2018/03/25(日)岡部和泉守の関与史料

戦国遺文に収録されているものを改めて列挙。

岡部家文書の各伝来については、『戦国期静岡の研究』(静岡県地域史研究会)所収の「今川家旧臣の再仕官」(前田利久)p188「岡部氏受給文書 家別一覧」より採集。

同書は岡部家文書について伝来した家ごとに考察。岸和田・水戸・土佐・相馬・越前の岡部家と、土佐・相模の孕石家に文書は伝わっており、孕石家が岡部家文書を伝来したのは「岡部元信の娘が孕石家に嫁いでいることから、その際に写しを持参したものと思われる」(p187)と推測している。

1568(永禄11)年

12月18日

制札
右、今度加勢衆濫妨狼藉不可致之、当方為御法度間、於背此旨輩者、急度注進可申、其上可被加下知者也、仍如件、
辰十二月十八日/(朱印「真実」)岡部和泉守奉之/須津之内八幡別当多聞坊并宿中

  • 戦国遺文後北条氏編1124「北条氏規制札」(多聞坊文書)

1569(永禄12)年

4月19日

雖島田郷相渡候、遠州境故、難所務之由被申候、然者父子兄弟懸川籠城候之処、一身属当方条、無双之忠信ニ候、仍当国静謐之上、舎兄和泉守知行之内弐百貫必可罷置候、猶依于戦功奉公、和泉守遺跡無異儀可申付者也、仍如件、
永禄十二年己巳四月十九日/信玄(花押影)/岡部次郎兵衛尉殿

  • 戦国遺文今川氏編2350「武田晴信判物写」(水府明徳会彰考館所蔵能勢文書)
  • ※水戸岡部家伝来

4月28日

懸川此時ニ候、早々被相移彼国之模様聞届、如何様ニも早々可被成候、其方之一左右聞届可令出勢候、恐々謹言、
卯月廿八日/氏政判/岡部和泉守殿

  • 戦国遺文今川氏編2358「北条氏政書状写」(国立公文書館所蔵土佐国蠧簡集残編七)
  • ※土佐孕石家伝来

閏5月3日

氏真御二方、無相違至于沼津御着候、目出満足不遇之候、今度懸川迄御供候事、老足与云誠不浅令存候、一類之衆不残被遂忠信候、可為御本望候、就中和泉方、於薩田陣昼夜被尽粉骨候、以か様之儀、氏真早ゝ御対面之由候、於愚老も満足此事候、次一荷・白鳥一進候、恐々謹言、
閏五月三日/氏康(花押)/岡部太和守殿

  • 戦国遺文今川氏編2382「北条氏康書状」(岡部文書)
  • ※土佐岡部家伝来

閏5月13日

親父可有死去分候歟、さてゝゝ曲時分、笑止千万候、其地弥苦労候、雖然無了簡意趣候、常式ニ者、可相替間、一夜帰ニ被打越有仕置、さて薩埵へ可被相移候、返ゝ簡要候時分、一夜も其方帰路落力候、返ゝ只一日之逗留にて可有帰路候、猶大藤駿州衆被相談候様ニ、可被申合候、恐ゝ謹言、
閏五月十三日/氏政(花押)/岡部和泉守殿

  • 戦国遺文後北条氏編1243「北条氏政書状」(岡部文書)
  • ※土佐孕石家伝来

其地如何、無心元候、如風聞者、駿河衆自兼日承人衆不足之由候、為如何模様候哉、一段気遣千万候、有様ニ可承候、猶如兼日申届、各一味ニ被相談簡要候、恐ゝ謹言、
壬五月十三日/氏政(花押)/岡部和泉守殿

  • 戦国遺文後北条氏編1244「北条氏政書状」(岡部文書)
  • ※土佐岡部家伝来

近日者不申承候、夫馬之儀申付候キ、然者其地模様如何、興津之様子承度候、雖不及申候、敵動ニ付而者、夜中成共御左右待入候、仍両種壱荷進之候、可有御賞翫候、猶使者者口上ニ申付候、恐ゝ謹言、
壬五月十三日/新三郎氏信(花押)/岡部和泉守殿

