2022/08/23(火)北条氏規妻の実体

氏規妻は綱成の娘か

通説で「高源院殿」とされていた北条氏規妻の戒名について、過去帳を検討した結果別人のものである可能性が非常に高くなった。そこで、改めて彼女の実体を推測してみる。

寛政譜では北条綱成の娘となっている。これは昨今の通説でも受け入れられており、氏規文書に水軍・三浦半島に言及したものがが見られることから、これらを統括している綱成の保護下にあったと想定、氏規が綱成娘を娶ったことを肯んじている。

まず関係史料から挙げてみよう。

仁科郷の地頭

「北条美濃守御前方」は、伊豆国仁科郷の地頭(領主)として登場する。1589(天正17)年11月の記録で後北条最末期のものではあるが、美濃守氏規の妻が仁科の地頭であったことが判る。

  • 戦国遺文後北条氏編4969「佐波神社棟札銘」(西伊豆町仁科佐波神社所蔵)

    奉修理、三島大明神御宝殿之事。右大旦那本命辰之天長地久子孫繁昌諸願成就、本願須田図書助盛吉(花押)
    当地頭北条美濃守御前方、大工瀬納清左衛門・鍛冶鈴木七郎左衛門、于時天正拾七己丑年霜月吉日

伊豆の仁科郷というと、1561(永禄4)年に北条氏康が「父氏綱は禁裏のご修理の費用に仁科郷を進上した」と書いているように、それなりの収益が見込まれる土地であった。所領役帳での仁科郷は100貫文しか計上されていないものの、実態としては仁科郷を中心にした村落群を「仁科」と呼んでいたようで、1583(天正11)年には清水康英が「仁科十二郷御百姓中」に宛て、三島宮の八朔行事への出資を命じている。

仁科北方の地頭、山本家次

仁科の歴史を遡ると、仁科の北にある田子漁港の近くにある神社の棟札が地頭の存在を記している。

-戦国遺文後北条氏編4657「天満宮棟札銘」(多胡神社所蔵)1560(永禄3)年5月2日

(表)大日本国伊豆州仁科庄大多古郷、地頭山本信州守家■。奉新造栄天満大自在天神、大工新衛門宗■・代官松井与三左衛門。于時永禄三年庚申五月初二日、郷内子々孫■■栄也、及至法界平等利益乎(裏)仁科鍛冶太郎左衛門尉広重
謹、敬白
帯一筋、道祐・麻五十目、九郎左衛門尉・■■■■■■

ここにあるように、1560(永禄3)年の仁科庄内大多古郷地頭は山本家次。彼は三浦郡の出自で水軍を率いており、最初は為昌配下にあり、次いで氏規指揮下に入った人物。前年完成した所領役帳で家次は御家中衆に分類され、その知行とされているのは伊豆国内の田子・一色・梨本とある。どうやら仁科十二郷北部とその東方に所領があったようだ。

所領役帳では渡辺弥八郎が領主

渡辺弥八郎は所領役帳で小田原衆として記載され、知行地として仁科郷の100貫文が記載されている(但し「今者公方領」との注記があり、永禄2年時点では後北条直轄領だった模様)。山本家次領が北方を占めていたことから、弥八郎が領した「仁科」は中心部の限定的な領域だったと思われる。

その弥八郎と同族だと思われる渡辺孫八郎に対して、後北条氏は虎朱印状を発給している。仁科郷からの陣夫1名を北条氏秀(孫二郎)支給に変更するため、代替として富岡・大岡から後藤彦三郎が使っていた陣夫1名を孫八郎に派遣するとした。氏秀は綱成の弟なので、ここでも玉縄家と仁科の繋がりが窺われる。

  • 小田原市史資料編小田原北条0561「北条家虎朱印状」(渡辺文書)1563(永禄6)年

    前ゝ仁科郷より召仕候陣夫壱疋、自当年孫二郎前引ニ被遣候、此替久良岐郡富岡・大岡郷より、前ゝ後藤彦三郎召仕候陣夫壱疋、現夫を以、為仁科之夫替被下由、被仰出候、仍如件、
    癸亥四月廿六日/日付に(虎朱印)南条四郎左衛門奉之/渡辺孫八郎殿

番銭の滞納事件

永禄8年、仁科郷が納税を怠っていた事件が勃発し、そのことで周辺にいた人々の名前が明らかになる。

  • 小田原市史資料編小田原北条0628「北条家虎朱印状」(三島明神文書)1565(永禄8)年

    子歳番銭未進事。拾三貫六百四十文、仁科
    右、先年以配苻、無未進年ゝ可致皆済段、堅被仰付処、于今無沙汰仕儀、一段曲事被思食候、当月切而可済申、若当月を至于踏越者、以牛馬可引取、百姓共をハ五人も三人も可搦取、并名主草丈をも押立、小田原へ為引可申、此儀聊も無沙汰至于申付者、奉行人可遂成敗、為其改而一人被指加者也
    一、酉戌亥子四年間、此番銭済候様体、此度委可申披事
    一、代物之ほとらい、御本被遣事
    以上、
    乙丑七月八日/日付に(虎朱印)/仁科船持中・奉行中村宗兵衛・同村田新左衛門尉・田蔵地代源波・浮奉行中村又右衛門・山口左馬助

永禄7年の番銭13.64貫文を仁科郷が滞納した件が問題になったのが判る。7月4日の布告で「もし月を跨いで滞納するなら牛馬を差し押さえ百姓を何人でも捕縛して、名主草丈(方丈?)でも小田原へ連行する」と強硬に命じている。納税者の船持中だけでなく、奉行3名に加えて臨時奉行と思われる2名にも納税を命じていて、怠るなら奉行でも成敗するとしている。この滞納は4年も続いていたようで、過去に遡及しての完済も同時に求めていたから、まあそれは厳しく取り立てるだろう。

  • 小田原市史資料編小田原北条0629「北条家虎朱印状写」(三島明神文書)1565(永禄8)年

    仁科郷子歳番銭未進、曲事候、当月ニ切而皆済可申、若至于踏越当月者、百姓をは搦捕、其上地頭ニ可被懸過失候、為其兼日以御印判被仰出者也、仍如件、
    乙丑七月九日/日付に(虎朱印)/左衛門大夫殿

過激な徴税命令を出した翌日、氏政は一門の綱成に徴発を依頼している。月末を過ぎても納付がなければ、百姓を捕縛し、さらに地頭に過失の責務を負わせるとしている。地頭がいたということは、この段階で仁科は直轄領ではなくなっていた。そして地頭が綱成だったのだろう。地頭が綱成とはいえ番銭は後北条当主へ納める仕組みで、その徴税代官が先行したものの難航して綱成にも連帯責任を警告したものと思われる。

この地頭職を、綱成は娘に譲った可能性が高い。

まとめ

上記より、氏規妻と綱成は、伊豆との関係性が見られることが判った。間を繋ぐ氏規は更に伊豆と関係が深いことから、この3人が密接な関係にあったと見てよいと思われる。寛政譜にある「氏規の妻が綱成の娘」という記述と従来の通説を、更に補強する結果となった。

綱成の生年は1515(永正12)年と伝わるので、1545(天文14)年生まれとされる氏規とは30歳違いであり、年齢的に不自然さはない。綱成長男の氏繁が1536(天文5)年生まれなので、その妹とすると氏規と同年齢か少し年上だった可能性はある。

