2018/11/05(月)長尾景虎書状を巡る疑問点

長尾景虎書状に関して、門外漢がこの文書のみを読んだという前提で疑問点を挙げてみる。私の知識は今川・後北条関連に大きく偏っているため、越後国の表現や語用は判らないまま読んだ。

広い範囲で関連文書を読み込めばこのような疑問は解消するのだろうと思う。とはいえ、上杉輝虎に疎い初見者の感触だと「どこに引っかかってしまうのか」の記録として何かの役に立つかも知れないので、記しておく。

兄候弥六郎兄弟之者ニ、黒田慮外之間、遂上郡候、覃其断候処、桃井方へ以御談合、景虎同意ニ可加和泉守成敗御刷、無是非次第候、何様爰元於本意之上者、晴景成奏者成之可申候、恐々謹言、
十月十二日/平三景虎(花押)/村山与七郎殿

  • 『上杉謙信「義の武将」の激情と苦悩』(今福匡)37~38ページ

「遂上郡候」

これは「逐上郡候」の誤記で、「上郡を逐う」と読むのだろうと思う。「遂」と「逐」はこの時代だとよく取り違えられている。こういった追放処置であれば、この後に「その断に及び候ところ」との繋がりがよい。ただ、このような表現は手元史料では見られず当て推量ではある。他家だと「追放」「追却」「追払」を使う。

「兄候弥六郎」

手元の他例を見ると「兄ニ候」「弟候」の後に続く人名は、差出人の兄弟だった。これに従って弥六郎が景虎の兄だとすると、これに続く「兄弟之者」が、持って回った表現になっていて奇妙。「兄の弥六郎の兄弟に」であれば、「私の兄弟に」と書くか、「兄候」もしくは「弟候」の後に直接その人名を書けばよい。このことから、差出人の兄ではない可能性は高いように見える。

また、弥六郎=晴景だとすると、文頭では兄としてくだけた感じで仮名を書いているのに、文の後ろでは畏まって実名を呼び「奏者」を介して報告する権威を強調している。ここに乖離があるような感触。

一方、与七郎の兄が弥六郎だとすれば、長兄弥六郎が相続その他で係争し、与七郎たち兄弟に「黒田」の知行を巡って慮外の行動を起こしたと理解可能(「兄弟共」ではないのが少し気になる)。その場合、上郡から逐われたのは弥六郎となる。

「黒田」

兄弟の知行争いであれば地名だと考えられる。そうではなく人名だとすると、上郡を逐われたのは黒田某になる。しかし、追放・成敗の事態に至る行動が「慮外」では弱い表現に感じる。他家への侵害であれば「横合非分」や「非儀」という強い表現を使うのではないか。「慮外」は利用範囲が広く、無沙汰を詫びる際にも使われる。

「無是非次第候」

「和泉守」に成敗を加える裁定に「景虎同意」したことに対して「無是非次第」とあるのは、和泉守成敗が景虎・与七郎にとって良くない決定だったとする意にもとれそう。「無是非次第」は好悪どちらにも使われるものの、それに続けて、「どうなったとしても晴景には取りなす」ような書き方をしている。これは、和泉守成敗という不利な状況で与七郎が動揺しないように書き添えたようにも見える。

「和泉守」

この人は少なくとも「弥六郎」「黒田」と同一人物ではないように見える。このどちらかが上郡追放になった措置のあとで、和泉守の成敗が行なわれているためだ。そしてまた、この成敗の動議が桃井某を経て行なわれたことから、「桃井」でもない。成敗に景虎同意が求められたことから考えると、景虎に近い人物であるかも知れない。

兄弟の知行争議だった場合は、官途名乗りであることから一族の年長者である可能性が高い。弥六郎と与七郎の騒動で和泉守が初期に調停をして、景虎を頼った。結果として弥六郎追放となったが、「御談合」「御刷」の中で、和泉守も責任を問われて処罰されたと考えられる。であれば、和泉守処分に景虎同意が必要とされ、景虎も「御談合」「御刷」に逆らえず同意した。この文脈であれば、すっきり読める。

