2022/11/28(月)花木集団 浄土宗と臨済宗

この記事は下記の考察を元に行なっているため、事前のご一読をお薦めする。

北条氏規妻の実体

北条氏時・為昌の出自

花木隠居・花木殿・花之木の実体

相模朝倉氏の概要

玉縄と花木

それぞれの役割分担

新参者の福島為昌に異例の抜擢がされた理由として、その妻である花木隠居(養勝院殿)の資金力がありそうだ。彼女自身が資産家の側面を持っているほか、その実家である伊豆朝倉氏は、相模・伊豆で資産家として活動している。

  • 花木隠居:役帳に買得地だけで名が載っているのは彼女だけ
  • 相模朝倉氏:伝肇寺との土地売買で係争、文官として名が見える
  • 駿河朝倉氏:長津俣の地を浦田又三郎から借金の見返りとして入手

後北条氏としては、この朝倉一族を取り込む意図があり、為昌を氏綱養子に取り立てて北条の名字を与えて一門扱いした。ただ一方で、実名での通字「氏」を許可することはなかった。これは為昌が比較的早く死去した要因もあるものの、遠江福島氏出身で妻も相模朝倉氏で血縁が薄かった異分子だったのが大きいだろう。息子の綱成が氏綱娘を娶ってようやく氏綱の偏諱を受け、孫の康成が氏康娘を娶るに至ってようやく「氏繁」の名を名乗れた。為昌一族が後北条一門に正式に認められるまでには、かなり長い年月がかかっている。

為昌は小田原の本光寺に葬られるが、この寺は臨済宗で為昌戒名は後北条一門と同じ「宗」が使われている。この本光寺を中心にした集団は所領役帳でも見られる。御家門衆の中に「本光院殿衆」が3名残っており、それなりの規模の家臣団だったことが推察できる。

  • 山中彦十郎(知行168貫文)
  • 仙波藤四郎(知行90貫文)
  • 山本太郎左衛門(135貫文)

本光寺の所在地は不明だが、為昌妻が「花木隠居」、綱成妻が「花木殿」、氏繁が「花之木」と呼称されたことを踏まえると、小田原の花ノ木に所在したと見てよいだろう。花ノ木の蓮上院は宗哲率いる久野北条家と関わりがあるが、その宗哲妻が開基となった「栖徳寺」が本光寺住持職継承に関与している文書がある。この関連性から見ても、為昌菩提寺は花ノ木で蓮上院を介して久野北条と繋がっていたと思われる。

  • 小田原市史資料編小田原北条0428「北条家虎朱印状写」(本光寺文章)1560(永禄3)年

    本光寺住持職之事、任和尚御遺言筋目、初首座可有住、其外寺内之仕置等、長老被仰置如筋目、万事栖徳寺可有異見、然者、衆中一人モ無異儀、在寺肝要候、是則被対檀那申、各被重可為意趣状如件、
    永禄三年二月九日/「虎印」/本光寺僧衆中栖徳寺

浄土宗との関わり

死後は後北条一門と同じ臨済宗の戒名がつけられた為昌だが、彼の周囲を見ると、浄土宗の関係者が多いことに気づく。

玉縄北条・為昌近辺の浄土宗

  • 氏時の位牌が伝わる二伝寺は浄土宗寺院
  • 養勝院殿の木像、大頂院殿の位牌が伝わる大長寺は浄土宗寺院
  • 養庄院殿木像で菩提を弔ったのは浄土宗の高僧(安養院住持第十六代高蓮社山誉大和尚)
  • 朝倉氏は当初曹洞宗で、能登守から浄土宗へ転出した痕跡あり
  • 吉良頼康、朝倉能登守は熱心な浄土宗徒
  • 大道寺氏は河越蓮馨寺の創建に関わり、一門から浄土宗の僧を輩出
  • 小田原伝肇寺の移転で朝倉右京が関与

為昌が最初に発した文書(朱印状)は鎌倉光明寺への優遇策

為昌初見文書は、三浦郡の全域の一向衆を全て鎌倉光明寺に所属させるというもの。鎌倉光明寺はこの時点で関東最大の浄土宗寺院で、同宗白旗派の中心となっていた。

  • 戦国遺文後北条氏編0102「北条為昌朱印状」(光明寺文書)

    三浦郡南北一向衆之檀那、悉鎌倉光明寺之可参檀那者也、仍如件、
    享禄五壬辰七月廿三日/日付に(朱印「新」)/光明寺

後北条氏が一向宗の拡大を禁じていたのは下記の文書でも見られる。

  • 小田原市史資料編小田原北条0664「北条家掟書」(港区・善福寺所蔵)


    一、去今両年、一向宗、対他宗度ゝ宗師問答出来、自今以後被停止了、既一向宗被絶以来及六十年由候処、以古之筋目、至于探題他宗者、公事不可有際限、造意基也、一人成共就招入他宗者、可為罪科事
    一、庚申歳長尾景虎出張、依之、大坂へ度ゝ如頼入者、越国へ加賀衆就乱入者、分国中一向宗、改先規可建立旨申届処、彼行一円無之候、誠無曲次第候、雖然申合上者、当国対一向宗不可有異儀事
    右、門徒中へ此趣為申聞、可被存其旨状如件、
    永禄九年丙寅十月二日/日付に(虎朱印)/阿佐布

1566(永禄9)年の60年前というと1506(永正3)年で、為昌が三浦郡一向宗を鎌倉光明寺に帰属させたのは時間軸からして合ってはいる。しかし、鳥居和郎氏の下記論文の史料解釈を見る限り、為昌のこの朱印状には単に一向宗禁圧の方針からの発給ではないようだ。

『戦国大名北条氏と本願寺―「禁教」関係史料の再検討とその背景―』

この論文によると、後北条氏の禁教は政治的宣伝が主目的で、実際に抑圧した確証はないという。氏康は永禄4年の上杉輝虎侵攻を受けて、越中の一向宗門徒を活発化させるため本願寺に恩を着せたかったようだ。浄土真宗の動向としては、むしろ甲斐との関係性・日蓮宗との対立の方が要素として大きいという。確かに、上杉侵攻時に本願寺と氏康を仲介したのは武田晴信だし、晴信の駿河侵攻で氏康と敵対した際に、相模・伊豆の浄土真宗寺院を氏康は警戒している。

とすると為昌が鎌倉光明寺に便宜を図ったのは独自判断によるもので、為昌もまた浄土宗に帰依していた。もしくは、浄土宗徒であることが確実な妻の懇願によって自身が影響力を行使できる三浦郡へ浄土宗拡大の指示を出したものと思われる。

ただし、既に記述したように為昌は死後に小田原の臨済宗本光寺に菩提を持っているから、北条養子入りを機に臨済宗へ転身したと思われる。

花木集団 浄土宗と臨済宗の混淆

後北条一門に列した為昌の菩提寺本光寺(臨済宗)が、花木集団の象徴になったことは確実だろうと思われるが、その一方で浄土宗と連携した相模朝倉氏が集団の母体になっており、それが集団の捻れた二重構造に繋がったのではないか。その点を少し検討してみる。

宗派を継承すること

譜牒余録 二十四松平相模守家臣

良正院殿が息子の松千代(照澄)の初お目見えの際に、父である家康に願い出て、松平姓を願い出て許された件。記録では良正院が「母である西郡殿の日蓮宗を受け継いだが、自分は家康と同じ浄土宗に改修するので、日蓮宗を松千代に継がせたい」と願い、家康が「であれば西郡殿の宗派を受け継ぐのだから、松千代には松平を名乗らせよう」と受諾したという。

これはかなり奇妙な話だ。徳川・松平は浄土宗徒だから、普通に考えれば「祖母も母も日蓮宗だが、松千代は浄土宗にする」と良正院が願い出た結果として、松平姓を名乗らせる方が自然に見える。