北条氏勝はなぜ小田原開城後に躍進したのか

これは状況証拠であるのだが、氏規の妻が綱成娘とすれば、玉縄北条家が本家滅亡後に徳川家康に特別に取り立てられた理由が判る。軒並み落魄した一門の中で、氏規と氏勝は別格の扱いを受けている(天正19年閏1月に氏勝は自領の岩富で検地を行なっている)。

元々羽柴・徳川と関係を持ち最後まで軍事的に抵抗しえた氏規が高評価を受けて栄達するのは判り易いのだが、さほどの活躍を見せていない氏勝が、徳川家中で一万石を初動で得る理由が判らなかった。これを、氏規夫妻による嘆願が背景にあったとすれば納得がいく。

氏規夫妻と氏勝の関係が窺える史料がある。北条氏勝・直重が連名で伊豆の長楽寺に宛てて判物を発行しているもので、伊豆に関して二人が言及しているのはこの文書だけ。これは、氏規夫妻が政務を開始した甥っこ兄弟に指南をしていたと考えられる。

  • 戦国遺文後北条氏編2535「北条氏勝・直重連署判物」(下田長楽寺文書)

    大浦薬師免田之事、右如前ゝ聊不可有相違、并近辺林之竹木等、仮初にも横合非分不可有之者也、仍状如件、
    天正十一年癸未五月十二日/左衛門大夫氏勝(花押)・新八郎直重(花押)/長楽寺参御同宿中

そもそも玉縄家は、綱成の後の氏繁が1578(天正6)年に死去してから外交・軍事ともに大きな働きはしなくなっていた。氏規の妻がこのことを気にかけていた可能性は高い(本格的な検討は必要だが、氏繁妻のものと比定されている朱印状3通(天正12~14年)も、氏規妻が実家のために発行したのかもしれない)。

1590(天正18)年の小田原合戦を見ても、氏勝は4月21日に無血降伏して玉縄を明け渡しており、扱いとしては鉢形を開城した氏邦と差異はない。

氏勝の降伏表現

  • 豊臣秀吉文書集3037「羽柴秀吉朱印状」(島津文書・東大史写真)4月23日

    (抜粋)「来月朔日鎌倉為見物可被成御出候、彼近所ニ有之玉縄城此方へ相渡、物主北条左衛門大夫走入、命之儀御侘言申候間、相助家康へ被遣候、即右地へ相移、関東之城々悉請取、此方之人数可被入置候」

  • 神奈川県史資料編3下9773「川島重続書状」(伊達文書)5月2日

    (抜粋)「下野国ノ侍皆川山城守走出申候、人数百計召連候、其外北条左衛門大夫命を被助候様ニと申上、無理ニ罷出候、左衛門大夫ハ玉縄と申城ニ籠申候つる」

  • 神奈川県史資料編3下9810「榊原康政書状案写」(松平義行所蔵文書)要検討。6月

    (抜粋)「随而廿一日相州玉縄城明渡、城主北条左衛門剃髪成染衣形出仕申候、其後伊豆国下田城清水上野楯籠候、是茂剃首助命、城指上申候」

氏邦の降伏表現

  • 豊臣秀吉文書集3276「羽柴秀吉朱印状」(東京国立博物館)6月28日

    (抜粋)「武州鉢形城北条安房守居城候、被押詰、則可有御成敗と被思召候処ニ、命之儀被成御助候様ニと、御侘言申上ニ付、去十四日城被請取候、安房守剃髪山林候」

  • 神奈川県史資料編3下9810「榊原康政書状案写」(松平義行所蔵文書)要検討。6月

    (抜粋)「其後同国鉢形に氏政舎弟安房守楯籠候処、北国人数并浅弾人数可押寄支度候処、急懇望申、助身命候、前代未聞之比興者之由、敵味方申候」

上記を合わせて考えると、氏規妻が甥の氏勝を引き立てたという理由が成り立たないにしても、氏勝の不自然な躍進は何らかの考察を加えるべきだろう。

2022/08/20(土)北条家過去帳の「高源院」は誰か

戒名比定の根拠

北条氏規妻の戒名が通説で「高源院玉誉妙顔大禅定尼」と比定されているのは、北条家過去帳の記載が根拠(下記リスト「平塚_北条家過去帳」タブ内、項番41)。

後北条氏関連人物過去帳

日牌 高源院玉誉妙顔大禅定尼  北条久太郎殿為曾祖母 寛永五戊辰六月十四日

ただ、これには疑問がある

  1. 院号の「高源院」は山木大方と同一。後北条家中での重複は他に例がない。
  2. 正確には「久太郎殿曾祖母」の戒名であり、氏規妻と限定できない。
  3. 「院」のあとに「殿」がない「大禅定」は、他に例がなく不自然。

3については恐らく、伝聞に基づいて不確かな戒名を記したか、「高源院玉誉妙顔禅定尼」もしくは「高源院玉誉妙顔大姉」の位階を強引に「大禅定尼」と変えたかではないかと推測している。父方・父方の曾祖母である氏規妻の戒名にしては、どうも他人事のような書き方だといえる。

「久太郎殿」は誰か?

この過去帳で「高源院」は「北条久太郎殿為曾祖母」となっている。北条久太郎殿が曾祖母のために位牌を立てたということだが、北条久太郎は二人存在する。

  • 氏勝の養子で玉縄北条家当主だった久太郎氏重(1595~1658年)
  • 氏規の孫で狭山北条家当主だった久太郎氏宗(1619~1685年)

過去帳に見られる「久太郎」記載の分布は1628(寛永5)年~1672(寛文12)年となっており、「高源院」記載が1628(寛永5)年6月14日でその最初に位置する。

氏重は1658年に亡くなっているから、久太郎は氏宗と見てよいだろう。

※北条家過去帳では「高源院」記述の後に「北条民部少輔氏重」(項番42)とあってなかなかにややこしいが、官途と命日(寛永十三年七月八日御命日)から見てこの氏重は氏盛の弟の方だろう。

北条氏宗の曾祖母は誰か?

簡単な図にしてみた。

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氏宗曾祖母のうち、素性が判るのは北条氏規の妻・船越景直の妻・佐久間盛次の妻。それぞれの可能性を検討してみる。

A)氏規の妻

 彼女が「高源院」であった場合、綱成の娘か氏規の妻、もしくは氏盛の母と書くはず。他の記載もすべて娘・妻・母の関係性で記述されている(「祖父」は1例。「祖母」はない)。北条家過去帳は江戸北条と狭山北条の両家があれこれ手を加えているが、狭山北条だけでなく、玉縄北条の嫡流を自認する江戸北条家にとっても、氏規妻の存在は重要である筈だから、異例の「曾祖母」とだけ書くとは思えない。また「院殿」とすべきところで「殿」とする誤記をするとも思えない。

 また、後北条家中で位が高かった山木大方(氏綱娘)の法名が「高源院」。このことは彼女の生前から文書で関係性があったことが確認できる。この名前をわざわざ綱成の娘につけるだろうかという強い疑問もある。

B)船越景直の妻

 寛政譜によると池田輝政被官の野田三右衛門の娘だという。父の祖母だから関係性として低くはない。ただ、彼女だった場合、Aと同じ理由で、氏盛の妻・氏信の母と書くのが普通だろう。やはり違和感がある。