「晴景成奏者成之可申候」

これを読み下すと「晴景の奏者となり、これをなし、申すべく候」という妙な言い回しになっている。ここは意図が推測できない。表現を迂遠にしてぼやかしたのかも知れない。

2018/10/13(土)羽柴秀吉の宣戦布告状一覧

豊臣秀吉文書集2766「羽柴秀吉条々」(個人蔵『秀吉の宣戦布告状』)

(欠落ヵ)北条事、近年蔑 公儀、不能上洛、殊於関東任雅意狼藉条、不及是非、然間去年可被成御誅罰処、駿河大納言家康卿依為縁者、種々懇望候間、以条数被仰出候へハ、御請申付而被成御赦免、則美濃守罷上御礼申上候事
一、先年家康被相定条数、家康表裏様ニ申上候間、美濃守被成御対面上者、境目等之儀被聞召届、有様ニ可被仰候之間、家々郎従差越候へと被仰出候処、江雪差上訖、家康与北条国切之約諾儀如何と御尋候処、其意趣者、甲斐・信濃之中城々ハ家康手柄次第可被申付、上野中者北条可被申付之由相定、甲信両国者即家康被申付候、上野沼田之儀者北条不及自力、却而家康相違之様ニ申成、寄事於左右、北条出仕迷惑之旨申上かと被思食、於其儀者沼田可被下候、乍去上野のうち、真田持来候知行三分二沼田之城ニ相付、北条へ可被下候、三分一ハ真田ニ被仰付候条、其中ニ有之城をハ真田可相拘之由被仰定、右北条ニ被下候三分二之替地者、家康より真田ニ可相渡旨被成御究、北条上洛可仕との一札出候ハゝ、即被差遣御上使、沼田可被相渡と被仰出、江雪被返下候事
一、当年極月上旬、氏政可致出仕之旨、御請一札進上候、依之被差遣津田隼人正・富田左近将監、沼田被渡下候事
一、沼田要害請取候上者、右一札相任、即可罷上と被思召候処、真田相拘候なくるミの城を取、表裏仕候上者、使者ニ非可被成御対面儀候、彼使雖可及生害、助命返遣候事
一、秀吉若輩之時、孤と成て信長公属幕下、身を山野に捨、骨を海岸に砕、干戈を枕とし夜はに寝、夙におきて軍忠をつくし戦功をはけます、然而中比より蒙君恩、人に名をしらる、因茲西国征伐之儀被仰付、対大敵争雌雄刻、明智日向守光秀以無道之故、奉討信長公、此註進を聞届、弥彼表押詰任存分、不移時日令上洛、逆徒光秀伐頸、報恩恵雪会稽、其後柴田修理亮勝家、忘信長公之厚恩、国家を乱し叛逆之条、是又令退治畢、此外諸国叛者討之、降者近之、無不属麾下者、就中秀吉一言之表裏不可有之、以此故相叶天道者哉、予既挙登龍揚鷹之誉、成塩梅則闕之臣、関万機政、然処氏直背天道之正理、対 帝都企奸謀、何不蒙天罰哉、古諺云、巧訴不如拙誠、所詮普天下逆 勅命輩、早不可不加誅罰、来歳必携節旄令進発、可刎氏直首、不可廻踵者也、
天正十七年十一月廿四日/(羽柴秀吉朱印)/北条左京大夫とのへ

豊臣秀吉文書集2767「羽柴秀吉条々」(大坂青山短期大学)

