2017/05/03(水)古河公方家の名刀「菖蒲丸」伝承は近世の産物?

古河公方足利義氏が、どこかの城に籠もって自分のことを待っている野田弘朝に「菖蒲丸は堅固だろうか、会いたい」と書いている件。

戦国遺文古河公方編では「菖蒲丸」を刀の名前だと比定しているのだけど、これは疑問。普通に考えれば「丸」が付く固有名詞は大体が幼名。

「堅固」という少し特殊な語が続いているが「三山又六殿御堅固候哉、御床敷之由」という用例もあって、人称に対しても「堅固」と「床敷」がセットで用いられることは確認できる。ゆえに、この菖蒲丸は弘朝の子息ではないかと推測できる。

なぜ刀の名が比定されたのかは不明。恐らく寛政譜辺りが出所だと思うのだけど、野田弘朝の一族である景範が、後に徳川に出仕する際に秘蔵の名刀菖蒲丸を献上したという伝承がある。この名刀伝説は、弘朝宛ての義氏感状を元に作られたものではとも思う。

景範は弘朝の弟ともされているが、これもどうだろう。

吉川弘文館の『戦国人名辞典』を見ると、景範の官途である「右馬助」は、先代「右馬助」が使っていたもので、享禄頃活躍した先代は、後に古河公方と対立して改易されている。

弘朝の場合、官途「左衛門大夫」は他に例がなかったが、「成朝」という同通字を持つ人物はいる。

同辞典では以下のように推測しているが、各人の親子関係は不明とするか否定傾向にある。どちらかというと、複数の系統の家が交互に家督を繋いだ可能性が仄見える。

成朝→
……→右馬助持忠→蔵人大夫氏範→
……→右馬助→左衛門大夫弘朝→右馬助景範

上記を考えると、後北条一辺倒だった弘朝死去後に景範が家督を継いだ際、「菖蒲丸」は既に亡くなっていた可能性が高い。景範は上杉寄りの動きもしているが、菖蒲丸を担ごうとはしていない。

また、北条氏康が義氏の関宿入城を阻んだとした「右馬允」は、景範ではないかとも思える。

原文

足利義氏、野田弘朝に、某城の留守を守っている忠節を賞す

其以来者通路不自由故、不申遣候、于今在其地被相待候条、誠以忠信之至、感悦候、菖蒲丸堅固候哉、床敷候、委細安西右京亮被仰含候、謹言、
七月四日/義氏(花押)/野田左衛門大夫殿
埼玉県史料叢書12_0222「足利義氏感状」(野田家文書)

由良成繁、遠山康光に、越後で景虎が家督を継ぐことを祝う

不思儀之便候間、以切紙申候、さてもゝゝ近年於其国之御苦労、不及申次第候、景虎江御家督参候由承及、目出御本望令察候、然者、小田原御一類、何茂無何事御繁昌候、可御心安候、就中愛満殿、氏直へ一段御意能御奉公之間、可為御悦喜候、自新四郎殿去十日計以前ニも、貴所之御左右有御聞度候由、示給候キ、御世上在御一統、以面上連続之義申承度心中迄ニ候、将又、此方無何事候、可御心易候、三山又六殿御堅固候哉、御床敷之由、御伝語頼入候、申述度儀雖千万候、残筆候、恐ゝ謹言、
卯月晦日/信濃守成繁/遠左御宿所
戦国遺文後北条氏編4479「由良成繁書状写」(歴代古案一)

2017/04/28(金)葛山・瀬名は本当に今川に反したのか

葛山氏と瀬名氏は、永禄11年12月13日の武田侵攻時に今川から離脱したされる。それは根拠として以下の文書が使われているのだろう。

武田晴信が荒河治部少輔に由比山助太郎分60貫文を与える


今度葛山備中守殿忠節之刻、令同心、瀬名谷へ被引退条神妙候、因茲由比山方ノ内チ、助太郎分六拾貫文之所進之置候、弥可被抽戦功条可為肝要候、恐々謹言、
永禄十二年己巳二月廿四日/信玄/荒河治部少輔殿
戦国遺文今川氏編2283「武田晴信書状写」(香川県さぬき市・甲州古文集)

改めてよく読んでみると、瀬名氏が寝返った証拠は実はない。武田方に忠節した葛山氏元がいて、それに同心した荒河治部少輔が「瀬名谷」に退いたから「瀬名氏が寝返った」としているだけだ。同時代史料において、瀬名尾張守元世は氏真に随伴して掛川で籠城している(2月26日付・戦国遺文今川氏2287「小笠原元詮・瀬名元世連署状」大沢文書)。地名瀬名谷からの連想よりも、こちらを優先すべきだろう。