C)佐久間盛次の妻

 寛政譜によると柴田勝家の姉だという。勝家は1522(大永2)年生まれなので、その姉となると明らかに世代が合わない。柴田家の誰か他の女性が盛次の妻だったとしても、あまりに情報が少なく判断が難しい。「氏信祖母」でもあるからそちらの記載が適切かとも見られる一方で、母方の系譜なので発起人である氏宗からみた係累を記述した可能性はある。

D)その他の女性

 さらに情報がないのは佐久間安政の妻で、勧修寺晴豊の娘(土御門氏)という情報がネット上にあったものの、根拠に乏しい。安政は一時期小田原にいたと寛政譜にあるため、小田原ゆかりの女性である可能性もある。何れにせよ判断するだけの材料がない。

 氏宗にしか関わりがないために父母・祖父母を飛ばして「曾祖母」にしたとすると、氏宗妻の曾祖母(氏宗から見て義理の曾祖母)であった可能性の方も捨てがたい。ところが、図にあるように妻の曾祖母を弔った可能性もあるかと調べてみたところ、氏宗の岳父である大久保幸信の妻がいきなり不明で、大久保と石川しか追えなかった。このどちらも、大久保忠世の妻とか、石川家成の妻とか書いた方が江戸期は箔がつくだろうから、言葉少なく「曾祖母」とだけ書いたのは不自然である。

 以上を勘案すると、父系のAとBは候補から外れ、Cの可能性がわずかにありつつ、全く不明な人物の方が有意に蓋然性が高いといえる。つまり、氏規の妻が高源院である可能性は候補者の中で最も低いことになる。

2022/03/23(水)新出の北条氏照・氏規連署書状

Twitterのフォロワーさんからご教示いただき、『川崎市文化財調査集録55』にて北条氏照・氏規の連署状が新しく発見されたことを知った。

この文書についてあれこれ考察してみようと思う。

新出文書

北条氏照・氏規、韮山の某に駿東の戦況を報告

原文

不寄存候処、此度就致出陣、御使特御折紙、披閲本望之至存候、昨日者、興国寺へ罷移、万端申付候、陣屋等無之間、打返黄瀬川端陣取申候、明日者、吉原辺迄陣寄、一両日之内、富士筋地形見聞、彼口之様子可申達覚語候、委曲大草方口上頼入候、恐々謹言、
七月十二日/氏照(花押)・氏規(花押)/宛所欠(上書:韮山江御報 北条源三・■■■)

川崎市文化財調査集録55「北条氏照・氏規連署書状」(王禅寺文書)1569(永禄12)年比定

解釈

思いがけず、今回の出陣について御使者、特にお手紙をいただき拝見しました。本望の至りに思います。昨日は興国寺へ移動し、万端申し付けました。陣屋がなかったので引き返し、黄瀬川岸に陣取りました。明日は、吉原辺りに陣を寄せ一両日のうちには富士方面の地形を調査して、あの口の様子を報告する覚悟です。詳しくは大草方へ口上を頼みました。

疑問点

文意から氏規が連署する必然性はない

「富士筋地形見聞」とあるが、氏規は駿府育ちだし吉原までの進軍は前年12月に行なっている。武蔵・下総での合戦しか経験がない氏照単独なら判るが、むしろ不審に見える。元々は氏照単署だった書状に氏規が巻き込まれた感じがする。

戦国期の連署の実態については先行記事連署の順番は序列を表すかをご参照のこと。

奥書きとしての宛所がなく、上書き宛所が小路名

書状の奥に宛所を書かずに上書きで宛名を書く例は少ない。更に、写し文書だと宛所が削除された可能性があるので、これを除外すると179例ある。

宛所欠で上書きあり_正文

上記例をざっと見ると、女性や僧侶に宛てたものやごく近い人間に内々の情報として送ったもの、急いで報じようとしたものが多い。敬称についても丁寧なものもあり、それなりに格上相手にも送られたようだ。

この中で宛所が小路名(地名)になっているものは1例しかない(戦国遺文後北条氏編3687)。これは伊豆山中城に籠城中の松田康長が箱根権現別当に宛てたもので、上書きに「箱根へ尊報御同宿中 自山中松兵太」とある。とはいえ、他の寺社宛てではことごとく寺社名を宛所にしているのでこれは例外中の例外と見てよいだろう。

「韮山」に敬称としてつけられた「江御報」は他に4例があるが、何れも奥書の宛所に用いている(北条氏照2・千本芳隆・真壁氏幹各1)。氏照文書として違和感がないものの、なぜ奥書の宛所が書かれなかったのかは違和感がある。

北条氏政弟の連署は珍しく、他には天正10年の氏照・氏邦連署が2通あるのみ

北条氏政の弟達は連署を出すことがほとんどない。氏照・氏邦が連署を出したのは甲信遠征時であり、虎朱印状の奉者としても両人が名を連ねる例外案件。どういった状況で出されたものかを慎重に見極める必要がある。

文書を取り巻く状況

永禄11年12月12日、駿河国に侵攻した甲斐国の武田晴信に対して、北条氏政は素早く今川氏真支援に動き、駿東方面の各拠点を押さえた(薩埵・蒲原・富士大宮・興国寺)。氏真は駿府を維持できずに遠江国掛川へ逃れるも、晴信と示し合わせて三河国から遠江国に侵入してきた徳川家康の包囲を受ける。そこで氏政は伊豆国から海路援軍を送り、掛川の氏真に合流させた。

一方で氏政の父氏康は晴信との交戦に伴って、これまで対立してきた越後国の上杉輝虎との同盟を模索、氏政の弟である氏邦から由良成繁を介して交渉を行なう。同時期に、下総国関宿で上杉方と交戦中だった氏照も、北条高広を介して輝虎に独自接触し同盟交渉を始めた。

翌年閏5月になって事態は急転回し、掛川で氏真を囲んでいた家康が氏政と和睦。氏真退去後の掛川を接収することで合意し、氏真らは後北条被官達とともに駿河へ帰還する。この外交転換で晴信は東の氏政、西の家康から挟撃される形となり駿河国から撤退することとなった。

その後、なおも甲斐国から南下する晴信に備えるため、氏政は薩埵・蒲原・富士大宮・興国寺のほかに、御厨で矢倉沢往還を押さえる深沢城を構築。対する晴信は、上野国や秩父からの侵入を小刻みに行なって後北条方の兵力を分散させつつ、富士大宮の攻略作戦を進めていく。

こうした中で5月下旬から富士大宮は武田方に包囲されていた。閏5月を挟んで6月28日・29日に氏真が富士大宮籠城衆の奮戦を称えているものの、同時進行で籠城衆は武田方と開城交渉を行なっており7月3日には城主らが退去して開城したようだ。

氏照の参戦状況

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この時の後北条方は、蒲原の北条氏信、興国寺の垪和氏続、深沢の北条綱成は継続して在城したものの、薩埵近辺で奮戦していた北条氏邦は本領の武蔵国鉢形に戻っている。これは、武蔵国への侵攻を武田方が試みている状況を受けてのもの。代わって、越相同盟交渉の進展で武装解除された下総国戦線から北条氏照が引き抜かれた(6月9日に相模国小田原で後北条一門が集まって輝虎への起請文を作成していることから、氏照はそのまま留まっていたと見られる)。