条々
一、北条事、近年蔑 公儀、不能上洛、殊於関東任雅意狼藉条、不及是非、然間去年可被成御誅罰処、駿河大納言家康卿依為縁者、種々懇望之間、以条数被仰出候へハ、御請申付候て被成御赦免、則美濃守罷上御礼申上候事
一、先年家康被相定条数、家康表裏様ニ申上候間、美濃守被成御対面上ハ、境目等之儀被聞召届、有様ニ可被仰候之間、家々郎従差越候へと被仰出候処、江雪差上訖、家康与北条国切之約諾儀如何と御尋候処、其意趣者、甲斐・信濃之中城々ハ家康手柄次第可被申付、上野中者北条可被申付之由相定、甲信両国者即家康被申付候、上野沼田之儀者北条不及自力、却而家康相違之様ニ申成、寄事於左右、北条出仕迷惑之旨申上かと被思食、於其儀者沼田可被下候、乍去上野のうち、真田持来候知行三分二沼田之城ニ相付、北条へ可被下候、三分一ハ真田ニ被仰付候条、其中ニ有之城をハ真田可相拘之由被仰定、右北条ニ被下候三分二之替地者、家康より真田ニ可相渡旨被成御究、北条上洛可仕との一札出候ハゝ、即被差遣御上使、沼田可被相渡と被仰出、江雪被返下候事
一、当年極月上旬、氏政可致出仕旨、御請一札進上候、因茲被差遣津田隼人正・富田左近将監、沼田被渡下候事
一、沼田要害請取候上ハ、右一札ニ相任、則可罷上と被思召候処、真田相拘候なくるミの城を取、表裏仕候上者、使者ニ非可被成御対面儀候、彼使雖可及生害、助命返遣候事
一、秀吉若輩之時、孤と成て信長公属幕下、身を山野に捨、骨を海岸に砕、干戈を枕とし夜はに寝、夙におきて軍忠をつくし戦功をはけます、然而中比より蒙君恩、人に名をしらる、依之西国征伐之儀被仰付、対大敵争雌雄刻、明智日向守光秀以無道之故、奉討信長公、此注進を聞届、弥彼表押詰任存分、不移時日令上洛、逆徒光秀伐頸、報恩恵雪会稽、其後柴田修理亮勝家、信長公之厚恩を忘、国家を乱し叛逆之条、是又令退治畢、此外諸国叛者討之、降者近之、無不属麾下者、就中秀吉一言之表裏不可有之、以此故相叶天道者哉、予既挙登龍揚鷹之誉、成塩梅則闕之臣、関万機政、然処氏直背天道之正理、対帝都企奸謀、何不蒙天罰哉、古諺云、巧訴不如拙誠、所詮普天下逆勅命輩、早不可不加誅伐、来歳必携節旄令進発、可刎氏直首事、不可廻踵者也、
天正十七年十一月廿四日/(羽柴秀吉朱印)/北条左京大夫とのへ

豊臣秀吉文書集2768「羽柴秀吉条々」(真田家文書)

条々
一、北条事、近年蔑 公儀、不能上洛、殊於関東任雅意狼藉条、不及是非、然間去年可被成御誅罰処仁、駿河大納言家康卿依為縁者、種々懇望候間、以条数被仰出候へハ、御請申付而被成御赦免、則美濃守罷上御礼申上候事
一、先年家康被相定条数、家康表裏様仁申上候間、美濃守被成御対面上ハ、境目等之儀被聞召届、有様ニ可被仰付之間、家々郎従差越候へと被仰出候処ニ、江雪差上畢、家康与北条国切之約諾儀如何と御尋候処、其意趣者、甲斐・信濃之中城々ハ家康手柄次第可被申付、上野之中ハ北条可被申付之由相定、甲信両国者則家康被申付候、上野沼田儀者北条不及自力、却而家康相違之様ニ申成、寄事於左右、北条出仕迷惑之旨申上候歟と被思食、於其儀者沼田可被下候、乍去上野のうち、真田持来候知行三分二沼田之城ニ相付、北条ニ可被下候、三分一ハ真田ニ被仰付候条、其中ニ在之城をハ真田可相拘之由被仰定、右北条ニ被下候三分二之替地者、家康より真田ニ可相渡旨被成御究、北条可出仕との一札出候ハゝ、則被差遣御上使、沼田可被相渡と被仰出、江雪被返下候事
一、当年極月上旬、氏政可致出仕旨、御請一札進上候、因茲被差遣津田隼人正・富田左近将監、沼田被渡下候事
一、沼田要害請取候上ハ、右一札ニ相任、則可罷上と被思召候処、真田相拘候なくるミの城を取、表裏仕候上者、使者ニ非可被成御対面儀候、彼使雖可及生害、助命返遣候事
一、秀吉若輩之時、孤と成て信長公属幕下、身を山野に捨、骨を海岸に砕、干戈を枕とし夜ハに寝、夙におきて軍忠をつくし戦功をはけます、然而中比より蒙君恩、人に名を知らる、依之西国征伐之儀被仰付、対大敵争雌雄刻、明智日向守光秀以無道之故、奉討信長公、此注進を聞届、弥彼表押詰任存分、不移時日令上洛、逆徒光秀伐頸、報恩恵雪会稽、其後柴田修理亮勝家、信長公之厚恩を忘、国家を乱し叛逆之条、是又令退治畢、此外諸国叛者討之、降者近之、無不属麾下者、就中秀吉一言之表裏不可有之、以此故相叶天命者哉、予既挙登龍揚鷹之誉、成塩梅則闕之臣、関万機政、然処ニ氏直背天道之正理、対 帝都企奸謀、何不蒙天罰哉、古諺云、巧訴不如拙誠、所詮普天下逆 勅命輩、早不可不加誅伐、来歳必携節旄令進発、可刎氏直首事、不可廻踵者也、
天正十七年十一月廿四日/(羽柴秀吉朱印)/北条左京大夫とのへ

