2017/07/17(月)寿桂尼は当主の補佐に徹したのか

今川氏親室の「寿桂」は、通説では歴代当主の補佐をしたとなっているが、息子の氏輝については本当にそういう関係だったのか疑問に思っている。

氏親死後は、2年ほど寿桂のみが文書を発給、大永8年になると氏輝が文書発給を開始する。このままで終われば、寿桂は「繋ぎ」としての役割だと言い切れる。ところがこの年の10月以降、寿桂のみの発給体制に戻ってしまう。これは享禄2~4年と続き、その間の氏輝文書は姿を消す。

ただ1点だけ、奇妙な文書がある。享禄3年の1月29日に本門寺に宛てたごく普通の保護制札だが、これだけが何故か氏輝の名前が書かれている。そして「氏輝」とまで書かれていながらその下に花押はなく、袖の部分に寿桂の朱印が押されている。氏輝が病弱だという通説に従うならば、1月に体調が回復した氏輝を当て込んで書面を作成、その後病状が悪化し花押が据えられなくなって、最終的に寿桂が代行したとなる。

しかし、それならば何故最初から寿桂の文面で作らなかったのかという疑問がある。その前年から完全に寿桂発給体制に切り替わっているし、そんなに急ぎの内容でもない。

氏輝が母に排斥されていたとすると……

ここで、寿桂と氏輝が競合関係にあったと仮定してみる。

氏親死後に発給を独占した寿桂を押しのける形で、本来の当主である氏輝が大永8年に一斉発給を開始するのだが、すぐに寿桂が盛り返して再び発給を独占する。

享禄3年の奇妙な文書は、この期間に間違って作られた書面だったか、氏輝派が画策して作られたのかどちらかだと思う。何れにせよその文面を見た寿桂は、花押がないまま、袖に自分の朱印を押した。破棄しなかったのは、どのような書面で稟議されようとも決裁は必ず自分が行なうという意思表示だった。このように考えるとこの奇妙さは解消される。

※袖判が発給者より上位だとすると、氏輝名義だが寿桂が袖判するという条件を提示したが氏輝が拒否したという仮説も成り立つ。ただ、その場合でも文面を改めて発給する可能性があり、余り可能性が高いように思えない。

その後は享禄5年になると氏輝に一気に切り替わる。これは氏輝が急死するまで続くのだが、天文3年だけは少し例外がある。朝比奈泰能が3月12日に、遠江国大山寺に安堵状を出しているのだが、これは最初に氏親が発給した内容の追認で、その前に寿桂、氏輝の順でも出されている。大山寺のこの反応を見ると、今川家の安堵状では信用ができず、掛川の泰能からも一筆出すよう求めたのが妥当なように見える。また、5月25日に寿桂が漢文の朱印状を出しているが、この宛所・内容は富士金山に関わるもので、氏輝はここに食い込めなかったのだと推測できる。

義元の代になると寿桂は暫く発給を止めるが、天文16年に1通だけ安堵状が出される。この後1年空けて、天文18年に再び発給を開始するが、この時は朱印状の袖に義元が花押を据えている。氏輝との競合があったとするならばだが、義元としては寿桂の独自発給を止めるためにこの措置を行なったとも考えられる。

この後は義元袖花押を伴わなくなるので、一旦上下関係を確認した後は放置したのだろうか。この点は更なる推論が必要になるかも知れない。

寿桂が氏輝と競合してまで発給を続けた理由

この動機としては、寿桂が京の出身で文書の扱いに対して素養があったこと、個人の資質として政治をしたがったことが大きいと考えている。但し、だからといって寿桂が大きく政治方針を転換した訳ではない。私が想定しているのは、京から駿府に下った公家衆の利権確保を目的として家中での発言権拡大を目指したのではないか、というもの。歴代今川当主の中でも群を抜いて京贔屓だった氏親の死は、公家衆にとって大きな衝撃だったに違いなく、その収拾役として寿桂が立ったと。

恐らくこの視点から徹底的に史料を当たっていないと思うので、よりフラットなアプローチで再検討してみてもよいかと思う。

氏輝・寿桂 文書推移

 番号は戦国遺文今川氏編 △=寿桂、●=氏輝、◎=両者


1526(大永6)年

 06月23日 氏親死去

△09月26日 寿桂朱印状 大山寺安堵状 419

△12月26日 寿桂朱印状 昌桂寺寄進状 425

△12月28日 寿桂朱印状 朝比奈泰能宛 427

<惣持院所領4貫400文を城地として渡す>


大永7年

△04月07日 寿桂朱印状 心月庵棟別免除 429

<「しひのおの末庵たるうへ、めんきよせしむる所如件」>


大永8年・享禄元年(8月20日改元)

●03月28日 氏輝判物 神主秋鹿左京亮宛安堵状 443

●03月28日 氏輝判物 神主秋鹿宛人足免除 445

●03月28日 氏輝判物 八幡神主宛安堵状 444

●03月28日 氏輝判物 松井八郎宛御厨領家相続安堵 446

●03月28日 氏輝判物 松井八郎宛遠州当知行安堵 447

●03月28日 氏輝判物 匂坂六郎五郎宛遠州当知行安堵 448

●08月07日 氏輝判物写 雅村太郎左衛門尉宛証文再発行 450

●08月13日 氏輝判物 大山寺安堵状 452

●08月13日 氏輝判物写 頭陀寺宛安堵状 453

●09月07日 氏輝判物 久能寺宛安堵状 456

●09月15日 氏輝判物 新長谷寺宛相続安堵状 457

●09月17日 氏輝判物 神主中山将監宛免税 458

△10月18日 寿桂朱印状 大井新衛門尉宛皮役指示 459

<氏親判物(399)を受けてのものだが、この399は印文が「氏親」で違和感がある。この頃は「紹僖」印で、花押の位置に押していた。従ってこの文書も要検討だと考えられる>