ただし氏照の動きは緩慢だった。6月28日に氏照は野田景範に西方戦線への移動を伝えているが、7月4日になっても小田原にいて「富士大宮への支援で氏政が出馬して私の部隊も同行するようだ」と書きつつ、栗橋留守部隊の移動指示をしている。こうした氏照の不安を解消するべく、これに先立つ7月1日に氏政・綱成が相次いで景範に留守居を指示している。氏政は何としてでも氏照を駿河戦線に投入したかったのだろう。

氏政の思惑を横目に、氏照は7月5日になっても武蔵国御獄の番衆の労をねぎらったりして視線が東に引き寄せられたまま。この2日前に富士大宮は開城しているが、富士信忠は後北条方に留まり、恐らく吉原近辺で失地回復を目指していた頃だ(信忠は氏真から暇状をもらう元亀2年10月26日までは後北条方に留まっている。また、7月4日に蒲原城番の氏信が吉原の各拠点に対して督戦したり禁制を出したりしている)。

この時点で富士大宮を奪還できれば駿東戦線は維持継続されていた筈で、ここが重要な転換点であることは後北条方も認識していた。だからこその氏照投入だった訳だが、7月12日段階で氏照は黄瀬川に引き返していた。17日に氏照は輝虎に書状を発しているが、内容は取次担当者の確認のみで駿河戦線には言及していない。既に戦線から離れていたのだろう。

永禄11年12月の際は、12日に晴信が駿河国に侵入すると翌日には氏政が三島へ着陣、15日に氏規が吉原で禁制を発している。これと比べると、吉原にさえ進まなかった氏照は進軍に消極的だったといえる。

宛所は何者か

使者として「大草」を使えて、氏照に「氏規連署が必要」と思わせる人物。そしてその人物は韮山に滞在していたが、それを氏照が想定できていなかった。手がかりとして確実なのはこの程度だろう。

そこで候補者を挙げつつ、それぞれ条件に合致するかを記してみる。

氏真

  • 合致

    • 被官に大草次郎左衛門尉が存在
    • 上書に「北条源三」とある点は他家宛てを想起させる
    • 氏照は面識のある氏規を連署に加える配慮を見せた
  • 不合致
    • 他家太守を敬ったにしては奥書の宛所がない
    • 他国太守に宛所を欠いた書状は見られない
    • 韮山は暫定滞留なので「御陣所」をつける可能性が高いがそれがない
    • この時点では氏真は沼津にいた(別記事参照今川氏真帰国後の居所

宗哲

  • 合致

    • 大草康盛(左近・丹後守)がのちに奉者になる
    • 息子の氏信が蒲原に在城しており連携しやすい
    • 身内なので奥書の宛所を略した可能性がある
    • 北条氏康が宗哲に宛てた書状は宛所欠で上書きに「幻庵参 太清軒」(戦国遺文後北条氏編1535)とあり形式が近い
  • 不合致
    • この当時の大草康盛は虎朱印状奉者で繋がりが弱い
    • 宗哲宛ての文書5通で小路名のものはなく、全て「幻庵」を含む。地名を含んだ場合も「幻庵久のとのまいる」(戦国遺文今川氏編2367)となる
    • 上書の「北条源三」が他家宛てを想起させる
    • 氏規を連署にする理由が想定できない

山木大方

  • 合致

    • 韮山に知行を持っている
    • 身内の女性宛てなので奥書の宛所を略した可能性がある
  • 不合致
    • 使者「大草」との繋がりが不明
    • 女性宛ての文書でない
    • 香山寺住持など他者を介したとしても当該文書内に「披露」の文言がない

氏政

  • 合致

    • 7月4日の氏照書状では氏政が三島に出馬するとあり、伊豆に在国した可能性がある
    • 虎朱印奉者として大草康盛を帯同できた
    • 兄の叱責を恐れ、作戦進行の遅れを弁解するため氏規の連署を入れた
  • 不合致

    • 相模円能口合戦の褒賞、知行宛行、課役徴発といった文書発行を見ると小田原在城の可能性が高いように見える
    • 氏照が「思いがけず連絡をもらった」と驚く要素がない
    • 上書の「北条源三」が他家宛てを想起させる
    • 氏政は駿東の戦況と地形に詳しく氏規を連署にしても言い訳にならない
  • 備考
    • 弟から氏政への書札礼の例がないため比較不能
    • 結びが「恐惶謹言」でなくても問題なし
    • 後北条一門は他家太守に宛てて「恐々謹言」で文書を発している
    • 吉良氏朝が氏政に宛てた書状では結びが「恐々謹言」で宛所が「御隠居」(戦国遺文後北条氏編3256)

氏康

  • 合致

    • 大草康盛は永禄9年6月10日に氏康朱印状奉者になっており帯同に問題はない
    • 7月2日、伊豆国桑原郷に箱根竹の供出を命じている(伊豆への朱印状発給は異例)
    • 開戦初頭から小田原にいたため最新の戦況・地形に疎く氏規連署が言い訳になる
    • 氏康の韮山滞在を氏照が把握できておらず驚いた可能性が高い
    • 氏康は7月3日~26日に文書が見られず外出していた可能性がある
  • 不合致

    • 上書の「北条源三」が他家宛てを想起させる
  • 備考
    • 息子から氏康への書札礼の例がないため比較不能
    • 結びが「恐惶謹言」でなくても問題なし
    • 後北条一門は他家太守に宛てて「恐々謹言」で文書を発している
    • 吉良氏朝が隠居後の氏政に宛てた書状では結びが「恐々謹言」で宛所が「御隠居」(戦国遺文後北条氏編3256)

まとめ

北条氏照・氏規の連署状は、駿河国富士大宮城の救援に失敗した過程を表している。富士信忠が本拠を失陥することは、駿河を巡る北条氏政と武田晴信との紛争で画期となる出来事であり、東の戦線から氏照を入れることで乗り切ろうと氏政は考えていた。しかし氏照の動きは緩慢で手前の吉原に至ることなく黄瀬川に引き返している。

富士大宮城に関して氏照は他の書状で「悪地誠ニ雖屋敷同前之地ニ候」(戦国遺文後北条氏編1277)と酷評しており、状況打開の意気込みは感じられない。ただ、この連署状では強気な発言はなく「興国寺に陣所がなく引き返した」と弁明のような趣旨が感じられるし、氏規を連署に引き込んでいる点から「自分だけのせいではない」という主張も想定できる。

この点から見て、氏照が強く出られず氏規が言い訳に使える相手が宛所、すなわち氏康である確率が高いだろうと考えている。

もう一歩踏み込んだ考察

ここから先は「宛所が氏康」という前提で考えてみる。仮定を重ねているので参考用の覚書となる。

この連署状を送ったあとの氏照は、7月17日付で輝虎に書状を送っている。

北条氏照、上杉輝虎に取次役の担当者を確認する

原文

態預芳札候、御懇切之段、誠以本望至極存候、仍越相御一味御取次之事、弟候氏邦并氏照可走廻段、去春氏康被申述候之哉、於拙者存其旨候、然ニ此度就両使御越、氏邦一人走廻儀、御不審之由候、由良手筋故、如此候キ、於氏照も内外共、従最前之御首尾、聊不存無沙汰馳走申候、定而広泰寺・進藤方可被申達候、委細山吉方頼入之由、可得御意候、恐々謹言、
七月十七日/北条源三氏照(花押)/越府江御報

