2017/09/05(火)言継卿記に見る今川家と蹴鞠

今川義元と氏真は蹴鞠をしたのか

蹴鞠に関して同時代史料が残る後北条・織田に挟まれながら、今川では義元・氏真の代では蹴鞠の所在を示す史料が見当たらないとTweetしたところ、言継卿記の弘治3年3月の条に、今川家での「鞠」の記述があるとTwitterでフォロワーさんにご教示いただき、改めて読んでみた。

  • 国会図書館デジタルコレクション

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1919209

141コマ目

概要

3月29日に、前年から駿河に滞在していた山科言継はいよいよ帰洛することになり、駿府貴顕に暇乞いをしている。

この時に今川義元は蒲原右衛門尉を使者として「鞠一足」を贈っている。これは太刀千疋とは別に書かれているので、言継の蹴鞠好きを知って特別に贈ったような感じがする。息子の氏真は各和某を使者にして太刀を贈っているが、数量を言継は書いていない。ごく簡素なものだったのかも知れない。

翌日、斎藤弾正忠が言継のところへ挨拶に来たので華撥円という薬を渡している。この時、斎藤を介して蒲原右衛門尉にも薬を渡した。それを受けたのか、蒲原は使者を立てて鞠を渡している。

次自蒲原右衛門方使有之、五郎殿に申鞠一足送之

次いで、蒲原右衛門方より使いこれあり、五郎殿に申して鞠一足これを送る

この文章がややこしいのだけど「五郎殿に申」が、蒲原使者からの口上だとすると自然に読める。前日に蒲原は義元使者として言継に鞠を届けており、自らが礼を返す際に「鞠なら言継は喜ぶ」と判っていた。ところが自分では持っていなかったので、氏真に鞠を貰って、それを贈ってきた。

氏真に蒲原が「鞠を贈ってはどうか」と打診して、鞠は氏真が贈ったという解釈もできそうだが、義元・氏真・寿桂から貰った場合に言継は「被送之」と書いているのに対し、この文では「被」が入っていない。なので、蒲原からの贈り物であると判る。

原文

  • 3月29日(抜粋)

    次太守、五郎殿、朝比奈備中守、大方等へ暇乞に罷向、申置了、牟礼長門守、甘利等同道了、次蒲原右衛門尉、自太守為使鞠一足被送之、勧一盞了、次太守礼来儀、太刀千疋被送之、五郎殿各和為使太刀被送之、

  • 3月30日(抜粋)

    林際寺之禎主座聚分韻二部被送之、次斎藤弾正忠暇乞に来、華撥円三貝遣之、蒲原右衛門に三貝言伝了、次自蒲原右衛門方使有之、五郎殿に申鞠一足送之、次自御屋敷大方、浜納豆一筥賜之、次矢部縫殿丞木綿二端送之、次神尾対馬入道暇乞に来、沖津鯛一折、鳥目三十疋送之、中御門へ華撥円三貝言伝了、次牟礼備州、甘利佐渡守等送に来、勧一盞了、次朝比奈左京亮来、太刀二百疋、父備中所労云々、太刀千疋送之、勧一盞了、

とりあえずの考察

以上から考えると、今川義元と氏真は鞠を所持していたことは確実となる。また、餞別として義元が言継に鞠を贈った点から見て、駿府滞在中に蹴鞠の話が出てきて、言継の愛好ぶりを義元が知ったという点は確実だと思われる(言継が蹴鞠を楽しんでいたことは日記の他の部分から窺える)。

また、蒲原が氏真に鞠をねだって言継に渡したことは、義元・氏真は鞠を持ち知識を持っていたとしても、今川家中での蹴鞠はそれほど認知されなかった可能性を示す。

実際、弘治2年9月24日に駿府に到着し翌年3月1日に出立するまでの間に蹴鞠が興行された記載はない。

今川氏親や氏延の代には免許を貰っている実績はあるものの、時代が下り義元や氏真の代になると熱気は収束していったのかも知れない。

2017/09/05(火)松平元康の定書

  • 戦国遺文今川氏編1455「松平元康定書」(桑原羊次郎氏所蔵文書)


