2017/04/20(木)白読のすすめ

解釈が原文と乖離することがあって、それは比定というファジーなものが入っているからじゃないか。だったらその手前に比定を入れない白読を入れたらどう? という話。

古文書の解釈というのは、実は白読と比定に分かれると考えている。

<白読は「文の意味を深読みせずに文をストレートに読む」こととしてここでは述べる>

白読自体は、そんなに特殊技術じゃなくて、ある程度の経験をこなせば独学でも可能だ。どちらかというと、他の文書と語の使い方を比較して意味を追い詰めていく作業になる。

その後で、白読だけでは確定できない人名や地名と年月日を推測していく。これが比定。年が判らないから人物から追ったり、人物を決めるのに年を使ったり、地名も合わせて試行錯誤を繰り返していく。比定者の知識が問われるほか、確証バイアスがかかるから、人によってずれることもある。

方向性から見て両者は異なる。だからシンプルに考えて、白読と比定は分けた方がいいはずだが、この白読的な事柄は余り戦国史では表に出てこない。一気に比定して解釈に行き着いてしまう。

なぜ切り分けないかというと、比定を重視して白読自体を変えてしまうことがあるからだろうと思う。誤記や筆写誤解などもあるし偽文書だってある。だから文書群全体の整合性を優先して比定の流れを作っていくのは確かに有効だろう。

ただ比定を重視し過ぎるのはおかしくないだろうか。

今ちょうど調べている文書を例にして説明してみる。

飛札令披閲候、氏政上洛延引之儀、内証被申聞、喜悦之至ニ候、秀吉心底難量候上者、於氏政可為隔意候歟、猶期後慶時候、恐ゝ頓首
十二月八日/氏直(花押)/前田源六郎殿御宿所
小田原市史資料編後北条氏編1985「北条氏直書状写」(古文状)

白読「飛脚の書状を拝見しました。氏政上洛延期の件、内証で申し聞かせていただき、とても喜んでいます。秀吉の心底が測りがたい上は、氏政においては隔意をなすだろうというのでしょうか。さらに後の慶時を期します」(高村)

この解釈は下山治久氏監修の2書で分かれている。

「北条氏直が前田源六郎に、北条氏政の上洛の遅延について羽柴秀吉の内々の気持ちの情報提供に謝礼し、秀吉の本心を知らなければ氏政の心を動かせないと述べる」(『戦国時代年表後北条氏編、』以下『年表』と略す)

「前田源六郎に北条氏政の上洛が延期されて嬉しいと延べ豊臣秀吉の心底は計り知れないと伝えた」(『後北条氏家臣団人名辞典』以下『家臣団辞典』と略す)

年表の「秀吉の本心を知らなければ氏政の心を動かせない」という部分は解釈者の思惑が入り過ぎているように感じる。秀吉内心が測り難いに続く「上は」を重視して仮定文にしたのかも知れない。秀吉の本心が判らないならば→氏政は隔意を抱き続ける、という図式だろう。しかし、続く文が「歟」で終わる疑問文だから仮定とは考え難い。現代語でいう「上は」ではなく「上に」という文意だとすると「秀吉の本心が判らない上に、氏政が隔意をなすというのでしょうか」となって自然な流れになると思う。

私が見た文書では現代語「上に」も「上者」を用いていることがある。逆に「上ニ」「上仁」は見つけられず、この時代は「上者」が「上に・上は」を兼ねていたのかも知れない。

家臣団辞典の「氏政上洛が延期されて嬉しい」は明らかにおかしい。この前日付けの条書で氏直は、氏政上洛遅延を叱責し交戦状態に入ろうとしている羽柴方に釈明をしている。延期されていないのは氏直が承知している。

思うに「喜悦之至」言葉に引きずられ「であれば上洛延期交渉が成功した」と比定者は推測したのだろう。しかし氏直が喜んでいたのは「内証被申聞」という源六郎の内密の連絡に対してである。それは白読から見ても正しい繋がりだ。

