度便ニ我等かたへ二三人より御礼物の借状可給候、大事の事ニ候間申事候、一都田の衆ハ礼物ハ別ニ可有候、借銭之多少ニよつて可有之候、此由瀬戸衆・都田衆へ内々にて可被申候、十郎兵ニも申候、此年来御百姓衆よりも我等口惜存候つるか本望候、百姓衆ハ我等せいニ入候事ハ■■[さほ]とハ御存有間敷候、一安助其地へ御越之事候間、今度徳政御きも入忝候とて、永楽二十疋の御樽代にて先々御礼申候て尤候、さやうニ候ハねハ百姓ハさのミそセう候ハぬに、我等きも入候なとゝ御そうしやも可被存候、たとへ銭主方此上 御上意へ御そせう申候共、何時も安助頼入候而可申入申候、今度先々御樽代にて出候て尤候、当所務被仕候て、やかて関越・安助御礼物之事ハとゝのい候やうに、かくこかんようにて候、其まへニさへ少ハ調度候、千ニ一つも銭主方 上様へ御訴訟申候共、あいてにハ此上ハ次郎殿にて可有候間、申やう有間敷候、殊ニ我等あいてにてい■■御心易可有候、又我等やとへ代物少の調候て御渡頼入候、すへのかんちやうニたて申へく候、長々在府之事候間、御すいりやう候へく候、や■へ用の事申越候間、まちまへニすこしなり共御わ■し頼入候、やとへも申こし候、返々本望候、恐々謹言、我等かたより岡殿井河へも申候、又其地さうせつのよし候間、とりしつめ候て被仰付候やうに、小但へ可被申候、
八月三日/匂左直興(花押)/禰宜殿参、「上書:自駿府 匂左近 祝田禰宜殿まいる」
戦国遺文今川氏編2181「匂坂直興書状」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 徳政のことを済ませまして、関口氏経からのお手紙を井伊次郎へ1つ、家臣たちへ1つ出しましたので、まずはご安心下さい。都田にも1つ取りました。祝田・都田の両郷のことは、どちらも惣次で行なうように、小野但馬守へ詳細を申しましたので、小野但馬守をよくよく頼み込んで、すぐに井伊次郎より指示を出されるのがもっともなことです。この上は、誰であっても異議を唱えることはなりません。一、陣銭のことは、銭主が介入するのはなりません。私が主となってお城の備えとして鉄砲なり弾薬なりを一通り購入して城内に備蓄すると、関口氏経にも『安西』にも報告しています。特に2~3年は銭主が難渋すると言って来ても、田畑を渡さない上は、何も言わせませぬよう、小野但馬守にも伝えています。よくよく小野但馬守と相談するのがもっともです。一、ご礼物のこと。関口氏経へ5貫文、『安西』へ3貫文の約束で、私がこちらで一筆いたしました。今度の手紙で私の方に2~3人からご礼物の借状をいただくように。大事なことだから申します。一、都田衆の礼物は別にあるように。借銭の多少によって用意するよう。このことは瀬戸衆・都田衆に内々で伝えますように。十郎兵にも伝えて下さい。この年来、御百姓衆よりも私が悔しく思っていたので本望です。百姓衆は私が努力したことはそれほどご存知ないでしょう。一、『安助』がその地へお越しになりますので、「今度の徳政を援助いただいてありがたい」として、永楽20疋の御樽代でまずはお礼を申し上げるのがごもっともです。そのように言わなければ、百姓はそれほど訴訟していないだろうから、私が助力するまでもないと御奏者がお考えになるでしょう。たとえ銭主の方でこの上にも御上意を得ようと御訴訟したとしても、いつでも『安助』を頼んでおけばよいので、今度はまず御樽代を出すのがもっともなのです。この所務を取り回して、すぐに関口氏経・『安助』への御礼物のことが調うように覚悟が肝心です。その前であっても少しは調えたく。千に一つでも、銭主から上様へ御訴訟があったとしても、相手にはこうなったら次郎殿がいるでしょうから、訴状は上がらないでしょう。特に私が相手になりますから、ご安心下さい。また、私の宿所へ物品を少し用意してお渡し下さるようお願いします。細かい勘定に用立てます。長々駿府にいましたので、ご推察下さいますよう。宿所へ用事をご連絡されるかもしれないので、町前に少しでもお渡しいただけるようお願いします。宿所にも伝えてあります。返す返す、本望です。 私から『岡殿井河』へも伝えます。また、その地で不穏な噂があるそうなので、取り静めて報告するように小野但馬守にお伝え下さい。