享禄2年

△03月19日 寿桂朱印状 大石寺宛免税 461

△12月07日 寿桂朱印状 五とうせんゑもん宛安堵状 465

△12月11日 寿桂朱印状 めうかく寺宛免税 466


享禄3年

◎01月29日 氏輝判物(寿桂朱印状) 本門寺宛保護制札 467

<氏輝の名前の下に花押がなく、袖に「帰」朱印>

△03月18日 寿桂朱印状 新長谷寺宛相続安堵 471

△06月27日 寿桂朱印状 玖延寺宛安堵状 473

△06月30日 寿桂朱印状 極楽寺安堵状 474


享禄4年

△03月23日 寿桂朱印状 酒井惣さゑもん宛植林指示 475

△閏05月01日 寿桂朱印状 華厳院宛保護制札 476(漢文)


享禄5年・天文元年(8月29日改元)

●4月21日 氏輝判物 三浦鶴千代宛安堵状 481

●4月21日 氏輝判物 三浦鶴千代宛安堵状 482

●5月3日 氏輝判物 大石寺宛免税 483

●8月21日 氏輝判物 江尻商人宿 485

●9月3日 氏輝判物 昌桂寺宛保護制札 487

●9月19日 氏輝判物 長善寺宛保護制札 489

●10月4日 氏輝判物 神龍院宛相続安堵 490

●11月27日 氏輝判物 富士宮若宛安堵状 493


天文2年

●2月5日 氏輝判物 法多山宛安堵状 496

●5月14日 氏輝判物 玖延寺宛安堵状 499

●10月19日 氏輝判物 興法寺宛安堵状 504

●12月4日 氏輝判物 大沢宛小船役の提供 505

●12月10日 氏輝判物 満願寺宛安堵状 506

●12月26日 氏輝判物 建穂寺宛安堵状 507


天文3年

●01月17日 氏輝判物 中山宛切符給付 508

●02月21日 氏輝判物 能登権守神領差し戻し 509

●02月27日 氏輝判物 大石寺宛寄進状 510

 03月12日 泰能判物 大山寺宛安堵状 512

△05月25日 寿桂朱印状 大田神五郎宛 515(漢文)

<富士金山への荷物搬送>

●06月05日 氏輝判物 加賀爪宛安堵状 516

●07月03日 氏輝判物 某宛大岡庄商人問屋の権限保障 519

●07月13日 氏輝判物 興津宛安堵状 520

●08月14日 氏輝判物 真珠院宛保護制札 521

●11月07日 氏輝判物 井出宛知行裁許 522

●12月16日 氏輝判物 原川宛安堵状 528


天文4年

●05月16日 氏輝判物 領家宛寄進状 529

●05月30日 氏輝判物 大山寺宛相続安堵状 530

●06月04日 氏輝判物 辻坊宛裁許 531

●07月17日 氏輝判物 某宛免税 532

●08月20日 氏輝判物 孕石宛感状 533

●09月05日 氏輝判物 太田宛感状 534

●10月18日 氏輝判物 匂坂宛中尾生在城指示 536


天文16年

△04月02日 寿桂朱印状 徳願寺宛安堵状 826


天文18年

△10月04日 寿桂朱印状 真珠院宛寄進状 911(半漢文)

<義元が袖花押>

△11月23日 寿桂朱印状 徳願寺宛寄進状 917

<義元が袖花押>

△11月23日 寿桂朱印状 徳願寺宛知行指示 918

<義元が袖花押>


天文19年

△11月17日 寿桂朱印状 円龍寺宛寄進状 981(半漢文)


天文20年

△05月23日 寿桂朱印状 めうかく寺宛寄進状 1011


永禄2年

△06月18日 寿桂朱印状 妙海寺宛免税 1465

△12月23日 寿桂朱印状 岡埜野宛百姓職裁許 1488


永禄6年

△03月28日 寿桂朱印状 妙海寺宛安堵状 1905(半漢文)

△09月11日 寿桂朱印状 峯叟院宛寄進状 1934


永禄7年

△12月18日 寿桂朱印状 徳願寺宛安堵状 2022

△12月吉日 寿桂朱印状 高松社宛寄進状 2023(半漢文)

原文

駿河国富士北山之内本門寺之事
一、棟別并諸役、為不入之地御免許之事
一、本門寺々号証文御領掌之事
一、於彼地、従地頭陣僧・棟別諸役等不有之之事
右条々、如先御判之旨、為不入之地定置者也、仍而状如件、
享禄三庚寅年正月廿九日/氏輝(名の下に花押なく、袖朱印「帰」)/本門寺
戦国遺文今川氏編0467「今川氏輝判物」(富士宮市北山・北山本門寺文書)

駿河国しやうふかやのうちしものやつ庵地、さかゐそうさゑもんはいとくせしめ、あんをたつると云々、林としてうへ木をなすへきよしある間、後年にかのはやしきんへんかこのようなと申、其外見きり竹木めんしをハんぬ、此むねを得、竹ほくを可植者也、仍如件、
享禄四年辛卯年三月廿三日/(朱印「帰」)/酒井惣さゑもん殿
戦国遺文今川氏編0475「寿桂尼朱印状」(酒井文書)

江尻商人宿之事
右、毎月三度市、同上下之商人宿事、并屋敷弐間、可為如前々者也、仍如件、
享禄五八月廿一日/袖に(今川氏輝花押)/宛所欠
戦国遺文今川氏編0485「今川氏輝判物」(静岡市葵区研屋町・寺尾文書)

遠江国敷知郡之内当知行内海小船役之事、無之筋目承之間、就村櫛在城之畢、然者、上置船雖有何地、無相違可被請取之状、仍而如件、
天文二十二月四日/氏輝(花押)/大沢殿
戦国遺文今川氏編0505「今川氏輝判物」(大沢文書)

富士金山江上荷物五駄、毎月六度、甲州境目雖相留、金山之者共為堪忍分不可有相違、若甲州へ於通越有之者、堅所被加成敗、仍如件、
天文三甲午五月廿五日/(袖に朱印「帰」)/大田神五郎殿
戦国遺文今川氏編0515「寿桂尼朱印状写」(国立公文書館所蔵判物証文写附二)

