2023/01/14(土)「宗瑞敗北」とある足利政氏書状の解釈

足利政氏書状の解釈は結構難解なので、現状での解釈覚書。

文書の基本データとその解釈

原文

  • 戦国遺文古河公方編0349「足利政氏書状」(簗田家文書)1494(明応3)年比定

    去十三日政能方江折紙到来之間、翌日必可進旗之処、顕定申旨候、因茲延引、然而十四日未刻、伊勢新九郎退散由其聞達続、可属御本意之時節、純熟候歟、目出候、宗瑞敗北、偏其方岩付江合力急速故候、戦功感悦候、仍凶徒高坂張陣之時、不被差懸段、顕書中候間、先以理候、雖然顕定不庶幾調儀更難成候、爰元可令推察候、惣別悠之様候、於吉事上、無曲子細出来事可有之候哉、被進勝計候事も非関覚悟計候、委旨五郎可申遣候、謹言、
    十一月十七日/(足利政氏花押)/簗田河内守殿

読み下し

去る十三日、政能方へ折紙到来の間、翌日必ず旗を進めるべきのところ、顕定申す旨に候、ここにより延引、しかして十四日未刻、伊勢新九郎退散の由、その聞こえ達続、御本意に属するべきの時節、純熟候か、目出たく候、宗瑞敗北、ひとえにそのほう岩付へ合力急速ゆえ候、戦功に感悦候、よって凶徒高坂張陣の時、差し懸けられずの段、書中顕に候あいだ、まずもって理り候、しかりといえども顕定調儀を庶幾わず更に成しがたく候、ここもと推察せしむるべく候、惣別悠のさま候、吉事の上において、無曲の子細出来すること、これあるべく候や。勝計を進められ候ことも、覚悟ばかりに関するにあらずして候。委しき旨は五郎を申し遣わすべく候、謹言、十

解釈

去る13日、本間政能へ送った書状が来ましたので、翌日必ず進軍しようとしたところ、上杉顕定が意見を言ったので延期となりました。そして14日未刻に、伊勢新九郎が退却したという報告が相次ぎました。本望を達成する機運が熟してきたのでしょうか。おめでたいことです。宗瑞の敗北は、ひとえにあなたが岩付へ援軍を急いでくれたからです。戦功に感悦しました。さて、凶徒が高坂に陣を張った時に攻撃しませんでした。書中に書きましたからまずは説明します。とはいえ、顕定が作戦を希望しないのですから更に難しいのです。こちらの事情をお察し下さい。総じてゆったりしています。吉事の上ではつまらない事情が出てくるのでしょうか。勝計を進められるのは覚悟だけあればいいというのではありません。詳しくは五郎に申し使わせましょう。

文章ごとの逐次解釈説明

文章を意味の区切りに応じて小分けし、解釈の根拠を書き出してみる。

去十三日政能方江折紙到来之間、翌日必可進旗之処、

この書状は11月17日なので、その4日前に簗田河内守(成助ヵ)から本間政能へ折紙が来たことが契機となり、その翌日に旗を進めようと政氏は考えていた。恐らく河内守からの情報が政氏本陣を即座に動かす内容だったことを示しており、この後の政氏の言い分を見ていると、この書状で河内守は政氏出撃を強く要請したものと推測される。

顕定申旨候、因茲延引、

ところが、上杉顕定が意見した内容によって延期になってしまう。

然而十四日未刻、伊勢新九郎退散由其聞達続、

そうして14日の未刻(14~16時頃)になると、伊勢新九郎が退却したという報告が連続してあった。つまり、敵兵力を撃滅できる好機を逸し、挟撃もしくは追撃をしなかったことが判る。

可属御本意之時節、純熟候歟、目出候、

「本意」は望みを叶えること、「純熟」は機が熟したことを示すので、政氏・顕定としては目的を達成が間近だという書き方になっている。そしてそれを「目出たい」と書き記し、現状に不満がないことを表現している。