豊臣秀吉文書集2769「羽柴秀吉条々」(伊達家文書)

条々
一、北条事、近年蔑 公儀、不能上洛、殊於関東任雅意狼藉条、不及是非、然間去年可被加御誅罰処、駿河大納言家康卿依為縁者、種々懇望之間、以条数被仰出候へハ、御請申付而被成御赦免、即美濃守罷上御礼申上事
一、先年家康被相定条数、家康表裏様ニ申上候之間、美濃守被成御対面上者、境目等之儀被聞召届、有様ニ可被仰付間、家々郎従指越候へと被仰出之処、江雪差上訖、家康与北条国切之約諾之儀如何と御尋候之処、其意趣者、甲斐・信濃中城々ハ家康手柄次第可被申付、上野之中者北条可被申付之由相定、甲信両国者即家康被申付候、上野沼田之儀者北条不及自力、却而家康相違之様ニ申成、寄事於左右、北条出仕迷惑之旨申上歟与被思食、於其儀者沼田可被下候、乍去上野之中、真田持来候知行三分二沼田之城ニ相付、北条へ可被下候、三分一ハ真田ニ被仰付之条、其中ニ有之城をハ真田可相拘之由被仰定、右北条ニ被下候三分二之替地者、自家康真田ニ可相渡旨被成御究、北条上洛可仕との一札出候者、即被指遣御上使、沼田可被相渡与被仰出、江雪被返下候事
一、当年極月上旬、氏政可致出仕之旨、■請一札進上之候、因茲被差遣津田隼人正・富田左近将監、沼田被渡下候事
一、沼田要害請取候上者、右相任一札、即可罷上と被思食之処、真田相拘候なくるミの城を取、表裏仕候上者、使者ニ非可被成御対面儀候、彼使雖可及生害、助命返遣候事
一、秀吉若輩之時、孤と成て信長公属幕下、身を山野ニ捨、骨を海岸に砕、干戈を枕とし夜はに寝、夙におきて軍忠をつくし戦功をはけます、然而自中比蒙君恩、人に名をしらる、依之西国征伐之儀被仰付、対大敵争雌雄刻、明智日向守光秀以無道之故、奉討信長公、此注進を聞届、弥彼表押詰任存分、不移時日令上洛、逆徒光秀伐頸、報恩恵雪会稽、其後柴田修理亮勝家、信長公之厚恩を忘、国家を乱し叛逆之条、是又令退治畢、此外諸国叛者討之、降者近之、無不属麾下者、就中秀吉一言之表裏不可有之、以此故相叶天道者哉、予既挙登龍揚鷹之誉、成塩梅則闕之臣、関万機政、然処氏直背天道之正理、対帝都企奸謀、何不蒙天罰哉、古諺云、巧訴不如拙誠、所詮普天下逆勅命輩、早不可不加誅伐、来歳必携節旄令進発、可刎氏直首事、不可廻踵者也、 天正十七年十一月廿四日/(羽柴秀吉朱印)/北条左京大夫とのへ

豊臣秀吉文書集2770「羽柴秀吉条々」(早稲田大学図書館・毛利家旧蔵文書)