また、鵜殿氏系譜の西郷殿が日蓮宗であるのは確度の高い話だが、彼女は駿府の宝台院に葬られており、最終的に浄土宗に改宗したことは確実。

この話には裏があったと考えて解釈すると、良正院殿は自らも母と同じく改宗するので、息子の松平改姓と日蓮宗信仰を保証してもらったのではないかと気づく。

つまり、家康の子女は全て浄土宗に統一しようという政策がまずあった。しかし、鵜殿氏の頃から熱烈な日蓮宗徒だった良正院は、自らの改宗に交換条件をつけた。それが、息子の松千代の日蓮宗信仰保証と、松平を賜姓されることだったのだろう。譜牒余録の記録は、それを受けた小芝居だろうと思われる。

このことから、母から娘・息子に向けて宗派の継承がなされていたこと。それは家長の意向というよりは、個人的な嗜好によるものだったことが判る。

上記より、以下が推察される。

  • 自然な状態では、太守家中でどの宗派を信仰するかは自由だった
  • 個人が持つ宗派は、母系で継承される例があった
  • 太守の体面を保つために、一門が宗派を当主と合わせる必要があった

これらの要件が後北条家でも適用される前提で、引き続き浄土宗からの観点で俯瞰してみる。

誉号を巡る課題点

誉号とは、浄土宗の戒名で用いられる名称で、五重相伝を授けられた者だけに与えられる名誉称号。これを持っていれば浄土宗徒であることは確実だと思われる。玉縄北条家の面々を調べてみると……

  • 誉号を持たない者為昌・為昌妻・綱成・氏繁・氏繁妻・氏秀・氏勝・直重

  • 誉号持ち大頂院(為昌母ヵ)・綱成妻・氏規・氏盛

  • 戒名不明氏規妻・氏盛妻

為昌妻の戒名は「養勝院殿華江理忠大姉」で誉号はない。とはいえ、高蓮社山誉が逆修を執り行っているし大長寺も浄土宗。これは夫が臨済宗となったため、露骨に浄土宗と判る誉号を回避した可能性が高いだろう。

※ちなみに、戒名に「誉」があるのが浄土宗戒名かと思いきや、大磯地福寺の僧に「良誉」がいた。高室院月牌帳に「権大僧都法印良誉」と記されているこの人物は、相模国中郡大磯の在所となっており、「地福寺為菩提也」と補記されている。地福寺は真言宗なので、たまたま法名に「誉」が入ったのだろうか。

花木集団のその後

 為昌妻、綱成妻、氏規妻が北条家過去帳に現れないのはなぜか。為昌妻はともかく、綱成妻は氏綱の娘だろうし、氏規妻は狭山藩祖の妻でもある。この要因を考えてみると、小田原開城後に花木集団は氏直・氏規・氏勝と袂を分かったのではないかと推測できる。

1595(文禄4)年10月27日付けの「京大坂之御道者之賦日記」(埼玉県史料叢書12_参12)で氏規・氏盛の一家が登場するが、その記述で「美濃守御前さま」を通説では氏規妻と比定している。

北条一睡入道様
北条助五郎殿様
北条御辰様
美濃守御前さま
同御つほねさま

しかし、この当時氏規は隠居しているから「美濃守御前さま」は氏盛妻(寛政譜によると船越景直の娘)。また、従来の通説だった高源院殿(北条家過去帳で氏宗曾祖母を記される人物)が氏規妻ではないという考察(北条氏規妻の実体)も合わせて考えると、氏規妻は過去帳類の記録に登場しなかったのだろう。とはいえ「北条美濃守御前」が1589(天正17)年11月に存命であるのは確実でもある(戦北4969)。

してみると、氏規妻は後北条滅亡を契機に独自の行動をとっていたと考えるのが妥当なように見える。夫の子息(氏盛・勘十郎)の実母ではなかったのかもしれない。独自行動をとったとすれば、その際、こちらも恐らく存命だったろう母(花木殿・綱成妻)と共に行動した可能性が高い。

ここで気づくのが、江戸の種徳寺。為昌の菩提寺である小田原本光寺を移設したものとされている。この寺は小笠原康広に嫁したといわれる氏康娘「種徳寺殿恵光宗智大姉」が開基となっている。種徳寺殿は他の史料に一切出てこないためその実態は判らないのだが、本光寺を移設して継承したことから、為昌娘ではないかという指摘もある。ただし、種徳寺殿は死去が1625(寛永2)年6月5日(御府内備考続編)なので氏康世代だと100歳を超えてしまう。

※夫とされる康広死去は1597(慶長2)年12月8日で享年67歳(寛永諸家系図伝)。

没年から考えると、種徳寺殿は旧新小笠原康広に奉じられた氏規妻(綱成娘)の方が可能性が高くないだろうか。その所伝が後に粉飾され氏康娘・康広妻となったとすれば、年齢的な矛盾は回避される。

種徳寺殿が氏規妻の後身だったとするなら、氏康娘でありながら一門とは違う誉号の戒名を持った母とは異なり、本光寺の為昌菩提を継承するために臨済宗の後北条一門流の戒名を選んだことになる。この点は更に検討の余地がありそうに思う。

2022/11/06(日)花木隠居・花木殿・花之木の実体

後北条家中で花木隠居・花木殿・花之木という人物がいた。それぞれを連携して考証した例がなかったので、事例を並べつつ考えをまとめてみた。

花木・花之木の比定地

家臣団辞典では「花之木」の比定地を金子郷(埼玉県入間市花ノ木)に求めている。これは所領役帳に出てくる「花之木」の知行地に「金子郷」があり、比定地とされる入間市に「花ノ木」があるため。しかし、後述するように役帳の「花之木」が知行した金子郷は寄子のために特別給付されたもので、根本的な知行ではない。この比定は可能性が低いだろう。

次に目につくのが、室町後期に名が出てくる「花之木」(神奈川県横浜市南区花之木町)。ここに因んだ名乗りである可能性もなくはない。

ただ、花木殿の所在地は高室院月牌帳で小田原となっており、関連するだろう花木隠居もまた小田原花ノ木にいたことはほぼ確実だろうと思われる。また、役帳の「花之木」も後述するように知行地が直轄領から拠出されている小田原衆であり、小田原花之木に起居したことからの呼称と見てよいだろう。

上記より、花木・花之木は小田原市浜町2丁目近辺(蓮上院・新玉小学校近く)と見られる。

養勝院殿とは何者か?

ここでまず、北条為昌妻、もしくは綱成母と言われる養勝院殿の実態を検証・確認してみる。「花木殿」が北条綱成室であるため、姑に当たる彼女の存在をまず前提におく必要があるためだ。

鎌倉大長寺には木像があり、その胎内銘にその名が残されている。

  • 戦国遺文後北条氏編0355「朝倉氏像銘」(大長寺所蔵)

「胎内腹部」

造化御影像之事右、彼施主古郷豆州之住呂、名字朝倉、息女北条九郎之御前、御子ニハ北条佐衛門大夫綱成、同形部少輔綱房、同息女松田尾州之御内也、爰以至衰老、中比発菩提心、為逆菩提、奉彫刻木像也、
「胎内背部」
并奉寄進拾二貫文日牌銭、法名養勝院殿華江理忠大姉相州小坂郡鎌倉名越、安養院住持第十六代高蓮社山誉大和尚、仏所上総法眼、使者大河法名善信、謹言、敬白于時天文拾八年己酉九月十八日

  • 解釈

奉る。御影像を造化すること。この施主は故郷伊豆国の住人で朝倉名字の息女。北条九郎の御前で、お子には左衛門大夫綱成・同刑部少輔綱房・松田尾張守の妻がいる。老衰となったので菩提心を発して木像を彫刻した。並びに、12貫文の日牌銭を寄進奉る。法名は「養勝院殿華江理忠大姉」。相模国小坂郡鎌倉名越の安養院住持16代「高蓮社山誉大和尚」・仏師は上総法眼(後藤宗琢)・使者は大河(法名:善信)。

