2017/06/07(水)後北条奏者を悩ませた「不動院問題」

奏者として、板部岡融成が手筋を違えた事件らしきものがあるのでメモ書き。

まずは原文と解釈を並べてみる。

貴札披見仕候、仍不動院事、兼日以江雪斎御用等走廻候、手筋相違之所、陸奥殿へ被仰届候つる哉、無御余儀奉存候、我ら事も去比者御乍次申来候処、近年相違無心元候、雖然小田原国ゝ新坊致様与存過来候、今度上洛候付而、当地被罷越路次等之儀、被相頼之間前ゝも取次申間、其段五日以前披露申候、然処御書中昨十一参着、披見申候処、奉対月輪院江慮外自分ニ身上仕立之由、被露御紙面候、加様之企始承候、兼而存知候ハゝ、其理をも可申候、不存候故如此候、今度一廻被成者披露之上ニ候、重而之事者其身存分通、近日致糺明、奥州得御内儀候、月輪院御為可然様ニ可申調候、岩付領ニ屋敷以下被遣儀、一円不承届候、其分ニ付てハ拙者可存子細候、不真存候、承届候者可申達候、今度之事、八幡大菩薩御照覧候へ、御飛脚以前披露申候由、可得其意候、恐ゝ謹言、
七月十二日/垪和伯耆守康忠判/天神島人々御中(上書:天神島貴報 垪和伯耆守)
戦国遺文後北条氏編4200「垪和康忠書状写」(寺院証文一)


ご書状を拝見しました。さて不動院のこと。先日江雪斎によって御用などで走り廻りました。手筋が相違したところを、陸奥殿へご報告になったのでしょうか。いかんともしがたいことと思います。

私も以前取次をさせていただきましたが、近年相違があって心元なく思います。そうはいっても、小田原の国々の「新坊(新寺院・辛抱?)」となるように過ごしてきました。

今度の上洛については、当地からの出発準備などのことでお願いをされ、前に取次をしていましたから、その件は5日以前に披露しました。

そうしたところご書状が昨日11日に到着。拝見したところ、月輪院に対して慮外で身びいきな仕立てであると書かれていました。このような企ては初めて聞きました。兼ねてから知っていたなら、その事情も申していたでしょう。知らずにいたのでこのようになりました。

今度の一連の出来事は報告した上でのことです。重ねてのことは、その存分通りに近日調査します。奥州にも内々の諒解を得ます。月輪院のおためになるよう、しかるべく調整します。

岩付領に屋敷以下を与える件は、何も聞いていません。その状況は私が把握できます。本当に知らないのです。聞いていたらお伝えしています。

今度のことは、八幡大菩薩にご照覧いただきたい程です。ご飛脚が以前報告したことは、その意を得るでしょう。


書状の意が取りづらいのだけど、ちょっと整理してみる。

  1. 「天神島」が11日付けの書状を垪和康忠に送っていて、この書状はその返信
  2. 主題は「不動院」の件。この後の課題点も恐らく不動院関連。
  3. 当初は板部岡融成が処理していたが、不満に思った「天神島」が北条氏照に訴えた。
  4. 康忠は以前「天神島」の取次を務めていたが、最近は交流がなかった。
  5. 交流のない状態を康忠は不安に思っていたが、「小田原国ゝ新坊致様」と考えていた。
  6. 上洛準備について依頼され、5日以前に後北条当主へ披露を済ませていた。
  7. 11日の書状が届いて、康忠は初めて事情を知ったとかなりくどく弁明している。
  8. 11日の苦情は「月輪院」への物的損害か名誉棄損、もしくは両方の損害を与えるもの。
  9. 氏照を含めて諸方面の調整は行なうと康忠は説明。
  10. 調査や検討をまず行なうとしながら、康忠は「月輪院」のためになるよう計らうと明言。
  11. 岩付領で屋敷などを与えるとした件は知らなかった、知っていたら止めていたと再度の説明。
  12. 前の飛脚が伝えた内容は問題ないと文末で短く記載。

「天神島」か「不動院」が上洛準備をしていて、融成・康忠がその手伝いをしていた件と、岩付領屋敷を渡す件が入り混じっているようだ。「天神島」は「月輪院」への扱いに問題があると、融成ではなく氏照に訴え出て、更に以前の取次だった垪和康忠にも飛び火したかのようだ。