◆永禄11年8月4日 関口氏経、井伊次郎法師に、徳政の執行を命ず

其谷徳政事、去寅年以 御判形雖被仰付候、井主私被仕候而、祝田郷中・都田上下給人衆中、于今徳政沙汰無之候間、本百性只今許詔申候条、任 御判形旨可被申付候、寅年被仰付候処ニ、銭主方令難渋、于今無其沙汰儀、太以曲事ニ候、此上銭主方如何様之許詔申候共、許容有間敷候、為其一筆申入候、恐々謹言、
八月四日/関越氏経(花押)/井次参
戦国遺文今川氏編2183「関口氏経書状」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 その谷の徳政のこと。去る寅年にご判形をもってご命令になったとはいえ、井伊主水佑が私的譲歩をして、祝田郷中と都田上下の給人衆中が今も徳政を行なっていないと、本百姓が現在訴訟してきたので、ご判形の通りにせよと申し付けられました。寅年に仰せ付けられましたところに、銭主が難渋して、今もその処置がないこと、本当に遺憾です。この上は、銭主がどのような訴えを申し立てても、許容することがあってはならない。そのために一筆を申し入れます。

◆永禄11年8月4日 関口氏経、井伊氏一門・被官に、徳政の執行を命ず

其谷徳政之事、去寅年以 御判形雖被仰付候、井主私被仕候而、祝田郷中并都田上下給人衆之中、于今徳政沙汰無之間、本百性只今許詔申候条、任 御判形之旨ニ可被申付候、寅年被仰付候処、銭主方令難渋、于今無沙汰儀、太以曲事ニ候、此上銭主方如何様之許詔申候共、許容有間敷候、為其一筆申候、恐々謹言、尚以、各々無沙汰無之様ニ可被申付候、以上、
八月四日/関越氏経/伊井谷親類衆・被官衆中
戦国遺文今川氏編2184「関口氏経書状写」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 その谷の徳政のこと。去る寅年にご判形をもってご命令になったとはいえ、井伊主水佑が私的譲歩をして、祝田郷中ならびに都田上下の給人衆中が今も徳政を行なっていないと、本百姓が現在訴訟してきたので、ご判形の通りにせよと申し付けられました。寅年に仰せ付けられましたところに、銭主が難渋して、今もその処置がないこと、本当に遺憾です。この上は、銭主がどのような訴えを申し立てても、許容することがあってはならない。そのために一筆を申し入れます。追記:さらにもって、各々が無沙汰にならぬようにご指示下さい。以上。

◆永禄11年9月14日 今川氏真、瀬戸方久に、井伊谷で買い取った土地を保証する

於井伊谷所々買徳地之事。一、上都田只尾半名、一、下都田十郎兵衛半分、永地也、一、赤佐次郎左衛門名五分二、一、九郎右衛門名、一、祝田十郎名、一、同又三郎名三ケ一分、一、右近左近名、一、左近七半分、一、禰宜敷銭地、瀬戸平右衛門名、已上、右、去丙寅年、惣谷徳政之義雖有訴訟、方久買得分者、次郎法師年寄誓句并主水佑一筆明鏡之上者、年来買得之名職同永地、任証文永不可有相違、然者今度新城取立之条、於根小屋蔵取立商買諸役可令免許者也、仍如件、
永禄十一戊辰年九月十四日/上総介(花押)/瀬戸方久
戦国遺文今川氏編2188「今川氏真判物」(浜松市北区細江町中川・瀬戸文書)

 井伊谷において買い取った土地のこと。一、上都田の只尾半名。一、下都田の十郎兵衛半分(これは永地である)。一、赤佐次郎左衛門名の五分の二。一、九郎右衛門名。一、祝田十郎名、一、同又三郎名3分の1。一、右近左近名、一左近七の半分。一、禰宜の敷銭地、瀬戸平右衛門名。以上。右は去る丙寅年に谷全体で徳政のことで訴訟があったとはいえ、方久が買い取った分は次郎法師と家老の誓紙、井伊主水佑の一筆で明瞭であるから、今まで買い取った名職・永地は、証文の通りに末永く相違がないように。ということでこの度新城を築造しているので、根小屋・蔵の建設を負担するので商売の税は免除する。