こうして見ると、年表は後半が、家臣団辞典は前半が白読と乖離して比定者の予断を取り込んでしまっている。最終的な解釈に至る前に、文章本来の姿である白読部分を確定させると、こういった混乱は防げるのではないかと思う。

※両書ともに、なるべく同時代史料によって記述され文書番号も記載している手堅い内容なのだけれど、それでもこういった予断が入り込むことがある。というか、むしろ目立つからこそ私のような素人でも指摘し易い。そして、リファレンスを見たら必ず原史料を確認する必要があると改めて痛感する。

2017/04/20(木)1582(天正10)年、甲信国衆への後北条氏発給文書

後北条氏が甲信へ出兵した際に出した文書をざっと並べてみた。末尾の番号は戦国遺文後北条氏の文書番号。

■06月15日 渡辺庄左衛門尉 <幸田> 2349

 06月22日 伴野善九郎 氏照・氏邦 2358

 07月07日 樋口木工左衛門尉 陸奥守・安房守 2366

■07月09日 日置五左衛門尉 <陸奥守・安房守> 2367 文中に「真田弾正忠」

■07月13日 大祝・千野右兵衛尉 <陸奥守・安房守> 2369

■     高見沢但馬守・同藤三郎・同藤七郎・同文四郎・高尾源六 <陸奥守・安房守> 2370

■     井上善九郎・井出善四郎 <垪和伯耆守> 2371

■     藤島甚兵衛 <陸奥守・安房守> 2372

■07月23日 柳沢孫右衛門尉 <垪和伯耆守> 2379

■07月25日 渡部左衛門尉 <江雪> 2382

■07月26日 矢沢 <陸奥守> 2383

■     大熊 <陸奥守> 2384

 08月09日 神長官 鉢形安房守氏邦 2389

 08月25日 神長官 氏直 2404

 08月26日 神長官 氏邦 2405

■08月15日 原主水祐・同弥一郎 <陸奥守> 2392

■09月20日 大井河内守 <安房守> 2415

■10月01日 藤巻市右衛門尉 <垪和伯耆守> 2422

■10月03日 禰津宮内太輔 <安房守> 2424

 10月22日 大戸入道 氏直 2433

 10月23日 禰津宮内太輔 氏直 2434

■10月25日 禰津宮内太輔 <安房守> 2436・2437

■10月26日 樋口木工左衛門尉 <安房守> 2440

※以下は補遺編収録のため未確認 06月26日 大井満安 氏直 4938  10月04日 渡辺三河守 氏政 4942

■は虎朱印で奉者を<>内に記載

2017/04/20(木)山口重克の遺言フルテキスト

御書院番衆水野隼人正組として、大坂夏の陣で戦死した山口重克の長大な遺言書をデータ化。陣中の武士が持ち込んだ現金の話や、武家屋敷の様子が窺える。

甲子夜話 巻四十三「山口小平次消息」

去年か、林氏より古き消息とて示されしを、書櫃に寘て、再び見出したれば録す。

この文は、山口侯[常州牛久一万余石]の祖の弟、山口小平次と云るが、大阪勤番の間その妻に贈れる所と見ゆ。此人神祖の御時にして、文中に於て当時の風俗知るべきこと多し。又小平次の為人も見つべし。小系并時記書末に附す。