条々
一、北条事、近年蔑 公儀、不能上洛、殊於関東任雅意狼藉条、不及是非、然間去年可被加御誅罰処、駿河大納言家康卿依為縁者、種々懇望候間、以条数被仰出候へハ、御請申付而被成御赦免、則美濃守罷上御礼申上候事
一、先年家康被相定条数、家康表裏様ニ申上候間、美濃守被成御対面上ハ、堺目等之儀被聞召届、有様ニ可被仰付候之間、家々郎従差越候へと被仰出候之処、江雪差上訖、家康与北条国切之約諾儀如何と御尋候処、其意趣者、甲斐・信濃之中城々ハ家康手柄次第可被申付、上野之中ハ北条可被申付之由相定、甲信両国者則家康被申付候、上野沼田儀者北条不及自力、却而家康相違之様ニ申成、寄事於左右、北条出仕迷惑之旨申上かと被思召、於其儀者沼田可被下候、乍去上野のうち、真田持来候知行三分二沼田之城ニ相付、北条ニ可被下候、三分一ハ真田ニ被仰付候条、其中ニ有之城ハ真田可相拘由被仰定、右之北条ニ被下候三分二之替地ハ、家康より真田ニ可相渡旨被成御極、北条上洛可仕との一札出候者、則被差遣御上使、沼田可相渡与被仰出、江雪被返下候事
一、当年極月上旬、氏政可致出仕之旨、御請之一札進上候、依之被差遣津田隼人正・富田左近将監、沼田被渡下候事
一、沼田要害請取候上ハ、右一札ニ相任、則可罷上と被思食候処、真田相拘候なくるミの城を取、表裏仕候上者、使者ニ非可被成御対面儀候、彼使雖可及生害、助命返遣候事
一、秀吉若輩之時、孤と成て信長公属幕下、身を山野に捨、骨を海岸に砕、干戈を枕とし夜はに寝、夙におきて軍忠をつくし戦功をはけます、然而中比より蒙君恩、人に名をしらる、因茲西国征伐之儀被仰付、対大敵争雌雄刻、明智日向守光秀以無道之故、奉討信長公、此註進を聞届、弥彼表押詰任存分、不移時日令上洛、逆徒光秀伐頸、報恩恵雪会稽、其後柴田修理亮勝家、信長公之厚恩を忘、国家を乱し叛逆之条、是又令退治訖、此外諸国叛者討之、降者近之、無不属麾下者、就中秀吉一言之表裏不可有之、以此故相叶天命哉、予既挙登龍揚鷹之誉、成塩梅則闕之臣、関万機政、然処氏直背天道之正理、対帝都企奸謀、何不蒙天罰哉、古諺云、巧訴不如拙誠、所詮普天下逆勅命輩、早不可不加誅伐、来歳必携節旄令進発、可刎氏直首事、不可廻踵者也、 天正十七年十一月廿四日/(羽柴秀吉朱印)/北条左京大夫とのへ

豊臣秀吉文書集2771「羽柴秀吉条々」(言継卿記)