遠江国村櫛之内大山寺領田地参町四段并山林等之事
右、為国不入無相違令領掌畢者、為新祈願所、武運長久・国家安全之祈念、修造勤行等、不可有退転之状如件、
永正十六己卯年正月十一日/修理大夫(花押)/大山寺理養坊
戦国遺文今川氏編0323「今川氏親判物」(大山寺文書)

とをたうミの国むらくしのうち大山寺りやう田地参町四段ならひにやまはやし等之事。右、国ふにうとして、さうゐなくりやうしやうせしめをハんぬ、新きくハん所として、武運ちやうきう・国家あんせんのきねん、しゆさう勤行等、たいてんあるへからす、そうせん寺殿の御判にまかせて、つきめさういあるへからさるもの也、仍如件、
大永六ひのへいぬ年九月廿六日/袖に朱印「帰」/大山寺理養坊
戦国遺文今川氏編0419「寿桂尼朱印状」(大山寺文書)

遠江国村櫛之内大山寺領田地参町四段并山林等之事
右、為国不入、無相違令領掌畢者、為新祈願所、武運長久・国家安全之祈念、修造勤行等、不可有退転之旨、任永正十六年正月十一日喬山判形、不可有相違之状如件、
大永六戊子年八月十三日/氏輝(花押)/大山寺理養坊
戦国遺文今川氏編0452「今川氏輝判物」(大山寺文書)

遠江国村櫛之内大山寺領田地参町四段并山林等之事
右、為国不入、無相違令領掌畢者、為新祈願所、武運長久・国家安全祈念、修造勤行等、不可有退転、任先御判・当御判之旨、不可有相違者也、仍如件、
天文三年甲午三月十二日/泰能(花押)/大山寺理養坊
戦国遺文今川氏編0512「朝比奈泰能判物」(大山寺文書)

遠江国村櫛之内大山寺領田地参町四段并中六坊、其外山林野原等之事。右、当院主一世之後者、弟子秀尊仁被譲与之旨、令領掌訖、為新祈願所、武運長久・国家安全祈念、并修造勤行等、不可有退転者也、任先判之旨為国不入、諸役等免許不可有相違之状如件、
天文四乙未年五月卅日/氏輝(花押)/大山寺当院主秀源坊
戦国遺文今川氏編0530「今川氏輝判物」(大山寺文書)

遠江国村櫛之内大山寺領田地。参町四段并中六坊、其外山林野原等之事。右、任臨済寺殿判形旨、当院主一世之後者、弟子秀尊仁被譲与之旨、令領掌畢、修造勤行等、不可有退転者也、任先判旨為国不入、諸役等免許不可有相違之状、仍如件、
十二月十三日/義元(花押)/大山寺秀源法印
戦国遺文今川氏編0581「今川義元判物」(大山寺文書)

遠江国村柿内大山寺領田地之事。参町四段并中六坊、其外山林等之事。右、任先判并先師勝尊法印譲与之旨、永領掌不可有相違、同門沙弥百姓、棟別年来納所無之旨、所任其儀也、然者弥修造勤行不可有怠慢、任先例為国不入、諸役以下免除不可有相違者也、仍如件、
永禄参庚申年二月七日/氏真(花押)/大山寺尊融
戦国遺文今川氏編1495「今川氏真判物」(大山寺文書)

今度甲州衆、就在所鳥波放火、於富士別而就新屋敷取立者、棟別拾弐間分、并天役・諸役等令免除之、弥可抽奉公者也、仍如件、
天文四乙未年七月十七日/氏輝(花押)/宛所欠
戦国遺文今川氏編0532「今川氏輝判物」(六所文書)

去十九日之於万沢口一戦之上、別而成下知走廻之由、甚以神妙也、殊所被抽粉骨、仍如件、
八月廿日/氏輝書判/孕石郷左衛門殿
戦国遺文今川氏編0533「今川氏輝感状写」(土佐国蠧簡集残編七)

2017/07/11(火)「三州手始令落之候」とは何か

今川義元が終わりに向かった理由

今川義元が1560(永禄3)年5月19日に尾張と三河の国境で不慮の戦死を遂げている。

このことについて、三河を始めとして尾張など複数の国を攻略しようとした挙句の失敗だとする通説がある。その典拠として、関口氏純の有名な書状が挙げられるが、書状の言い回しには韜晦しているような疑いがある。解釈は慎重に行なうべきだと思うので、ちょっと解析してみた。

珍札披見本望候、仍去年有太神宮御萱米料之儀被仰越間、雖斟酌申候、春木方達而被致候故、及披露、返事之旨申入候、遠州之義者、去年被申分候条、不及是非候、参州之事者領掌候、但三州手始令落之候、相残候国々之儀、同前ニ可被仰越候、将亦近日義元向尾州境目進発候、芳時分可被聞召合事専要候、就中私江御祓并砂糖二桶送給、目出存候、随而菱食令進入候、寔御音信迄候、猶重可申述候、恐々謹言、
三月廿日/氏純(花押)/作所三神主殿御返報
戦国遺文今川氏編1504「関口氏純書状」(京都大学所蔵古文書集八)

「遠州之義者、去年被申分候条、不及是非候、参州之事者領掌候、但三州手始令落之候、相残候国々之儀、同前ニ可被仰越候」という部分。三河からの徴収を受諾しつつ、但し書きをつけている。ここの「落」は通説では「攻め落とす」という解釈になっているが、国単位での攻略であれば「平均」「本意」を用いる筈で微かに疑問を覚える。更に、その後に書かれた義元出兵との接続部分が「将亦」と、前の文を受けていない辺りに、こちらはより明確な違和感を覚える。この解釈ならば、「然者」「因茲」などが入ると思う。

では「三州手始令落之候」は何を指すのだろうか。

「落」という字は意外と意味するところが広く、落城・落居・自落・没落といった「陥落」の意味と、落着・落置といった「決定」を表わすもの、欠落・力落といった「喪失」に繋がる語義がある。但し、「落」単体で用いる例は少なく、私が見た中では、懸案の文書の他には3例しかない。