いんきよ様へひにゝゝ人をまいらせ、いかやうにも、御きにさはり候はぬやうに、ぶさた申すまじく候。さかなをもとゝのへ候て、しん上申すべし。いは山よりちやまいり候はゞ、いつものほどしん上申べし。のこるぶんは、はさみはこふたのうへにて、てをあらい、こまかにくだき候て、つぼにつめ、くちをはりをくべく候。そこもとにても、そろゝゝと、つかい申べし。一、よきびんぎに、ちやをひかせ、はこにつめ候て、こすべし。一、こどもそくさいにて候や。もしゝゝ、いもはしかなどいたし候はゞ、そうとくえなどへ、談合候て、おもてへいだしみせ申候て、よくゝゝやうじゃう申べし。一、おかめに人をひとりづつつけてをくべし。さかなをいつものごとく調させ、くはせ可申候。かりそめにもなかせ申まじく候。ねんをいれ、よくゝゝそだて申べし。一、よるひをともし申まじく候。よひからふし申べし。一、ひのもとやうじん、きづかい申べし。さうべつよろづゝゝきづかい申べし。ゆだん申まじく候。一、おごせへも、びんぎ候はゞ、さいゝゝ文をもまいらせ、かみのうちをもたつしべし。一、小ひやうは、月はんぶんづゝと申候へども、人もなく候はゞ、しかとつめてくれ候はれ候へと申し候て、つめさせ申べし。ねんごろにあいしらい、ちやをもたてゝやり候やうに、申べし。一、六だゆふどのかたのと、にしのかたのと、あけ申まじく候。おすへのくち、たてゝばかりをくべくし。かりそめにも、をんなをおもてへいだすまじく候。一、物ごとものぐさく、したにばかりゐ候ては、かげの事みへぬものにて候。すこしの事にもたちまはり、いかにもりこうにはからい申べし。一、さくらだより、さいゝゝびんぎあるべく候。きゝ候て文をこすべし。一、つぎ候て、ひとへにずきん一つぬい候てこさるべし。こぞのずきんは、ちいさく候。それよりちとひろくながくぬい候てよく候。あせのごいも、かみばこのうちにあるべし。こさるべし。一、そこもとのふるききる物、よろづかび候はぬやうに、ときはなし、さいゝゝほさせ候て、よろづてをきゆだん申すまじく候。こものどもきる物なども、あらはせ候てをくるべく候。一、どこにか、きんちやくに、ぜに五十文あるべく候。そこもとにてつかい申さるべし。一、物をかき、たしかなるわかとう候はゞ、一人も二人もおき候て、じん十どのをたのみて、はんとり候て、のぼせ申べし。こものもたしかなるもの候はゞ、二人もをかせ候て、こさるべし。一、しほやふとうなつねんぐ、きつく申候て、六月ぎりにとりきり候て、びんぎにのぼせ申さるべし。いかにもきつく申候はでは、すまし申まじく候。たひょうへかたへ申をき、きつく申させ候べし。一、此ほうめしつかい候ものども、みなゝゝ何事なく候。そのよし申きかせらるべし。一、なが屋のひのもと、よくさいゝゝ申しつけらるべし。一、ねこをめのまへにをかせ候て、よくめしみづをかはせ申さるべし。一、そこもとのやうす、くはしく一つがきにしてこさるべし。一、ゑのたね、をそく候とも、ふとうへこし候て、ちやうゑもんにまかせ候■■てこさるべし。一、うちそとのはたに、なをまかせ申さるべし。一、おもてのうへきに、ばんゝゝみづをうち候へと、たひやうへかたへ申さるべし。一、いんきよ様へのらくかのくちゞゝ、いつもぢやうをおろしをき候へと申さるべし。一、こども、二日に一どづゝ、ゆをあびせ、八日十日にいちどづゝかみをあらい、日にゝゝかみをゆい申さるべし。きたなきあそびさせ申すまじく候。以上。四月卅日

