2017/05/18(木)所領役帳の寺領筆頭「泰平寺殿」は何者か?

所領役帳の寺領筆頭である「泰平寺殿」が誰なのかは近藤出版の所領役帳では「不明」となっているのだが、戦国遺文後北条氏編の索引を見ると「太平寺殿」がいる。

をそれなから申上候、太平寺殿むかい地へ御うつり、まことにもつてふしきなる御くわたて、せひニおよはす候、太平寺御事ハ、からんの事たやし申よりほかこれなく候、しかる所ニ、又御しんさうをぬすミ申よりほかこれなく候、よくゝゝきゝとゝけ申候、玉なわへうつし申へく候、かたく御いけんあつて、日けんのことく入御うあるへく候、若とかくあつてハ、その御寺へうらミ入申へく候よし御ひろう、かしく、
卯月廿三日/うち康/東慶寺いふ侍者
戦国遺文後北条氏編「北条氏康書状」(東慶寺文書)

この「むかい地=房総」に移った東慶寺関係の人物を考えると、青岳尼が該当する。吉川弘文館『戦国人名辞典』によると、足利義明の娘である「青岳尼」は1556(弘治2)年に里見義弘が鎌倉に侵入して連れ去ったとある。

この情報の典拠は不明で確認ができないのだけど、弘治2年は正しいのだろうか。永禄2年2月成立の所領役帳に名があるということは、青岳尼が房総に移ったのは少なくともこの後になり、この弘治2年という話と矛盾してしまう。

とはいえ、役帳において東慶寺・雪下御院・金沢称名寺などを抑えて筆頭となった理由は、義明娘がいたからと考えるのが妥当だ。

永禄2年以降で、東慶寺にいた青岳尼が房総に移るタイミングというと、永禄4年3月~閏3月に鎌倉を上杉方に押さえられていた時が思い当たる。上記の氏康書状の日付が4月23日という点とも自然に繋がる。

弘治2年説の典拠が判るまではこちらを優先したい。

2017/05/18(木)所領役帳リスト化

集団名 人数 総役高 平均役高 筆頭者名
御家門方 17 7760 456 葛西様御領・備中殿
小田原衆 34 9,287 273 松田左馬助
玉縄衆 18 4,257 237 左衛門大夫殿
松山衆 15 3,390 226 狩野介
他国衆 28 3,617 129 小山田弥三郎
小机衆 29 3,438 119 三郎殿
伊豆衆 29 3,392 117 笠原美作守
諸足軽衆 20 2,260 113 大藤式部丞
三浦衆 32 3,344 105 伊井四郎右衛門
御馬廻衆 94 8,426 90 山角四郎左衛門・石巻下野守
社領 13 1,113 86 鶴岡領
御家中役之衆 17 1213 71 平山源太郎
寺領 28 1,289 46 泰平寺殿
職人衆 26 897 35 須藤惣左衛門
津久井衆 57 1,697 30 内藤左近将監
江戸衆 103 1,678 16 遠山丹波守
総数 560 57,058 102  

2017/05/17(水)戦国時代に兵種別編成はあったのか? その2

後北条氏はかなり細かい着到定を出しているが、これをどう確認したのかは気になるところ。ただ、大藤式部丞に出した朱印状では、誰が何人不足したのかを逐一書いている。

一、今度甲州衆越山儀定上、当月中必可被遂対談、然者人数之事、随分ニ壱騎壱人成共可召寄、并鑓・小旗・馬鎧等致寄麗、此時一廉可嗜事
一、本着到、百九十三人也、此度四十四人不足、大藤
本着到、七十四人也、此度三十五人不足、富嶋
本着到、五十四也、此度二十八人不足、大谷
本着到、八十壱人也、此度三十一人不足、多米
本着到、六十人也、此度廿二人不足、荒川
本着到、卅人也、此度七人不足、磯
本着到、廿二人也、此度無不足、山田
本着到不足之処、如何様ニも在郷被官迄駆集、着到之首尾可合事、一備之内ニ、不着甲頭を裏武者、相似雑人、一向見苦候、向後者、馬上・歩者共、皮笠にても可為着事、
右、他国之軍勢参会、誠邂逅之儀候、及心程者、各可尽綺羅事、可為肝要者也、仍如件、
十月十一日/(虎朱印)/大藤式部丞殿・諸足軽
小田原市史小田原北条0504「北条家朱印状」(小田原市立図書館所蔵桐生文書)

ここで、岩付諸奉行がしつこく「兵種ごとに集めてから着到を確認しろ」と規定していたのが思い当たる。着到状は被官ごとに人数や装備が規定されている。単純に考えれば、被官ごとに点検すればよい。しかし、各被官の立場になってみれば「点検時だけ他の被官から人を借りてくればいい」というすり抜けが可能になる。

これを避けるためには、小旗・鑓・弓・鉄炮などの装備ごとに集合させて出欠・装備点検をすればよい。装備を持たない歩者が「一枚に(整列して)確認しろ」とされているのも、この二重カウントを阻止するためだったと考えるべきだろうと思う。