2017/04/20(木)関東の主導者が憲政から義氏に変わりつつあった流れ

1549(天文18)年~1557(弘治3)年までの、足利義氏・上杉憲政に関連した主要記事を抜粋。

1549(天文18)年

9月27日:下野国の宇都宮尚綱が五月女坂の合戦で那須高資に敗れて戦死する。高資方には北条氏康と芳賀高照・壬生綱雄・白川結城晴綱が加勢する。

天文19年

11月初め:北条氏康が上野国平井城山内上杉憲政を攻め、攻略できず(小林文書・高崎市史資料編4-280)。

この年:北条氏康が上野国平井城を攻略し、山内上杉憲政は逃れて同国白井城に入る。

天文20年

1月22日:那須高資が北条氏康に味方して弟資胤と争い、家臣の千本資俊に下野国千本城で殺害される。

この冬:北条氏康が冬から翌年にかけて再び利根川左岸の小幡・高山氏等の河西衆、同右岸の那波氏等と糾合して上野国平井城を攻める。憲政は白井城から再び平井城に帰還していた(身延文庫所蔵仁王経科註見聞私奥書・埼玉県史研究22)。

天文21年

2月11日:北条氏康が山内上杉憲政攻略のために武蔵国御嶽城安保全隆(泰忠)を攻め、三月初めに全隆父子は降伏する。

3月14日:北条氏康が上野国国峯城小幡憲重に、武蔵国今井村の百姓が退転したので帰村させ、耕作に励ませる。憲重は天文19年に上杉憲政を離反し氏康に従属(戦北409)。この月:北条氏康が上野国平井城を攻略して上杉憲政を同国から撤退させ、上野衆の由良・足利長尾・大胡・長野・富岡・佐野氏等が氏康に従属。

4月10日:北条氏康が上野国小泉城富岡主税助に、北条氏に従属した茂呂氏と昵懇にさせる(戦北412)。

5月初め:上杉憲政が家臣の謀叛により上野国平井城から上杉謙信を頼って上越国境に没落する。

12月12日:足利晴氏が嫡男藤氏を廃嫡し、梅千代王丸に古河公方家を相続させる。北条氏康の圧力による。その後、ほどなく梅千代王丸と晴氏は下総国葛西城に移座する(戦古671)。

天文22年

3月18日:北条氏康が高山彦九郎に、山内上杉領を掌握して上野国平井城近くの某市場の市日を定め、押買・狼藉・喧嘩口論を禁止させ、違反者は小田原に申告させる(戦北436)。

3月20日:北条氏康が結城政勝に、白川晴綱からの書状を受けた事を伝え白川や伊達・蘆名各氏への仲介も依頼する。この頃に氏康は結城政勝・大掾慶幹と結び、小田氏治・佐竹義昭と対立する(戦北462)。

3月22日:足利梅千代王丸が下野国大中寺に、足利政氏の判物に任せて同国中泉荘西水代郷の寺領を安堵し不入とする。義氏文書の初見(戦古796)。

3月23日:北条綱成が陸奥国白河城主白川晴綱に、外交交渉の開始を喜び、北条氏康に角鷹、綱成に刀を贈られた謝礼に定宗作の小刀を贈答し、今後の親交の取次を約束する(戦北463)。同日、綱成が白河晴綱の重臣和知右馬助に、晴綱から北条氏康への書状到来を感謝して白川氏への取次役を務める事を伝え、啄木の墨絵を贈呈された謝礼に島田作の鉾鎌を贈答し、今後は常陸方面の状況が晴綱から寄せられるので右馬助からも知らせて欲しいと依頼する(戦北3094)。

4月22日:北条氏康が上野国小泉城富岡主税助に、同国館林城に敵が侵攻したために急ぎ駆けつけて城下で防戦に努め、城内の赤井氏家臣を大切にした功績を褒め万事について氏康と富岡氏を仲介した茂呂因幡守と相談し、城を堅固に守ることを指示し、岩本定次の副状で述べさせる(戦北412)。