戦国遺文後北条氏編1287「北条氏照書状」(上杉文書)1569(永禄12)年比定

解釈

わざわざお手紙をいただき、ご懇切なこと本当に本望の限りに存じます。越相同盟の取次役のこと、弟の氏邦と氏照が担当すると、去る春に氏康が申しましたでしょうか。拙者においてはそのように考えていました。しかるに今回、両方の使者が伺うことについて、氏邦一人が担当しているのがご不審とのこと。由良成繁経由なのでこのようになりました。氏照においても内外ともに最初から最後まで、少しの無沙汰もせずに奔走します。恐らく広泰寺・進藤方より申されるでしょう。詳しくは山吉方に頼みました。御意を得られますように。

この「取次役が氏邦・氏照で不審」と輝虎から言われた案件は、3月3日に氏康が回答済み。その時氏康は「氏邦と氏照の2人を使っても、どちらか一人でも構いません。もし氏照を継続させるとしても由良成繁経由に統合します」と輝虎に伝えている。その時の書状は下記になる。

北条氏康、上杉輝虎被官の河田伯耆守・上野中務少輔に取次担当者について確認する

原文

一、越相取扱之儀、旧冬以来源三・新太郎如何様ニも与存詰、様ゝ致其稼候、就中新太郎ニ者愚老申付、由信取扱ニ付而、無相違相調、源三事も、涯分走廻処、難指置間、以天用院進誓句砌、源三・新太郎扱一ニ致、以両判添状申付候、然ニ自陣中三日令遅ゝ、二月十三日来着候、天用院をハ十日ニ当地を相立候、然間、其砌両判添状をしおかれ、愚老預置、此度進候。一、向後之義者、両人共可走廻歟、又不及其儀、一人可走廻歟、菟も角も輝虎可為御作意次第候、愚老心底者、両人共ニ走廻候者、弥可満足候、菟角可然様、各頼入候。一、源三事も由信方頼入、以同筋可申入候、猶爰元不可有紛候、恐ゝ謹言、
三月三日/氏康/河田伯耆守殿・上野中務少輔殿

小田原市史資料編小田原北条0791「北条氏康書状写」(歴代古案三)1569(永禄12)年比定

解釈

一、上杉と後北条との取次役のこと。旧冬以来氏照・氏邦がどのようにも対応しようと思い、あれこれ励んでいました。とりわけ氏邦には愚老が指示して由良成繁の取り扱いとして相違なく準備させました。氏照も随分と活躍していましたが配置が難しかったので、天用院が起請文を進呈した際に、氏照・氏邦の扱いを統合すると、双方が花押を据えた添状を用意させました。しかるに陣中より3日も遅れて、2月13日に到着。天用院は10日にここを発っていました。その添状を愚老が預かっておりましたので、この度お送りします。一、今後のことは、両人ともに起用しましょうか。またはそれには及ばないなら一人だけにしましょうか。とにもかくにも輝虎のお考え次第です。愚老の心底では両人ともに使ってもらえれば、満足です。ともかくしかるべきように皆さんお願いします。一、氏照となっても由良成繁を頼みますので、経路は同じになるでしょう。更にこちらから混乱させることはないでしょう。

このように氏康は取次役をどうするかは輝虎に一任しているのだが、その案件を半年を経て氏照がわざわざ蒸し返したのがなぜか、今まで判らずにいた。恐らくは輝虎が明確な返事をしなかったのだろうかと。

しかし、富士大宮失陥への対応失敗を受けて氏康の不興をかった氏照が越後への取次役を確認することで、外交上で重要な地位を占めているのだと、輝虎を介して氏康に伝えたかったと考えれば腑に落ちる。

そして連署状で「北条源三」と上書きに書いたのは、氏照が勝手に北条に改姓したことに繋がるように見える。元々氏照は「大石源三」と自称しているが、晴信の駿河乱入で独自に輝虎と同盟交渉を始めた際に「平氏照」「北条源三氏照」と自署していた(大石氏は源氏で、それは氏照仮名の「源三」にも表れている)。

ところが、この当時他家の本文内では一貫して「大石源三」と呼ばれている(上杉家中ですら)。氏康にしても氏照・氏邦を同列に扱っており、藤田を名乗り続ける氏邦と、北条に復姓したはずの氏照を同列に扱っていた。また、氏康・氏政と氏照で連絡が滞っていたことは下総国山王砦破却を巡る経緯で確認できる。上記から、氏照改姓は氏康・氏政の承認を経ず、関東諸家・武田家には周知されなかったのだろうと考えている。

そしてこの独自の改姓は、6月9日に後北条一門が小田原に勢揃いして血判起請文を作成した際に氏康・氏政に知られてしまったのだろう。この時改姓を既成事実として認めた氏政とは違い、氏康は認めなかったのだろうと思う。というのは、それまでも氏政・氏邦と比して氏照言及数が少なかった氏康文書から、このあと一切氏照が登場しなくなるのである。

こうした確執を念頭に置くと、韮山から黄瀬川という短距離、かつ身内への書状にわざわざ大草康盛という懐刀を使者として送り込んだ氏康の厳しい視線と、それに身構えた返書をした氏照の鬱屈が読み取れる。

氏康・氏政の受給文書はほぼ残されていないのに、これだけが伝来したというのも、韮山でこの書状を読んだ氏康が捨てるように放置し、それを拾った者がいたのを示すのかもしれない(本拠に持ち帰って文箱に入れなかったイレギュラーさから例外的に残されたという想定)。

2022/03/22(火)今川氏真帰国後の居所

掛川退去後の氏真はどこにいたか

永禄11年12月に本拠地である駿府を武田晴信に追われた今川氏真は、掛川で籠城する。ここで徳川家康に攻囲されるものの、伊豆から海路やってきた後北条方の援軍を得て善戦。やがて北条氏政が家康との停戦交渉に成功し、掛川から出ることとなる。遠江国は徳川分国となり、永禄12年5月、氏真は自身の被官と後北条方援軍を伴って駿河へ入った。

  • 5月18日:氏政は大叔父の北条宗哲への書状で状況を報告

    「氏真御二方各無相違、昨日蒲原迄引取申候」(戦国遺文今川氏編2367)

  • 5月28日:氏政は自身の被官清水新七郎へ、掛川に援軍として駐屯したことを賞しつつ氏真帰国に言及

    「終氏真并御前御帰国候」(戦国遺文後北条氏編1228)

  • 閏5月3日:北条氏康は、氏真被官の岡部大和守に戦況を報告

    「氏真御二方、無相違至于沼津御着候」(戦国遺文今川氏編2382)

  • 閏5翌4日:氏政被官の遠山康光は、上杉輝虎被官の松本景繁に戦況を報告し氏真近況に触れる

    「只今者、三島近所号沼津地被立馬」(戦国遺文後北条氏編1240)

  • 閏5月21日:氏真は輝虎に宛てた書状で近況を報告

    「去十五日駿州号沼津地納馬候、当地氏政陣下三島為近所之間、諸事遂談合」(戦国遺文今川氏編2400)

5月17日に遠江国の掛川から駿河国の蒲原に移る。ここには北条宗哲の息子である北条氏信が在城。翌閏5月3日には更に東へ移動して沼津に入った。黄瀬川を挟んだ三島には氏政の本陣があり、ここに居を据えて駿河国全域の奪還を目指すと上杉輝虎に伝えている。

このように、氏真を擁した後北条方は駿河国から武田方をほぼ撤退させるに至るものの、7月3日には富士大宮城を奪われてしまう。その後晴信の小田原急襲を経て、同年12月6日に蒲原城、12日には薩埵峠も失陥。深沢城・興国寺城は維持していたものの、戦況は悪化しており、氏真は沼津から離れたようだ。