では葛山氏はどうだったのかを考えてみる。上記文書には下記の類似文書が存在する。

武田晴信が安東織部佑に駿府周辺の知行を与える


一、八拾貫文、興津摂津守分、河辺村
一、五拾五貫文、糟屋弥太郎分、瀬名川
一、参拾六貫文、糟屋備前・三浦熊谷分、細谷郷
一、五拾貫文、由比大和分、鉢谷
一、百弐拾貫文、本地、菖蒲谷
都合参百五拾貫文。今度朝比奈右兵衛大夫忠節之砌、令用心瀬名谷江被退条神妙之至候、仍如此相渡候、猶依于戦功可宛行重恩者也、仍如件、
永禄十ニ己巳年正月十一日/信玄(花押)/安東織部佑殿
戦国遺文今川氏編2242「武田晴信判物」(高橋義彦氏所蔵文書)

この文面で、次の2文が酷似している。

1月11日:「今度朝比奈右兵衛大夫忠節之砌、令用心瀬名谷江被退条神妙之至候」 2月24日:「今度葛山備中守殿忠節之刻、令同心、瀬名谷へ被引退条神妙候」

文面酷似自体はよくあることなので気にはならないが、問題は「葛山備中守殿」である。朝比奈右兵衛大夫にはついていない。葛山氏元が通常の国衆より格上に見られたということかとも思ったが、その割に、「殿」の後の語に敬語がない。「葛山備中守殿被御忠節」だったら違和感はないのだが。

そこで改めて疑惑の目を向けてみる。安東宛のものは1月11日で、乱入から大体1か月くらいの発給となる。とすればこの文書は駿河に乱入する際に、朝比奈右兵衛大夫が武田方として忠節に及んだ状況を説明したものだろう。端的に書かれ過ぎていて断定はしづらいが、描写できなくはない。

安東織部佑が瀬名谷に「用心のため」退いたのは、武田方主力が駿府を目指し、瀬名谷南方を横切った後なのだろう。瀬名谷にいた朝比奈から寝返りが申し出され、安東らが引き返した。これは本当に寝返ったかの確認で、安東は前線から離脱したものの瀬名谷の組み込みを完了した。そう考えると、駿府攻撃に同行こそできなかったが功績は大きい。

朝比奈氏に関連した寺院は現在でも沓谷周辺にあり、そのすぐ北方である瀬名谷に朝比奈右兵衛大夫が居を構えていた可能性は充分ある。

では荒河治部少輔も、安東と同じ行動をとったのかというと、これには強い違和感がある。先に書いた敬語のちぐはぐさもあるし、駿東の葛山氏元が武田に忠節(=寝返り)をし、荒河がそれに同心したからといって、なぜ荒河は瀬名谷まで移動して退かなければならないのだろうか。

朝比奈右兵衛大夫・安東の行動と絡めてみようとしてもうまくいかない。「令同心」とあるからには荒河治部少輔は今川方であったと思われるけれど、その名は戦国遺文今川氏編に出てこず、正体は不明。

単純に考えるなら、安東宛文書を見て荒河宛文書が作られたとした方が自然で判り易い。作成目的は「葛山氏は武田方に寝返った」ことを証明するためだろう。

2017/04/24(月)史料想-2 葛山衆の幻影

 更に突っ込んで、「某」が替地の件で苦情を言われていた『水窪』を戦国遺文後北条氏編の索引で調べてみると、1点だけヒットした。

後北条氏、渡辺蔵人佐に、水窪・土狩での収入を渡す

『水窪』は去年の7月迄は直轄領でしたから、『土狩』の知行地をそれぞに一つ拠出なさり、それに従うようにご指示ありました。現在は諸々を現金給与となりましたので、陳情に応じて、水窪において18貫文、土狩における18貫文の分を『所肥後』から渡すでしょう。さて、『葛山』衆の先方をしていた際の上下については知りません。そしてまた、所肥後の同心になるようなご指示もしていません。時が至れば配属となったら、指南するようにとご指示なさいました。但し、所肥後が考えもなく非法なことをしたなら、報告して下さい。その時にはそれぞれが直接奉公することとなるでしょう。

庚午(元亀元)卯月十日/(虎朱印)石巻奉/渡辺蔵人佐殿
戦国遺文後北条氏編1403「北条家朱印状写」(判物証文写今川二)

土地の比定は判り易いが、人名はここにしか出てこない2名で全く追えない。

  • 土狩……水窪の南方にある土地で、天正期を通じて後北条氏が掌握していた
  • 葛山……葛山城を拠点とした国衆で氏元が当主だった
  • 所肥後……名字が「所」で受領名が「肥後守」だったと思われるが不明
  • 渡辺蔵人佐……駿東郡にいた渡辺氏と関係がありそうだが不明

この文書で判ることは以下の通り。

  1. 1569(永禄12)年7月まで水窪は後北条氏直轄領
  2. 同じく8月以降は直轄領ではなくなった
  3. 渡辺蔵人佐は水窪に知行が36貫文存在していた
  4. 替地として土狩が割り当てられた
  5. 前年上期までの収入として水窪18貫文を支給
  6. 下期の収入として土狩18貫文を支給
  7. どちらも所肥後守から受け取るよう指示
  8. 所肥後守が寄親になった訳ではない
  9. 葛山衆の先方としての序列を後北条氏は知らない
  10. とはいえ所肥後守が寄親の方針は変わらない
  11. 但し所肥後守に非があれば解任し直参とする