宗瑞敗北、偏其方岩付江合力急速故候、戦功感悦候、

ここで、なぜ河内守の報告が政氏出撃の契機になりえたかの説明が入る。河内守が岩付への援軍をすぐに出したから伊勢宗瑞が敗北したのだとして、その戦功を褒め称えている。

仍凶徒高坂張陣之時、不被差懸段、顕書中候間、先以理候、

ここからがこの書状の本題になる。「凶徒」は伊勢宗瑞自身とも、その同盟勢力である上杉朝良とも取れる。地理的に考えるなら、宗瑞が岩付、朝良が松山へ同時攻勢に出たところ、簗田河内守がいち早く岩付へ支援に入ったため宗瑞が敗走した。それをすぐに政氏に伝えたものの、高坂にいる朝良に対して同時反撃を行なわなったという状況になるだろう。

「差懸」は「指懸」と同じで「攻撃」を示し、「書中」はこの書状自体を表す。また「理」は上意下達の意図を含む説明行為を示す。文頭にあった攻撃の「延引」の具体的な内容を述べて「これは先に書いているから説明する」と付け加えているのは、自らの不手際を渋々認めているように見える。

必死に戦って情報提供を迅速に行った河内守に対して、政氏・顕定は何もしておらず、その体裁を取り繕いたいのがこの書状の主目的になっていることが判る。

雖然顕定不庶幾調儀更難成候、爰元可令推察候、

この「調儀」は調略ではなく実戦行為を指すだろう。ここで政氏は顕定に責任をかぶせようとしている。自分は攻撃したかったが顕定が乗り気でなかったのだ。そちらは遠方で判らないかもしれないが、察してほしいと。

惣別悠之様候、於吉事上、無曲子細出来事可有之候哉、

ここからは政氏・顕定陣営のゆるい雰囲気を説明していて、そこに続けて、吉事の最中でも何か不都合が起きるものではないかと、言外にもっと慎重に備えるべきだと訴える。なかば居直りの気配が感じられる。

被進勝計候事も非関覚悟計候、

「勝計」はこの他に7例を見つけたが、どれも感状などで功績を賞する際に「不可勝計=これ以上ない」という意味で使っており、全て「不可」が頭につく。従って「勝計」が別の意味で用いられているか、翻刻が間違っているかだろう。

Twitterで指摘されている「勝陣」と読むのは、「進」と「陣」の組み合わせが多数あるため納得がいく。「勝計」を「勝利の計策」とすると「計策・計略・籌策」は「廻」か「乗」ものであって「進」とは合わせない。

しかし一方で「勝陣」という表現は他例がない。

原文を見ていないので推測でしかないが、「計」と「陣」が取り違えられるほどに崩れた文字ならば「勝」ではなく「御」だったという可能性もあるのではないか。「御陣を進められ候ことも、覚悟ばかりに関するに非ず=公方・管領の部隊を進めるのは、腹をくくった覚悟があればいいというわけでもないのだ」と考える方が文意がすっきりする。

「伊勢新九郎」と「宗瑞」の実体

この文書では「伊勢新九郎」と「宗瑞」が出てくることから、両者が別人で伊勢新九郎が氏綱だという仮説もある。しかし、この時氏綱は数えで8歳なので、参戦どころか元服すらしていない。物理的に考えてどちらも伊勢盛時と考えてよいだろう。同一人物を文書内で別表記するのはありえない話ではないし、当時は突如登場した「伊勢新九郎・宗瑞・早雲」に混乱していた事情もある。

1496(明応5)年7月24日の上杉顕定書状(神3下6406)では、宗瑞の弟に関して2箇所表記があるが、それぞれ微妙に異なる。

為始伊勢弥次郎家者、数多討捕、験到来本意候並伊勢新九郎入道弟弥次郎要害自落

また、駿河台大学論叢第41号11の上杉憲房書状写では、当該文書に似た表現構造が見られる。

(抜粋)伊勢新九郎入道宗瑞、長尾六郎と相談、相州江令出張、高麗寺并住吉之古要害取立令蜂起候、然間建芳被官上田蔵人入道令与力宗瑞

最初に「伊勢新九郎入道宗瑞」とフルネームで記し、そのあとは「宗瑞」と略しているのだが、これは政氏書状で最初に出てくる「伊勢新九郎」は当初「伊勢新九郎入道宗瑞」とすべきところを書き損じたという可能性を示唆する。