  • 戦国遺文後北条氏編1246「北条氏信書状」(孕石文書)
  • ※相模孕石家伝来

8月24日

雖乏少、初鮭一尺、進之候、恐ゝ謹言、
八月廿四日/氏政(花押)/岡部和泉守殿

  • 戦国遺文後北条氏編1301「北条氏政書状」(岡部文書)
  • ※土佐岡部家伝来

11月18日

次郎方一札披見候、誠無曲筋目候、但兼日被相談所存相替、彼在城相止与云儀候者、無申事候、其一筆早ゝ取而可給候、五十卅之儀ニ、争我ゝ事欠可申候、仮令兼日申合首尾ニ候間申候、在城違変之儀候者、無是非候、能ゝ彼前被相尽、返答可承候、可得其意候、恐ゝ謹言、
十一月十八日/氏政(花押)/岡部和泉守殿

  • 戦国遺文後北条氏編1336「北条氏政書状」(岡部文書)
  • ※土佐岡部家伝来

12月18日

十八日註進状同酉刻到着候、敵本陣を構滝之瀬を取越あたの原へ打出候由候、依之善九郎・孫次郎小足柄へ上由候、是ハ前ゝ留置と云萱野にてよりひき不成由候、但諸人之申口度ゝ替候間、今善九郎申処正理ニ候、左様之高山江敵可思懸ハ難成儀ニ候、何ニ今五六百も被指加可然候、只今ハ第一之初口与聞得候、一、大将陣ハ何方可然候、峠ニハ陣庭無之間、地蔵堂辺然歟、地形不見候間推量迄ニ候、能ゝ見届、早ゝ可承候、又大手へも以使急度可被申上候、片時も遅ゝ候てハ不可然候、一、深沢為後詰候ハ坂中辺ニ一千も三千もおろしかけへき地形候歟、爰聞届候、恐ゝ謹言、
十二月十八日/氏康(花押)/岡部和泉殿・大藤式部少輔殿

  • 戦国遺文後北条氏編1358「北条氏康書状」(岡部文書)
  • ※土佐岡部家伝来

12月24日

敵陣之様子節ゝ承候、肝要候、今日之模様重而可承候、後詰之催をハ一切敵陣へ不聞様可然候、四郎ニも此節目可有意見候、恐ゝ謹言、
十二月廿四日/氏康(花押)/岡部和泉守殿

  • 戦国遺文後北条氏編1363「北条氏康書状」(岡部文書)
  • ※土佐岡部家伝来

1572(元亀3)年

為当意堪忍分、小机麻生進之候、仍状如件、
元亀三年三月十六日/氏政(花押)/岡部和泉入道殿

  • 戦国遺文後北条氏編1585「北条氏政判物」(岡部文書)
  • ※土佐岡部家伝来

年未詳

為改年之祝儀、早ゝ蒙仰候、祝着候、殊両種給候、珍重候、自是も一種・一荷進之候、一儀迄候、然者小四郎方帰国之儀承候、如先段申入、於拙者少も無相違存候キ、如何様ニも御帰国簡要之段、涯分令助言候、可御心安候、雖委細申度候、御使者急候条、令期永日之時候、恐ゝ謹言、
正月十四日/平氏規(花押)/岡部丹波守殿参

  • 戦国遺文後北条氏編4010「北条氏規」(孕石文書)
  • ※土佐孕石家・相模孕石家伝来

岡部丹波守と、大和守・和泉守との関係は不明だが参考のため記載。

2018/03/01(木)小田原陣中での秀吉の健康状態

概要

羽柴秀吉は小田原在陣中に健康不安を抱えていたのではないか、と推測してみたのでちょっとまとめ。

4月9日段階で秀吉は「京都女共」を呼び寄せる算段を巡らしているが、淀の方が難色を示したらしく、この時点で実現はしていない。

その後、母や妻に宛てた書状で自身の健康に問題はないと書き加えているが、これは逆に母・妻から懸念されていたことの裏返しだと思われる。くどく書いているのは自身がきちんと食べているということなので、慢性的な食欲不振が出征前から見られ、母と妻が気にしていたのだろう。

4月13日になると、妻の政所に対して、淀の方が小田原に行くよう説得してほしいと依頼。他の大名にも妻を呼ぶように伝えているからと、自らの正当性を主張しているものの、他の各氏が女性を下向させたという史料はない。

そして5月8日、慌てたように淀の方を呼び寄せようとしている。この際に、なぜか医師の一鴎軒も同行するように求めている。一鴎軒に対しては、出先であっても緊急で帰宅し、同行せよという強硬なものだった。