7月24日:足利梅千代王丸が簗田晴助に、知行として下野国名間井郷・武蔵国川藤郷を宛行なう(戦古798)。

9月11日:北条氏康が上野衆の富岡主税助に、同国に出陣して河鮨に着陣し、佐野領・新田領に侵攻する予定の事、富岡蔵人が茂呂弾正に援軍を差し向ける事、茂呂弾正の依頼で新田党の大谷藤太郎を派遣した事等を伝える(戦北422)。

12月12日:北条氏康が安中源左衛門尉に、陣労の忠節を認め上野国上南雲を宛行なう。上野衆の安中氏が氏康に従属(戦北423)。

天文23年

7月20日:足利晴氏・藤氏父子が北条氏康から離反し、下総葛西城から同国古河城に無断で移り、葛西城の足利梅千代王丸は北条方として残る。

7月晦日:北条氏康が白川晴綱に音信を通じ、結城政勝と相談して常陸国の佐竹義昭を攻略したいと伝える(戦北468)。

8月7日:古河公方家臣の田代昌純が常陸国水戸城の江戸忠通に、足利晴氏が先月20日に古河城に帰座し小山高朝や相馬氏等が普請している事、北条方の下総国葛西城足利義氏の許には武蔵国・上野国の国衆達が忠節を誓ってきており、簗田晴助や一色直朝も人質を送ってきた事、昌純が小田氏治と大掾慶幹の紛争を調整すると伝える。晴氏の復権運動が起きる(静嘉堂文庫所蔵谷田部家譜・千葉県の歴史4-563頁)。

9月23日:北条氏康が、従属した下総国栗橋城野田弘朝に条目を出し、北条方の葛西城足利義氏を護る事、離反した古河城足利晴氏との調儀を行なう事、上野国桐生城佐野直綱には詫言に任せ北条氏に従属させる事を依頼し、忠節として弘朝に旧領39箇所を安堵、新知行を10箇所宛行ない、晴氏・藤氏父子が降伏したならその知行も全て与えると約束する(戦北492)。

9月晦日:石巻康堅が白川晴綱の重臣和知美濃守に、晴綱・義親と北条氏康との神文の交換を仲介した事に感謝し、康堅が北条氏と白川氏の取次役を務める事を伝え使者に唐人を遣わす(北条氏文書補遺37頁)。

10月4日:北条氏康が、立ち退きを拒否する足利晴氏父子の下総国古河城を攻略し、降伏した晴氏は相模国波多野に幽閉され、藤氏は里見氏を頼る(年代記配合抄・北区史2-146頁)。

10月7日:遠山綱景が白川晴綱の重臣和知美濃守に書状の取次の謝礼を述べ、常陸口の小田・大掾両氏への軍事行動の異見を求め、使者に唐人の穆橋を遣わす(戦北528)。

弘治1年

6月12日:北条宗哲が武蔵国仁見の長吏太郎左衛門に、北条氏に敵対する山内上杉方へ内通した上野国平井城下の長吏頭源左衛門を国払いとし、太郎左衛門に跡職を任せる北条家朱印状を与える(戦北489)。同日、北条氏尭が仁見の長吏太郎左衛門に、長吏源左衛門の跡職を宛行ない違反者は奏者の氏尭に断り成敗させる。氏尭が旧山内上杉方の平井城の城領支配者となり北条宗哲が後見役を務める(戦北490)。

弘治2年

4月5日:北条氏康・太田資正・結城政勝連合軍が常陸国大島台で合戦し、小田氏治が敗れて土浦城に逃亡。同時に小田方の海老ヶ島城も結城政勝・壬生綱雄が攻略する(年代記配合抄ほか・北区史2-146頁)。

7月22日:大掾慶幹が白川晴綱に、去る夏に北条氏康と小田原城で直談し、別に足利義氏にも陸奥国の状況を説明し、氏康も結城政勝との当秋の小田氏への行動を了承している等を伝える(福島県史7-474頁)。