  • 12月18日:氏真は自身の被官興津摂津守の功績を称える

    「就今度不慮之儀、当城相移之処、泰朝同前、不準自余令馳走之段忠節也」(戦国遺文今川氏編2434)

文面から緊急退避した様子が伺われる。対比先の「当城」は地理的に考えて韮山城だろう。

上記を勘案すると、閏5月3日から氏真は沼津にいて12月18日より前に韮山城へ退去したと考えるのが妥当である。氏真が退避したのは蒲原・薩埵の陥落によって沼津近郊の安全が保証されなくなったためだと思われる。

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氏真が大平にいたとする仮説の信憑性

通説での氏真は沼津から南にある戸倉か大平にいたとされる。戸倉にいたとするのは江戸期の編著史料である『北条記』によるもので、大平とするのは同時代史料の存在が影響している。

北条記による戸倉説は同時代史料の範疇外なので顧慮しないとして、氏真が駿河大平にいたというのは以下の虎朱印状の解釈による。

後北条家、吉原の矢部将監に鈴木某の身元調査を命ず

原文

鈴木令帰往由、入御耳候、彼者親敵へ相移由候条、実否可令糺明間者、可他出由申付処ニ、不審候、若者大平へ如何様ニも申上有仁、被為返候哉、自最前之筋目知候間、申付候、彼者糺明之間、吉原ニ置事無用候、此印判を大平へ致持参、右趣可申上候、猶鈴木父、信玄へ不出仕条、歴然之所申開ニ付而者、不可有別条状如件、
巳潤五月十五日/日付に(虎朱印)石巻奉之/吉原矢部将監殿

戦国遺文後北条氏編1250「北条家虎朱印状」(矢部文書)1569(永禄12)年比定

解釈

鈴木が帰住したと耳にした。彼の父は敵方へ移ったというので、実否を調査している間は追放せよと指示していた。不審なことだ。もしかしたら、大平に巧妙に申告した者がいて帰住したのだろうか。直近の状況を知っているので指示する。彼を調査している間は吉原に置くことは無用である。この印判を大平に持参し、右の趣旨を申し上げよ。なお鈴木の父が信玄へ出仕していないのが明白ならば、帰住に問題はない。

これは吉原の矢部将監に宛てたもので、鈴木某が吉原に帰住したと聞きつけた氏政が発したもの。これより先に、鈴木の父は武田方に寝返ったという情報があり、その真偽を確認するまでは鈴木を吉原から追い出せと指示していた。この時に氏政は「大平は鈴木父の件を知っているのか」と疑問を感じており、経緯を大平と共有するように矢部へ命じている。

この鈴木某は、恐らく鈴木善右衛門尉だろう。開戦最初期の永禄11年12月24日に吉原へ宛てた虎朱印状では宛所の名義が「矢部将監殿・渡辺兵庫助殿・鈴木善右衛門尉殿・石巻代市川殿・山角代鈴木弾右衛門殿」となっているが、1月晦日の虎朱印状では「太田四郎兵衛殿・鈴木弾右衛門尉殿・矢部将監殿」と、後北条家中の江戸衆である太田四郎兵衛、小田原衆山角氏の被官鈴木弾右衛門尉の名が先に挙げられ、今川家中では矢部将監しか残されていない。

この「大平」を地名と解釈し、氏真が大平にいたと読んだのが大平居住説の論拠だろう。しかしこの解釈は無理がある。三島にいた氏政からすれば、吉原の矢部に「大平へ問い合わせろ」というよりも直接大平の氏真に確認した方が早い。その上で鈴木の帰住許可をどうするか矢部に指示するのが合理的だ。

武田家内通を疑っている人物が吉原に入り込んでいるかもしれない時に、氏政が「この印判を大平に持参しろ」と書いているのも妙だ。矢部が吉原から大平移動せねばならず、その間は吉原が手薄になってしまう。氏政は基本的に現場判断に委ねつつ「ちょっと事情を確認して。前に疑いがあったから」と、咄嗟の念押しをしている。仰々しく三島・吉原・大平を言ったり来たりするような内容ではない。

また、虎朱印状は後北条家中で効力を発揮するものであり、当主が被官に対して発するのが前提である。さらに言うと、朱印・黒印といった印判状は薄礼で後北条氏でも外交文書や感状にはほぼ使われない。分国が崩壊したとはいえ駿河太守である氏真に対して、この朱印状を見せろと言うだろうかと疑問に思う。虎朱印状内で「これを代官・抗議者に見せろ」と書いている例はあるが、家中外に向けて掲示させるような例はない(戦国遺文後北条氏編1776・小田原市史資料編小田原北条1391/1572など)。

対武田方戦をともに行なっていた今川家有力被官(富士兵部少輔・岡部和泉守・三浦左京亮)に対しても、氏政は虎朱印状を使わず書状で連絡している。

※一方で、矢部・杉本・秋山・武藤といった駿東の小規模被官には虎朱印状を用いている。これは永禄11年12月の開戦初頭からのもので、戦時制圧した領地は終戦まで実効支配するという枠組みによるものだろうか。この点は検討を要する。

何れにせよ、対等な太守である氏真を自身の朱印状で追求する行動を氏政がとるとは考えづらい。

このように、行動手順・書札礼から考えれば「大平」は人名で、吉原の後北条方拠点にいた責任者だったとする方が齟齬がない。

後北条方では4月15日に大平右衛門尉が確認できる。

  • 4月15日:虎朱印状で大平右衛門尉・江戸刑部少輔・江戸近江守を緊急動員

    「敵動火急之由告来候間、早ゝ人数を集、来廿一日当地迄着陣待入候、普請動無寸隙、御苦労無是非候、雖然、自敵至懸儀無拠候者、塩味専要候、猶御仁体へ、重而可申候」(戦国遺文後北条氏編1408)

この書状は永禄13年に比定されているが、その前年の比定でも矛盾は生じない。また、大平右衛門尉と同じく武蔵吉良家に仕えている高橋郷左衛門尉は永禄12年1月13日にはこの戦線への投入が確認されている。このことから、永禄12年閏5月15日時点で大平右衛門尉が吉原にいる可能性はある。

氏政が大平に直接朱印状を発しなかった理由は不明だが、吉原統括者となって日が浅い大平よりも、元から吉原にいた矢部を動かした方が早いと判断したと考えられる。

この時点で沼津が戦場だったか

もう1点、氏真が狩野川より南にいたと判断された根拠として武田晴信の3通の書状がある。永禄12年比定で「伊豆に攻め込み三島で勝利した」と自身の被官に報じたもの。これがあるため「武田方は三島まで攻め込んでいるため沼津は拠点確保できなかった」という先入観を持つこととなり「氏真が沼津に留まり続けられる筈がない」という予断を招いたものと思われる。

武田晴信、某に駿河国への攻撃状況を伝える

原文

今度向豆州出馬任存分、則当城へ移陣候、仍富士兵部少輔属穴山左衛門大夫、種々懇望之旨候、但分量之外訴訟数多之間、可赦免哉否思案半ニ候、何ニ当表之本意可為五三日之内候条、可心易候、次ニ由比又四郎召寄候之処、存命不定之煩、因茲先方万沢迄返候、猶土屋平八郎可申候、恐々謹言、
七月朔日/信玄御居判/宛所欠