一、われらあひはて候はゞ、いんきよ様の事、われら娘とひとつに御ざ候はんとおほせ候はゞ、すこしもぶさたなく、むすめのなり候やうに、いたし候べし。御うへさまとひとつにとおほせ候はゞ、そのぶんにさせ申べし。ともかくも御ためによく、御すき次第にいたし候べし。一、ふたりのむすめ事、としたけ、よめいりごろになり候とも、いかなるよきものにてか■とも、まちにんのかたへ、なかゝゝやり申すまじく候。ほうこうにんも、かせぎのけしぢかなるすまゐなどのかたへ、なかゝゝやり申すまじく候。一、たれにてもたのみ、ひととめのてはんをとりて、おはりかいせかへのぼせ、おくふかきびくにでらのびくにになし候べし。さなくばいつこうぼうずのめごになし候べし。いつこうぼうずのゑんにつけ候はゞ、くはなに、いとうびぢやうどのと申人、みののかみどのゝうちしゆに御入候。この人をたのみ、にあはしきてらへこし候べし。びくにか、いつこうぼうずのかたへか、ふたいろがひといろに、かならずいたし候べし。さやうになく候はゞ、ふかくそのほうをうらみ申すべし。一、ふたりのむすめいとけなく候まゝ、たいぎながら、そもじもおはりまでつれてのぼり、みとゞけて給べし。みちすがらふじゆふにあるべく候まゝ、ごんへもんどのをみちのうちたのみ候て、つれだち申すし。次らすけもみちのうちつれ申べし。そのゝちはぬしかんにんしだいたるべし。一、よめ事はいとまをとらせ申べし。まんとさくは、とりにげにあひ候はぬやうに、よるひるきづかい候てめしつれ候べし。ふたりのむすめにとらせ候。一、そのほうの事、にあはしきかたへゑんにつき申べし。ふたりのこどものためにて候まゝ、かならずかならず、むりにもゑんにつき、そのたよりにて、こどもをはごくみ申すべし。おとこのしんしやうにもかまいなく、おとこにこゝろのたのもしきをゑらみ候て、ゑんにつき申べし。一、そこもとに御入候、こめ、きる物のたぐい、どうぐども、みなゝゝ、ふたりのむすめにとらせ候。二つにわけてふたりへわたし申べし。どうぐどもは、やすくもみなゝゝうり候て、かねにいたし候べし。一、むらさきのよるの物、むらさきぶとん、かめやじまのこそで、かね三れう、まきへのすゞりばこ、おかめに取らせ候。一、しろきよるの物、をりむしろ、あたらしきそめこそで、かね二れう、おいしにとらせ候。一、ふるきよるの物、きる物ども、かね一れう、十人まへのべんとう、そのほう■候べし。われゝゝがね、とりあつめ十七両あまり、しろがねもあるべく候へども、ぢんばへもたせ候は、さだめて、をちちり候てあるまじく候まゝ、かきしるし申さず候。まづゝゝ、此ふみにそへ候ばかりかきたてて、かへもんにねんごろに申しつけ候まゝ、このほうのかねもとゞき候はゞ、ふたつにわけてむすめにわたし申べし。このほうのきる物、よろづどうぐも、二つにわけわたし申べし。一、いんきよ様へ、あふぎのこそで、しん上申べし。一、かねをひと手にとて、すこしもかし申まじく候。ひそかにあきないなどは、させ申すべし。一、われらゐ候はぬとて、ふたりのむすめきたなくかいどうかけまはらせ、いやしのこどもをつれにしてあそばせ申すまじく候。おくふかくきれいにそだて、八つ九つにもなり候はゞ、てならいをさせ申すべし。いづかたにゐ申候とも、まちなみにゐ申まじく候。ひとのうらやしきなど、かたわきをかり候てゐ申べし。一、ぶちの馬、天野さう右衛門どのをたのみ、うり候て、かねにいたし可申候。一、われらのために、てらへぜにを、一もんやり申まじく候。しゆつけを、たのみ申まじく候。みづむけもいらず候。しに候ひをいとい候事も、むやうにて候。くれぐれ、われら申しおき候ごとくにいたし候べし。われらしに候ひをかきつけ、はしらにをしおき候て、そのひには、むすめにゆをもひかせ、かみをゆい、つめきらせ、きる物のほころびをもぬい、てならいをもさせ、ちへをつけて、これをわれゝゝへのたむけにいたし申さるべし。くれゞゝみづむけせうじんなど申候事いらず候。一、むすめ人がましくそだて候事ならず候て、はしぢかくあさましきなりにて候はゞ、ふたりながら、うみへしづめ申べし。うきめをみせ候事、なかゝゝいやにて候。一、ちいさきしづのかたな、たじま様へ進上申すべく候。そのほかかたなわきざし、ゆみやりてつぽう、なにもかも、みなゝゝうり候て、むすめにとらせ申べし。一、たじま様より、御あづけ候どうぐどもは、みなゝゝ、たひやうかたへ、かへし申べし。一、ふとうのあねごへ、ふるきかめやじまのこそでまいらせ申べし。一、こども、かみがたへのぼり候はゞ、かへもんをたのみともにつれ申べし。のぼりくだりのろせんほど、こめをわたし申べし。いそがはしく候まゝ、くはしくは、かゝず候。よきやうに、よろづおはからい候べし。以上。卯四月廿七日 小平次(花押)