9月23日:小田氏治が白川晴綱に、北条氏康と和睦した事を伝えて今後の交渉を依頼し、佐竹義昭と氏康との和睦は未だ成らず常陸口では戦いが続いており、佐竹氏と当方との交渉は下野国の那須資胤にすると伝える(神奈川県史三下7019)。

11月29日:結城政勝が白川晴綱に、小田氏治が8月24日に常陸国土浦城から小田城に帰城したので城周辺に放火して氏治を追い詰めており、海老ヶ島城等は堅固に守備している事、北条氏康は7月から江戸城に在陣している事等を伝える(千葉県史4-221頁)。

この年:北条氏康が佐竹義昭に三ヶ条の覚書を出し、以前の三ヶ条は了承した事、宇都宮広綱と壬生綱雄との和睦は足利義氏の仰せだが拒否した事、義昭が広綱に合力する時には太田資正と綱雄の合力を確実に押さえておく事を申し送る。当文書はもしくは弘治3年か(北条氏文書補遺32頁)。

弘治3年

1月20日:北条氏康・氏政が那須資胤に、初めての来信と太刀・馬・銭の贈呈、北条氏に忠節を誓う起請文の申出に感謝し、詳しくは資胤の使者蘆野盛泰の口上で伝えさせる。下野国衆の那須資胤と氏康が同盟する(戦北538/539)。

12月上旬:宇都宮伊勢寿丸が、足利義氏・那須資胤・佐竹義昭に支援されて壬生綱雄を破り、綱雄は宇都宮城へ退去する。

12月11日:北条氏康が那須資胤に、壬生綱雄討伐への協力に謝礼を述べ、近日は下野国塩谷に侵攻した事にも感謝し、綱雄の降参で宇都宮と真岡の旧領を北条氏に渡すとの申出については足利義氏に任せる(戦北567)。

12月23日:壬生綱雄の宇都宮城が攻略され、宇都宮伊勢寿丸と芳賀高定が同城に入る。

2017/04/20(木)天正10年甲信遠征時の奉者

織田信長の死に付随して北条氏直は甲信へ遠征するが、その際の奉者を抜き出すと、氏政への情報リークと、それに伴う更迭劇が推測できる。

天正10年 氏直遠征時の奉者

  • ■=安房守=北条氏邦
  • □=陸奥守=北条氏照
  • △=伯耆守=垪和康忠

文書番号は戦国遺文後北条氏編

  1. 6月15日 幸田(2349)甲斐

これ以降が遠征時と想定

  1. 6月22日 ■(2352・2353・2355・2356・2357・4743)上野
  2. 6月29日 ■(2361・2362)上野
  3. 7月9日 □・■(2367)上野
  4. 7月13日 □・■(2369・2370)信濃
  5. 7月13日 □・■(2372)甲斐
  6. 7月13日 △(2371)甲斐
  7. 7月15日 ■(2376)上野
  8. 7月23日 △(2379)信濃
  9. 7月25日 江雪(2382)甲斐
  10. 7月26日 □(2383・2384)信濃
  11. 8月01日 奉者なし(2387)武蔵(岩付)
  12. 8月15日 □(2392)甲斐 ※8月16日に氏政が「江雪所へ之状」で事態に気づく
  13. 9月09日 △(2409)甲斐
  14. 9月20日 ■(2415)甲斐
  15. 9月22日 相良左京(2417)上野
  16. 10月01日 △(2422)甲斐
  17. 10月03日 ■(2424)甲斐 1 10月03日 △(2425)信濃
  18. 10月25日 ■(2436・2437)信濃
  19. 10月25日 △(2438)信濃
  20. 10月26日 ■(2440)甲斐

  • 推測1:垪和康忠・板部岡融成(江雪)は初期から同行
  • 推測3:8月1日の岩付向け朱印状は融成が奉じて届けた
  • 推測4:岩付へ融成が送った書状で氏政が事情を把握
  • 推測5:氏政が気づいて以降の氏照奉者は止む。更迭されたか