一鴎軒・淀の方の来訪が奏功したのか、5月14日に政所に宛てた書状では自身の健康については語っておらず、その後も見られない。症状が安定したのかも知れない。

出征当初から軍中に医師は随行していただろうし、投薬体制も整っていただろう。慢性的な食欲不振を家族が心配したのは、大袈裟な反応だった可能性もある。そうした諸々の健康不安を払しょくするため、淀の方を呼んで自身の性欲を誇示しようとしたのかも知れない。

しかし、余りにも急で深刻な呼び寄せを行なった点、一鴎軒随行を強く求めた点、二人が到着すると言及がなくなる点から見て、何らかの治癒効果を期待して呼び、そして実際に効果があったという方が史料に添うようにも思える。

※ちなみに一鴎軒は、羽柴・後北条間の取次役を妙音院と共に行なっていた。但し、沼田受け取りの際は妙音院だけが登場すること、妙音院単独での連絡があったこと、秀吉が氏直を弾劾した際に糾弾しているのは妙音院だけであること、家忠日記に開戦直前に妙磔刑になったのは「明王院」と書かれていることから、一鴎軒は副次的な役割で処罰は逃れたと思われる。ただそれにしても謹慎はしていたのではないか。その一鴎軒に淀の方供奉を命じるのは妙な感じがする。

関連史料

4月9日 京都から女性を呼び寄せる件について、清須の小早川隆景に清須~岡崎間の人夫・伝馬の準備を命じる。連絡は一柳・山口・草野から届くとしている。

従京都女共可罷下候、然者日限之儀、一柳越後・山口玄蕃頭・草野次郎右衛門尉両三人迄より左右可申候間、人足三百人并伝馬廿疋入候条、其地留守居ニ申渡間、留守居迄より其元隣郷人夫・伝馬申付させ、清州より岡崎まて可被送届候、まかなひをも留守居被申付候て、さうの如く用意させ可申候也、
卯月九日/(羽柴秀吉朱印影)/きよす羽柴筑前侍従とのへ

  • 豊臣秀吉文書集3023「羽柴秀吉朱印状写」(松涛棹筆・徳川林政史研究所)

4月10日 母親に返信した内容に「体調もよく、いつもより多く食べているので安心してほしい」とある。

去二日文、今日十日におた原面にて見まいらせ候、此面の事、さいせんにも申まいらせ候ことく、おたはら三丁四ちやうにとりまき、堀をほり、へい・さくをつけ候により、城の内正躰なく候て、八日の夜も下野国水な川山城守と申者百はかりめしつれ、命をたすけ候やうにと申上、はしり入候、是ハまつ御馬・太刀をもおさめられ候者に候事にて候へハ、命をたすけ候て、家中へつかはし候間、はうてう事ハ、はや取こめにておき候まゝ、ゆるゝゝとほしころしニ被仰付候ハんと思召候、少もきつかひ候ましく候、きやいもよく、御せんもいつよりよくまいらせ候まゝ、御心やすかるへく候、返々此表之事、城のうちゑほう条おひこめ候て、鳥のかよひもなき様に申つけ候まゝ、いさゝか御きつかいあるましく候、大納言煩よく候て、よろこひまいらせ候、なをめてたき事、追々申まいらせ候へく候、
卯月十日/御朱印うつし/大政所さままいる

  • 豊臣秀吉文書集3024「羽柴秀吉朱印状写」(五島美術館)

4月13日 妻に「灸を据えていて健康に気を遣っているから安心してほしい」と伝える。また、長陣となることから大名に「女房を小田原に呼ぶように」と通達したこと、このことから「よとの物」が小田原に行くことを妻からも説得してほしいと依頼。