康忠も困惑を書面にみなぎらせている。「知らずにやったこと」「聞いていたらやっていない」「とにかく調整するから」と繰り返している。ただ、文末にある「御飛脚以前披露申候由」は揉めずに認可されそうで、別件を頼んでいたか、もしくは上洛案件はそもそも紛糾していなかったかだろうと思う。

  • 天神島は相模国三浦郡の島で、そこにある寺の住持。
  • 月輪院は鎌倉・月輪寺住持か、長福寺別当か。
  • 不動院は不明。

実はこの件、不動院をある文書と連携させると一つの構図が見えてくる。

埼玉県史料叢書12の付278「相模国先達衆言上状写」(城明院文書)内で「古川会場不動院ト申山伏」が武蔵北方の年行事を務めたとある。

この謎の文書の宛所は板部岡融成・可直斎長純で、注記に「此両人ハ其時之寺社奉行与承リ候」とある。融成・長純が活躍した時期に「寺社奉行」はないが、修験者の統括者的な立場に2人がいたのだろう。このことで連想されるのが、北条氏照が山岳修験と関りが深いこと。

その側面から改めて考えてみると、以下の仮説を提示できる。

 山伏の不動院が岩付領内で屋敷以下の財産を横領し、
なおかつ上洛しようと画策する。

 どういう経緯か、月輪院の知行から奪うように動いていて、
これに板部岡融成が関わる。

 案件は垪和康忠の処理に入り、この5日以上前に決裁待ちに。

 一方で、この動きを受けた月輪院は天神島を使い、山伏とも
関りのある北条氏照に訴え出る。

 また同時に、以前取次だった縁を使って康忠にも訴えて出る。
それに驚いての反応がこの書状となる。

多分、融成は裏を取らずに不動院の便宜を図ってしまった。上洛・岩付領の譲与などは「既に月輪院の諒解を得ている」とでも騙ったのだろう。反応した月輪院が氏照を頼り、そこから天神島に話が行った可能性もあるが、強い権限を持つ氏照の登場は能吏の康忠をして周章狼狽させるほどのものだった。

もう一歩突っ込んで反転させると、不動院・融成サイドに非はなくて、月輪院・氏照が無理な横槍を入れた可能性もあるといえばある。ただその場合も、この書状から窺えるのは、康忠は事情を知らなかったという点だけなので、他の史料が必要になると思う。

2017/05/30(火)北条氏規と氏政の上洛費用を、氏直は支払えたか

2万貫文といわれる北条氏規上洛費用が、どの程度の負担率だったかを考えると、秩父孫次郎の役高金額が必要になる。しかし孫次郎の着到は前欠で貫高が不明だ。そこで他の人間の着到から推測してみる。

池田孫左衛門尉の着到は191.6貫文で56人(戦北2258)
一人当たり3.42貫文

とすると……

秩父孫次郎の着到はx貫文で139人(戦北2316)
一人当たり3.42貫文ならば、x=475貫文

孫次郎が割り当てられた氏規上洛費用は50貫文。役高のうち10.5%となる。手取りの1割をいきなり抜かれるのは痛いだろうなと思いつつ、合っているかを後北条氏全体の貫高から検算。但し、データが少ないため累進賦課の可能性を考慮できないので除外。

全員が収入の10.5%固定賦課だとして、
2万貫文の総額を得るためには役高21万貫文が必要。

永禄2年時点の所領役帳は総役高が72,168貫文。これは被官たちの役高で直轄領は含まれていない。21万貫文への不足分137,832貫文が直轄領だったと考えると妥当性がありそうに見える。蔵出し分をどうカウントするかが微妙だが、被官分のほぼ2倍が直轄という試算。

この条件をもとに、今度は氏政上洛時の負担額をどこまで追えるか考えてみる。ただ、金額が明示されているのは佐野氏忠の被官である高瀬紀伊守のみで心もとなくはあるのだが……。

高瀬紀伊守は家臣団辞典で50貫文の役高と想定。
紀伊守の氏政上洛費用割り当ては1.848貫文で、役高に比して3.7%(戦北3517)