この銘の解釈では当初、北条九郎を彦九郎為昌と比定し、その養子に綱成・綱房・盛秀妻がいたとしていた。しかし当時の養子記載は男系に限られるため、盛秀妻を記載しているのは実子関係を記述したのだろうということで、北条九郎・養勝院は綱成の実親であり、為昌とは無関係という仮説も出てきた(では「北条九郎」は誰かというと、この説は不明とされている)。

しかしこれは、前記事『北条氏時・為昌の出自』で考察したように、福島為昌が北条家に養子入りしてその息子が綱成だとすれば、北条九郎は為昌ということですっきりと繋がる。以下、これを前提にして論を進める。

花木隠居

「隠居」としての記録

「隠居」という扱いで所領役帳に登場するのはこの人物だけなので、かなり特殊な存在。

  • 登場部分1 玉縄衆 左衛門大夫殿(北条綱成)内の項目

買得、百貫文、梅名内、元朝倉平次郎知行、但隠居買得

  • 登場部分2 玉縄衆 花木隠居の項目

一、買得、九拾貫文、東郡、津村内、花木隠居

  • 登場部分3 江戸衆 朝倉平次郎の項目

百弐拾九貫五百五拾文、豆州、梅名内
此外五拾貫八百文、花木隠居永代買得依之役左衛門太夫殿勤之

北条綱成・朝倉平次郎の各項目で「役の負担は綱成」とあるので、花木隠居本人名義とされる相模東郡津村内の90貫文(これも買得)もまた、恐らく綱成の役負担だったと思われる。役を負担できない点から女性と見られ、玉縄北条氏と朝倉氏を繋ぐ人物であるから養勝院殿が想起される。なおかつ役帳で隠居となっている点から見ても、為昌死後の養勝院殿が該当する。

そして、こちらもまた花木隠居と同一人物と思われるが、1544(天文13)年、江の島弁天遷宮での寄進で、松田殿、朝倉藤四郎殿名義で絹2疋を、孫九郎殿、朝倉弥四郎殿名義で小袖1重を、それぞれ「ゐんきよ」が提供している(小田原北条氏文書補遺p35)。

念のため調べてみたが、女性が「隠居」を称するのはごく僅かだが他例もある。「妙春尼書状写」で妙春尼は自署で「いんきよ」と書いている(愛知県史資料編12_525・上宮寺文書)。また、「北条氏康書状」で氏康は東慶寺住持の松岡殿の引退を「御いんきよあるへきにつゐて」と記している(戦国遺文後北条氏編1541・東慶寺文書)。

所領役帳に載っている女性

花木隠居の状況を確認するため、女性で役帳に載っている例を次に挙げてみる。

新五郎娘

小机衆にいる彼女に与えられた30貫文の知行(伊豆・田代)は、同族と見られる笠原弥十郎が負担している。

赤沢千寿の母

江戸衆で江戸高田内に15貫文を与えられている「赤沢千寿」は、千寿が成人するまでは後家が差配し、その間は役を免除されている。

北条宗哲の妻

北条宗哲の知行一覧内に「御新造様知行分」310貫文がある(白根内箱根分、戸田分、太平)。こちらの役は宗哲が代行して負担しているので、花木隠居と同じ方式。

有滝某の母

諸足軽衆にいる「有滝母」は10貫960文の知行(江戸、安方分)を与えられ、こちらは役を負担しているようだ。

有滝氏は当主の死で領地が解体されたようで、31貫文(小机、一宮)を御馬廻衆の関兵部丞が、56貫581文(江戸、小石川本所方)を江戸衆の桜井某が、それぞれ有滝氏から買得している。また、1566(永禄9)年8月20日には江戸城の有滝屋敷を豊前山城守に与える旨の虎朱印状が存在する(小田原市史資料編小田原北条651)。

つまり、解体過程にあった有滝知行地の残存部がその母名義で残っていた。諸足軽衆に配属されたのは、残存兵員の有効活用を図ったのだろう。諸足軽衆には、他の衆に所属する兵員も給田を与えられて集められているので、都合がよかったものと思われる。

以上を考えると、有滝母が例外措置で、赤沢後家のように後継者が立つまで無役とするか、宗哲妻・花木隠居のように代行者が役を負担するかの方法で男性当主不在に対応していたものと思われる。

まとめ

花木隠居は1544(天文13)年には既に「隠居」しており、1559(永禄2)年の所領役帳作成時までは存命だった。土地買収を繰り返した形跡があり、江の島への寄進でも子供たちを支援している。彼女は資産家だった可能性が高い。

花木殿

高室院月牌帳に出てきた「北条上総御内方」

寒川町史にある高野山高室院月牌帳に出てくる「北条上総殿御内方花木殿」は、綱成の妻と見てよい。1587(天正15)年11月21日に「春誉馨林禅定尼」の戒名で逆修(生前供養)を行なっている。

一方で通説の綱成妻は、新編相模国風土記により「大頂院殿光誉耀雲大姉」の戒名で1558(永禄元)年9月10日に死去しているという。

両方を合わせて考えるならば、大頂院殿が亡くなったのちに花木殿が後妻となったのかとも見えるが、高室院月牌帳を見るとその可能性は低そうだ。

まず同書での「花木」を追ってみると7件出てくる。

 項番   戒名    補記   地名   人名   取次   日付 
49 真哲恵玉 相模国西郡小田原 花木兵部卿立 1551(天文20)年3月22日
603 妙慶 相模国西郡小田原・花木 宗賢寺 ■■ 1585(天正13)年
767 光数禅定尼 相模国西郡小田原 花木小相宰 1587(天正15)年2月5日
768 理栄 相模国西郡小田原 花木小宰相母 1587(天正15)年2月5日
783 月窓宗光 順修 相模国西郡小田原 花木殿女房衆 玄仙坊 1587(天正15)年5月13日
780 春誉馨林禅定尼 逆修 相模国西郡小田原 北条上総殿御内方花木殿御自分 玄仙坊 1587(天正15)年11月21日
781 西来院殿 逆修 相模国西郡小田原 苅部殿内女 1587(天正15)年某月21日
782 正仏 逆修 相模国西郡久野 御前方宮内殿 玄仙坊 1587(天正15)年11月21日
860 栄覚春慶 逆修 相模国西郡小田原 花木■之内衆 徳蔵院 1589(天正17)年2月18日

「花木兵部卿」は恐らく、蓮上院関係の高位の僧侶だろう。官途名の「兵部卿」は武家では通常用いられず、出家者が兵部卿・民部卿・治部卿を用いた例がある。

「花木小宰相」とその母は、日付が同日なので恐らく逆修。取次の名がないので、死期が迫った綱成を前にして独自に逆修したのだろう(綱成死去は天正15年5月6日と伝わる)。禅定尼の位を持つ娘に添えられていることから、母の出自は低いと見られる。取次・日程が正室である花木殿と乖離しているため、綱成より年下の側室とその母親かもしれない。

これに比較して花木殿は二重に「殿」が用いられているほか、自らを指す「自分」に敬称が添えられ「御自分」となっている。「御自分」を使われているのは彼女と「山木様」にだけ(同書中他の19例は全て「自分」)。この待遇から考えると北条氏綱娘である山木大方と並ぶ存在。

加えて、花木殿には女房衆・内衆を抱えていたほか、氏光妻の侍女と見られる「苅部殿内女」が花木殿と同日で逆修をしている。更に取次「玄仙坊」を同じくする「御前方宮内殿」は、氏隆妻の侍女と思われる。