さいゝゝ人給候、御うれしく候、小たわら二三てうニとりまき、ほり・へいふたへふけ、一人もてき出し候ハす候、ことにはんとう八こくの物ともこもり候間、小たわらをひころしニいたし候へ者、大しゆまてひまあき候間、まんそく申ニおよはす候、二ほん三ふん一ほと候まゝ、このときかたくとしをとり候ても申つけ、ゆくゝゝまても、てんかの御ためよきようニいたし候ハんまゝ、このたひてからのほとをふるい、なかちんをいたし、ひやうろ又ハきんゝゝをも出し、にちさきなののこり候やうニいし候て、かいちん可申候間、其心ゑあるへく候、此よしミなゝゝへも申きかせ候へく候、かしく。返々はやゝゝてきをとりかこへいれ候ておき候間、あふなき事ハこれなく候まゝ、心やすく候へく候、わかきミこいしく候へとも、ゆくゝゝのため、又ハてんかおたやかに申つく可候と存候へ者、我等もやいとうまていたし、ミのようしやう候まゝ、きつかい候ましく候、おのゝゝへも申ふれ、大めうともニにうほうをよはせ、小たわらニありつき候へと申ふれ、ミきとうゝゝりのことくニ、なかちんを申つけ候まゝ、いよゝゝ申つかわせ候て、まへかとによをいさせ候へく候、其もにつゝき候てハ、よとの物我等のきにあい候ようニ、こまかにつかれ候まゝ、心やすくめしよせ候よし、よとへも其もしより申やり、人をつかわせ候へく候、我等としをとり可申候とも、としの内ニ一とうハ其方へ参候て、大まんところ又ハわかきミをもミ可申候まゝ、御心やすく候へく候、
四月十三日/差出人欠/宛所欠(上書:五さ 返事 てんか)

  • 豊臣秀吉文書集3029「羽柴秀吉自筆書状」(高台寺文書)

5月1日 母親に「すこぶる健康で食事もとっているので安心してほしい」と伝える。

さいゝゝ文給候、御うれしく候、こなたの事あんしなされましく候、いよゝゝ小たわらかたくとりまかせ候ニより、はやゝゝくにゝゝ十の物八つほと申つけ候て、百せうともまてめし出し、ゆゝと申つけ候、小たわらの事ハくわんとう・ひのもとまてのおきめにて候まゝ、ほしころしニ申つく可候間、としをとり可申候、たゝしわかミハそもしさま、又ハわかきミミまいなから、としの内参候て、御めにかゝり可申候、御心やすく候へく候、かしく。かへすゝゝわかミ事御あんしなされましく候、一たんとそくさいにて、五せんもあかり候まゝ、御心やすく候へく候、そもしさま御ゆさん候て、きをもなくさミ、わかく御なり候て可給候、たのミ申候、又大なんこそくさいのよし、なによりゝゝ御うれしく候、いよゝゝようせうせんにて候よし、御申候へく候、以上、
五月一日/てんか/大まんところ殿さま

  • 豊臣秀吉文書集3190「羽柴秀吉自筆書状」(妙法院文書)

5月7日 吉川広家・小早川隆景に「淀之女房衆」が関東に下向する件で新庄駿河守・稲田清蔵を派遣したことを告げ、彼らの指示に従うよう指示。また、稲田清蔵は火急の用件での派遣なので継ぎ馬を用意するように命ずる。

淀之女房衆召下候付而、為迎稲田清蔵差越候、然者下向之日限、重而可令案内旨申付候条、新庄駿河守・稲田清蔵左右次第、伝馬夫令用意相待、早速可送付候、次泊々賄等儀、清蔵可申渡候間、馳走可悦思召候、猶以路次無滞様、可入精事肝要也。追而申候、いなた清蔵火急ニ遣之候、つき馬を以可送之候、不可有由断、以上、
五月七日/(羽柴秀吉朱印)/吉川侍従とのへ

  • 豊臣秀吉文書集3198「羽柴秀吉朱印状」(吉川家什書・東大史影写)

淀之女房衆召下付而、為迎稲田清蔵差越候、然者下向之日限、重而可令案内旨申付候条、新庄駿河守・稲田清蔵左右次第、伝馬夫令用意相待、早速可送付候、次泊之賄等儀、清蔵可申渡候間、馳走可悦思召候、猶以路次無滞様、可入精事肝要也。追而申候、いなた清蔵事、火急ニ遣之候、つき馬を以可送之候、不可有由断、次清蔵馬其方ニ可置之条、よく申付可飼候、以上、
五月七日/(羽柴秀吉朱印)/清須小早川侍従とのへ

  • 豊臣秀吉文書集3199「羽柴秀吉朱印状」(内山光男氏所蔵文書・東大史影写)

