2026/04/14(火)武田氏滅亡が把握できなかった後北条氏

北条氏政が、弟の氏邦から報告があったにも関わらず武田滅亡の予兆を信じきれず、無駄に時間を費やした。というのが『戦国のコミュニケーション』の解説だった。

ところが、経緯を追ってみるとどうも意図的に情報遮断があったように見える。

『改訂 信長公記』(校注:桑田忠親・1965年)によると、天正10年の記事として以下がある。

  • 三月廿一日、北条氏政より、端山と申す者、使者にて、并びに、江川の御酒、白鳥、色々進上。滝川左近取次。
  • 三月廿六日、北条氏政より御馬の飼料として八木千俵、諏訪まで持ち届け、進上候なり。
  • (四月二日)北条氏政、武蔵野にて追鳥狩仕候て、雉の鳥数五百余進上候、
  • (四月四日?)北条氏政より御馬十三疋、并びに御鷹三足進上。此の内に鶴取りの御鷹これある由なり。御使玉林斎祇候のところ、何れも御気色に相ひ申さず、帰し遣はされ候、

『信長公記』は後世軍記なので参考程度だが、ここでは3月21日からしか後北条の情報がない。では、同時代の古記録である『家忠日記』ではどうなっているのだろうか。

家忠日記

1581(天正9)年

霜月十四日

甚太郎死去付而、東条より妹引越候、安土西尾殿吉良へ被通候て、宇谷へ酒むかい候、

十二月十八日

安土西尾小左衛門、信長来春駿甲江可有御動座、兵粮当城江移候て、相良へ被越候、送りニ越候、

1582(天正10)年

二月六日

酒左より信濃、木曽御味方必定にて、信長様近日御動座可有之候間、普請之儀相延候、陣用意候て、左右次第可被立由申来候、西郷新右衛門越候、

二月十二日

信州一扁被成候而、近日駿河表江御陣可有之由、酒左より申来候、石川伯耆所より来十六日ニ浜松へ可被越候由申来候、

二月十七日

本坂ヲ日かけニ浜松迄出陣候、昨日十六日ニ敵小山ヲすて候由候、

二月十八日

山口迄立候、家康者懸河迄御付候、

二月十九日

家康牧野迄、諸勢かなやニ陣取候、

二月廿日

田中迄働候、

二月廿一日

たうめ越、持船ニ陣取候、家康」遠州衆者府中ニ陣取候、

同時代文書

1581(天正9)年11月8日付けの伝馬朱印では、伝馬7疋を支給しており「相州御使者ニ」とする。 11月12日付けの家康書状では、皆川広照が安土から関東に帰還する際に便宜を図ることを告げている。

此使者至常州蜷川差越候、相模へ相送、自其彼方へ参着様、馳走専一候、此旨相州へも能々可申越候、猶西尾可申候也、十月廿九日/信長(花押)/滝川左近殿

  • 増訂織田信長文書の研究0960「織田信長朱印状」(下野・皆川文書二)天正9年比定

伝馬七疋、三遠宿中無相違可出也、相州御使者ニ、仍如件、天正九年巳霜月八日/(朱印「印文未詳」)/宛所欠

  • 神奈川県史資料編3下8677「徳川家康ヵ伝馬手形」(皆川文書)

相州より使これを其元にて仕立候てみやけとして可遣候、かしく。我等ハ隙入候間上事ハ、無用候、月日欠/差出人未詳/夕庵参

  • 増訂織田信長文書の研究補遺098「織田信長消息」(『手紙』人と書1)