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『戦国大名の兵粮事情』(久保健一郎)で、食料(モノ)としての扱いのほか、金銭(カネ)としても用いられ始め、近世石高制に繋がる動きをするという指摘があった。
これを個人的調べているところで、ちょっとまとめ。
1554(天文23)年比定の戦北459を使って、峯上尾崎曲輪下小屋衆の兵粮支給を見てみる。
22人・2か月で、20俵12升
後北条氏の俵容量は「公方升三斗六升俵勘定」で1俵=36升
20俵12升=732升 1人・1か月=16.6升 → 1人・1日=0.54升
当時の1升の量は不明だが、仮に京升を単純に考えて日本史辞典の記述を援用してみる。安藤升=京升の1.2倍京升=1.8リットル 1.8x1.2x0.54=1.16リットル現代に置き換えると、1日で約6.5合
当時の人が1食で米を何合食べたかは判らないけど、多いだろう。余剰米と他の食材を交換したのかも知れない。とすると、
峯上尾崎曲輪下小屋衆廿二人之内、二ヶ月分兵粮廿俵十二升、此内拾俵六升、只今出之候、残而十俵六升、来三月中旬ニ可出之候、当意致堪忍、可走廻候、猶致忠節ニ付而者、始末共ニ給恩重而可相定者也、仍如件、
二月廿七日/(虎朱印)/尾崎曲輪根小屋廿二人衆・吉原玄蕃助
戦国遺文後北条氏編0459「北条家朱印状」(鳥海文書)