戦国遺文今川氏編2407「武田晴信書状写」(塩山市・菅田天神社文書)1569(永禄12)年比定

解釈

今度伊豆国に出馬して思うがままにし、すぐにこの城へ陣を移しました。富士兵部少輔は穴山左衛門大夫に属したいと様々に懇望しています。ただ、とても訴訟が多いため、赦免するかどうかは思案半ばといったところです。どちらにせよこの方面で目標を達成するのは数日でしょうから、ご安心下さい・次に、由比又四郎を出仕させようとしたところ、生死も危うい病気ということで先方が万沢へ返しました。更に詳しくは土屋平八郎が申します。

武田晴信、玉井石見守に駿河国内の戦況を伝える。

原文

従是可申越之処、態音問祝着候、抑今度向豆州、及不虞之行、三島以下之悉撃砕、剰於于号北条地、当手之先衆与北条助五郎兄弟遂一戦、味方得勝利、小田原宗者五百余人討捕候、則小田原へ雖可進馬候、足柄・箱根両坂切所候之条、駿州富士郡へ移陣候、然者大宮之城主富士兵部少輔、属穴山左衛門大夫、今明之内ニ可渡城之旨儀定、此上者早速可令帰国候、猶土屋平八郎可申候、恐ゝ謹言、
七月二日/信玄(花押)/玉井石見守殿

戦国遺文今川氏編2408「武田晴信書状写」1569(永禄12)年比定

解釈

こちらからご連絡しようとしたところ、わざわざご連絡いただき祝着です。今度は伊豆国へ思いがけず作戦を行ない、三島以下全てを撃破。更には北条という地で、こちらの先遣隊が北条助五郎兄弟と一戦を遂げて味方が勝利し、小田原方の主な者500人余りを討ち取りました。、すぐに小田原へ馬を進めようとしましたが、足柄・箱根の両坂は険難なので、駿河国富士郡へ陣を移しました。大宮城主の富士兵部少輔は穴山左衛門大夫に属して今日・明日のうちに城を明け渡すのは確実です。この上ですぐに帰国するでしょう。更に土屋平八郎が申します。

武田晴信、大井左馬允入道に駿河国の戦況を伝える

原文

従三島直ニ向大宮出張、諸虎口取破詰陣候之処、対于穴山左衛門大夫、城主冨士兵部少輔悃望之間、令赦免、城請取、当表悉達本意候、此上城内法置等成下知、三日之内ニ可納馬候、可被存心易候、恐々謹言、
七月三日/日下に(朱印「晴信ヵ」)/大井左馬允入道殿

戦国遺文今川氏編2409「武田晴信書状写」(大井文書)1569(永禄12)年比定

解釈

伊豆国三島からすぐに駿河国富士大宮に出撃し、諸虎口を破って陣を詰めたところ、穴山左衛門大夫に対して、城主の富士兵部少輔が懇願したので赦免して城を受け取りました。この方面は全て望み通りとなりました。この上は城内に法を置いて指示を下して、3日以内に帰陣するでしょう。ご安心下さいますように。

ところが、この段階で武田方が三島に到達した証跡はない。北の御厨口は深沢城があり、西は蒲原・薩埵・富士大宮を抑えている。この直後に武田方が富士大宮を無力化させたのは確かだが、三島から富士大宮に行ったのではなく、右左口か身延を経て甲斐から直接攻撃したのだろう。実際、武田家の禁制は身延から富士大宮に向かう範囲にのみ出されている(静岡県史資料編8_45・46・53・54・55・56・57・58)。

晴信は虚報を発する例がある。たとえば、下記のように「伊豆一国を撃破して先月下旬に帰還し、更に5日には武蔵国御獄城を乗っ取り軍備を整えた」とある。

武田晴信、太田資正に伊豆・武蔵の戦況を伝え協力を求める。

原文

其已後者、通路無合期故、絶音問意外候、仍去月、向豆州覃行、一国悉撃砕任存分、下旬之比帰府、剰云五日、武州御獄之城乗取、則令普請、移矢楯・兵粮、甲信之人数千余輩在城候、然而至関東、早々可致出陣候、弥味方中無異儀様、調略憑入存候、恐々謹言、
六月廿七日/信玄(花押)/太田美濃守殿

静岡県史資料編8_0039「武田晴信書状写」(太田文書)1569(永禄12)年比定

解釈

それ以後は交通阻害で意に反してご無沙汰していました。去る月伊豆国に作戦を行ない一国全てを撃破し思うままにしました。更には5日に武蔵国御獄の城を乗っ取ってすぐに普請し、矢盾・兵粮を移して甲斐国・信濃国の兵員数千人余りを在城させています。そして関東に向かって早々に出陣するでしょう。味方に対しては異議が発生しないように、ますますの調略をお願いします。

ところが実態は異なり、伊豆国襲撃がないどころか、武蔵国御獄城から上野国長根城付近に攻め込まれ小幡三河守が後北条方に寝返っている(埼玉県史料叢書12_0360/戦国遺文後北条氏編1265/1271)。対抗する後北条方が虚報を伝えている可能性もあるが、氏政から由良成繁への援軍依頼や、平沢政実による長根への禁制から見ると他者をより多く巻き込んでいる点や、文書で登場する地名・人名が具体的であることからその可能性はないと見てよいだろう。

こうした晴信の虚報には氏康も翻弄されたようで、氏邦に対して注意を喚起している。

北条氏康、駿河国戦況を伝え、北条氏邦に武蔵国での軍事行動を指示

原文

■三日書状廿八日到来、具令披見候、一、今春向西上州相動、所ゝ放火敵数多討捕之由心地好候、各参陣人数又無分■人数書立令披見候、一、敵重而大瀧筋日尾之山口動候哉、か様之せゝり動ハ五■■七日不経可有之候、各為宗者懸廻ニ付而ハ不残可■兵候、其口ニ者請取之人数を定、切所際ニ指置郷人等をも相集、兼日ニ路次をも切塞、以普請待懸ニ付者、待方ニ可有勝利候、只兼日普請ニ極候、一、信玄ハ向富士城大宮ニ被陣取候、多勢之由申候、大瀧口へ出張者可為虚説候、口ゝにて信玄をかさし物ニ申候、大宮口ハ、歴然之陣取たる虚説有間敷候、一、矢鉄炮用所候由候、無際限召仕候、一疋一腰も不入候、何とて嗜無之候哉、不及是非候、一、御獄仕置先書如申、先当意者なため、小田原へ非可申入儀間、平沢・浄法寺共可致和融由、如何にも身ニ成懇ニ可被申候、猶致様者以使可申候、恐ゝ謹言、
六月廿九日/氏康(花押)/新太郎殿