まとめ

これらから推測すると「花木殿」は綱成に嫁したと言われる氏綱娘本人であるといえる。綱成の妻には他に「花木小宰相」がいたようだ。

また、通説では綱成妻とされる大頂院殿は時期から見て為昌の母か姉ではないか。為昌没後も丁重に扱われていることから、為昌母(綱成祖母)という可能性が若干高いように思う。

花之木

小田原衆の謎の人物

所領役帳に登場するこの人物は、小田原衆にいた比較的大規模な被官であるにも関わらず、その後の動向が全く不明。であれば、謎の人物が混ざり込んだというよりは、既知の人物が小田原花ノ木の地名を名乗っていたと考えるべきだろう。元服し、文書発給を始めていた有力被官の中で役帳に出てこないのは、北条氏秀、北条氏繁、吉良頼康。

このうちで武蔵吉良の頼康は可能性が低い。同氏は、後北条氏との度重なる婚姻関係にも関わらず、過去帳にも一切登場せず滅亡も共にしなかった。独立性が高いが故に役帳に出てこなくても不思議ではない。もし現われるとしても、小田原衆というのは奇妙で、御家中衆か江戸衆、もしくは他国衆だろう。

北条綱成の弟である氏秀も出てこないが、当時沼田康元と呼ばれていたこの人物は、対上杉の最前線である上野国沼田にいたので載せられなかったものと思われる。

消去法で候補に残るのは氏繁だが、もし氏繁だとするなら、当時は「善九郎康成」と名乗っていた彼が役帳にその名で載っていないのはなぜか。

「花之木」の正体

改めて「花之木」の知行地を見てみる。

一、花之木
百貫文、中郡、小磯
百拾貫文、同、恩名及川
百五拾貫文、東郡、一宮之内
四拾六貫文、西郡、下中村惣領分
以上四百六貫文
此外、三百八拾壱貫六百文、金子郷、寄子給

小磯は先頭にあって本知と思われるが、その由来は不明。高野山高室院月牌帳には170の地名が延べ600回記載されているが、そのうちで「小磯」は12件があり、それなりの人口規模とは思われる。ところが役帳で「小磯」が見られるのはここだけなので、役帳範囲外に存在したと思われる直轄領の可能性がありそうだ。

高室院月牌帳に載っている相模国の地名(延べ600、地名数179)から上位を抽出すると、小田原が圧倒的に多数を占めている。他は少なく見えるが、5回以下の地名が圧倒的多数なのでそれなりの規模の集落だったと思われる。

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恩名・及川は、1582(天正10)年8月27日に綱成が堀内七郎衛門に「中郡恩名之郷弐拾貫文」を与えている(戦北2406)から、玉縄北条家と関係が深い。

東郡一宮は後北条当主に近しい人物が分け合っている(小田原衆の花之木、御馬廻衆の山角四郎右衛門、河越衆の山中彦八郎、御家中衆の山中彦十郎・富塚善十郎)。これは、後北条直轄領を氏康が一時的に預けていた可能性が高い。寄子給として花之木に与えられた金子郷にしても、1561(永禄4)年4月2日には虎朱印状で金子大蔵丞にこの金子郷は返還されている。この迅速な対応は、直轄領として扱われていたからこそのものだろう。

下中村は一貫して本光寺領(為昌菩提寺)。下中村惣領分を見ると、花之木の名前の後に続く、渡辺左衛門と西右衛門へ50貫文ずつ与えられている。

これらをまとめると、直轄領からの支給が631貫600文、玉縄系が110貫文、本光寺系が46貫文となる。

ここまでくれば、役帳に出てくる花木隠居が想起される。花木隠居が為昌妻で綱成母(氏繁祖母)とすれば、氏繁が花ノ木にいたのは不自然ではないし、小田原衆に所属するのも、同衆の筆頭が松田憲秀で、氏繁から見れば従兄弟(父の姉妹が盛秀に嫁ぎ、盛秀の息子が憲秀)だから、あながち妙な話ではない。1560(永禄3)年以前の氏繁は下総国東庄にいた東修理亮と氏康との仲介をしていたのみで、玉縄在地は確認できない。むしろ、戦果報告に際して氏康と緊密に連絡を取り合っていたことから、氏繁が氏康に直属していたことが窺われる(北条氏繁の初期所属を参照のこと)。

氏繁が「花之木」と呼ばれることの特異性

上記をまとめると、氏康が氏繁を側近として育てる意図で、小田原内の居所を為昌妻と近い花ノ木として、綱成とは一旦切り離していたと考えるのが妥当だろう。

では他の一門のように名前で呼ばれなかったのはなぜなのだろうか。この時点で氏繁は官途を持っていないものの、宗哲嫡男は「三郎殿」と記されているから、「善九郎」という仮名で記載されるのが本来の姿。それをわざわざ地名表記にしている。

地名が表記されたのが判る例としては、他国衆での「油井領」と江戸衆での「本住寺領」がある。このほか「~跡」という当主不在な領地があり、御馬廻衆での「西原弥七跡」、江戸衆での「小野跡」「川村跡」が見られる(恐らく、これ以外にも領域名があると思うが名字と区別できないため未詳)。

北条から切り離された氏照の名が出ずに「油井領」とされていたことを考えると、「花之木」は花木隠居(祖母)・花木殿(母)の後継者としての氏繁を指していて、綱成とは分立した存在だった可能性も考えられる。しかしながら、氏繁は明確に綱成の嫡男であり、それも考えづらい。氏繁が次男ならば、笠原康明・遠山康光・垪和康忠のように分家筋を直参として取り立てた例は複数存在するが、その可能性も低い。やはり、綱成嫡男を分立した意図はどうにも判らない。

あれこれ考えてみるほどに、花木集団が後北条政権の中で異端児だったとしか考えようがない。

余談だが、名字だけしか記載されなかった例として、河越衆筆頭の「大道寺」がある。名字しか書かれていないものの、この人物が源六周勝なのは確実で、4人挟んで名が出てくる一族の大道寺弥三郎の項目では「源六拘=源六の所有」という語が3回も出てくる。周勝の名が禁忌という訳でもないのだが、大道寺氏の当主が、盛昌のあとは周勝・周資で不安定だった可能性がある。名字以外を書いてしまうと揉めるため、わざと避けたのだろうか。

2022/11/01(火)北条氏時・為昌の出自

北条為昌とは何者か

為昌の名の由来

後北条一門の中で際立って異彩を放つ実名を持つのが北条為昌で、直系の中で唯一「氏」の通字を持たない(氏直世代になると「直」の偏諱を持つ者もいるが、彼らと為昌は50年ほどの差があり、両者に相関性はなさそう)。

下山治久氏・黒田基樹氏の説では「大道寺盛昌が烏帽子親で『昌』を受け取った。『為』は冷泉為和からもらった」としている。しかし、通例の偏諱では目上から受け取っているから「冷泉為和から『為』の偏諱をもらった」とだけすればよい。しかし、小田原に数回来ただけの為和から偏諱を受けるのは違和感があるため、この説では河越・鎌倉で領域的に近しい盛昌を最初に持ち出したのだろう。

よくよく考えてみれば、為昌が後北条一門で異例の名乗りであるのと同様に、盛昌もまた大道寺一門では異色の名乗りだ(他は周勝・資親・政繁・直繁・直次・直英で、直昌だけが通字を持っている程度)。

当時の養子関係が史料からでは判りづらいのは、小幡源二郎の出自である程度把握できてきた。氏康子息とされている氏忠・氏光が、氏康の甥(氏尭の息子)と比定されているのも、比較的近年になるまで仮説が立てられていなかった。そう考えれば、明らかにおかしい為昌の命名にもっと疑問をもってしかるべきだろう。

そこで、大道寺盛昌・北条為昌の実名が、今川被官である遠江福島(くしま)氏と近接していることに着目してみた。戦国遺文今川氏編の索引を見ると、福島一門の実名にはよく使われる字がある。