条々
一、諸公事裁許之日限、兎角申不罷出輩、不及理非可為越度、但或歓楽、或障之子細、於歴然者、各へ可相断事
一、元康在符之間、於岡崎、各批判落着之上罷下、重而雖令訴訟、一切不可許容事
一、各同心之者陣番並元康へ奉公等於無沙汰仕者、各へ相談、給恩可改易事、付、互之与力、別人ニ令契約者、可為曲事、但寄親非分之儀於申懸者、一篇各へ相届、其上無分別者、元康かたへ可申事
一、万事各令分別事、元康縦雖相紛、達而一烈而可申、其上不承引者、関刑・朝丹へ其理可申事、付、陣番之時、名代於出事、可停止、至只今奉公上表之旨、雖令訴訟、不可許容事
一、各へ不相尋判形出事、付、諸篇各ニ不為談合而、一人元康へ、雖為一言、不可申聞事
一、公事相手計罷出可申、雖為親子、一人之外令助言者、可為越度事
一、喧嘩口論雖有之、、不可贔屓、於背此旨者、可成敗事
付、右七ヶ条於有訴人者、遂糾明、忠節歴然之輩申旨令分別、随軽重、可加褒美者也、仍如件、
永禄二未己年五月十六日/松次元康(花押)/宛所欠

  • 解釈

一、諸々の訴訟で決められた日限について、とやかく言って出頭しない者は理由を問わず敗訴とする。但し、歓楽であっても不可避の事情であっても、前もって判っている者は、それぞれ断りを入れておくこと。
一、元康が駿府にいる間は、岡崎で各自が検討・決議してから(駿府に)下ること。再度訴訟しようとしても、一切許容しない。
一、それぞれ同心の者で、陣番と元康への奉公などを無沙汰する者があれば、各自で相談し、所領を改易すること。付則、お互いの与力が別の主人と契約することは不法とする。但し、寄親に問題があると申し出る者があれば、一度各自へ届けさせ、それでも判断がつかなければ元康へ申し出ること。
一、万事はそれぞれが判断すべきことで、元康がたとえとり紛れたとしても、断固として『一烈』(諫言?)すべきである。その上で不承知であるなら、関口刑部・朝比奈丹波守にその旨伝えること。付則、陣番の時に代理を出すことは禁止する。現在に至るまでの功績を持って訴訟したとしても、許容しないこと。
一、各自へ確認せずに判形を出すこと。付則、何事でも、協議を経ずに一人で元康に申告したとしても、聞き届けないだろうこと。
一、訴訟の当事者だけが出頭して証言すること。親子であっても、当事者以外が助言するのであれば敗訴とする。
一、喧嘩・口論があったとしても、贔屓はしないこと。この旨に背くものは成敗するだろうこと。
付則として。右の7箇条で訴人があるなら精査し、忠節が歴然の者が言っていることを判断せよ。そうすれば、軽重に従って褒美を加えるであろう。

「一烈而可申」が他例を見つけられず解釈が難しい。「一烈して申すべく」と読んで、強く言い立てること→諫言することと仮定してみた。

2017/09/04(月)高天神降伏拒否の意図

城兵が困窮していた高天神城に対して、織田信長が心中を語った朱印状がある。通説や解説文によっては「武田勝頼が後詰に来られないことを知っていて、その評判を落とすために開城を認めなかった」という書かれ方をしていることもあるが、これを読む限り、信長は勝頼の後詰を引き出すことを前提にしている。

  • 増訂織田信長文書の研究913「織田信長朱印状」(水野文書)

