2017/05/20(土)板部岡曲輪とは何か?

よく判らない、六郎宛の文書

小田原市史1176の虎朱印状後北条氏が城の守備規定を書いたもので、日付や年がはっきり判るにも関わらず、宛所の「六郎殿」が北条氏忠を示すのかどうか、その城がどこにあるのかが不明だった。

とはいえ、最近では「大途が帰ってきたら」「暮れの鐘がなったら」という表現から、小田原城を対象にしていて、六郎はやはり氏忠ではないかという論調になってきたっぽい。

文書からもっと情報を引き出してみる。

この文書は「前欠」といって、前の部分が切り取られた状態。だから、失われた部分には恐らく他の曲輪についての言及もあったのだろう。

一方、小曲輪の後に結びの文があるので、小曲輪が「六郎」にとっての最後に書かれた担当箇所だったのははっきり判る。

配置人数からは以下のことも判る。

  • 内村屋敷と隣接し、門で繋がっていた。
  • 「内村」は台所奉行を勤めている人物。
  • 板部岡曲輪は小曲輪の守備範囲だった。
  • 関某が担当する二階門には蔵が併置されていた。
  • 鈴木某が担当する門があった。

担当人数は、蔵のみが6名で、他は全て10名。但し二階門には蔵が併置されいて、そちらの人数と合わせると16名になっている例外的配置。

板部岡曲輪は、名前は「曲輪」ではあるものの普通の門と同じ守備構成で、規模の小さい特殊な曲輪といえる。小曲輪の守備範囲に包摂されることから、以下の様態を想定してみた。

  1. 外縁部で壇状になっているもの 滝山城・大高城の本丸奥の形状
  2. 外側に狭く突き出ているもの 川越城・岩付城の天神曲輪の形状
  3. 曲輪内の中心部に設置 小田原城御前曲輪内の土壇

同時代史料から見た「曲輪」の名称を比較

「板部岡曲輪」というと板部岡融成との所縁が考えられる。そこで、どのような「曲輪」が存在したのか、史料から抜き出して比較してみる。

  • 固有名詞:安藤曲輪・大好寺曲輪・尾崎曲輪・星名曲輪・秩父曲輪
  • 数値・方角:北曲輪・南曲輪・三之曲輪
  • その他:松曲輪・ふしいろ曲輪・本城外曲輪・本堂曲輪・寺曲輪

この中で、具体的に推測できそうな安藤曲輪・大好寺曲輪を深掘りしてみる。

・足柄城の「安藤曲輪」

一、安藤曲輪、彼地見舞之砌之陣所と定、悉陣所を破たいらめて置候、二ケ所之矢倉ニ番衆を被指置、陣屋作を可被為待候、但夜中之番衆ハ、如何程可被入置も尤候事、

 当主が陣中見舞に訪れる際の場所と決められ、曲輪内の設備を壊して整地させている。陣中見舞用に確保されたことから推測すると、小田原方面から城内に入る際に利便性が高かったのかも知れない。安藤良整との関係性は不明だが、築城時に安藤良整が拠点として物資の管理をしていた可能性は高い。その後通常の曲輪になっていたが、当主が陣中見舞することとなり、立地上のメリットから再度改修されたのかも知れない。

・鉢形城の「大好寺曲輪」

大好寺曲輪へもち参、大好寺ニ可渡之候事、

 北条氏邦の奉者を務めた大好寺某がいた場所。領主に不法行為があった際は、郷内で意見を揃えて大好寺曲輪の大好寺に目安を渡せと指示している。

 安藤曲輪・大好寺曲輪に共通しているのは、城外からのアクセスポイントになっている点。足柄城では小田原口に面して「ダイカンヤシキ」と伝わる場所があり、ここが安藤曲輪であった可能性が高いように思う。鉢形城で大好寺曲輪と伝わる場所は、大手口の向かいにあって、郷村への窓口的な位置。

 安藤良整・大好寺某・板部岡融成はともに奉者を務める官僚的被官であることから、城外との物資や人の流れを管理し易い場所に曲輪を与えられたのではないか。

 であれば板部岡曲輪は、物資や人の出入りする小曲輪3つの門を管理するための施設で、小曲輪と仕切られた領域を指していたのかも知れない。もしくは、小曲輪に集められた物資・人は板部岡曲輪を経由して更に城内に入る構造になっていたかも知れない(守備人数からすると、板部岡曲輪自体も通路であった可能性がある)。