  • 「春」助春・氏春・春興・春久・春能
  • 「昌」助昌・元昌
  • 「盛」盛助・盛広
  • 「助」助春・助昌・盛助
  • 「為」範為 ※「範」は今川氏の通字
  • 「能」範能

このうち、明応から永正年間に活躍した世代が、左衛門尉助春・玄蕃允範能・和泉守範為となる。

「為」を継承していること、範為が宗瑞と親交があったことから、為昌は範為に近い関係だったと推測される。加えて範為は在京した徴証があり、山城国大道寺郷との関連もあるかもしれない。

遠江福島氏の活動状況

盛昌と為昌が遠江福島氏の出自だったとして、いつ小田原に来たのだろうか。その時期を考えてみるため、福島氏の活動状況を確認する。

今川家中で福島氏が登場するのは1501(明応10)年の福島助春が最初で彼が従えていたのが範能。1510(永正7)年から範為が出てくるようになる。その後は登場史料が減って1524~5(大永4~5)年に盛広が見られるだけになるが、1536(天文5)年に発生した花蔵の乱で福島越前守・彦太郎・弥四郎が今川義元に敗軍し一時期姿を消す。

そのまま消えるかと思えた福島氏は1548(天文17)年から再び登場してくるが、その過程で遠江小笠原氏が入り混じって姿を現すようになる。この小笠原氏は、福島氏と同じ遠江国土方周辺を根拠地としているほか、福島十郎左衛門助昌は1569(永禄12)年に小笠原十郎左衛門助昌として改姓している。更に小笠原氏興は、福島右馬助の寄進を1548(天文17)年に岡崎龍巣院に対して保証している。このことから考えると、福島・小笠原は同族的結合があったようだ。花蔵の乱で失脚した福島氏は、一部の者に「小笠原」を名乗らせることで復活を企図したようにも見える。

この小笠原氏は信濃の一族と考えるにしては、余りに福島氏に近接し過ぎている。この中心人物「氏興」が1544(天文13)年から登場したことから、範為の妻が氏綱母の小笠原氏の親類で後北条と血が繋がっていた可能性を考えてみた。かなり証跡の薄い推測にはなるが、為昌が氏興と同じく範為の息男だったとすれば、為昌と氏綱は血縁だったのかもしれない。

母親の名字を名乗ることを願い出た例には、埼玉県史料叢書12_726の「小鷲直吉名字譲状」(福田文書)がある。母の名字である「福田」が途絶えることを憂いた岡左衛門尉が小鷲直吉に願い出て、自らも含む三兄弟が福田を名乗る許可を得ている。

盛昌・為昌の軌跡

遠江福島氏の状況から鑑みると、まず福島盛昌が伊勢宗瑞に従って伊豆・相模に入り「大道寺」を名乗る。今川分国からの移籍は、石巻家貞・関為清・興津加賀守などが見られる。そして、その後に福島為昌が移った。為昌が北条を称したことは確実なので、名字を替えた盛昌とは異なり、彼は氏綱の養子に入ったと考えた方が合理的である(詳細は別記事で説明するが、為昌妻が朝倉氏なのはほぼ確実なので、婚姻による養子ではない)。

そしてこの仮説だと、従来は余りに若年だった為昌の年齢問題が解決する。

通説の為昌は1542(天文11)年5月3日に23歳で死没したとある。逆算すると生年は1520(永正17)年(但し、この死没年は北条家過去帳からとっているようだが、これは供養した日付。もし死没年なら氏時死去が同年10月18日となってしまう)。朱印状での為昌初見は1532(享禄5)年なので通説通りなら僅か13歳、そこから富岡八幡造営の指揮をとりつつ、江戸湾を渡海したり河越へ攻め込んだりと転戦していて、とても若年とは思えない。氏直の代くらいになれば周囲に人材を配置できるから年少でも対応可能だろうが、この頃の後北条家は本当に人材が払底している状態なので、臨機応変に陣頭指揮をとれなければ務まらない。よく考えれば、30代以降の行動と考えるのが妥当だろう。

快元僧都記での呼称を見るとかなり変化していて、途中で氏綱養子となって一門化した様子が窺われる。

1533(天文2)年

  • 閏5月2日 為昌彦九郎殿
  • 6月17日 彦九郎殿
  • 10月28日 彦九郎殿、孫九郎殿、九郎殿、九郎殿

1534(天文3)年

  • 2月17日 九郎殿
  • 3月1日 九郎殿
  • 6月16日 彦九郎殿

1535(天文4)年

  • 3月14日 彦九郎殿
  • 6月10日 氏康・為昌玉縄着城
  • 6月26日 為昌
  • 10月14日 彦九郎為昌
  • 10月17日 彦九郎為昌

1536(天文5)年

  • 8月1日 氏康・為昌
  • 8月28日 北条孫九郎
  • 閏10月9日 為昌
  • 閏10月10日 氏綱、氏康、為昌

1538(天文7)年

  • 2月14日 北条為昌

1539(天文8)年

  • 5月21日 彦九郎殿

1540(天文9)年

  • 11月4日 北条孫九郎殿

1533(天文2)年閏5月で最初に登場した時こそ「彦九郎為昌」と書いているが、以降は単に「彦九郎殿」で、作業が慌ただしくなった10月には「孫九郎殿」と誤記したり、略して「九郎殿」と書いたりしている。様変わりしたのは1535(天文4)年6月に氏康と共に登場した時で、氏康と併記して「為昌」と記し、その後は北条と冠するか実名の為昌を付けるようになっていて、北条一門である扱いとなる(天文8年のみ例外的に「彦九郎殿」と呼ぶ)。「孫九郎」の誤記は最後まで続いていて、この点から孫九郎綱成との混乱を招いているが、綱成が確実な史料で登場するのは1544(天文13)年だから、快元僧都記の孫九郎は為昌と見てよいだろう。

駿河から小田原に赴いた冷泉為和は『為和集』にて1536(天文5)年2月13日に「本城において、彦九郎為昌興行当座」と記した。歌会を主催為昌が主催できたということは、和歌に造詣があってある程度の年齢だったことを示唆する。

彦九郎為昌が福島氏出身であることは、断片的ではあるが同時代史料でも補強できる。1548(天文17)年7月17日に岡部親綱が氏親菩提寺である増善寺への寄進物を列挙している(戦国遺文今川氏編874)。その中に異筆で「一法華経一部、紫表紙折本也、福島九郎置之、椎尾御塔頭 宗久侍者ニ渡之」と書かれている。恐らくは氏親没後に「福島九郎」が法華経を増善寺に納めたことを指しているのだろう。福島九郎はここでしか登場しないので詳細は不明だが、氏親近臣だったことが窺われる。

氏親死没直後に政争があったことは宗長日記に記されているが、これを契機に福島九郎が後北条に移った可能性は高いように思う。氏親死後はその妻である寿桂が家中を仕切る傾向が出てくるが、宗長はこれをよく思っていなかった。そして、幼童抄紙背文書で判明したように、宗長は盛昌と親しい関係にあった。反寿桂派同士ということで福島九郎が宗長に助けを求め、宗長が昵懇である盛昌に紹介したという流れだ(名乗りから見て盛昌もまた福島氏である可能性があり、氏綱への推挙もより強いものになっただろう)。

大道寺家譜・北条家過去帳に引っ張られて、大道寺発専(盛昌父)が宗瑞の従兄弟、為昌が氏康の弟という先入観を持っていたのがこれまで通説だったが、上記のように史料を敷衍するならば、為昌・盛昌は遠江福島氏の出自であるのが確実といえそうだ。

北条新六郎左馬助氏時とは何者か?