小田原市史資料編小田原北条0978「北条氏康書状写」(新田文庫文書)1570(永禄13/元亀元)年比定

解釈

23日の書状が28日に到来し、詳しく拝見しました。
一、今春に西上州へ作戦を行ない、あちこち放火して敵を多数討ち取ったとのこと、心地よい思いです。おのおの参陣した兵員数の一覧を拝見しました。
一、敵は重ねて大瀧筋の日尾之山方面に動いているのでしょうか。そのようなつっつきは5~7日を経ずに起きるでしょう。おのおので主だった者を駆け回らせるよう兵を集めておくように。要路には受け持ちの部隊を定めて、要所に配置し村人も集めなさい。その前に道路を塞いでおき、普請して待ち受ければ勝利するでしょう。ひたすら、事前の普請で決まります。
一、信玄は富士城大宮へ陣取りました。多勢とのこと。大瀧口への出撃は虚説でしょう。口々に信玄をかざして言っているのです。大宮口は歴然とした陣取りで虚説ではありません。
一、矢・鉄炮が必要らしいですが、際限なく徴発すれば兵站は不要です。どうして事前の準備がないのでしょう。是非もありません。
一、御獄城の措置は先の書状で伝えた通りです。まず当意の者をなだめ、小田原へ訴えることがないように、平沢・浄法寺を和解させるよう、どうやっても懇切に説得するように。更なる指示は使者が申します。

まとめ

氏真滞在状況の史料精査から見て、彼が永禄12年の閏5月3日から12月17日までは確実に沼津に拠点を据えたと考えられる。

翌永禄13年4月26日に、北条氏康は小田原西方の海蔵寺・久翁寺に宛てて禁制を出し、この保証者に富士常陸守・甘利佐渡守・久保新左衛門を指名している。これは、早川右岸に今川被官が駐屯しており、近隣の寺社を保護する必要があったものと思われる(富士常陸守・甘利佐渡守については、後に武田氏が今川旧臣として記載)。

状況を考えると、永禄12年12月18日以降に氏真は韮山城を出て小田原西方の早川村近辺に転居したのだろう。

2022/03/21(月)連署の順番は序列を表すか

連署=序列かどうか

書状の差出人が複数存在する「連署」という形態がある。この時に記名の順番は地位の序列に基づくのか、基づかないとすればどのような基準で名の配置が決まるのかを考えてみる。

専門家の見解は少々ややこしい。

『古文書学』(伊木寿一)p108~109

上下両段に多数が連署する文書にあっては、上段は右から左に、下段は左から右にゆくにしたがってその人の地位が低くなり、最後の者が日附の下に署名することになっている。そしてこの日下署判の人がその文書の執筆者かあるいは取扱者であるのが通例である。

一般に充書に近い方が上位者で、日附の下の者が最下位かあるいは取扱者、責任者である。尤も上包みの懸紙では右が上位で左が下位である。

また親が後見で子が当主である場合には、当主が日下に署判し後見は次行に連署するなど、いろいろの仕方があるが、それも伊勢流・曽我流・大館流などの書札礼の規定と実際とでは必ずしも一致せぬ場合は少なくない。

この説明は奇妙に思える。日付の下の者が「最下位かあるいは取扱者、責任者」だと、最も地位が低い者と案件責任者が同一となってしまう。管理監督責任の概念が近代以前の日本には存在しないのであれば責任者=下位者もあり得るのだろう。しかし、少なくとも戦国期においては上位者になるほど決裁権限が強くなる傾向があり、その分だけ上位者の責任は重くなっている。

それでは、伊木氏の把握した文書解釈をどう理解すればいいだろうか。案じてみると、日付の下の者は「取扱者」であり、連署の順番は家中の序列を表さないという解釈であれば腑に落ちるような気がする。

つまり、日付の下に名を置いた者が文書を作成。その左側に、連帯承認者として連署してほしい者の名を記していき、最後に宛所を配置。作成者は稟議のような形で次の連署者に渡した。連署する順番に制約はないものの、後ろにいくほど最終確認者に近くなっていく。最後に花押を据える者が、他の連署者の花押状況を見て、最も確定した状態で文書を確認することになるからだ。このため、一見すると上位者のようにも見えてしまう。

そう考えると、「当主・隠居」の順番が一定でなかったり、花押を据えていない者が混じっていたり、略押・印判で代用する者がいたりする状況が理解できる。

実際の運用例

手持ちのデータで差出人が連署となっているものは301件。

差出人連署一覧 rensho_all.pdf

その中で数が多い羽柴秀吉を取り上げてみる。秀吉が入っているものは39例。

羽柴秀吉の連署状一覧 hideyoshi_rensho.pdf

位置がかなり変動しているのが判る。連署相手は丹羽長秀・明智光秀・滝川一益が目立つが、その順序は固定ではない。時間・地域の要素で使い分けているとも見えない。花押の有無も微妙で、場合によっては光秀が花押を据えたのに次の秀吉に花押がなく、その後ろの一益は花押を据えたというものもある。かと思えば秀吉花押があるものも存在するから、花押がないものは稟議時に秀吉が掴まらなかったからと考えた方が理解しやすい。

効率がよさそうな稟議ルートを起案者が設定でき、かつ押印不在でも通してしまう不文律があったのが戦国期連署状の有り様だろう。

稟議書を回した個人的経験によると、回覧や承認の順序はきちっと行なわれるわけではない。押印を渋る総務を説得するために先に法務押印をもらったり、留守がちな部門長の押印がなくても決裁が通ったりする。一見するときちんと承認されている稟議書だが、作成する際にはよく「ダンジョンのスタンプラリー」と揶揄されるほどに混沌した状況だったりする。

例外的な連署

日付の下の者は名だけなのに、続く者が花押を据えている例も4つあるが、それぞれの状況が乖離していて解釈が難しい。作成者が連署者の一段下の奉者という位置づけだろうか。

  • 「藤吉郎秀吉・次秀勝(花押)」

    豊臣秀吉文書集0311「羽柴秀吉・秀次連署判物」(鈴木康隆氏所蔵文書)

天正9年2月のもので野村弥八郎の跡目を相続を認めたもの。8年3月の奉加状では「羽柴藤吉郎秀吉(花押)・羽柴次秀勝(花押)」と連署しているから、野村からの要望を受け秀吉が名前だけ書き加えた例外的措置だろうと思われる。

  • 「伊勢千代丸・孝哲(花押)」

    戦国遺文下野編1281「小山秀綱・政種連署書状」(奈良文書)

小山伊勢千代丸は天正3~5年で4通の文書を独自発給しているが、いずれも幼名名乗りで花押がない。この無理が通らなくなったのか、連署として父の秀綱が自署している。ただしあくまでも発給主体は伊勢千代丸であることを示したかったのかもしれない。

  • 「幻庵奏者大原丹後守・宗哲(花押)」

    戦国遺文後北条氏編1591「北条宗哲判物」(宝泉寺文書)

これは寺領地図に北条宗哲の朱印「静意」が3つ捺されている特殊なもの。このため、奏者として大草丹後守(康盛)は花押を据えず、宗哲のみに承認者を絞ったのではないか。

  • 「馬場美濃守奉之・(武田勝頼花押)」

    静岡県史資料編8_1331「武田勝頼感状」(荻野三七彦氏所蔵文書)

こちらは朱印状とするべきところを急遽判物に変えたものだろう。感状は通常花押を据えるものだが、馬場が勘違いして作成してしまったのだろう。

※更にこの類例として、宛行状写での「朝比奈紀州奉之・氏真(花押)」(戦国遺文今川氏編1592)があるが、これは文言から信憑性に課題があるので考察範囲から除外している。

まとめ

連署の順番は序列ではなく、稟議順である可能性が高い。根拠は、同一人物・同一時期の連署で並びが入れ替わること、花押を欠いたままの人物がいても発給されることが挙げられる。連署の先頭(日付の下の人物)はその文書の発給主体(発議者)であり、本人だけの署名では効力が弱いために連署者を指定して稟議にかけていると見られる。