大和田江相動、惣兵衛構相落、当地悉令放火、敵一両人討捕、注進状令披見候、快然候、手負少々雖有之、不苦之由尤候、近日出馬候之条、期其時候、恐々謹言、
十二月廿日/氏真判/奥平監物殿
戦国遺文今川氏編2661「今川氏真感状写」(松平奥平家古文書写)

これは単体の「落」に「相」がつき、拠点を陥落させることを意味している。これならば通説解釈と合うけど、「将亦」への違和感は解消しない。

他の2例は、喪失に近い、抜け落ちることを指している。

1つは、後北条の着到定で記載漏れがあったときのもの。「馬鎧落候」=「馬鎧のことを書き落とした」という内容。

以前之書出ニ馬鎧落候、為其重而遣之候。馬鎧金紋をハ如何様ニ可出も随意ニ候。已上、
辛巳七月十七日/(朱印「印文未詳」)/道祖土図書助殿
戦国遺文後北条氏編2257「太田源五郎ヵ朱印状」(道祖土文書)

もう1つは今川義元判物で、支配権の散逸を禁じたもの。

年来同名三郎左衛門尉、同織部丞・同新左衛門尉令同意逆心之儀、先年奥平八郎兵衛尉為訴人申出之上、今度林左京進令相談、為帰忠以証文言上、甚以忠節之至也、因茲同名隅松一跡之儀、所々令改易也、然者前々知行分際田菅沼之内市場名、并善部平居内井道同代木、養父半分、武節友安名之内中藤、同田地八段、杉山之内田四段、畠、宇利之内田地五段・屋敷一所、如前々収務永領掌了、勅養寺・松山観音堂同寺領・霊峰庵如前々可支配、但三ヶ所、人給ニ不可落也、平居内田地五貫六百文地、庭野郷内米五石并於庭野郷三人扶持、如年来永領掌ゝ并、新七給分也、為今度忠賞、本知田内拾六貫五百文、近来増分弐貫文、鵜河九貫五百文、近年増分三貫文、此内代官免壱貫三百文、糸綿分壱貫七百文、以上三拾壱貫文為本知行上還附之、布理并一色拾八貫文、龍泉寺之持副三貫文、但此弐貫文者可進納、以上五拾貫文分永所宛行之也、但此貫数五拾貫文之分、至于後年百姓指出之上令過上者、為上納所可進納、弥可抽忠節者也、
天文廿二年癸丑九月四日/治部太輔/菅沼伊賀殿
戦国遺文今川氏編1154「今川義元判物写」(浅羽本系図三十三)

これは3つの寺への支配継続を認めたものだが、「但三ヶ所、人給ニ不可落也」ということで、但し書きでこの三か所は他者への給として「落として」はならないとする。

「落」=「抜け落ちること」であるならば、「三河のことは諒解しました。但し三河を手始めに(徴収の)欠落があれば、残りの国々のことも同じようになるだろうとの仰せです」となり、関口氏純は義元がこのような懸念を持っていることを伝えている。つまり、三河での徴収がうまくいかないなら他の国々(遠江・駿河)も駄目じゃないかなという警告である。

この後に「将亦近日義元向尾州境目進発候、芳時分可被聞召合事専要候」と、義元の軍事行動に話を移して「ところで、義元が近日尾張との国境に進軍します。よい時分にまたご相談するのが大切でしょう」としている。話題を変えたかのような書き方だが、このつなぎ方は、要はこの作戦が成功したなら三河での徴収もうまく行き、遠江・駿河も徴収できるだろうという意向にもとれる。ただ保証はしたくないから、婉曲に伝えているような感じだと思う。

伊勢神宮に関わる戦国遺文今川氏編の文書

乍恐啓上候、 抑就 神宮御造営萱米之儀、従作所殿以各代御申候、然者御国之儀、御馳走候者、御神忠可目出候、我等茂急度可罷下候間、致程候、御礼可申上候、可得御意候、恐惶謹言、
六月吉日/末■(花押)/謹上朝比奈左京亮殿参人々御中
戦国遺文今川氏編1466「某末繁カ書状(切紙)」(伊勢松木文書)

就太神宮造替書状、殊御祓太麻并二種珎重候、随太刀一腰進之候、将又参州萱米之事、委曲関口刑部少輔可申候、恐々謹言、
八月十五日/義元御判/外宮三神主殿
戦国遺文今川氏編1473「今川義元書状写」(京都大学所蔵古文書集八)

珍札披見本望候、仍去年有太神宮御萱米料之儀被仰越間、雖斟酌申候、春木方達而被致候故、及披露、返事之旨申入候、遠州之義者、去年被申分候条、不及是非候、参州之事者領掌候、但三州手始令落之候、相残候国々之儀、同前ニ可被仰越候、将亦近日義元向尾州境目進発候、芳時分可被聞召合事専要候、就中私江御祓并砂糖二桶送給、目出存候、随而菱食令進入候、寔御音信迄候、猶重可申述候、恐々謹言、
三月廿日/氏純(花押)/作所三神主殿御返報
戦国遺文今川氏編1504「関口氏純書状」(京都大学所蔵古文書集八)

太神宮御祓之箱頂戴、目出度候、仍葛西庄御神領之由承候、至于可為如上代者、其類可多候、宜諸国之次候、伏所冀者、以 神慮、房総可令本意候、此願令成就者、新御神領可令寄進候、委細者、石巻父子可申上也、仍状如件、
二月廿七日/平氏康(花押)/太神宮禰宜中
戦国遺文後北条氏編1523「北条氏康書状写」(鏑矢伊勢宮方記)

太神宮立願之事
右、就三州本意者、於彼地一所永可奉寄附之、但錯乱之間者、先於駿・遠之中毎年弐百俵、為日御供奉納之処、不可有相違者、以此旨弥於御神前、可為専武運長久・国家安全之丹誠之状如件、
永禄四辛酉年八月廿六日/氏真(花押影)/亀田大夫殿
戦国遺文今川氏編1737「今川氏真判物写」(勢州御師亀田文書)