判りづらい部分もあるが、渡辺蔵人佐のほかにも、水窪に知行があって葛山氏被官だった者が存在しているという書き方だ。そして、水窪の知行が後北条氏直轄領として接収され、近隣の土狩に替地が用意されていたことが判る。そして、所肥後守の指南に受けることに抗議していたようだ。葛山氏元の被官たちがどういう序列かは知らないと後北条氏は答えつつ、所肥後の指揮下に入る基本方針を何とか伝えている。ただこの辺りの記述は歯切れが悪く、対応を誤ると渡辺らが敵方に移動すると考えて宥めようとしていた感じがする。

某は所肥後守である可能性

ここで最初の文書に戻ってみる。某は水窪の替地で何者かに苦情を言われていた。これを、所肥後守と渡辺蔵人佐に当てはめると、自然な解釈が可能になる。

永禄12年7月まで直轄領だった水窪を宛行なわれたのは所肥後守で、渡辺らは水窪から土狩に替地をさせられた。所の知行高は不明だが、妻子の疎開費用だけで70貫文を支給されている。一方の渡辺は全知行でも36貫文しかない(水窪替地以外の知行があった可能性はあるが、支給方法を詳細に書いた文書に存在が全く書かれていないことから、ちょっと考えづらい)。

そして、某は永禄12年7月11日は某が円能口で活躍を見せたタイミングでもある。褒賞として水窪郷が一円支配として与えられ、旧葛山衆を率いるよう命じられた。しかし渡辺らは納得しなかった。

このようなストーリーが構築できる。その後で所肥後守・渡辺蔵人佐の史料が遺されていないのは、後北条から離脱したのか戦死したのかだろう。

掛川への派遣は何だったのか

ここまで仮説を組み立ててきたが、最後の条文に大きな謎があるのでそれを検討する。

一、先年に懸川へ派遣された際のご褒美銭が到着していないとの申し出ですが、今年と来年両年で丸く皆済することをご指示なさいました。

「去年」ではないことから1571(元亀2)年以前のことだと判る。そしてその褒美銭を2年に分けて支払うとあるので、少額ではないだろう。軍事的に危険な行為に対して大きな金額を約束したのだと思われる。

後北条氏が掛川に軍事・外交で派遣をしたのは永禄11年12月~5月と見てよいから、その時点での話なのは確実となる。掛川に移る前から氏真に付き添っていた後北条方・伊豆衆の西原善衛門尉のような存在もいることから、いつの時点かはこれ以上細かくは絞れない。

ただ、掛川派兵に駆り出された清水新七郎と大藤政信が後に1,000貫文以上の褒賞を得ていることを考えると、所肥後守も同様に派遣されたと思われる。これは、清水・大藤だけでは今川方と武田方の見分けがつきにくく土地鑑もないことから充分ありうるように思う。

葛山衆から所肥後守が抜擢されて同行、その際に褒美銭を約束されたと考えてもよいのではないか。

そしてこの仮説が成り立つならば、葛山氏被官には、武田方以外に、今川方・後北条方についた者もいたともいえるだろう。

葛山氏元は武田に寝返ったのではなく抑留されたという可能性

葛山氏の被官に関しては、武田従属以降に活躍する御宿氏がいるものの、当主氏元との関係性は明確ではない(もっと言うと、御宿氏関連文書には、信憑性が乏しいものがある)。このことから余り当てにはならない。その他で残されているのは流通系の被官が殆どで、軍事・外交に関して活動していた被官がどのような存在だったかは、空白な領域だ。

今回出てきた所肥後守と、彼に反発する渡辺蔵人佐は、残念ながら戦国遺文今川氏編でも見つけられず、同書後北条氏編でもこれ以上の情報はなかった。しかし、知行高から見て明らかに下位である渡辺蔵人佐らが、所肥後守の指南を受けることに嫌悪感を示し、また水窪領を所肥前守に奪われたと感じていた点は、葛山家中で深刻な対立関係があり、後北条方に移った先でも解消されなかったことを示すように思う。

従来、葛山氏元は1568(永禄11)年の武田南進を受けて今川方から寝返ったとされていた。しかし、その直前に氏元が史料から姿を消すことから考えると、今川方に留まりつつも家中が分裂した挙句に武田に抑留され、晴信の子息が養子という形で葛山を継承した可能性が出てきた。

そもそも武田晴信は今川方から寝返った者(岡部元信や孕石元泰、朝比奈信置ら)を優遇しており、史料から姿を消した葛山氏元は特異な存在だと考えていた。晴信の息子信貞が葛山に養子入りしたというのも妙な話で、当時の駿東は軍事的に緊張していたのに、息子とはいえ戦歴もなく年齢も低い信貞を起用した理由が判らない。

こういった点も、同時代史料の欠落から深く突き詰められなかったところだが、今回の史料検証のような行程を踏むことで、仮説を少しずつ充実させつつ、新出史料を待つことはできるのかも知れない。