条々
一、北条事、近年蔑公儀、不能上洛、殊於関東任雅意狼藉之条、不及是非、而去年可被加御誅罰処、駿河大納言家康卿依為縁者、種々懇望候間、以条数被仰出候へハ、御請申付而被成御赦免、則美濃守罷上御礼申候事
一、先年家康被相定条数、家康表裏之様ニ申上候間、美濃守被成御対面上ハ、境目等之儀被聞召届、有様ニ可被仰付候之間、家之郎従差越候へと被仰出之処、江雪差上訖、家康与北条国切之約諾儀如何と御尋候処ニ、其意趣者、甲斐・信濃之中城々ハ家康手柄次第可被申付、上野之中ハ北条可被申付之由相定、甲信両国ハ則家康被申付候、上野沼田儀ハ北条不及自力、却而家康相違之様ニ申成、寄事於左右、北条出仕迷惑之旨申上かと被思食、於其儀者沼田可被下候、乍去上野のうち、真田持来候知行三分二沼田城仁相付、北条ニ可被下候、三分一ハ真田ニ被仰付候条、其中ニ有之城をハ真田可相拘之由被仰定、右之北条ニ被下候三分二之替地ハ、家康より真田ニ可相渡旨被成御究、北条上洛可仕との一札出之、則被差遣下御上使、沼田可被相渡旨被仰出、江雪被返下候事
一、当年極月上旬、氏政可致出仕之旨、御請之一札進上候、依之被差遣津田隼人正・富田左近将監、沼田被罷下候事
一、沼田要害請取候上ハ、右之一札ニ相任、則可罷上と被思食候処、真田相拘候なくるミの城を取、表裏仕上ハ、使者ニ非可被成御対面儀候、彼使雖可及生害、助命返遣候事
一、秀吉若輩之時、孤と成て信長公属幕下、身を山野に捨、骨を海岸に砕、干戈を枕とし夜ハにいね、夙におきて軍忠をつくし戦功をはけます、然而中比より蒙君恩、人に名をしらる、因茲西国征伐之儀被仰付、対大敵争雌雄刻、明智日向守光秀以無道之故、奉討信長公、此注進を聞届、弥彼表押詰任存分、不移時日令上洛、逆徒光秀伐頸、報恩恵雪会稽、其後柴田修理亮勝家、信長公之厚恩を忘、国家を乱し叛逆之条、是又令退治了、此外諸国叛者討之、降者近之、無不属麾下者、就中秀吉一言之表裏不可有之、以此故相叶天命哉、予既挙登龍揚鷹之誉、成塩梅則闕之臣、関万機政、然処氏直背天道之正理、対帝都企奸謀、何不蒙天罰哉、古諺云、巧詐不如拙誠、所詮普天下逆勅命輩、早不可不加誅伐、来歳必携節旄令進発、可刎氏直首事、不可廻踵者也、
天正十七年十一月廿四日/御朱印/北条左京大夫とのへ

豊臣秀吉文書集2765「羽柴秀吉条々」(皇室の至宝東山御文庫御物四)要検討

条々
一、氏直事、近年蔑 公儀、不能上洛、於関東任雅意狼藉条、不及是非次第也、然間去年可加御誅伐之処、駿河大納言家康卿依為縁者、種々懇望之間、以条数申出候き、其旨就申御請令赦免、則叔父美濃守罷上令対面事
一、先年家康被相定条数、家康表裏之様申上之間、美濃守見参之上者、境目等之儀聞合、有様可被仰付之間、家々郎従可上置之由申下之処、江雪上之畢、家康与北条国割領知約諾之趣相尋云々、甲斐・信濃内城々ハ家康手柄次第可被申付之、上野内ハ氏直可為進止之由相定之、即甲信両国ハ家康任存分、上野沼田之儀ハ氏直不及自力、却而家康相違之様申成候、寄事於左右、出仕迷惑之旨言上かと思食、於其儀者沼田城可被渡下、但上野内、真田持来知行三分二沼田城相付之、氏直ニ可被下、三分一ハ真田ニ被仰付之条、其中ニ有之城ハ真田ニ可相拘之由被仰定、右北条ニ被下三分二之替地ハ、家康より真田ニ可被渡之旨相究、北条可上洛之一札出之者、則差下上使、沼田城可渡之旨被仰含、江雪返下事
一、当年極月上旬、氏政可致出仕之旨、御請之一札進上候、因茲津田隼人正・富田左近将監差下、沼田城渡遣事
一、沼田要害請取之旨、右一札ニ相任、即可罷上と思食之処、差上使者、、結句真田相拘那具留見城将計取之条、彼使者不能対面、既雖可覃傷害、助命追下事
一、秀吉若年之時、孤となり信長公の属幕下、砕骨山野、捨身海岸、干戈を枕とし、軍忠を竭し戦功を励す、中ころより別而君恩を蒙り、人ニ名をしらる、仍先年西国征罰之儀被仰付、対大敵争雌雄之刻、明智日向守光秀以無道之故、奉討信長公、聞此注進、敵陣弥相固任存分、不移時日馳上、斬逆徒光秀之頸梟獄門、勿報恩恵、其後柴田修理亮勝頼、忘信長公之厚恩、乱国家叛逆之条、是亦令退治畢、此外諸国叛ハ退之、降ハ脱之、無不属指麾者、就中秀吉不可有一言之表裡、以此故相叶天命に、予既挙登龍揚鷹之誉、成塩梅則闕之官、関万機政、氏直事背天道之正理、向帝都企奸謀、逆心蓋蒙天罰哉、古諺云、巧詐不如拙誠、所詮普天下逆勅命之輩、不可不加刑罰、来歳必携節旄令進発、可刎氏直之首事、不可廻踵者也、
天正十七年十一月廿四日/(羽柴秀吉朱印)/北条左京大夫とのへ