氏綱の弟とされる北条氏時は殆ど文書が残されておらず、謎の人物とされている。

新編相模国風土記稿にある二伝寺の記事で、1531(享禄4)年8月18日に氏時没とされる。二伝寺は浄土宗白旗派の鎌倉光明寺の末寺で1505(永正2)年に忍蓮社誉正空が創建という。正空は品川が出自で北条時国の系譜という人物。この創建には村落の福原左衛門忠重も助力したという。

氏時は文書を2通しか発給していないので実像が定かではないが、「氏時」「左馬助氏時」を名乗っている(戦北88・89)。一方で鎌倉円光寺の毘沙門天像の銘では「北条新六郎殿氏時」と記載されている。

  • 戦国遺文後北条氏編0090「毘沙門天立像銘」(鎌倉円光寺所蔵)

    (後頭部内) 檀那 北条新六郎殿氏時 作者上総法眼長■ 享禄二年十月吉日 (胎内背面) 諸願成就 南無光明天王五大力菩薩 皆令満足

「新六郎」の仮名は一門としては異色で、他氏族の出自を窺わせる。

「新六郎」を名乗ったのは、太田康資・松田政晴・勝部政則・吉良氏朝・豊島貞継・藤田信吉・用土某。このうち、氏時が現れる1529(享禄2)年に確実に時代が合うのは太田康資のみ。

「左馬助」を名乗ったのは、桑原某・高橋頼元・手島長朝・比企則員・北条氏規・北条直重・松田(大石)憲秀・松田直秀。同様に氏時と時代が合うのは、松田憲秀・高橋頼元。

ここで着目されるのが松田氏で、同氏の仮名では六郎系で助六郎(康長・直長)、六郎左衛門(康定・康郷・某)がいて、総合的に考えると、氏時は憲秀本人の別称だったか、憲秀の異母兄だった可能性が高そうに見える。更に、為昌の娘が松田盛秀に嫁しているから、為昌とも関与があっただろう。

氏時・為昌登場時の時系列・状況

ここで時系列を整理してみる。氏綱生年は同時代史料である快元僧都記で確認されるので確定。氏康・綱成の成年は後世編著での比定だが、史料的に近い年齢だろうから同年と考えてもよいだろう。為昌が氏綱養子となったとすると、少なくとも氏綱より年少だろうから10歳下と仮定してみよう。氏綱は29歳で氏康を得て、為昌は19歳で綱成を得たという時間軸になる(仮説部分は<>で表示)。

  • 1487(長享元)年 伊勢氏綱が生まれる『快元僧都記』

  • 1495(明応4)年 伊勢宗瑞の伊豆での活動が確認される(戦北1)

  • 1497(明応6)年 <福島九郎為昌が生まれる>

  • 1498(明応7)年 「大道寺」が伊勢宗瑞書状に現われる(戦北4599)

  • 1515(永正12)年 <伊勢氏康・福島綱成が生まれる>(氏綱29歳、為昌19歳)

  • 1522(大永2)年 伊勢氏尭が生まれる『兼見卿記』(氏綱36歳、為昌26歳、氏康・綱成7歳)

  • 1523(大永3)年 伊勢氏綱が北条に改姓する(戦北56・市史61)

  • 1525(大永5)年 白子原合戦で伊勢九郎(櫛間九郎)が戦死<戦死は虚報で福島九郎の援軍参加か?>

  • 1526(大永6)年 今川氏親が死す『宗長日記』(氏綱40歳、為昌30歳、氏康・綱成12歳、氏尭4歳)

  • 1527(大永7)年 <福島九郎が法華経を増善寺に奉納し小田原へ移る>

  • 1529(享禄2)年 北条氏時が登場する(戦北88)(氏綱43歳、為昌33歳、氏康・綱成15歳、氏尭7歳)

  • 1531(享禄4)年 北条氏時が死す

  • 1532(享禄5)年 北条為昌が朱印状を出す(戦北102)(氏綱46歳、為昌36歳、氏康・綱成18歳、氏尭10歳)

  • 1535(天文4)年 北条氏康の妻が嫁す<福島為昌が北条へ養子に入る>

  • 1536(天文5)年 北条氏繁が生まれる(氏綱50歳、為昌40歳、氏康・綱成22歳、氏尭14歳)

  • 1541(天文10)年 北条氏綱が死す『快元僧都記』(氏綱55歳、為昌45歳、氏康・綱成27歳、氏尭19歳)

  • 1542(天文11)年 北条為昌が死す

氏時・為昌がその名乗りから考えて他家からの養子だとする前提で考えると、1529(享禄2)年時点で後北条一門の成人男性は、氏綱・宗哲のみになる。しかも戦況は悪化しており、大永年間からずっと劣勢が続いて江戸・鎌倉は何とか確保しているものの、岩付を失い、相模国の大磯・平塚まで攻め込まれることもあった。

窮余の一策として、松田盛秀の嫡男を養子にし、北条の名字と「氏」の通字を与えて氏時とした。が、わずか3年で急死してしまう。そこで、30歳代半ばで嫡男・次男がいる為昌に白羽の矢が立った。3年ほど様子を見てから、氏綱養子扱いで北条名字を与えたものの、今川からの異物ということで、通字は与えなかった。

こうした例外が可能だろうかという疑問があるものの、新興勢力の後北条氏としては、北条へ改姓して10年ほどという時期で例外措置が挟みやすかったといえる。それよりも、四の五の言っていられないほど一門人数が枯渇していたという要因が大きく作用していただろう。何よりこの措置によって、為昌という成人男性に加えて氏康と同年の嫡男も手に入る。また、1535(天文4)年になって為昌養子入りが確定したのは、嫡男綱成の妻が懐妊したことも契機となるかもしれない。

蛇足

念のため記しておくと、為昌が氏綱の息子で氏康の弟と書いているのは北条家過去帳と鶴岡御造営日記。北条家過去帳は後に北条氏長の手が大幅に入っており、過去帳というよりは玉縄北条家の系図のようになってしまっているし、氏繁次男を無理に挿入するなど操作の形跡がある。綱成の前に存在していた氏時・為昌への情報操作も窺われ、この点では信頼性に瑕疵があるといえる。

『快元僧都記』と『鶴岡御造営日記』は、どちらも天文年間の鶴岡八幡宮修復作業にまつわる内容を記載しているので、同時代史料だとされる。しかし、よく引用される『鶴岡八幡御造営日記』の塀普請割振状には不可解な記載があって不審。

  12間 北条氏康弟、彦九郎殿
南大門6間 北条氏綱弟、幻庵
   6間 北条庶子、左衛大夫
      寄子也、間宮豊前守

北条宗哲を「幻庵」としているが、宗哲が幻庵と呼ばれる最初の例は1558(永禄元)年(戦国遺文今川氏編1236)で、1546(天文15)年の自称では「長綱」(戦国遺文後北条氏編0279)であり、快元僧都記でも一貫して「長綱」と呼んでいる。

また、ここで「左衛大夫」と呼ばれた綱成だが、彼が左衛門大夫と名乗るのは1549(天文18)年以降であり、少なくとも1544(天文13)年までは「孫九郎」を自称していた。

この割振状に出てくる他の名前を見ていると、どうも所領役帳を参考にして工夫して入れ込んでいるような感触もある。

2022/08/23(火)北条氏規妻の実体

氏規妻は綱成の娘か

通説で「高源院殿」とされていた北条氏規妻の戒名について、過去帳を検討した結果別人のものである可能性が非常に高くなった。そこで、改めて彼女の実体を推測してみる。

寛政譜では北条綱成の娘となっている。これは昨今の通説でも受け入れられており、氏規文書に水軍・三浦半島に言及したものがが見られることから、これらを統括している綱成の保護下にあったと想定、氏規が綱成娘を娶ったことを肯んじている。