◆永禄11年11月9日 関口氏経・次郎直虎、祝田禰宜・百姓に、徳政の実効を保証する

祝田郷徳政之事、去寅年以 御判形雖被仰付候、銭主方令難渋、于今就無落着、本百性令許詔之条、任先 御判形旨許詔、不可許容者也、仍如件、
永禄十一辰十一月九日/関口氏経(花押)・次郎直虎(花押)/祝田郷禰宜其外百姓等
戦国遺文今川氏編2193「井伊直虎・関口氏経連署状」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 祝田郷の徳政のこと。去る寅年に御判形によってご命令になったとはいえ、銭主が抗議して今も落着しない。本百姓が訴訟してきたので、先の御判形のとおりに許容しない。

2017/04/20(木)北条氏直が「沼田は落とした」と書いてしまった件

原豊前守は実名が胤長で、千葉邦胤の後見役。反後北条もいた千葉宗家で親後北条として指示に従っていたらしい。その胤長へ氏直が送った書状がまた勢い余っている(天正13年比定・戦北2855)。

原胤長はどうやら援軍要請を氏直に出したようなのだが「それどころじゃない」的な文面であれこれ書いている。沼田を攻め落として越後国境まで平定し終わったみたいに書いているが、実際には沼田城は落とせていない。誇大報告は戦国大名がよく出すけど、ちょっと盛り過ぎじゃないかなあ。

書面之趣一ゝ得心候、然者其地為仕置、疾雖可令出勢候

書状の趣旨は一つ一つ諒解した。だからそちらへの措置のため、早く出勢するべきだが、

遠州衆於信州真田与対陣、沼田表へ之手合頻ニ所望候間、令出馬

徳川が信濃で真田と対陣し、沼田方面へ援護攻撃するよう頻りに要望するので出馬した。

森下城不移時日責落、楯籠候敵数百人切掛

森下城は時間もかけずに攻め落として守備していた数百人を切り殺し、

其上向沼田城押詰陣取、越国境奥境迄、在ゝ所ゝ不残一宇、沼田庄打散、明隙候

その上で沼田城に向かって陣取り、越後国境の奥までの村は一軒残らず、沼田庄は打ち壊して手が空いた。

此上遠州衆へ立使候条、依彼返答、直ニ其表へ可令出馬候

この上で徳川へ使者を出したから、その返答によっては直接信濃へ出馬するだろう。

其半之仕置、何分ニも堅固ニ可被申付候

そちらの半手(?)の措置はどれも堅固に指示するように。

万乙無心元道理有之而、人衆所望ニ付者

万が一心もとないということで部隊要請があるならば、

出馬以前為加勢、一手も二手も可遣候

出馬する前に加勢として一手も二手も派遣する。

存分重而以糊付可被申越候、恐ゝ謹言

存分は重ねて糊付けの書状で送る。

猶以不及申候へ共、畢竟其方稼ニ相極候

更に、言うまでもないことだが、全てはあなたの活躍で決まることだ。

原文

書面之趣一ゝ得心候、然者其地為仕置、疾雖可令出勢候、遠州衆於信州真田与対陣、沼田表へ之手合頻ニ所望候間、令出馬、森下城不移時日責落、楯籠候敵数百人切掛、其上向沼田城押詰陣取、越国境奥境迄、在ゝ所ゝ不残一宇、沼田庄打散、明隙候、此上遠州衆へ立使候条、依彼返答、直ニ其表へ可令出馬候、其半之仕置、何分ニも堅固ニ可被申付候、万乙無心元道理有之而、人衆所望ニ付者、出馬以前為加勢、一手も二手も可遣候、存分重而以糊付可被申越候、恐ゝ謹言、猶以不及申候へ共、畢竟其方稼ニ相極候、
九月八日/氏直(花押)/原豊前守殿
戦国遺文後北条氏編2855「北条氏直書状」(東京国立博物館所蔵文書)

2017/04/20(木)山口重克の遺言フルテキスト

御書院番衆水野隼人正組として、大坂夏の陣で戦死した山口重克の長大な遺言書をデータ化。陣中の武士が持ち込んだ現金の話や、武家屋敷の様子が窺える。

甲子夜話 巻四十三「山口小平次消息」

去年か、林氏より古き消息とて示されしを、書櫃に寘て、再び見出したれば録す。

この文は、山口侯[常州牛久一万余石]の祖の弟、山口小平次と云るが、大阪勤番の間その妻に贈れる所と見ゆ。此人神祖の御時にして、文中に於て当時の風俗知るべきこと多し。又小平次の為人も見つべし。小系并時記書末に附す。