遠征初期の12通は完全に氏邦と氏照が奉者を務めている。初期に大量に発行したのは氏邦で、最初は氏邦奉者体制だった。後に氏照が加わる。康忠・融成は同行したものの朱印状から遠ざけられていた可能性がある。氏邦が奉者から外れると同時に康忠・融成がようやく関わったのが7月下旬。氏照は奉者として残る。

8月1日付けで岩付に向けて融成が情報漏洩を行ない、それに気づいた氏政が関与して氏、照と融成は呼び戻された可能性が大きい。その後は氏邦・康忠で奉者を仕切っているが、これは氏政の指示も伴っている。

当初の後北条氏作戦目標は上野確保のみで、機を見た氏直が暴走し、それに氏照が加担したか、共に暴走した可能性がある。

2017/04/20(木)家忠日記に出てきた着到

『家忠日記』にあった着到の情報を少し細かく見てみる。着到状ではなく日記内の記述なので色々と情報が足りないような気がするが、とりあえず。

又八家忠着到(天正6年11月11日・家忠日記)

駒澤大学の電子貴重書庫で原文を確認(冊1の38コマ目)家康よりちやくとうつけ被侍八十六人中間百二十六人鉄放十五(左に小さく:ハリ)弓六張鑓廿五本有鑓持三人

原文では「侍八十六人」とも「侍ハ(は)十六人」とも読めるためパターンをAとBに分けてみる。但し、「侍」の下に若干の余白があるのに改行している点から考えて、片仮名の「ハ」という可能性は低いように思うが念のため。

パターンA(合計261名)

割合
86 33%
中間 126 48.3%
鉄炮 15 5.7%
6 2.3%
25 9.6%
鑓持 3 1.1%

パターンB(合計191名)

割合
16 8.4%
中間 126 66%
鉄炮 15 7.9%
6 3.1%
25 13%
鑓持 3 1.6%

次に、延べ数表記ではなく、鉄炮・弓・鑓・鑓持が内訳表記だと想定してみる。この場合、人数は侍と中間で、その他は装備品の数、「鑓持」は備考追記という想定。

*パターンA' 212名(侍40.6%:中間59.4%)

*パターンB' 142名(侍11.3%:中間88.7%)

これを後北条氏の着到と比較してみる。

池田孫左衛門尉(天正9・戦北2258)

382.1貫文の着到=56名(うち112貫文は御蔵出)

割合
大小旗持 2 3.6%
指物持 1 1.8%
5(うち1が弓侍、4は弓持) 8.9%
歩鉄炮侍 3 5.4%
22 39.3%
馬上 20 35.7%
歩者 3 5.4%

上記を又八家忠の着到分類に近づけると以下になる。

割合
侍(馬上、歩鉄炮侍、弓侍) 24 42.9%
中間(旗持・指物持・弓持・歩者・鑓) 32 57.1%

侍と中間の率が池田孫左衛門尉と最も近いのはパターンA'。

単純に人数割りした一人当たりの役高は、池田孫左衛門尉の場合は@6.5貫文となり、当てはめると又八家忠の役高は1441.6貫文相当になる。後北条所領役帳でいうと松田憲秀の1768貫文に準じる程の禄となり違和感を感じる。最も人数の少ないパターンB'の人数でも923貫文で、清水康英の847貫文を上回る。役高設定の違いか、三河と関東での生産力の差か、その他の要因かは不明だが、興味深い相違。

ちなみに、パターンA'B'ともに、武装が49しかないので、中間77名が手明となる計算(61%)。後北条氏の着到での手明は42%(12人中5人)、24.3%(41人中10人)という例があるが、これと比較すると高い。後北条氏で必ずカウントされる旗持・指物持が明示されていないため、そう見えるのかも知れない。

武装数を弓・鉄炮・鑓で単純比較すると、又八家忠の方がバランスが良く見える。但し、後北条氏では小曾戸丹後守のように全体の74%を鉄炮が占める例もあり、一概には比較できない。

割合
又八家忠 49 (鉄炮31%、弓12%、鑓57%)
池田孫左衛門尉 30 (鉄炮17%、弓10%、鑓73%)