就 太神宮正遷宮、遠州萱米之事承之間、十付進之候、仍一万度御祓太麻并三種到来珍重候、弥於 御神前、可被抽武運長久之懇丹肝要候、猶三浦右衛門大夫可申候、恐々謹言、
四月十一日/氏真御判/二神主殿
戦国遺文今川氏編2652「今川氏真書状写」(神宮関係古文書写集)

2017/07/02(日)武功覚書まとめ

諏訪郡の千野氏、これまでの軍功を書き上げる

一、壬寅九月廿五日、諏方信濃守与御一戦之砌、御東者申、其上高名仕候、於在所者、親者伊豆涯分忠信仕候事

一、甲辰冬、諏方地下人在ゝ所ゝニ逆心人数、就中同名山城被官佐渡与由候て、殊外健者候、逆本之儀条、討進上可申由、板垣駿河守被申付候間、くミ討候、此同心者同名出雲、同半左衛門尉ニ候、就御尋者可致言上之事

一、上田原御一戦之砌、蒙手疵奉公仕候事

一、諏方西方衆逆心仕候砌、家内以下取捨、一類引連、上原江相移忠信申候事

一、砥石御帰陣之砌、涯分相挊候、此御証人者長坂筑後守褒美書中給候事

一、葛尾御本意、然処ニ石川其外所ゝ逆心故、八幡峠御人数入之時、涯分返馬相挊候、此証人者馬場美濃守殿具御披露候故、典厩様為使、於苅屋原御陣所ニ三度御褒美条ゝ被仰下様共候事

一、小田井原にて頸壱ツ

一、あミかけ小屋にて頸壱ツ

一、伊久間原にて頸壱ツ

一、塩尻峠にて頸壱ツ

一、葛山おゐて頸四ツ

一、越国西浜板垣為使罷越候時分、敵相揺之間相挊、屓鉄砲疵奉公仕候事

一、小谷城御本意之時分、於構際弓を涯分仕候、板垣具ニ言上故、以高白斎深志之御対面所江召出、無比類相挊之由、御褒美候事

一、時田台軍之時分、板垣弓奉行被申付候間、涯分挊候、此子細弓之衆ニ可有御尋候事

一、三村逆心仕候時分、諏方郡地下人も更不見届為躰候之間、近辺取人質、種々相挊忠信申候、此旨野村具ニ言上、以飯富方御悦喜之趣再三被仰下候、惣別於何趣、乍恐御譜代御旁ゝ御同前奉公之儀存入候、此趣具御披露奉頼候、

以上

甲府市史「千野氏書き出し」(千野家文書)
千野氏は諏訪郡茅野の在。1557(弘治3)年比定。

反町大膳亮、往時の武功を報告する

謹言上、反町大膳助

一、武田勝頼所ゝ罷在候時、三河国とひのすニて鑓を合、則高名仕候、

一、於遠江国高天神、高名仕候、

一、於三枚橋、鑓を合申候、

一、滝川伊与守所ゝ罷在候時、上野国かなくほの原ニて、高名仕候、

一、北条氏直ニ罷在候時、佐野ニて高名仕候、

一、同氏直ニ罷在候時、上野国沼田ニて高名仕候、

一、同氏直ニ罷在候時、同国足利ニおいて、鑓を合、くみ討を仕、高名仕ニ付而、氏直直判之感状御座候、

一、景勝ニ罷在候刻、正宗殿と合戦之■■■■■■■■■■■之刻高名■■■

一、同家ニ罷在■■■、一番ニのり■■■■■■■■

一、同最上はせた■■■■■■所ニて数度之鑓仕候、

右之条ゝ、委細之様子証據共、具ニ別紙ニ別紙ニ書付御座候、御家中届ニ奉存、乍恐言上仕候、能ゝ被成■吟味御扶助候て、被下候様ニ御披露所仰候、

以上、

卯月十日/反町大膳助業定/御近習衆御披露

群馬県史3691「反町大膳助申状案」(碓氷郡・木島文書)

北爪右馬助、往時の武功を報告する

(後筆:北爪右馬助軍功書出 八月三日 紙数七枚)

御尋ニ付而申上候、

一、越国より新田へ御はたらきの時、田嶋ニおゐてくひ一ツ取申候、此請人本田豊後殿ニおり申候、長瀬伊賀、牧野殿ニ有之、あくさわ治部此両人存候事、

一、新田の太田とはりきわニて、くひ壱ツとり申候、此請人右之両人之衆、又松平たんは殿ニおり申候、矢嶋三河存候、

一、新田・ふちなニてくひ一ツ取申候、馬場二郎兵へ・千本木四郎兵へ存候事、是ハ越前へ御よひ候、被罷越候哉、おり所不存候、

一、新田かなや口ニてくひ一ツ取申候、此請人まへはしさかい殿ニおり申候、石田ひこ・しけの内善存候事、

一、新田ゆの入之よりいおしはらいあけはニてきつき申候処を、おしかへし田村と申者打、くひ取申候、此請人右之両人存候事、

一、越国あしかゝヘ御はたらきの時分、旦那ニ候五藤左京助、屋形様の御意ニそむきこはたおしほり申候時、あしかゝひかしとはりニおゐて、樋口主計おや両人共屋形さま御かんせんニてはしり廻、くひ一ツ取申候ニ付而、五藤こはたお其時ひらかせ申候、此請人長瀬伊賀、まへはしニ罷有石田・しけの内者ニ御尋可被成候、

一、きりうさかくほの城ゑんこくより御せめ被成候時、竹はたのはさくまさしニいまい助之丞と申者、いまい与兵へと申者[我等]三人被仰付候時、御はなさき御がんせんニゐてくひ一ツとり申、此両人ハ其時うちしに仕申候、拙者もしかい同前のておい申処、やかた様御意おもつて御引取被下候、此御ほうひとしてくら内ニおいて御蔵米百石被下候、此請人本田豊後様ニおり申候長瀬伊賀存申候事、此外存候者共多候へ共、御家中ニ罷有者お申上候事、