いんきよ様へひにゝゝ人をまいらせ、いかやうにも、御きにさはり候はぬやうに、ぶさた申すまじく候。さかなをもとゝのへ候て、しん上申すべし。いは山よりちやまいり候はゞ、いつものほどしん上申べし。のこるぶんは、はさみはこふたのうへにて、てをあらい、こまかにくだき候て、つぼにつめ、くちをはりをくべく候。そこもとにても、そろゝゝと、つかい申べし。一、よきびんぎに、ちやをひかせ、はこにつめ候て、こすべし。一、こどもそくさいにて候や。もしゝゝ、いもはしかなどいたし候はゞ、そうとくえなどへ、談合候て、おもてへいだしみせ申候て、よくゝゝやうじゃう申べし。一、おかめに人をひとりづつつけてをくべし。さかなをいつものごとく調させ、くはせ可申候。かりそめにもなかせ申まじく候。ねんをいれ、よくゝゝそだて申べし。一、よるひをともし申まじく候。よひからふし申べし。一、ひのもとやうじん、きづかい申べし。さうべつよろづゝゝきづかい申べし。ゆだん申まじく候。一、おごせへも、びんぎ候はゞ、さいゝゝ文をもまいらせ、かみのうちをもたつしべし。一、小ひやうは、月はんぶんづゝと申候へども、人もなく候はゞ、しかとつめてくれ候はれ候へと申し候て、つめさせ申べし。ねんごろにあいしらい、ちやをもたてゝやり候やうに、申べし。一、六だゆふどのかたのと、にしのかたのと、あけ申まじく候。おすへのくち、たてゝばかりをくべくし。かりそめにも、をんなをおもてへいだすまじく候。一、物ごとものぐさく、したにばかりゐ候ては、かげの事みへぬものにて候。すこしの事にもたちまはり、いかにもりこうにはからい申べし。一、さくらだより、さいゝゝびんぎあるべく候。きゝ候て文をこすべし。一、つぎ候て、ひとへにずきん一つぬい候てこさるべし。こぞのずきんは、ちいさく候。それよりちとひろくながくぬい候てよく候。あせのごいも、かみばこのうちにあるべし。こさるべし。一、そこもとのふるききる物、よろづかび候はぬやうに、ときはなし、さいゝゝほさせ候て、よろづてをきゆだん申すまじく候。こものどもきる物なども、あらはせ候てをくるべく候。一、どこにか、きんちやくに、ぜに五十文あるべく候。そこもとにてつかい申さるべし。一、物をかき、たしかなるわかとう候はゞ、一人も二人もおき候て、じん十どのをたのみて、はんとり候て、のぼせ申べし。こものもたしかなるもの候はゞ、二人もをかせ候て、こさるべし。一、しほやふとうなつねんぐ、きつく申候て、六月ぎりにとりきり候て、びんぎにのぼせ申さるべし。いかにもきつく申候はでは、すまし申まじく候。たひょうへかたへ申をき、きつく申させ候べし。一、此ほうめしつかい候ものども、みなゝゝ何事なく候。そのよし申きかせらるべし。一、なが屋のひのもと、よくさいゝゝ申しつけらるべし。一、ねこをめのまへにをかせ候て、よくめしみづをかはせ申さるべし。一、そこもとのやうす、くはしく一つがきにしてこさるべし。一、ゑのたね、をそく候とも、ふとうへこし候て、ちやうゑもんにまかせ候■■てこさるべし。一、うちそとのはたに、なをまかせ申さるべし。一、おもてのうへきに、ばんゝゝみづをうち候へと、たひやうへかたへ申さるべし。一、いんきよ様へのらくかのくちゞゝ、いつもぢやうをおろしをき候へと申さるべし。一、こども、二日に一どづゝ、ゆをあびせ、八日十日にいちどづゝかみをあらい、日にゝゝかみをゆい申さるべし。きたなきあそびさせ申すまじく候。以上。四月卅日