小曲輪推定概念図.png


解釈

(前欠)

小曲輪

十人、内村屋敷へ出門

十人、板部岡曲輪

十人、関役所二階門

六人、同所蔵之番

十人、鈴木役所之門

以上

一、門ごとの開け閉めは、朝は六ツの太鼓を打ったあとに、日の出候を見てから開くように。晩景は入会の鐘を押し果たすのを合図に閉じること。この開け閉めの法度に背いたら、この曲輪の物主も重罪とするだろう。但し、よんどころない用があったら、物主一同で相談して、一筆したため日帳につけておき、御帰陣の上でお目にかけるように。隠し立てして脇からみだりに出入りしたのが聞こえたなら、罪科とするだろうこと。

一、毎日の当曲輪の掃除は、厳密にするように。竹木を仮にも切ったりしないこと。

一、病欠は、たとえ代理を出したとしても、また書き立てた人衆が不足したとしても、氏忠に確認して、氏忠の判断次第とすること。

一、夜中はどの持ち場でも、『昨六時』寝ずの番をいたし、土塁回りをするように。但し、裏土居・堀の裏へ上がる際には、芝を踏み崩さないように、芝付けをした外側を回ること。

一、鑓・弓・鉄炮を初めとして各自の武器を、今日23日に全て持ち場に配置しておき、併せて具足・甲などもしっかりと置いておくこと。

一、番衆中の内情で乱れがあれば容赦せず、たとえ主のことでも、糊付けして氏忠に密告するなら褒美を与えるだろう。もし褒美がなければ、帰馬の上で大途へ目安で報告をせよ。望みの通りにご褒美を加えるだろうこと。

一、日中は朝の五ツ太鼓より八ツ太鼓迄の三時、各曲輪から3分の一で休息するように。七ツ太鼓以前には全員が着到の通り曲輪へ集り、夜中にはしっかりと詰めておくべきこと。

以上

右、定所如件、

乙亥三月廿二日/(虎朱印)/六郎殿

小田原市史北条1176「北条家虎朱印状写」(相州文書・高座郡武右衛門所蔵)


原文

(前欠)
小曲輪
十人、内村屋敷へ出門
十人、板部岡曲輪
十人、関役所二階門
六人、同所藏之番
十人、鈴木役所之門
以上
一、門々明立、朝者六ツ太鼓打而後、日之出候を見而可開之、晩景ハ入会之鐘をおしはたすを傍示可立、此明立之於背法度者、此曲輪之物主、可為重科候、但無拠用所有之者、物主中一同ニ申合、以一筆出之、付日帳、御帰陣之上、可懸御目候、相かくし、自脇妄ニ出入聞届候者、可為罪科事
一、毎日当曲輪之掃除、厳密可致之、竹木かりにも不可切事
一、煩以下闕如之所におゐてハ、縦手代を出候共、又書立之人衆不足ニ候共、氏忠へ尋申、氏忠作意次第可致之事
一、夜中ハ何之役所ニ而も、昨六時致不寝、土居廻を可致、但裏土居堀之裏へ上候へハ、芝を踏崩候間、芝付候外之陸地可廻事
一、鑓・弓・鉄炮をはしめ、各得道具、今日廿三悉役所ニ指置、并具足・甲等迄、然与可置之事
一、番衆中之内於妄者、不及用捨、縦主之事候共、のり付ニいたし、氏忠可申定者、可有褒美候、若御褒美無之者、御帰馬上、大途へ以目安可申上候、如望可被加御褒美事
一、日中ハ朝之五ツ太鼓より八太鼓迄三時、其曲輪より三ヶ一宛可致休息、七太鼓以前、悉如着到曲輪へ集、夜中ハ然与可詰事
以上
右、定所如件、
乙亥三月廿二日/(虎朱印)/六郎殿
小田原市史北条1176「北条家虎朱印状写」(相州文書・高座郡武右衛門所蔵)