一、小見さかさ川の御陣之時、くひ一ツ取申候、請人まへはしニ罷有わたぬき甚内存候、

一、ゑんこくよりはにう殿御引取被成候時、いゝの入小屋之衆ことゝゝくおし候て、人つき申候時、やかた様御ちしん五藤か衆をめしつられ、御かヘし被成候時、御かんせんニてさいはいもちこち、くひ取申候間御はうひとして、御はをり一ツ被下候、此請人さのゝ太ふ殿ニおり申候、市川やと申者存候、

一、あかほりニてくひ一ツ取申事、右之衆又内ゝ牧野殿ニおり申候あくさわ存候事、

一、たるニ而くひ一ツ取申候事、此請人わたぬき甚内存候、

一、新田江田ニてくひ一ツ取申事請人直江山城殿ニおり申候かぬまいなは存候事、

一、きたちうあきのかミふたう山の城めおとし申候時、両日ニくひ二ツ取申候事、請人まへはしニ罷有しけの内善・ほしの賀兵へ存候、

一、蔵内なかて取申候事、くひ一ツ取申事、此請人かたかい人や存候、松平たんは殿ニおり申候、一、小田原よりゑんこくへ三郎様への五つめとして御はたらきの時、上田ニてくひ一日ニ二ツ取申候、此請人まへはしニ罷有候わたぬき甚内、奥州ニかけかつニ罷有北条のと存候事、此ほうひとしてあきのかミ所より馬くれ被申候、

一、あきのかミいたての城かばのさわゑんこく衆せめ、二のまる迄せめあかり申候所ヲついておしいたし、三のまるニてくひ一ツ取申候、此請人わたぬき甚内・かたかい賀兵へ存候事、

一、小田わらよりまへはしへ御はたらき之時しものてうとはりきわニて一人うち申候へ共、しかいとうせんのておい申候間、くひハ捨申候、請人北条能登守存候事、

一、ゑんこくよりそうちや・いしくらおせめ被成候時、此五つめとして竹田しんけん様松井田迄御出候所ニ、御はたらきさきへ物見ニ罷越くひ一ツ取申候、此請人秋本越中かゝいニ候福田かけい左衛門尉存候事、此外はちかたへ罷うつり九年之内之事、

一、おけかわいくさの時、くひ二ツ取申候事、此請人さかきはら殿罷有候つかさわ五郎兵へ、越前ニ罷有候岡谷隼人存候事、

一、小田はらよりまへはしへ御はたらきの時分、たかはまとはりきわニてくひ一ツ取申候事、右之隼人被存候事、

一、小田はらよりくらうちへ御はたらき之時、森下の城せめおとし被申候時、くひ一ツ取申候、請人かゝニおり被申候いのまた能登・とミなかかけいさへもん被存候事、

一、ぬまたおかわニてくひ一ツ取申事、請人越前ニ罷有おゝこしへんの助・いのまた能登・とミなかかけいさへもん被存候事、

一、くらうちかわはへのはたらきの時、くひ一ツ取申事、請人秋本越中かゝいニ候、小川主水存候、上泉主水存候へ共、老しに被申候、

一、くらうちとはりきわニてくひ一ツ取申候事、請人三川様ニ罷有候本郷越前・岡谷はやと被存候事、小田原よりうつの宮へ御はたらきのとき、くひ十とり申たるよりもまし可申候間、いけ取いたし候へてきせつ御きゝ可申候間いけ取いたし候、則進上申候此請人御家ニ罷有大鷹七右衛門尉存候事、 此外八ツハ御かんてう御座候、此内二つハやかた様かんてう、六ツハあわのかミ様御かんてうニ候、請人ニおよひ不申候事、此外奥州ニての走廻之事、

一、川俣の城せめおとし申候時、くひ三ツとり申候事、請人御家ニ罷有候樋口主計、根岸主計存候事、

一、もかミはたやニおゐて、さがいひせん二千斗ニて上申候処ニ、上泉主計おやこ召連ハしえきのりつめさがいひせんを十二やりつき申候へ共、ミへどをり不申候由申、さかいうちのさいはいもちつきおとし申候、御不しんニ候ハゝ、かミ殿御煩時分、さがいひせんニ御尋可被成候、てきよりもミたれ、ほしの・こはた・くまの・かわてたちハたれそと、かすか右衛門尉所へ尋被申候、いまニさがいひせんニハふちあんないニ候、

已上、

くひかす 卅九 此内いけとり一ツ

八月三日/北爪右馬助/宛所欠

群馬県史3692「北爪右馬助覚書」(岩手県・南部文書)

桜井武兵衛、往時の武功を報告する

我等はしりめぐり之覚書

一、藤岡表ニ而、佐竹衆・小田原衆たいちんノ時、すわベ宗右衛門尉我等鑓初仕候、其時すわベ宗右衛門尉、氏直江被召出、本意仕候事、

一、新宇都宮たげと申所ニ而、京牢人村井われらてきニ候、ぢしろニいの鹿之指物、地きニかりかねの指物、赤く白くのまゼノ指物さし候者と鑓仕候、定而田代大膳見可被申候事、

一、冨田ニ而、氏直大中寺山へあかり見物被申候、冨田之宿ヲやぶり、城之門きわにて野中六右衛門尉、冨長かけゆ、われら鑓ヲ仕候事、

一、筑波山ヲ小田衆・まかべ衆持候所へ、山上郷右衛門尉われらおしこミ、知足院と申寺ニ而、高名仕候、其時中山勘解由・石原主膳も高名仕候、其時むすこ之中山かけゆも高名仕候事、

一、結城之田川ニ而、井原、はち方ノ安房守馬ヲ入せうぶ之時、井原打死、安房守鑓手ヲおい被申候所へ、われらかけすけ、てきへくびとらせす、われら高名仕候、其軍ニ松田手へ多くくび取申候、其時松田六郎左衛門尉うい高名仕候事、