    切々注進状、被入情之段、別而祝着候、其付城中一段迷惑之躰、以矢文懇望之間、近々候歟、然者、命を於助者、最前ニ滝坂を相副、只今ハ小山をそへ、高天神共三ヶ所可渡之由、以是慥意心中令推量候、抑三城を請取、遠州内無残所申付、外聞実儀可然候歟、但見及聞候躰ニ、以来小山を始取懸候共、武田四郎分際にてハ、重而も後巻成間敷候哉、以其両城をも可渡と申所毛頭無疑候、其節ハ家康気遣、諸卒可辛労処、歎敷候共、信長一両年ニ駿・甲へ可出勢候条、切所を越、長々敷弓矢を可取事、外聞口惜候、所詮、号後巻、敵彼境目へ打出候ハゝ、手間不入実否を可付候、然時者、両国を手間不入申付候、自然後巻を不構、高天神同前ニ小山・滝坂見捨候へハ、以其響駿州之端々小城拘候事不実候、以来気遣候共、只今苦労候共、両条のつもりハ分別難弁候間、此通家康ニ物語、家中之宿老共にも申聞談合尤候、これハ信長思寄心底を不残申送者也、
    正月廿五日/信長(朱印)/水野宗兵衛とのへ

  • 解釈

    何度も報告をいただき、精を入れていることは祝着です。その包囲で城中が一段と困っている状態なのは、矢文で懇望してきたのですから、近々でしょうか。ですから、助命を願い、以前には滝坂城を添え、今では小山城を添えて、高天神と共に3箇所を渡したいとのこと。これをもって造意・心中を推量しました。そもそも3つの城を受け取れば遠江国は全て領有でき、外聞実儀はよくなるでしょうか。但し、見聞したところでは、あれ以来は小山を初めとして攻撃したところで、武田四郎の分際では再び後巻はできないのではないでしょうか。その両城も添えて渡したいとの言い分は毛頭疑いのないところです。その節は、家康が気遣いをし、諸卒の辛労するというのは遺憾ですが、信長は一両年に駿河・甲斐に出撃するのですから、難所を越えて長途戦うようなことは、外聞からして口惜しいのです。結局は、後巻と称して敵が境目に撃って出てくれれば、手間いらずで片を付けられるでしょう。そうなった時に、両国は手間いらずで領有できます。万が一にも後巻をせず、高天神と同様に小山・滝坂を見捨てるならば、その聞こえで駿河の端々の小城に至るまで保持することはできません。ずっと気遣いしていただいていて、今も苦労をかけていますけれども、両条の考え方は判断が難しいので、この通りに家康に説明して、家中の宿老たちにも聞かせ、話し合うのがよいでしょう。これは信長が思い寄せる心底を残さず申し送ったものです。

包囲している現場の徳川家中では「もう降伏させてよいのではないか」という声が出始めていたのだろう。これに対して信長は遠征したくなかったから、後詰が来るまで降伏させたくなかった。勝頼が出てくれば「手間不入」だと2度も言及している。その一方で、信長はこの朱印状で現場に相当気を遣っていて、辛労・苦労・気遣は丁寧にねぎらっている。この2点が相まって、とにかく後詰まで待てということをあれこれ説明している文面になっているのではないか。

後詰に来たら手間いらずと書いた後に「自然後巻を不構、高天神同前ニ小山・滝坂見捨候へハ=万が一、後詰に来ずに高天神などを見捨てたならば」という事態を想定しているが、これは更に出てくるであろう現場の不満「勝頼を引き出すために長陣を続けさせたとして、結局来なかったらどうするんだ」に対応しようとしているように見える。後詰がなかったら武田が駿河を維持はできないとは書いているが、後詰想定ほどにはあれこれ説明していない。

実際、勝頼が後詰に来ないまま高天神が落城した後の10月13日、信長は三河と信濃の境目に「御取出」構築を指示している。結局、「切所を越、長々敷弓矢を可取事」になってしまった。

  • 増訂織田信長文書の研究957「滝川一益書状写」(武家事紀三十五続集古案)

    至信州堺目、御取出可被仰付旨候、就其様子可申渡之間、其元御越弥被示合、御越奉待候、委曲牧伝ニ可申入候、恐々謹言、
    十月十三日/一益在判/奥喜殿御宿所

この文書も、信長の被官が家康の被官に直接指示している辺りが面白い。