一、われらあひはて候はゞ、いんきよ様の事、われら娘とひとつに御ざ候はんとおほせ候はゞ、すこしもぶさたなく、むすめのなり候やうに、いたし候べし。御うへさまとひとつにとおほせ候はゞ、そのぶんにさせ申べし。ともかくも御ためによく、御すき次第にいたし候べし。一、ふたりのむすめ事、としたけ、よめいりごろになり候とも、いかなるよきものにてか■とも、まちにんのかたへ、なかゝゝやり申すまじく候。ほうこうにんも、かせぎのけしぢかなるすまゐなどのかたへ、なかゝゝやり申すまじく候。一、たれにてもたのみ、ひととめのてはんをとりて、おはりかいせかへのぼせ、おくふかきびくにでらのびくにになし候べし。さなくばいつこうぼうずのめごになし候べし。いつこうぼうずのゑんにつけ候はゞ、くはなに、いとうびぢやうどのと申人、みののかみどのゝうちしゆに御入候。この人をたのみ、にあはしきてらへこし候べし。びくにか、いつこうぼうずのかたへか、ふたいろがひといろに、かならずいたし候べし。さやうになく候はゞ、ふかくそのほうをうらみ申すべし。一、ふたりのむすめいとけなく候まゝ、たいぎながら、そもじもおはりまでつれてのぼり、みとゞけて給べし。みちすがらふじゆふにあるべく候まゝ、ごんへもんどのをみちのうちたのみ候て、つれだち申すし。次らすけもみちのうちつれ申べし。そのゝちはぬしかんにんしだいたるべし。一、よめ事はいとまをとらせ申べし。まんとさくは、とりにげにあひ候はぬやうに、よるひるきづかい候てめしつれ候べし。ふたりのむすめにとらせ候。一、そのほうの事、にあはしきかたへゑんにつき申べし。ふたりのこどものためにて候まゝ、かならずかならず、むりにもゑんにつき、そのたよりにて、こどもをはごくみ申すべし。おとこのしんしやうにもかまいなく、おとこにこゝろのたのもしきをゑらみ候て、ゑんにつき申べし。一、そこもとに御入候、こめ、きる物のたぐい、どうぐども、みなゝゝ、ふたりのむすめにとらせ候。二つにわけてふたりへわたし申べし。どうぐどもは、やすくもみなゝゝうり候て、かねにいたし候べし。一、むらさきのよるの物、むらさきぶとん、かめやじまのこそで、かね三れう、まきへのすゞりばこ、おかめに取らせ候。一、しろきよるの物、をりむしろ、あたらしきそめこそで、かね二れう、おいしにとらせ候。一、ふるきよるの物、きる物ども、かね一れう、十人まへのべんとう、そのほう■候べし。われゝゝがね、とりあつめ十七両あまり、しろがねもあるべく候へども、ぢんばへもたせ候は、さだめて、をちちり候てあるまじく候まゝ、かきしるし申さず候。まづゝゝ、此ふみにそへ候ばかりかきたてて、かへもんにねんごろに申しつけ候まゝ、このほうのかねもとゞき候はゞ、ふたつにわけてむすめにわたし申べし。このほうのきる物、よろづどうぐも、二つにわけわたし申べし。一、いんきよ様へ、あふぎのこそで、しん上申べし。一、かねをひと手にとて、すこしもかし申まじく候。ひそかにあきないなどは、させ申すべし。一、われらゐ候はぬとて、ふたりのむすめきたなくかいどうかけまはらせ、いやしのこどもをつれにしてあそばせ申すまじく候。おくふかくきれいにそだて、八つ九つにもなり候はゞ、てならいをさせ申すべし。いづかたにゐ申候とも、まちなみにゐ申まじく候。ひとのうらやしきなど、かたわきをかり候てゐ申べし。一、ぶちの馬、天野さう右衛門どのをたのみ、うり候て、かねにいたし可申候。一、われらのために、てらへぜにを、一もんやり申まじく候。しゆつけを、たのみ申まじく候。みづむけもいらず候。しに候ひをいとい候事も、むやうにて候。くれぐれ、われら申しおき候ごとくにいたし候べし。われらしに候ひをかきつけ、はしらにをしおき候て、そのひには、むすめにゆをもひかせ、かみをゆい、つめきらせ、きる物のほころびをもぬい、てならいをもさせ、ちへをつけて、これをわれゝゝへのたむけにいたし申さるべし。くれゞゝみづむけせうじんなど申候事いらず候。一、むすめ人がましくそだて候事ならず候て、はしぢかくあさましきなりにて候はゞ、ふたりながら、うみへしづめ申べし。うきめをみせ候事、なかゝゝいやにて候。一、ちいさきしづのかたな、たじま様へ進上申すべく候。そのほかかたなわきざし、ゆみやりてつぽう、なにもかも、みなゝゝうり候て、むすめにとらせ申べし。一、たじま様より、御あづけ候どうぐどもは、みなゝゝ、たひやうかたへ、かへし申べし。一、ふとうのあねごへ、ふるきかめやじまのこそでまいらせ申べし。一、こども、かみがたへのぼり候はゞ、かへもんをたのみともにつれ申べし。のぼりくだりのろせんほど、こめをわたし申べし。いそがはしく候まゝ、くはしくは、かゝず候。よきやうに、よろづおはからい候べし。以上。卯四月廿七日 小平次(花押)