5月7日 新庄駿河守・一柳越後守に「淀衆」を迎えるために稲田清蔵が向かったこと、草野次郎右衛門尉・大野木甚丞も招集すること、大津城番は新庄の弟を置き、一柳越後守はすぐに折り返す前提で下向すること、とにかく急いで途中経路に飛脚を送り、伝馬の準備を指示するように命ずる。

淀衆為迎、差越稲田清蔵候、同前ニ召連可罷下候、然者草野次郎右衛門尉・大野木甚丞も可召具候、大津城番ハ新庄弟共ニ可申置、越後ハ軈而可差返候間、当座之心得仕、可罷下候、涯分其方急候て可相越候、路次留々先々飛脚を遣、伝馬夫以下事令用意可相待旨、新庄・稲田相談可申送候、路次中無滞、早速下着候様ニ可入情候、猶稲田清蔵可申候也、
五月七日/(羽柴秀吉朱印)/新庄駿河守とのへ・一柳越後守とのへ

  • 豊臣秀吉文書集3200「羽柴秀吉朱印状」(八相宮文書・東大史影写)

5月10日 医師の一鴎軒に「淀女房共」が下向するので供奉を命じる。万一出かけていてもこの朱印状を見たら戻って供奉するように念押し。

淀女房共罷下候間、供候て可下向候、自然途中迄出候共、此朱印拝見次第罷帰、可令供候也、
五月十日/(羽柴秀吉朱印状)/一鴎軒

  • 豊臣秀吉文書集3201「羽柴秀吉朱印状」(三雲文書・東大史影写)

5月14日 妻に送った書状では自身の健康状態に触れていない。

ねんころニ文給候、御けんさんのこゝちして、ねんころにミまいらせ候、いよゝゝこたわらほりきわ、一てうの内そとニ、しより申つけ候により、一たんめいわくいたし、わひ事申たかい候事せひなく候へとも、ほしころしニ申つけ候わてハ、かなわさる事ニて候まゝ、このおもてへしゆしいたし候、はやしろゝゝおゝくうけとり候まゝ、御心やすく候へく候、わかきミ・大まんところ殿・五おひめ・きん五・そもしさまそくさいのよし、まんそく申候、いよゝゝ御ようせう候へく候、かしく。かへすゝゝこなたの事、心やすく候へく候、はや御さところのしろも、いしくらてき申候間、大ところてき申、やかてひろま・てんしゆたて可申候、いつれのミちにも、ことし内ニハひまあけ可まゝ、心やすく候へく候、かならすとしの内ハ参候て、御めにかゝり、つもり御物かたり可申候、せつかく御まち候へく候、いよゝゝわかきミ御ひとね候へく候、めてたくかしく、
五 十四日/差出人欠/宛所欠(上書:まんところ殿返事 てんか)

  • 豊臣秀吉文書集3208「羽柴秀吉自筆朱印状」(神奈川県立博物館)