一、とくらニ而、松田新六郎逆身之時、泉かしら御番ニおり、湯河表ニ而かけ合之時、朝比奈又太郎馬ヲ入泉かしら衆ヲおいくづし、うたせ申候所ニ、われら一人返し、又太郎ヲ二鑓つき申候、それより、おいとまり候、其時高名仕候、瀬戸与兵衛と申者、唯今尾張ノ名古屋ニおり申候事、

一、足利ニ而くさノ時、朝より昼比まて仕合御座候、其時われらはしりめぐり候、氏直かん状ヲ持申候事、

一、沼田之森下ニ而、藤田大学我等弐人、壱番のりヲいたし、城ヲおとし申候事、

一、皆川之大平山ヲ、あしがる衆十頭大藤弐手ニ被仰付候所ニ、やぶり不得候、其時はち方の安房守われらニ被申付候間、上ノ山よりおしこミ、くび二三十とらせ、ごんげんどうヲやき引のけ申候所へ、てきくいつき、味方ヲおしくつし申候所ニ、われら返し、壱人もうたせす引上申候事、

一、越前ニ而、久世但馬御せいはい候時、ながや之かうし之内へ、ミわのことの介おしこミ鑓仕候事、

一、永見右衛門尉御せいはいノ時、井上太郎左衛門尉、ふか沢長右衛門尉せめ口へ見使まいり、太郎左衛門尉長右衛門尉なミニ鑓四五度仕候、其時われらむすこ十大夫、あしがるかしら松崎弥五介打死仕候、井上太郎左衛門、ふか沢長右衛門尉、我等子ニて候、左介高名仕候事、

一、大坂ニ而四日ノ日、越前衆へむたひニかかり、手おい死人多く候所ニ、われらとはりきわまてあげニまいり、引のけ申候、其時矢鉄炮しげき所へ、出羽守被参下知被致候事、 此外人なミニしゆびヲ合候事、度ゝ多御座候へとも、不申上候、

九月廿五日/桜井武兵衛/宛所欠

群馬県史3693「桜井武兵衛覚書」(島根県・桜井文書)

清水正花、往時の武功を報告する

御使江若被尋候半与存思出之次第書立候事

一、安芸殿如御存之、於冨士御殿馬沢、安馬与申者を馬上ニ而、渡辺弥八郎殿与申折也、大刀打申候、弥八郎殿出合互ニ切捨候、高名之事、

一、冨士城近所ニ而、馬上乗懸馬上ニ而組候を、弥八郎殿助ケ互ニ高名之事、

一、信玄豆州江初而乱入之時、自三島敵ニ取合、無相違走廻り候故引退候、弥八郎殿父子共ニ我等屋鋪江御移候而存候事、口上故ニ、

一、武蔵国岩付之城近所飯田橋ニ而鑓合ニ、高麗備後与申仁足軽を討取候儀ニ、今備後を前ニ被有之候、麻倉与名乗候者討取候事、

一、武蔵国岩付小室与申所ニ而一戦、源七与申者ニ少シからかひ高名之時喧嘩、黄門様源七ニ御尋何茂慥ニ存候事、

一、武蔵国松山近所陣取候時、岩付より夜懸之夜一戦、当所ニ而勝負無其隠高名也、爰許ニ而源七并年寄候者ハ何茂存候事、

一、上野国新田ニ而初而、景虎乱入之時、景虎人数与一戦、自身太刀打敵百余人討取候事、

一、松田新次郎上州ニ而被討候時、助候而敵討取引退候高名之事、

一、武蔵国奈良橋与申所、高山之城退候時高名故ニ無相違退候事者、久敷乱分ハ何茂慥ニ存候事、

一、景虎乱入候所、武州河越籠城之時、高麗郡江手人数を以相働、為討候智略高名之事、

一、河越籠城之時、岩付領ニ而相働人数多打、自身太刀打手柄之事、

一、川越籠城之時、高坂ニ而相働、自身太刀打人数多討申候手柄之事、

一、高山之城ニ籠り候時、景虎人数斗ニ而働候時、各申合、我等父子高名故、百余討取追崩シ高名之事、

一、狩野之助討死候得共、高名殿父子無相違退候、其隠無之候、関東高山落城時、走廻り候儀各存罷有候事、

一、武蔵国難波田之城江相働、河越之者共何も走廻り候、大窪屋敷ニ而当地ニ有之参候鯨井与申者其外、我等鑓下ニ而三人討申候、此内負於当地ニ赤垣助左衛門与申候者ハ我等を鑓付候、其時之覚無隠候事、

一、上州沼田之城取出、窪田之城責候時、敵之持将父子両人共ニ討取、其時三ヶ処手負、当地ニ而藤田大学頭ニ御預置、看病被申候ハ何も存候覚事、

一、伊豆国笠原、甲州江心替之時、我等父子高名討取候事、

一、小田原江景虎乱入時、武州河越より道を留メ置候処、路次江馳出我等を初、生捕討取、乍去此者手柄ニ茂不存候事、

一、遠州懸川之城、今川殿御籠城之時、道を止メ之時、一切通路無之所江、我等遠国を無滞行路次ニ而、両人を数生捕候、其覚無隠候事、

一、信玄以前之詰勢、高名様ゝ、信玄お近所ニ走廻セ、御感槍抜首与被仰出候事、

一、上州新田之城責被致候時、門を開、鑓下ニ而八人討取候、但度ゝ弓ニ而手負仕候儀、度ゝ之合戦爰許ニ金井茂右衛門被存候事、

一、境目之城ニ有之候得共、毎度歟戦候得共、其外ハ手ニも不立者ニ候間、載セ不申候、将首八百三拾討取候、安芸殿御存候間、不申入事ニ候得共、鯨井茂討申候事、

一、上州新田我等城ニ而、敵足利江乗込候所、人数も我等茂自身敵討取候事、

一、新田之城敵之時分、氏直之代ニ彼表ニ而度ゝ高名何も存候事、

一、駿州長窪我等城ニ候時、甲州方ニ而沼津之城与岡野・宮田・能登ニ而懸合、渡辺次郎右衛門殿敵之時、彼御覧候通三人討取、其上次郎右衛門殿手極ニ而出合、治良右衛門殿壱人を心懸下立参り走廻り候事、