断簡

一、いんきよ様御ちやのまのうらぐちより、よそのものうちをみいれ申べく候まゝ、ことはりをいはせ候てみせ申すまじく候。一、かまやにて、あふかたのときひをたくまじく候。いんきよ様の御ようとて候はゞ、きづかいなく、たかせ申べし。一、たやべやのまへより、うらへいでゝくちあけ候はゞ、そのまゝふをつけ申べし。一、せつちんつかへ候はゞ、しほやのひやくせうまいり候ときとらせ申べし。一、つみわた、びんぎにこすし。さくらだよりびんぎあるべし。一、あめかぜふき、すさまじきよは、ながやのおんなども呼び候てねかせ申べし。いんきよ様へも、ひとりこし申べし。一、ひのようじん、ぬす人ようじん、よそのものうちへいれ候はぬ事、つかいおんなどもにふだんきづかい、とのあけたて、此ぶんきづかい申べし。一、ねんぐの事、ちぎやうゝゝへ、きつく申こすべし。よろづりこうにこゝろがけべし。一、たしかなるわかとう、こせう候はゞ、をかせ候て人も二人もこすべし。こものも一人もこすべし。二ねんもかんにん申候。一、七つすぎてよりひをたくまじく候事。一、ともしびむやうにて候。あかきより、ふし申べく候事。一、だいどころのあいのと、つねゞゝたてゝをくべし。かりそめにもあき候はゞ、よくゝゝあらため申べし。一、くらのくち、あけたてかんやうにて候。だいどころよりくらへのくち、人をつけをきてあけさせ申べし。そのくちあき候はゞ、おくみへ申べし。きづかい申べし。一、くらせばく候はゞ、ねのよきころこめをうらせ申べし。たゞし、ごんへや九らへに、だんこう申べし。一、九らへをぶさたに申まじく候。二らすけにもこのよし申べし。一、よるはひやうしぎうたせ申べし。一、あいこ、おふちやくをいたし候はゞ、せつかん申べし。せつかん申候ても、きゝ申さず候はゞ、 [この以下脱失、不全]

本書の末に記す。此文四月晦日と有候は、大阪御和睦後、伏見御城在勤致候砌の文か。委舗訳相知れ不申候。後の卯四月廿七日と有之は、夏御陣打死以前、妻方へ差越候文と存られ候。年久しき故、訳相分りかね申候。

系図

廿六代重政 竹丸、長次郎、半兵衛尉、但馬守従五位下、当時周防守家也。重克 亀千代、小平次、天正八年庚辰六月二十五日酉刻生。永原重政異母弟。自若年奉仕台徳院殿。元和元年乙卯五月、大阪再乱、御小性組水野隼人正忠清組。五月七日到天王寺辺、先進打死。于時三十六歳。当時山口周防守家頼山口十右衛門家なり。

天祥公の『武功雑記』に載す。大坂にて御旗本打死衆二十三人。大名には、小笠原兵部大輔、同信濃守、本多出雲守。御書院番衆水野隼人正組、松平助十郎、山崎助四郎、松平庄九郎、山口小平次、簗田平七、同子平十郎。同断青山伯耆守組、古田左近、松倉蔵人、別所主水、大島左近大夫、野一色頼母、服部三十郎。大番衆高木主水組、米倉小伝次、大岡忠四郎、林藤四郎、間宮庄九郎、筒井甚之助。此外安藤彦四郎[帯刀嫡子]、御使番安藤次右衛門、三十郎兄坂部作十郎。この中所見その人なり。