まず関係史料から挙げてみよう。

仁科郷の地頭

「北条美濃守御前方」は、伊豆国仁科郷の地頭(領主)として登場する。1589(天正17)年11月の記録で後北条最末期のものではあるが、美濃守氏規の妻が仁科の地頭であったことが判る。

  • 戦国遺文後北条氏編4969「佐波神社棟札銘」(西伊豆町仁科佐波神社所蔵)

    奉修理、三島大明神御宝殿之事。右大旦那本命辰之天長地久子孫繁昌諸願成就、本願須田図書助盛吉(花押)
    当地頭北条美濃守御前方、大工瀬納清左衛門・鍛冶鈴木七郎左衛門、于時天正拾七己丑年霜月吉日

伊豆の仁科郷というと、1561(永禄4)年に北条氏康が「父氏綱は禁裏のご修理の費用に仁科郷を進上した」と書いているように、それなりの収益が見込まれる土地であった。所領役帳での仁科郷は100貫文しか計上されていないものの、実態としては仁科郷を中心にした村落群を「仁科」と呼んでいたようで、1583(天正11)年には清水康英が「仁科十二郷御百姓中」に宛て、三島宮の八朔行事への出資を命じている。

仁科北方の地頭、山本家次

仁科の歴史を遡ると、仁科の北にある田子漁港の近くにある神社の棟札が地頭の存在を記している。

-戦国遺文後北条氏編4657「天満宮棟札銘」(多胡神社所蔵)1560(永禄3)年5月2日

(表)大日本国伊豆州仁科庄大多古郷、地頭山本信州守家■。奉新造栄天満大自在天神、大工新衛門宗■・代官松井与三左衛門。于時永禄三年庚申五月初二日、郷内子々孫■■栄也、及至法界平等利益乎(裏)仁科鍛冶太郎左衛門尉広重
謹、敬白
帯一筋、道祐・麻五十目、九郎左衛門尉・■■■■■■

ここにあるように、1560(永禄3)年の仁科庄内大多古郷地頭は山本家次。彼は三浦郡の出自で水軍を率いており、最初は為昌配下にあり、次いで氏規指揮下に入った人物。前年完成した所領役帳で家次は御家中衆に分類され、その知行とされているのは伊豆国内の田子・一色・梨本とある。どうやら仁科十二郷北部とその東方に所領があったようだ。

所領役帳では渡辺弥八郎が領主

渡辺弥八郎は所領役帳で小田原衆として記載され、知行地として仁科郷の100貫文が記載されている(但し「今者公方領」との注記があり、永禄2年時点では後北条直轄領だった模様)。山本家次領が北方を占めていたことから、弥八郎が領した「仁科」は中心部の限定的な領域だったと思われる。

その弥八郎と同族だと思われる渡辺孫八郎に対して、後北条氏は虎朱印状を発給している。仁科郷からの陣夫1名を北条氏秀(孫二郎)支給に変更するため、代替として富岡・大岡から後藤彦三郎が使っていた陣夫1名を孫八郎に派遣するとした。氏秀は綱成の弟なので、ここでも玉縄家と仁科の繋がりが窺われる。

  • 小田原市史資料編小田原北条0561「北条家虎朱印状」(渡辺文書)1563(永禄6)年

    前ゝ仁科郷より召仕候陣夫壱疋、自当年孫二郎前引ニ被遣候、此替久良岐郡富岡・大岡郷より、前ゝ後藤彦三郎召仕候陣夫壱疋、現夫を以、為仁科之夫替被下由、被仰出候、仍如件、
    癸亥四月廿六日/日付に(虎朱印)南条四郎左衛門奉之/渡辺孫八郎殿

番銭の滞納事件

永禄8年、仁科郷が納税を怠っていた事件が勃発し、そのことで周辺にいた人々の名前が明らかになる。

  • 小田原市史資料編小田原北条0628「北条家虎朱印状」(三島明神文書)1565(永禄8)年

    子歳番銭未進事。拾三貫六百四十文、仁科
    右、先年以配苻、無未進年ゝ可致皆済段、堅被仰付処、于今無沙汰仕儀、一段曲事被思食候、当月切而可済申、若当月を至于踏越者、以牛馬可引取、百姓共をハ五人も三人も可搦取、并名主草丈をも押立、小田原へ為引可申、此儀聊も無沙汰至于申付者、奉行人可遂成敗、為其改而一人被指加者也
    一、酉戌亥子四年間、此番銭済候様体、此度委可申披事
    一、代物之ほとらい、御本被遣事
    以上、
    乙丑七月八日/日付に(虎朱印)/仁科船持中・奉行中村宗兵衛・同村田新左衛門尉・田蔵地代源波・浮奉行中村又右衛門・山口左馬助

永禄7年の番銭13.64貫文を仁科郷が滞納した件が問題になったのが判る。7月4日の布告で「もし月を跨いで滞納するなら牛馬を差し押さえ百姓を何人でも捕縛して、名主草丈(方丈?)でも小田原へ連行する」と強硬に命じている。納税者の船持中だけでなく、奉行3名に加えて臨時奉行と思われる2名にも納税を命じていて、怠るなら奉行でも成敗するとしている。この滞納は4年も続いていたようで、過去に遡及しての完済も同時に求めていたから、まあそれは厳しく取り立てるだろう。

  • 小田原市史資料編小田原北条0629「北条家虎朱印状写」(三島明神文書)1565(永禄8)年

    仁科郷子歳番銭未進、曲事候、当月ニ切而皆済可申、若至于踏越当月者、百姓をは搦捕、其上地頭ニ可被懸過失候、為其兼日以御印判被仰出者也、仍如件、
    乙丑七月九日/日付に(虎朱印)/左衛門大夫殿

過激な徴税命令を出した翌日、氏政は一門の綱成に徴発を依頼している。月末を過ぎても納付がなければ、百姓を捕縛し、さらに地頭に過失の責務を負わせるとしている。地頭がいたということは、この段階で仁科は直轄領ではなくなっていた。そして地頭が綱成だったのだろう。地頭が綱成とはいえ番銭は後北条当主へ納める仕組みで、その徴税代官が先行したものの難航して綱成にも連帯責任を警告したものと思われる。

この地頭職を、綱成は娘に譲った可能性が高い。

まとめ

上記より、氏規妻と綱成は、伊豆との関係性が見られることが判った。間を繋ぐ氏規は更に伊豆と関係が深いことから、この3人が密接な関係にあったと見てよいと思われる。寛政譜にある「氏規の妻が綱成の娘」という記述と従来の通説を、更に補強する結果となった。

綱成の生年は1515(永正12)年と伝わるので、1545(天文14)年生まれとされる氏規とは30歳違いであり、年齢的に不自然さはない。綱成長男の氏繁が1536(天文5)年生まれなので、その妹とすると氏規と同年齢か少し年上だった可能性はある。

北条氏勝はなぜ小田原開城後に躍進したのか

これは状況証拠であるのだが、氏規の妻が綱成娘とすれば、玉縄北条家が本家滅亡後に徳川家康に特別に取り立てられた理由が判る。軒並み落魄した一門の中で、氏規と氏勝は別格の扱いを受けている(天正19年閏1月に氏勝は自領の岩富で検地を行なっている)。

元々羽柴・徳川と関係を持ち最後まで軍事的に抵抗しえた氏規が高評価を受けて栄達するのは判り易いのだが、さほどの活躍を見せていない氏勝が、徳川家中で一万石を初動で得る理由が判らなかった。これを、氏規夫妻による嘆願が背景にあったとすれば納得がいく。

氏規夫妻と氏勝の関係が窺える史料がある。北条氏勝・直重が連名で伊豆の長楽寺に宛てて判物を発行しているもので、伊豆に関して二人が言及しているのはこの文書だけ。これは、氏規夫妻が政務を開始した甥っこ兄弟に指南をしていたと考えられる。