2017/11/07(火)小幡兵衛尉の処遇に関連する文書

岡田利世、小幡信定に、降伏を促す

  • 戦国遺文後北条氏編4543「岡田利世書状」(源喜堂古文書目録二所収小幡文書)天正18年に比定。

当城を六月七日両日相尋候へハ、はや其方へ御越候由候、不懸御目御残多存知候、彦三様より貴所様之事内ゝ心懸申候へて被仰越候条、小田原へ取寄候時分より、いかなるつてニても、セめて書状を取かわし申度候而、さまゝゝ調略共仕候へ共、此方ハ不苦候へ共、城中ニて御法度つよく候由候而、御為いかゝと存候て不申入候、六日七日両日ハ者はが善七郎殿と申人を頼申候て、案内者をこい候てたつね申候、氏直様御壱人ニて二夜御酒なと被下候間、昨日七日之晩、家康陣取へ御立越候、一、彦三様御身上之事いかか被思食候哉、其方之御様子之通ニてハ是又家康へか内府へ御出候て尤候、一、忍之城御セめ候わんとて越後衆・羽筑前殿ニ被仰付候、昨夕此地まて御越候間今朝すくニおしへ御越候、定而彦三郎殿もおしへ可為御参陣候哉、貴所様もおしへ御出候ハん哉、御大儀なから御馬とり一人ニて此方へ御出候事ハなるましく候哉、以而上彦三様御身上又ハ貴所様御身上之事申談度候、一、信州あいき息宗太郎も家康へ罷出度と被申間、津田小平次と我ゝ両人して肝煎申候ハんと申候ても不人事、被仰候間、片時もいそぎ申談度候、一、先度木村ニ直談申候、先年信州こむろニて、井野五左衛門と申人へやくそく申候金子早ゝ御済候て尤候由申入候、五左衛門と申人、其時ハほうはいニて候今ハ上様御馬廻ニて一段御意よしニて候定而其方より御出可申候へ共、我もひきやうをかまへ候カなとゝ申候てめいわく仕候、けにゝゝ難相済候、一時も御いそき候て是非を御きわめ候て、其上不相調候者それにしたかひ御分別なされ尤候、上州之事家康へまいり候事必定と相聞申候間、家康へ御詫言候やうにと存候て、内府へも大かた申籠候、内府より被仰候者家康之御まへハ可相済候と存候、一、小田原城当年中ハ家康可有御出由候、来年江戸へ御越候へと被仰出候、一、此間ハ近年家康之御分国を一円ニ内府へ可被遣候と申候キ、三川国ニ別人を御おき候て其かわりニ上州を内府へ被遣候ハんなとゝ、たた今御本陣より被越候人被申候、あわれゝゝさ様ニも御及候へハ、彦三様御身上其まゝ相済申事候、莵角いつれの道ニても、内府を御頼候て家康へ御理候てハはつれぬ御事たるへきと存候、一、貴所様御身上なともなにとそ御分別尤候、彦三郎殿御身上如前ゝ相済候へハよく候、若不相済候とて俄ニとやかくと被仰候ても、難相調候間、我ゝ請取不申候ハゝ急度 上使を可遣候なとゝ申候而、此間ハ日ゝニ申来候而難儀仕候、急度被仰付候而尤候、一、当城之御無事之きわニ貴所様之事疎略仕候様ニ可思食八幡ニも富士白山ニもセいを入申候事、大方ならす候へ共、仕合わろくかけちかい申候へハ、不及了簡候、とかくたゝ今御身上御きわめて尤候、少御やすミ候て、何分是へ木村存知ニて候間、可有御出候哉、申談度候、恐惶謹言、
六月八日/利世(花押)/宛所欠(上書:岡田新■■利世 小幡兵衛尉殿人々御中)

 この城を6月7日から2日訪れましたので、早くもそちらへお知らせになったとのこと。お目にかかれず大変残念に思います。彦三様よりあなた様のことを内々で心がけてほしいと仰せいただいていたので、小田原を包囲した時分より、どのような伝手でもせめて書状を交換したいと考え、様々な手段を試みましたが、こちらは問題なくても、城中ではご法度が強いとのことで、そちらのためにならないと思って申し入れませんでした。6日・7日の2日間は垪和善七郎殿という方を頼んで案内する者を得てお訪ねしました。氏直様お一人で2夜お酒などをいただきましたので、昨日7日の晩に家康の陣へお立ち寄りになりました。 一、彦三様の身の上のこと、いかがお考えでしょうか。そちらのご様子の通りだと、こちらもまた家康へか内府(信雄)へ出仕なさるのがもっともです。 一、忍の城をお攻めになるということで、越後衆と前田利家殿へご命令になりました。昨夕この地にお越しだったので、今朝すぐに忍へお出かけになりました。きっと彦三郎殿も忍へご参陣なさるでしょうか。あなた様も忍へお出でになりますか。お手数ですが、お馬とり1人だけ連れてこちらへお出でになるのはかないませんか。その上で、彦三様の身の上、またはあなた様の身の上のことをご相談したく思います。 一、信濃国相木の息子宗太郎も家康へ出仕したいと申されているので、津田小平次と私の2人で肝煎りして申し上げようとしても人事とならぬと仰せになられているので、とにかく急いでご相談したく思います。 一、先に木村へ直接申しました。先年信濃国『こむろ』(小諸)で井野五左衛門というに約束した金銭を早々にご返済するのがもっともであると申し入れがありました。五左衛門という人は、その時は同僚で、今は上様のお馬廻で一段と目をかけられています。きっとそちらからお返しになるでしょうが、私も裏表があるのかと言われて困っています。本当に紛糾しているので、一時もおかずお急ぎになって事実を確認して、その上で揉めるようならそれによってご判断さなるのがもっともです。上野国のことは家康へ与えられることは間違いないと聞いていますので、家康へお詫び言するようにと考え、内府へも大体は申し含めています。内府から仰せになれば家康に仕えることは済んだも同然です。 一、小田原城は今年一杯は家康へ渡されるとのことです。来年は江戸へ移るように仰せになられました。 一、この間、近年の家康ご分国を全て内府へ渡されるだろうとのことでした。三河国に別の人を置かれて、その代わりに上野国を内府へ遣わすなどと、ただいまご本陣より来られた方が申されています。かわいそうに、そうなってしまったら、彦三様の身の上はそのままでは済まなくなることです。とにかくどのようになったとしても、内府をお頼りになって、家康へご説明なさらねば進展はないだろうと思います。 一、あなた様の身の上なども、どうかご分別なさるのがもっともです。彦三郎殿の身の上は前々のように済めばよいことです。もし済まないことになって急にとやかく申されても、調整するのは難しいでしょうから、私たちが保障できなければ、上使を派遣するだろうなどと言ってきています。このところ毎日言ってきて難儀しています。急いでご指示いただくのがもっともです。 一、当城のご無事の際に、あなた様のことを疎略に扱うような思し召しは、八幡にも富士権現・白山権現にも精を入れていることは、大概のことではありませんけれども、巡り会わせが悪く懸け違いが起きては了見を得ません。とにかくただいま身の上をお決めになるのがもっともです。少しお休みになって、なにぶんこのことは木村も存じていますから、お出でになりませんか。ご相談したく。