2017/04/20(木)北条宗哲覚書フルテキスト

[]でくくった部分は、文の横に振ってっあった部分で、大体は振り仮名となっている。

おほえ
一、きら殿御屋かたと申されへし、こなたの御やかたをハ、おたハら御屋かたと申てよく候、又ハ小田原殿とも、様とも申されへく候
一、御もしうちにてハ、上さまと申候ハん事もちろん、こなたかたへの文の上かきせうがう候ハてかなハぬ事にて候、なに殿といふ御名[ナ]づけ候てもつとものよし、けんあん申候つると、大かた殿へ申給ふへく候、これハ正月の文より入候へく候
一、大かた殿をハ、御たいはうと申されへく候、たゝしこなたかたへの御文にハ、大かたとのとやわらけ御かき候てよく候、心ハ一つにて候
大方[たいはうこゑのよミ ひくわんしゆのことハおうかたよミ]これはひつきやうしてハおなし事也、大上様[おうかミさま]とも申物也一、きら殿の御前[マヘ]へゝまいり候ハん物、上らふとりつき給ふべく候、又後[ノチ]ゝの事ハ、あまりきやくしんも、かへりてわるく候へく候
一、しうけんのときのもやう、あなたのしたてしたる人の申やうにせられ候へく候、大くさなにと申なとゝたつね申候とも、おほえ候ハぬと、返[ヘン]たう候へく候
一、さためてつねの三こんにて候へく候、さやうに候ハゝ、ほんほんのしき三こんにて候へく候、さやうに候ハゝ、くほによくたつねられ候て、したいちかハぬやうに候へく候、つねの三こんにて候ハゝ、へちきなく候ほとに、やうかましく申されましく候
一、三こんの三さか月、しうけんのときハ三ツにて御まいり候物にて候、せつく、ついたちにハ、さ候ハねともくるしからす候、いわれハ御なりの時ハ、上に候かわらけ一ツにて三とまいり候
一、引わたしのときくハへの事、くハへハいて候へくとも、くハへ候ハぬ物也、そのことくに御さた候へく候、しき三こんの時ハもちろんにて候
一、みうち衆御れい申され候ハんやうたいの事
せたかや殿の御いへにつきたるおとなしゆをハ、一つれに、そのしゆはかり御あひしらい候へく候、三のまへん[御つきのさしきの事]にて、ひきわたしにて、上らふしやうはんしかるへく候、御つきと申ても、しやうしひとへの所なとハあしかるへく候
一、ほりこし殿の御いへよりつきてまいりたるおとなしゆをハ、一とに御あひしらい候へく候、あひしらいハおなし御事にて候
一、おとなしゆニ御さか月給ハん時、しやく申候ハん人なく候、上らふせんをおしやふり給ふて、おくへ御たち、御さか月にちやうしそへて、御いてまいらせ候、これにてよく候へく候
一、きんしゆの衆御れい申候ハんやうたいおとなしゆとすこし引かへて候てよく候、これもさしきハおなしさしきにて候へく候、御さかつきハかり給へく候、かさ月のくきやうにくミ付候物候
一、おとなしゆ、きんじゆ衆御返[ヘン]れいのありやうハ、一両日すき候て、御ひきよういちうもんそへ、高はしかうさへもんを御たのミ候て、つかハされ候へく候
一、高はしかうさへもんにこそて御やり候ハんハ、三日の御しうけんのうこ過候時[シ]ふん、御とをりへめし候て、つかハされ候ハんか、これハ大かたとのへよくたつね申され、御いけんのやうに候へく候、もしじよの人ゝおもふ所も候、むよう候と御いけん候ハゝ、ミつしむくのすけをつかゐとして、やとへ御おくり候へく候、さ候とも、ひろふたにハ入ましく候、つゝらなとふせいに入候て、とりいたし、ひたりのてにてすへ、右[ミギ]のてにてうへををさへ、まいらせ候へく候、一さい下ての人に御つかい候こそて、ひろふたにハすへ候ハぬ物にて候、たとへて申候、くほうさまより、三くわんれいはしめめんゝゝにくたされ候も、ひろふたさた候ハす候、御一そくの御かたきら殿、石[イシ]はし殿、しぶ川殿なとへ、御ふくまいられ候事も候つる時も、ひろふたハいて候ハぬよし、いせのひつちう物かたり候、そう二なとハ、きんしゆ候へハ、見およひ候つるとて候、くけ衆御けらいへも、同事とて候、みのとき殿にて、さくかくニいたされ候ことてを、れん中よりひろふたにすへていて候時、ほうこうのきやう衆はらい候つると、そう二物かたり申候、ついてのさいかく御心へ候へく候一、おたハら二御屋かたより御れいき候へく候、御つかゐおとなしゆ御あひしらいのことく引わたしにて候へく候、きんしゆの衆にて候とも、屋かたの御つかゐにて候ハゝ、御あひしらいハおなしかるへく候、屋かたハ今くわんれいにて候、その御つかゐハ御ほんそう候ハてかなハぬ事候