氏規(秩父孫次郎)の時より賦課率は減っている。賦課母数の21万貫文から考えると3.7%では7,770貫文しか集められない。

使者に過ぎない氏規よりも、当主代行として正式な出仕となる氏政の方が費用が上回るだろうから、矛盾している。

佐野衆の高瀬紀伊守は外様で強制力が低かったのかも知れない。3.7%を下限に10.5%が平均になるとして上は17.3%。直轄領と一門には特別分厚い賦課がかかっていたのだろうか。

ここで気になるのが氏邦の下記の記述

「2万貫文の費用のうち、300~400貫文が私の負担になるだろう」(戦北3334)

氏邦は後北条家全体から見て1.5~2%の負担が自らに課されると予測している。

氏邦の役高は不明で所領役帳にも入っていないのだけど、直轄領と比較してしまうと圧倒的に小さい規模なのかも知れない。それでもこの苦しみ方な訳で、それを上回る氏政出仕費用を、後北条氏が順調に集金できていたのかは疑問に思えてならない。

2017/05/22(月)上田長則の心遣い

一般に、印判状は非属人的で薄礼であるという理解なのだが、一部に例外的なものもある。

武蔵松山城主の上田長則が、木呂子新左衛門に諸規則を伝えた文書がそれ。家督を継承したらしい新左衛門に仰々しく花押で通達し、その後から私信として朱印状を与えている。

大塚郷が木呂子新左衛門に与えられる

就大塚之郷任置、具申遣候、能ゝ可致分別候、一、若年之間ハ、先ゝ親之以苦労致奉公儀、古来法度之様歟、雖然、譜代之仁ト云、親子数多之儀ト云、彼是共ニ不准自余、如此候、弥其方覚語見届候ハ、何分ニモ可引立間、心易可存事、棟別・段銭・人足、此三ヶ条ハ、自・他国共ニ法度之間、不可指置候事、[猶別紙ニ有]右、朝暮無油断、存分ニ被嗜、可為肝要候、条ゝ、鈴木修理ニ申含候、仍如件、
天正十年壬午五月十三日/長則判/木呂子新左衛門殿
戦国遺文後北条氏編2338「上田長則判物写」(岡谷家譜)

大塚の郷をお任せする件、詳しくお伝えしました。よく考えて治めて下さい。一、若年のうちは、まずまず親の苦労でもって奉公すること。古来からのしきたりでしょうか。そうはいっても、譜代の出自であることといい、数代にわたって仕えてくれたことといい、どちらを考慮しても他とは異なります。このことから、あなたの頑張り次第ではもっと引き立てますから、ご安心下さい。棟別・段銭の徴税と人足の提供、この3点はこの国でも他国でも決まり事ですから、放っておいてはなりません(更に別紙に書きました)。右のこと、朝も夜も油断なく、充分に勤めることが重要です。それぞれ鈴木修理に申し含めています。

木呂子新左衛門に追伸が送られる

追而、三ヶ条之儀、諸人之比量不可然候間、申事ニ候、併於何事も、連ゝ存分ニ可相極候、是ハ以他筆ヒソカニ書付候、仍如件、
午五月十三日/朱印/木呂子新左衛門殿
戦国遺文後北条氏編2339「上田長則朱印状写」(岡谷家譜)

追伸。3点のこと。皆の手前もあって申したのです。ですから、なにごともできる範囲で少しずつ決めていけばよいのです。これは別の筆でこっそりお伝えしておきます。


現代でいうと、新入社員への訓示で建前を厳しく言ってから、後でこっそり「まあそんなこと言っても色々あるさ」と助言するような感じかと思う。ただ、この長則の訓示、そんなに厳しい物言いでもない。一方的に気を遣っているような印象がある。もしかしたら、新左衛門が結構幼いんじゃないかとも思える。

実際、この8年後の小田原籠城でも「若輩之子共幾人有之共、毛頭不可有無沙汰候、殊ニ新左衛門在陣候間、大細計尋合可引立候、是又気遣有間敷候」(戦北3652「上田憲定書状写」)という記述があって、この段階でも新左衛門はまだ二十歳前という印象がある。

となると天正10年頃は10歳前後か。父は普通に健在なので、新左衛門は幼くして領主になるという格別な引き立てを受けたのかも知れない。

何れにせよ、出典が家譜ということもあって確度は低いが、花押を据えた文書が表向きの正規のものに対して、朱印を捺した追而書が裏からの私信なのは興味深い。