一、我等城長久保之向城取候手、麻尾之城江大働其斗城極迄打破、大手ニ而敵壱人雑兵拾人余討取候、此方ニ而者、広沢兵庫・大藤小太郎其外、其陣江何茂立候故、爰許ニ被有之、無隠走廻り候事、

一、光国寺逗夜被申候、窪小屋江乗込候敵六人、自身討取候働之事、

一、宇都宮新城責、我等ニ被申付候時、足軽衆申含、彼之谷之大働物敷為討候而、踏落候事、

一、上州沼田之城、星名曲輪ニ而鑓合、我等手使者為心得之ニ候、又御尋も候ハゝ御感状様子可申候、只今之御黒印、御感知行之証文共ニ候、人御見セ有間鋪候、尤興ク申付候、

以上、

十二月三日/正花黒印/宛所欠

群馬県史3694「清水正花武功覚書」(高崎市清水文書)

猪俣邦憲、往時の武功を報告する

猪俣能登守手合之所ゝ之覚

冨永勘解由左衛門同陣

一、上野之内、見竹と申所ニ而、歳十九、同勘解由左衛門歳十六歳、敵ハ平井豊後・小金形部左衛門・同喜兵衛、右三人之者共出合之時、能登守・勘解由左衛門働之様子、こたまと申所よりたつきと申所ノ間ニ而、四五度ノ鑓候而、能登守九ケ所手負、九ケ所之内六ケ所鑓手、壱ケ所弓手、太刀手弐ケ所、勘解由左衛門鑓手三ケ所、弓手弐ケ所、

一、上野新田ニ而懸合ノ時分ハ切手御座候、

一、上野立林同断、

一、上野さの同断、

一、ゆうきへ働之時分、両度ノ高名一度鑓下ニ而、

一、小山ニ而働之時、一度ノ高名、勘解由左衛門ハ大手柄之躰ニて御座候、但せのこ尾張、同右馬之助・勘解由左衛門鑓相手ニ而、太刀打ニ品有、城ノ大手ニ而両度之高名、

一、山川一度ハ町之内ニ而鑓下、勘解由左衛門も同事、

一、瀧川合戦ニ而ハ、能登守先手、勘解由左衛門旌壱本のさいとり之両人なから首弐つ宛高名有、

一、沼田ニ而、甲斐国勝頼働之時分、能登守城主ニ而働之時分ハ勝頼之相手、勘解由左衛門ハこかんノ橋を持候て二日迄勝頼とせりあいノ相手、手柄被仕候事、

一、おなふちと申城能登持、これニ而前橋・ごせん山・かミけ三つノ城のあいて也、度ゝ之せり合ニ手柄共御座候、勘解由左衛門も両三度、斯城ニ而も手柄御座候事、

一、新田之どんでいと申所ニ而せり合、敵ハ屋はと申人相手ニ而、是ニ而も鑓御座候つる、新田城主ハ四郎殿、

一、あしかゝノ城ニ而、両度之大せり合御座候而、是ニ而一度、勘解由左衛門手柄御座候、敵ハ長尾新五郎、

一、ミのわの城ニ而能登守居候而、真田と取合、あかつまと申城ニ而切ゝノせり合御座候、是ニ而も能登守手柄共御座候、是ニ而平太三度手に相、一度ハ手負申候、手柄(後欠)

「上書:猪俣能登守等諸処手合覚書」

群馬県史3695「猪俣能登守覚書」
(東京大学史料編纂所所蔵猪俣文書)

富永清兵衛、往時の武功を報告する

西上野冨永清兵衛覚

一、加り金ノ城主くらかね淡路守殿、是へ働之時、清水と申くわんおんたう焼申時、我等参やき候へハ、敵くわんおんたう迄もち、為焼不申候時、せり合候て鑓ニ相たうをは焼はらい申候事、同日ノ晩ニ惣人数陣場へ引申時、敵出候而、松山上田殿と敵取くミ申所へ、我等馬を乗入、鉄炮ニ中申候、せかれノ時分ゆへ、諸人能様ニ申候事、

一、瀧川合戦ニ而、安房守様御供申、御眼前ニ而高名弐つ仕候事、城主はてんとく寺殿、

一、さのてらをやつと申所ニ而さノとの衆と長尾新五郎襲、せりあい仕候所へ、夫ニ参候手ニあい高名ハ不申候へとも、鑓ニハあい申候、後ニ長尾新五郎を敵に成テ、あしかゝニ而せりあいノ時分高名比候、敵ハ長尾新五郎との衆、

一、新田どんでいと申山ニ而とり合御座候、敵ハ屋場と申人ニ而御座候、鑓も御座候つる、之即鑓比之事、

一、非山ニ而、籠城之内、我等預り申候わた波と申くるハ、ふく島大夫殿へ六月十七日ニ被責候時、人数指引仕候、随分手柄仕候つる、無相違もち申候、

一、信州之川中島真田城より、物見出候を、おしこミ我等鑓仕候、首ハ取不申候、但さゝかきよりも申候、

一、信濃あした・こやばへ働之時ハ高名仕候、為指手柄ニ而ハ無御座候つる、城主下野、

一、皆川大うけ山と申所へ氏直働被成候時、敵出申所を、北条左衛門大夫おいこミ被成候、度ゝノおしあい在之時、ミかたくつれ候処ニはがノ形部をし切、敵ヲふせき鑓被仕候処ニ、我等乗付すけたり、刑部前と立ならび、鑓比候時、松ゑた衆一人取てかへし■人立ならび申候、

以上、

群馬県史3696「冨永清兵衛覚書」
(東京大学史料編纂所所蔵猪俣文書)