内村氏関連文書

書下。一、六十枚、干鯛。一、五百枚、スルメ。以上。右、自遠州御客来御向、来廿四日四ツ時以前小田原江持来、久保・内村ニ可渡之、御日限相定間、不可有無沙汰者也、仍如件、
辰五月廿二日/(虎朱印)南条奉/網代小代官・百姓中
戦国遺文後北条氏編2170「北条家朱印状写」(伊豆順行記)1580(天正8)年比定

御陣へ之御用如何にも大成鯛を弐拾枚、明日之晩に可致持参候、引上於浜端則うす塩をいたし、舟を以早ゝ可漕来候、公物者、内村前より可請取者也、仍如件。追而、御陣御留守之間、御陰居様御封判也、
酉八月廿三日/(朱印「有効」)/須賀小代官・舟持中
戦国遺文後北条氏編2847「北条氏政朱印状」(清田文書)1585(天正13)年比定

明日台所之掟、取分堅可申付候、一献ゝゝ請取ニ候間、如其可出之、手前致払衆をハ、則可戻候、台所ニ少之間も不可置、彼衆ニ付、無用者可来候間、此印判を為見、手堅可申断候、若妄之儀有之ハ、後日ニ可遂披露者也、仍如件、丁亥卯月六日/(虎朱印)/布施弾正左衛門代・久保但馬守・内村惣左衛門尉
戦国遺文後北条氏編3078「北条家朱印状」(沢辺文書)1587(天正15)年

2017/05/18(木)所領役帳の寺領筆頭「泰平寺殿」は何者か?

所領役帳の寺領筆頭である「泰平寺殿」が誰なのかは近藤出版の所領役帳では「不明」となっているのだが、戦国遺文後北条氏編の索引を見ると「太平寺殿」がいる。

をそれなから申上候、太平寺殿むかい地へ御うつり、まことにもつてふしきなる御くわたて、せひニおよはす候、太平寺御事ハ、からんの事たやし申よりほかこれなく候、しかる所ニ、又御しんさうをぬすミ申よりほかこれなく候、よくゝゝきゝとゝけ申候、玉なわへうつし申へく候、かたく御いけんあつて、日けんのことく入御うあるへく候、若とかくあつてハ、その御寺へうらミ入申へく候よし御ひろう、かしく、
卯月廿三日/うち康/東慶寺いふ侍者
戦国遺文後北条氏編「北条氏康書状」(東慶寺文書)

この「むかい地=房総」に移った東慶寺関係の人物を考えると、青岳尼が該当する。吉川弘文館『戦国人名辞典』によると、足利義明の娘である「青岳尼」は1556(弘治2)年に里見義弘が鎌倉に侵入して連れ去ったとある。

この情報の典拠は不明で確認ができないのだけど、弘治2年は正しいのだろうか。永禄2年2月成立の所領役帳に名があるということは、青岳尼が房総に移ったのは少なくともこの後になり、この弘治2年という話と矛盾してしまう。

とはいえ、役帳において東慶寺・雪下御院・金沢称名寺などを抑えて筆頭となった理由は、義明娘がいたからと考えるのが妥当だ。

永禄2年以降で、東慶寺にいた青岳尼が房総に移るタイミングというと、永禄4年3月~閏3月に鎌倉を上杉方に押さえられていた時が思い当たる。上記の氏康書状の日付が4月23日という点とも自然に繋がる。

弘治2年説の典拠が判るまではこちらを優先したい。

2017/05/18(木)所領役帳リスト化

集団名 人数 総役高 平均役高 筆頭者名
御家門方 17 7760 456 葛西様御領・備中殿
小田原衆 34 9,287 273 松田左馬助
玉縄衆 18 4,257 237 左衛門大夫殿
松山衆 15 3,390 226 狩野介
他国衆 28 3,617 129 小山田弥三郎
小机衆 29 3,438 119 三郎殿
伊豆衆 29 3,392 117 笠原美作守
諸足軽衆 20 2,260 113 大藤式部丞
三浦衆 32 3,344 105 伊井四郎右衛門
御馬廻衆 94 8,426 90 山角四郎左衛門・石巻下野守
社領 13 1,113 86 鶴岡領
御家中役之衆 17 1213 71 平山源太郎
寺領 28 1,289 46 泰平寺殿
職人衆 26 897 35 須藤惣左衛門
津久井衆 57 1,697 30 内藤左近将監
江戸衆 103 1,678 16 遠山丹波守
総数 560 57,058 102