2022/05/21(土)戦国期の愛鷹牧

『愛鷹牧 : 企画展解説書』(沼津市明治史料館)によると、愛鷹山南麓に展開した愛鷹牧は戦国期にはその機能を失って野生馬がいただけだろうとする。

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古代末期から中世へと時代が移り、律令制が衰退していくと、牧も私牧・荘園化していった。岡野馬牧も私領に転化し、岡野牧とか大岡庄と呼ばれる荘園になっていったと思われる。大岡庄は、平家全盛期には平頼盛の荘園だった。その管理を担当した荘官が牧宗親であり、宗親の娘が北条時政の夫人となった牧ノ方である。
その後愛鷹山には牧の施設・機能はなくなったようだが、野生の馬は生き続け、愛鷹山頂を本宮とする愛鷹明神の神主奥津家がそれを保護し、今川氏や武田氏からも神領・神馬の安堵を受け、近世に至った。

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幕府牧の支配体制は、八代将軍吉宗の享保期に整えられ、若年寄支配のもとに野馬奉行が置かれ、小金町(現松戸市)に役宅を構える綿貫氏がこれを世襲した。その後、寛政期に御小納戸頭取岩本石見守正倫によって組織改革が行われ、野馬奉行は御小納戸頭取(野馬掛)の配下とされるに至った。愛鷹牧の新設は、この岩本による改革の一環として実現したものである。

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古代・中世以来放置されてきた愛鷹山の野馬に江戸幕府が最初に目を付けたのは、房総において牧の整備・新設を進めていた享保期のことであった。

このように同書では戦国期の愛鷹牧が存在していなかったように書いているが、直接的な史料が残されていないだけで、実際にはそれなりに機能していて重要拠点であったと考えられる。

愛鷹牧には尾上牧・元野牧・霞野牧・尾上新牧がある。このうち尾上新牧は江戸期に作られたものなので、戦国期に存在した可能性があるのは東から尾上牧・元野牧・霞野牧となる。大体の位置関係は以下。

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これを1569(永禄12)年の駿河動乱に伴う後北条方の動きを合わせると、それまでは曖昧だった作戦意図が明確になる。

最も西にある霞野牧は、須津川と大沢川の間の高地にあったとされるが、それと重なるように小麦石砦があった。富士宮陥落時の永禄12年7月4日、蒲原城番の北条氏信が須津近辺の寺社に対して「小麦石小屋」の防衛を依頼している。

-戦国遺文後北条氏編1275「北条氏信ヵ朱印状」(多聞坊文書)

小麦石之小屋、可被相拘事簡要ニ候、依走廻ニ氏政・氏実へ御取合可申上候、尚各々相談、彼小屋可被拘事専一候、仍如件、
巳七月四日/日付に(朱印「福寿」)二宮織部之丞・長谷川八郎左衛門尉奉之/多門坊・実相坊・大鏡坊・須津小屋中

また同時に須津八幡・愛鷹・別当屋敷の保護を命じた禁制も出している。ここで保護対象となった「愛鷹」が牧場と考えられる。

  • 戦国遺文後北条氏編1276「北条氏信ヵ朱印状」(多聞坊文書) 1569(永禄12)年

    須津庄之内八幡・愛鷹并別当屋敷、竹木伐取事、堅令停止畢、若背旨者有之者、彼者召連当城可被参者也、仍如件、
    巳七月四日/日付に(朱印「福寿」)二宮織部丞・長谷川八郎左衛門奉之/須津内八幡多門坊

その蒲原城が失陥したあとも2年にわたって後北条氏が興国寺城維持を貫いている。この城の北北東2キロメートルには、愛鷹3牧のうちで中央に位置する元野牧がある。

これらは、愛鷹牧による軍馬確保が至上命題として存在したことに繋がるように思う。

1537(天文6)年に今川義元・北条氏綱の間で起きた河東の乱でも、氏綱が逸早く駿河吉原までを占拠している。

ちなみに、江戸時代の愛鷹牧を管理していた牧士には植松・渡辺・井手の名があり、これらは今川氏時代にも名が出てくる。