断簡

一、いんきよ様御ちやのまのうらぐちより、よそのものうちをみいれ申べく候まゝ、ことはりをいはせ候てみせ申すまじく候。一、かまやにて、あふかたのときひをたくまじく候。いんきよ様の御ようとて候はゞ、きづかいなく、たかせ申べし。一、たやべやのまへより、うらへいでゝくちあけ候はゞ、そのまゝふをつけ申べし。一、せつちんつかへ候はゞ、しほやのひやくせうまいり候ときとらせ申べし。一、つみわた、びんぎにこすし。さくらだよりびんぎあるべし。一、あめかぜふき、すさまじきよは、ながやのおんなども呼び候てねかせ申べし。いんきよ様へも、ひとりこし申べし。一、ひのようじん、ぬす人ようじん、よそのものうちへいれ候はぬ事、つかいおんなどもにふだんきづかい、とのあけたて、此ぶんきづかい申べし。一、ねんぐの事、ちぎやうゝゝへ、きつく申こすべし。よろづりこうにこゝろがけべし。一、たしかなるわかとう、こせう候はゞ、をかせ候て人も二人もこすべし。こものも一人もこすべし。二ねんもかんにん申候。一、七つすぎてよりひをたくまじく候事。一、ともしびむやうにて候。あかきより、ふし申べく候事。一、だいどころのあいのと、つねゞゝたてゝをくべし。かりそめにもあき候はゞ、よくゝゝあらため申べし。一、くらのくち、あけたてかんやうにて候。だいどころよりくらへのくち、人をつけをきてあけさせ申べし。そのくちあき候はゞ、おくみへ申べし。きづかい申べし。一、くらせばく候はゞ、ねのよきころこめをうらせ申べし。たゞし、ごんへや九らへに、だんこう申べし。一、九らへをぶさたに申まじく候。二らすけにもこのよし申べし。一、よるはひやうしぎうたせ申べし。一、あいこ、おふちやくをいたし候はゞ、せつかん申べし。せつかん申候ても、きゝ申さず候はゞ、 [この以下脱失、不全]

本書の末に記す。此文四月晦日と有候は、大阪御和睦後、伏見御城在勤致候砌の文か。委舗訳相知れ不申候。後の卯四月廿七日と有之は、夏御陣打死以前、妻方へ差越候文と存られ候。年久しき故、訳相分りかね申候。

系図

廿六代重政 竹丸、長次郎、半兵衛尉、但馬守従五位下、当時周防守家也。重克 亀千代、小平次、天正八年庚辰六月二十五日酉刻生。永原重政異母弟。自若年奉仕台徳院殿。元和元年乙卯五月、大阪再乱、御小性組水野隼人正忠清組。五月七日到天王寺辺、先進打死。于時三十六歳。当時山口周防守家頼山口十右衛門家なり。

天祥公の『武功雑記』に載す。大坂にて御旗本打死衆二十三人。大名には、小笠原兵部大輔、同信濃守、本多出雲守。御書院番衆水野隼人正組、松平助十郎、山崎助四郎、松平庄九郎、山口小平次、簗田平七、同子平十郎。同断青山伯耆守組、古田左近、松倉蔵人、別所主水、大島左近大夫、野一色頼母、服部三十郎。大番衆高木主水組、米倉小伝次、大岡忠四郎、林藤四郎、間宮庄九郎、筒井甚之助。此外安藤彦四郎[帯刀嫡子]、御使番安藤次右衛門、三十郎兄坂部作十郎。この中所見その人なり。