2018/09/19(水)寺社を焼くということ

寺社は戦国期によく焼かれたのか

漠然と、戦乱で寺や神社が焼かれたという認識を持っていたが、改めて史料から追ってみようと考えた。手持ちのデータから「焼」「放火」で検索し、ヒットしたものを分類してみる。

ちなみに、寺社への放火が禁制で明記されているのは、織田信長・羽柴秀吉・徳川家康。今川・後北条では見かけず、わずかに上田長則が天正9年に出した別当法禅坊宛ての禁制(戦北2237)があるのみ。

焼かれたのは何か

放火や焼き払いに関しての記述をまとめてみた。城や防御施設が対象のものが19例で最も多い。ついで、対象物は特に指定せず領域を指しているものが15例。明らかに民家を指すものが12例で続く。失火したり自ら焼いたりしたものは6例で少ない。調査対象となる、寺社を焼いたと明確な事例は5例。

城・防御施設 19例

  • 新津のね小屋焼払候を
  • 蕨地利、北新、去廿日夜、乗捕門橋焼落
  • 殊厩橋焼候哉
  • 本丸焼崩儀可有之候
  • 上野国中在松井田根小屋悉焼払
  • 二曲輪焼払候也
  • 昨日者武州深谷城際迄放火
  • 彼城中ニ有替衆、雖付火候
  • 今六日蒲原之根小屋放火之処
  • 抑去六日当城宿放火候キ
  • 谷中不残一宇放火候
  • 去廿日至中島相動、即及一戦切崩、数多討捕之、残党河へ追込、悉放火之由
  • 昨日も至花熊相働、山下放火之一揆も罷出御忠節仕候
  • 泊城押入、数多討捕之、悉令放火
  • 其上小早川幸山候得共、毎日此方足軽申付、十町・十五町之内迄雖令放火候
  • 去三日沼田東谷押替候、取出以不慮之行、打散悉放火
  • 韮山下丸乗崩、令放火之由
  • 小屋ゝゝニ火を掛
  • 端城乗入、悉令放火

領域 15例

  • 此表者焼動迄之事候条
  • 四日ニ上京悉焼払候
  • 万田より次ノ崎迄焼散被成候処ニ
  • 就在所鳥波放火
  • 佐野・新田領可放火候
  • 彼庄内悉放火
  • 今度津具郷へ相働悉放火
  • 駿府へ被相働、悉放火候
  • 今春向西上州相動、所々放火敵殺及討捕之由心地好候
  • 既向滝山放火必然之由
  • 江北中皆以放火候事
  • 伊豆堺迄放火候
  • 次伊豆浦処々放火
  • 剰小田原之地ことゝゝく放火のよし
  • 三浦渡海、如被存放火

民家 12例

  • 家へ押籠被為焼殺候
  • 彼山下焼払候旨
  • 高遠町令調儀焼候由
  • 素家之躰成共焼払所肝要候
  • 洛外無残所令放火
  • 近辺之郷村放火之由心地好候
  • 臼井筋之郷村令放火
  • 次白須賀之訳放火之事
  • 在ゝ所ゝ民屋、不残一宇放火
  • 御厨中之民家少ゝ放火
  • 然而小泉・館林・新田領之民屋不残一宇放火
  • 地下中令放火之間

失火・自焼 5例

  • 頗社頭以下放火之条 ※宮司職富士氏の御家騒動なので自焼
  • 去年於当府千灯院焼失云々
  • 火電時令焼失云々
  • 先判去年十二月令焼失云々
  • 居所とも自焼仕候而
  • 火電時令焼失云々