  • 戦国遺文後北条氏編2535「北条氏勝・直重連署判物」(下田長楽寺文書)

    大浦薬師免田之事、右如前ゝ聊不可有相違、并近辺林之竹木等、仮初にも横合非分不可有之者也、仍状如件、
    天正十一年癸未五月十二日/左衛門大夫氏勝(花押)・新八郎直重(花押)/長楽寺参御同宿中

そもそも玉縄家は、綱成の後の氏繁が1578(天正6)年に死去してから外交・軍事ともに大きな働きはしなくなっていた。氏規の妻がこのことを気にかけていた可能性は高い(本格的な検討は必要だが、氏繁妻のものと比定されている朱印状3通(天正12~14年)も、氏規妻が実家のために発行したのかもしれない)。

1590(天正18)年の小田原合戦を見ても、氏勝は4月21日に無血降伏して玉縄を明け渡しており、扱いとしては鉢形を開城した氏邦と差異はない。

氏勝の降伏表現

  • 豊臣秀吉文書集3037「羽柴秀吉朱印状」(島津文書・東大史写真)4月23日

    (抜粋)「来月朔日鎌倉為見物可被成御出候、彼近所ニ有之玉縄城此方へ相渡、物主北条左衛門大夫走入、命之儀御侘言申候間、相助家康へ被遣候、即右地へ相移、関東之城々悉請取、此方之人数可被入置候」

  • 神奈川県史資料編3下9773「川島重続書状」(伊達文書)5月2日

    (抜粋)「下野国ノ侍皆川山城守走出申候、人数百計召連候、其外北条左衛門大夫命を被助候様ニと申上、無理ニ罷出候、左衛門大夫ハ玉縄と申城ニ籠申候つる」

  • 神奈川県史資料編3下9810「榊原康政書状案写」(松平義行所蔵文書)要検討。6月

    (抜粋)「随而廿一日相州玉縄城明渡、城主北条左衛門剃髪成染衣形出仕申候、其後伊豆国下田城清水上野楯籠候、是茂剃首助命、城指上申候」

氏邦の降伏表現

  • 豊臣秀吉文書集3276「羽柴秀吉朱印状」(東京国立博物館)6月28日

    (抜粋)「武州鉢形城北条安房守居城候、被押詰、則可有御成敗と被思召候処ニ、命之儀被成御助候様ニと、御侘言申上ニ付、去十四日城被請取候、安房守剃髪山林候」

  • 神奈川県史資料編3下9810「榊原康政書状案写」(松平義行所蔵文書)要検討。6月

    (抜粋)「其後同国鉢形に氏政舎弟安房守楯籠候処、北国人数并浅弾人数可押寄支度候処、急懇望申、助身命候、前代未聞之比興者之由、敵味方申候」

上記を合わせて考えると、氏規妻が甥の氏勝を引き立てたという理由が成り立たないにしても、氏勝の不自然な躍進は何らかの考察を加えるべきだろう。

2022/08/20(土)北条家過去帳の「高源院」は誰か

戒名比定の根拠

北条氏規妻の戒名が通説で「高源院玉誉妙顔大禅定尼」と比定されているのは、北条家過去帳の記載が根拠(下記リスト「平塚_北条家過去帳」タブ内、項番41)。

後北条氏関連人物過去帳

日牌 高源院玉誉妙顔大禅定尼  北条久太郎殿為曾祖母 寛永五戊辰六月十四日

ただ、これには疑問がある

  1. 院号の「高源院」は山木大方と同一。後北条家中での重複は他に例がない。
  2. 正確には「久太郎殿曾祖母」の戒名であり、氏規妻と限定できない。
  3. 「院」のあとに「殿」がない「大禅定」は、他に例がなく不自然。

3については恐らく、伝聞に基づいて不確かな戒名を記したか、「高源院玉誉妙顔禅定尼」もしくは「高源院玉誉妙顔大姉」の位階を強引に「大禅定尼」と変えたかではないかと推測している。父方・父方の曾祖母である氏規妻の戒名にしては、どうも他人事のような書き方だといえる。

「久太郎殿」は誰か?

この過去帳で「高源院」は「北条久太郎殿為曾祖母」となっている。北条久太郎殿が曾祖母のために位牌を立てたということだが、北条久太郎は二人存在する。

  • 氏勝の養子で玉縄北条家当主だった久太郎氏重(1595~1658年)
  • 氏規の孫で狭山北条家当主だった久太郎氏宗(1619~1685年)

過去帳に見られる「久太郎」記載の分布は1628(寛永5)年~1672(寛文12)年となっており、「高源院」記載が1628(寛永5)年6月14日でその最初に位置する。

氏重は1658年に亡くなっているから、久太郎は氏宗と見てよいだろう。

※北条家過去帳では「高源院」記述の後に「北条民部少輔氏重」(項番42)とあってなかなかにややこしいが、官途と命日(寛永十三年七月八日御命日)から見てこの氏重は氏盛の弟の方だろう。

北条氏宗の曾祖母は誰か?

簡単な図にしてみた。

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氏宗曾祖母のうち、素性が判るのは北条氏規の妻・船越景直の妻・佐久間盛次の妻。それぞれの可能性を検討してみる。

A)氏規の妻

 彼女が「高源院」であった場合、綱成の娘か氏規の妻、もしくは氏盛の母と書くはず。他の記載もすべて娘・妻・母の関係性で記述されている(「祖父」は1例。「祖母」はない)。北条家過去帳は江戸北条と狭山北条の両家があれこれ手を加えているが、狭山北条だけでなく、玉縄北条の嫡流を自認する江戸北条家にとっても、氏規妻の存在は重要である筈だから、異例の「曾祖母」とだけ書くとは思えない。また「院殿」とすべきところで「殿」とする誤記をするとも思えない。

 また、後北条家中で位が高かった山木大方(氏綱娘)の法名が「高源院」。このことは彼女の生前から文書で関係性があったことが確認できる。この名前をわざわざ綱成の娘につけるだろうかという強い疑問もある。

B)船越景直の妻

 寛政譜によると池田輝政被官の野田三右衛門の娘だという。父の祖母だから関係性として低くはない。ただ、彼女だった場合、Aと同じ理由で、氏盛の妻・氏信の母と書くのが普通だろう。やはり違和感がある。

C)佐久間盛次の妻

 寛政譜によると柴田勝家の姉だという。勝家は1522(大永2)年生まれなので、その姉となると明らかに世代が合わない。柴田家の誰か他の女性が盛次の妻だったとしても、あまりに情報が少なく判断が難しい。「氏信祖母」でもあるからそちらの記載が適切かとも見られる一方で、母方の系譜なので発起人である氏宗からみた係累を記述した可能性はある。

D)その他の女性

 さらに情報がないのは佐久間安政の妻で、勧修寺晴豊の娘(土御門氏)という情報がネット上にあったものの、根拠に乏しい。安政は一時期小田原にいたと寛政譜にあるため、小田原ゆかりの女性である可能性もある。何れにせよ判断するだけの材料がない。

 氏宗にしか関わりがないために父母・祖父母を飛ばして「曾祖母」にしたとすると、氏宗妻の曾祖母(氏宗から見て義理の曾祖母)であった可能性の方も捨てがたい。ところが、図にあるように妻の曾祖母を弔った可能性もあるかと調べてみたところ、氏宗の岳父である大久保幸信の妻がいきなり不明で、大久保と石川しか追えなかった。このどちらも、大久保忠世の妻とか、石川家成の妻とか書いた方が江戸期は箔がつくだろうから、言葉少なく「曾祖母」とだけ書いたのは不自然である。

 以上を勘案すると、父系のAとBは候補から外れ、Cの可能性がわずかにありつつ、全く不明な人物の方が有意に蓋然性が高いといえる。つまり、氏規の妻が高源院である可能性は候補者の中で最も低いことになる。