井伊直政、小幡信定の陸奥遠征を労い上野国で助力することを約す

  • 戦国遺文後北条氏編4549「井伊直政書状写」(加賀小幡文書)天正18年に比定。

    別て炎天時分御辛労無申計候、次黒田官兵様へ心得て可有、於小田原之万ゝ御取籠付て委細不申遂候、此返御心得所仰候、内ゝ御床敷存幸便之間一筆令申候、其已来者遠路故給音問所存外候、小田原御立之時分者御暇乞不申候、奥へ御供之由、扨ゝ御苦労察入申候、拙者者箕輪へ可罷移由御上意候間、先ゝ当地ニ移申事候、爰元御用等候者、可被仰越候、少も疎略有間敷候、何様御帰之時分、以而申入候者可承候、如在存間敷候、猶重而可申達候、恐々謹言、
    八月四日/井伊兵部少輔直政(花押)/小幡右兵衛尉■

 内々にお懐かしく思い、便があったので一筆申し上げます。あれ以来は遠路によってご連絡いただけるとは考えておりませんでした。小田原をお発ちの時にはご挨拶を申し上げませんでした。陸奥国へお供されたとのこと。さてさて、ご苦労お察しします。私は箕輪へ移るように上意がありましたので、とにかくこの地へ移りました。こちらでご用向きの際は、仰せになって下さい。少しの粗略もありません。色々とお帰りになった際にお申し入れいただければ、承りましょう。手抜かりはありません。さらに重ねてご伝達しましょう。 別途。炎天の時分のご辛労は申し上げるばかりもありません。次に、黒田官兵衛様へ心得を言い付かりました。小田原においては色々と取り込んで詳細を申し遂げられませんでした。この返信はお心得を仰ぐところです。

井伊直政、某に、所領の維持が困難であることを告げる

  • 戦国遺文後北条氏編4550「井伊直政書状」(源喜堂古文書目録二所収小幡文書)天正18年、小幡兵衛尉宛に比定。

    就貴所乃御身上之儀、自岡田新八郎殿被仰越候、其郡之儀者、未何方へも不相定候間、先其地ニ有之、御世上見合尤ニ候、何方よりも六ケ敷申候由、早ゝ御注進所仰候、御国竝之儀候間、内ゝ御他国仕度候御心懸候て尤ニ候、御荷物已下、少障り者有間敷候間、可有御心安候、少も事六ケ敷被、(後欠ヵ)
    八月四日/井伊兵部少輔直政(花押)/宛所欠

 貴所の身の振り方について、岡田新八郎殿よりご連絡がありました。あの郡のことは、まだどこへとも決まっていませんので、まずあの地にいていただき、世の流れを見極めるのがもっともです。どこよりも難しく申していること、早々にご注進と仰せのところ、御国並のことですから、内々で他国への支度をするお気持ちでいるのがもっともです。お荷物などは少しも損なうことはあり得ませんから、ご安心下さい。少しも事が難しく……(後半断か)