寺社 5例

  • 就動乱、堂塔已上九炎焼
  • 頭陀寺之儀者、云今度悉焼失
  • 殊今度敵動之刻、令煙焼之由候条
  • 廿三筑波へ乱入、知息院放火
  • 清水と申くわんおんたう焼申時

寺社はどのような状況で焼かれたのか

飯尾豊前守が頭陀寺を焼いたのは、彼の反乱に加担しなかった住持の千手院が、敵対して頭陀寺城に籠城したのが契機。千手院は今川氏真に「頭陀寺城被相移以忠節」と評され、飯尾豊前守と戦闘状態になっている。

倉賀野淡路守の戦陣で清水観音堂を焼こうとした際、焼き手の富永清兵衛は、敵の反撃に遭って一旦攻めあぐねている。

後北条氏が筑波に乱入して知息院に放火した際も、捕虜が200人以上、死者は数え切れない程だと書かれており、ここで激しい戦闘があった可能性は高い。

武田晴信・松平次郎三郎の例は不明。

5例中3例が戦闘を伴って寺社が焼かれたことから見て、何れの場合も無防備の寺社を焼いたというより、戦闘拠点として攻撃したのではないか。

天文3 松平次郎三郎→猿投神社

天文三年[甲午]六月廿二[午剋]、就動乱、堂塔已上九炎焼、 焼手松平之二郎三郎殿、当国住人、

  • 愛知県史資料編10_1186「八講諜裏書」(猿投神社文書)

永禄7 飯尾豊前守→頭陀寺

就今度飯尾豊前守赦免、頭陀寺城破却故、先至他之地可有居住之旨、任日瑜存分領掌了、然者寺屋敷被見立、重而可有言上、頭陀寺之儀者、云今度悉焼失、日瑜云居住于他所、以連々堂社寺家可有再興、次先院主并衆僧中、以如何様忠節、令失念訴訟之上、前後雖成判形、既豊前守逆心之刻、敵地江衆徒等悉雖令退散、日瑜一身同宿被官已下召連、不移時日頭陀寺城被相移以忠節、頭陀寺一円補任之上者、一切不可許容、兼亦彼衆徒等憑飯尾、頭陀寺領事、雖企競望、是又不可許容者也、仍如件、
永禄七年十月二日/上総介(花押)/千手院戦国遺文今川氏編2015「今川氏真判物」(頭陀寺文書)1564(永禄7)年比定

永禄12 武田晴信→須津八幡宮

駿河国須津之内八幡宮御修理之事。右、天沢寺殿本年貢之外、以段米之内弐拾俵、為新寄進被出置之処ニ、去従子之年已来、古槇淡路守申掠令押領之由、只今致言上之条、任先判形之旨領掌訖、殊今度敵動之刻、令煙焼之由候条、為彼造営所令寄進、不可有相違之者也、仍如件、
永禄十二己巳十二月十六日/文頭に(朱印「印文未詳」)/多門坊

  • 戦国遺文今川氏編2433「今川氏真朱印状」(富士市中里・多門坊文書)1569(永禄12)年比定

天正16 後北条氏→筑波知息院

態啓上候、仍先日者家中候者、機合相違付而、不敢聞召、御尋過分至極奉存候、追日如存取直被申候、聞食可為御太悦候候、内々以使者此旨雖可申上候、却而可御六ヶ敷候間、無其儀候、然者南軍之模様去廿二小田領被打散、廿三筑波へ乱入、知息院放火、取籠候者二百余人、越度仁馬無際限被取候由申候、昨日廿五、陣替由候、于今承届不申候、様子重而可申上候、恐々謹言、
孟夏廿六日/笠間孫三郎綱家(花押)/烏山江

  • 埼玉県史料叢書12_0852「笠間綱家書状」(滝田文書)1588(天正16)年比定

年未詳 倉賀野淡路守→清水観音堂

(抜粋)「加り金ノ城主くらかね淡路守殿、是へ働之時、清水と申くわんおんたう焼申時、我等参やき候へハ、敵くわんおんたう迄もち、為焼不申候時、せり合候て鑓ニ相たうをは焼はらい申候事」

  • 群馬県史資料編3_3696「冨永清兵衛覚書」(東京大学史料編纂所所蔵猪俣文書)