一、一そくのしゆ、さん三との、新三郎ことき、いつれもれい申候ハんつかゐ、御屋かたの御つかいとハすこしかわり候へく候、大かたとのへ御たんかう候て、あひしらゐ給ふへく候
一、水主むくのすけ、比木つしよ、すへゝゝまてもまいりかよふへく候か、御ねんころ候へく候、大屋、なかたなとも、ひくわん一ふんのものにて候、御めかけ候て、御ようをもおほせつけ候へく候
一、清水[シミツ]、笠原[カサハラ]御れいにまいり候ハゝ、おとな衆御あひしらいのことくにて候へく候
一、御むかゐにまいりたるおとなしゆへハ、つきの日ミつしむくのすけつかゐとして、よへハ、御しんちうと、上らふより仰とゝけ、よく候へく候、たつしいかゝ候ハん哉らん、かうさへもんに御たんかう候へく候、御れい申され候て後にも、つかゐ御やり候ハんか、かうさへもんいけんに御まかせ候へく候
一、しん三郎かたへの御れいきハ、春よく候へく候、大かた殿へたつねあわせ申され候へく候
一、あき人しゆ御れいにまいり候へく候、御あひしらい、此ほと大かた殿ニなされつけたるやうにあるへく候
以上、大りやく此ふんか
一、正月くわんさんよりかゝミ、子のひ、七日、十五日いわゐ、大かたとの此とし月なされつけたることくにて候へく候、そのふんけんあん申候つるよし、御ことわりよく候へく候
三月三日、五月五日、みな月、七月七日、八さく、九月九日、いつれもおなし
一、いのこもちゐの事、きんねんおたハらにしかゝゝと御いわゐ候ハぬまゝ、やうたい人わすれ候、されともきゝおよひ申候ふんハ、御まへゝまいり候四はうの上につミたるもちを、一つつゝ御はさミ、ちやくさのめんゝゝ衆ハ三くわんれい、山名[ナ]、一色[シキ]以下[イケ]のかたゝゝへ被進候、其後[ソノノチ]たれにても御ともしゆ御せんをもちて、御とをりへいてられ候て、しこうの御ともしゆ、きんしゆへいたるゝさよし承候、国ゝにある大めいハ、代官をのほせはいりやう候、大裏[リ]の御やうたいをも、西[にし]殿へ尋申候、当関白さいせんにはいりやう候て、したいに大なこんまてはいりやう候、これハ女房[ほう]しゆのいたさるゝとみえ候よし、御物かたり、しか■ハ御いわゐ候ハん時ハ、上らふへハさしきにハさミてまいらせられ候へく候、中らうへハ上らふはさミ候ていたされしかるへく候、おもてハ、おもてにての御いわゐにて候へく候まゝ、申事なく候、このいわゐハ、天りやくの御かとの御とき康保[かうほう]年ちう、むらさきしきふいたしたると、ふるき物にハみえ候、大りの御まつりことかくゝゝのうちにて候、ぶ気[ケ]に御いわゐも、たかうちいらゐハくけに御なり候まゝ、御いわゐにて候へく候、ついてのなまさいかく申候
一、さとうしゆまいり候ハゝ、御さか月給、御ひき給候へく候、あたなかたに候ハんするさとうしゆまいり候ハゝ、御ねん比ハ候へく候、なれなれゝゝしくハ御おき候ましく候、ついてに御心へ候へ、さとうとても、おとこのめのくらきにて候、女中[シヨチウ]かたへあんないなしに立[タチ]入物にてハなく候、てんかそのふんにて候、やすき事やうしゆゐん殿の御とき、うちつなくわ一と申候けんきやう候つる、へいけ御きゝ候とて、われゝゝおほえ候て、からかミのまへ、一とめし候つる、その時もやうしゆゐんとのハおくのまに御さ候、きんねんさとうと申せハ、いつれもおくかたへまいり候、心へかたく候へとも、御国ふりにて候まゝ、一人して申されす候、たゝしミん一なとまいり候ハゝ、御心やすく御よひ候てもくるしからす候、おさなくより御しり候、又としよりぬ候か、ふつつか物にて候、御ねんころよく候へく候、さ一これ又おなしこときの物にて候、その外ハなれゝゝとハめし候ましく候、さて候とも、さとうしゆなと、三こんのなとのうちにハ、御しやうはんにハめし候ましく候、御つきにて給候か、又御またせ候て、のちに御さかな給候て、くこん給候へく候、うこの時ハ、御しやうはんくるしからす候、てんしんとうせんの事候、かやうの事ハ、へいせいもかたきをめされつけ候て御をき候へく候、きんねんこゝもとさためかたく候て、きハゝゝとも候ハす候、するかなとハ、さやうの事、きハめてしきはうゝゝにて候、御かくこ候へく候、
十二月十六日/そう哲(花押)/宛所欠
戦国遺文後北条氏編3535「北条宗哲覚書」(立木望隆氏所蔵宮崎文書)