2017/04/20(木)戦国時代の「折角」は「orz」を意味したか

越相同盟で氏康・氏政が多用した言葉に「折角」があって、ちょっと意味が現代語と異なるように感じたので、改めて調べてみた。

「折角」を辞書で引いてみると、以下の通り。

現代語(旺文社国語辞典)「そのことのためにことさら力を尽くすさま。骨を折って。わざわざ。めったにないことを大切に思うさま。十分に気をつけて。せいぜい」

  • 音訓引き古文書辞典「苦労して。つとめて。わざわざ。とりわけ」
  • 例解古語辞典「力を尽くすこと。ほねをおること」
  • 時代別辞典「当面する事態が、その対処・解決にあたって、並並ならぬ尽力を要する特別のものであること。また、その問題となる事態をいう」
  • 日匍「xeccacu・角を折る。労苦と困窮。用例『難儀、折角に遭う』労苦などに悩まされ、苦しめられる」

当時の用例を見ると、日匍辞典が一番的確だったように思える。現代でいうと「駄目だこりゃ」、ネット用語なら「orz」に近い。

以下の用例に当てはめてもらうとよく判ると思う。

晴信の駿河侵攻を歎く氏康「万民之愁歎、余多折角ニ候」戦北1145

晴信の東美濃介入を酷評する輝虎「無用之事仕出候間、信玄折角可申候」岐阜県史資料編古代・中世4_p864

味方が減っていくことを歎く氏康

「遂日弓箭折角ニ成候条、弥氏政手前を見限」戦北1475

「只今可離氏政手前事、外聞令折角候」戦北1211

「今度氏政折角之段申越候、乍父子間之儀、彼所存無拠歟」戦北826

後北条が窮迫していると報告する芳綱「弥ゝ爰元御折角之為躰ニ候」神3下7990

母の病状を憂う氏政「近日者、少見直候、折角可有推察候」戦北1712

酒井忠次に会えなかった氏規「此度者懸御目不申候事、折角仕候」戦北3548

小山城落城を目前にした氏照「敵者弥折角之躰」戦北2683

高野山の氏直一行「此方さむく候て、何共折角仕候間」戦北3951

2017/04/20(木)家忠日記に出てきた着到

『家忠日記』にあった着到の情報を少し細かく見てみる。着到状ではなく日記内の記述なので色々と情報が足りないような気がするが、とりあえず。

又八家忠着到(天正6年11月11日・家忠日記)

駒澤大学の電子貴重書庫で原文を確認(冊1の38コマ目)家康よりちやくとうつけ被侍八十六人中間百二十六人鉄放十五(左に小さく:ハリ)弓六張鑓廿五本有鑓持三人

原文では「侍八十六人」とも「侍ハ(は)十六人」とも読めるためパターンをAとBに分けてみる。但し、「侍」の下に若干の余白があるのに改行している点から考えて、片仮名の「ハ」という可能性は低いように思うが念のため。

パターンA(合計261名)

割合
86 33%
中間 126 48.3%
鉄炮 15 5.7%
6 2.3%
25 9.6%
鑓持 3 1.1%

パターンB(合計191名)

割合
16 8.4%
中間 126 66%
鉄炮 15 7.9%
6 3.1%
25 13%
鑓持 3 1.6%

次に、延べ数表記ではなく、鉄炮・弓・鑓・鑓持が内訳表記だと想定してみる。この場合、人数は侍と中間で、その他は装備品の数、「鑓持」は備考追記という想定。

*パターンA' 212名(侍40.6%:中間59.4%)

*パターンB' 142名(侍11.3%:中間88.7%)

これを後北条氏の着到と比較してみる。

池田孫左衛門尉(天正9・戦北2258)

382.1貫文の着到=56名(うち112貫文は御蔵出)

割合
大小旗持 2 3.6%
指物持 1 1.8%
5(うち1が弓侍、4は弓持) 8.9%
歩鉄炮侍 3 5.4%
22 39.3%
馬上 20 35.7%
歩者 3 5.4%

上記を又八家忠の着到分類に近づけると以下になる。

割合
侍(馬上、歩鉄炮侍、弓侍) 24 42.9%
中間(旗持・指物持・弓持・歩者・鑓) 32 57.1%

侍と中間の率が池田孫左衛門尉と最も近いのはパターンA'。

単純に人数割りした一人当たりの役高は、池田孫左衛門尉の場合は@6.5貫文となり、当てはめると又八家忠の役高は1441.6貫文相当になる。後北条所領役帳でいうと松田憲秀の1768貫文に準じる程の禄となり違和感を感じる。最も人数の少ないパターンB'の人数でも923貫文で、清水康英の847貫文を上回る。役高設定の違いか、三河と関東での生産力の差か、その他の要因かは不明だが、興味深い相違。

ちなみに、パターンA'B'ともに、武装が49しかないので、中間77名が手明となる計算(61%)。後北条氏の着到での手明は42%(12人中5人)、24.3%(41人中10人)という例があるが、これと比較すると高い。後北条氏で必ずカウントされる旗持・指物持が明示されていないため、そう見えるのかも知れない。

武装数を弓・鉄炮・鑓で単純比較すると、又八家忠の方がバランスが良く見える。但し、後北条氏では小曾戸丹後守のように全体の74%を鉄炮が占める例もあり、一概には比較できない。

割合
又八家忠 49 (鉄炮31%、弓12%、鑓57%)
池田孫左衛門尉 30 (鉄炮17%、弓10%、鑓73%)

2017/04/20(木)徳川家康の『息子』

信康事件についての、ちょっとした思い付き。史料を厳密に突き詰めた訳ではなく、妄想だけの覚書でほぼフィクションなのでご留意を。

松平元康を「後の東照神君」とか思わず、ただの三河国衆という視点に厳密に固定して考えてみる。今川に人質を出す直前、広忠が織田方になって紛争を起こした挙句に亡くなったのだとしたら、今川方はその遺児を岡崎(というか三河国内)に置こうとは思わないだろうなと思う。陣代や検使を置くにしてもリスキーだ。で、駿府にいたとしても父の失点からさほど好待遇ではなく、言継卿記に出てこない程度に「しんさう」とひっそり住んでいたのかなと。でもって弘治頃から三河にちょこちょこ行かせて貰えるようになって、現地妻と子を成したとか。

以前「築山殿」は大浜湊の地名に由来するのではと妄想したことがあるが、大浜領の支配を竹千代に安堵する判物を義元が天文19年に出していることから考えて、元康は大浜に滞在することがあっただろう。そこで年上の女性と同衾し、ある日懐胎を告げられる。若かった彼は思わず「俺の子か?」と騒いで家臣達に疑問を伝えたかも知れない。それが亀姫で、その後男子が生まれるも、通い婚だった元康は疑念を払拭できなかった。

独立してカリスマ的存在になるにつれ、今度は家臣の間で「信康は殿の子か? 疑問を持っていたぞ」という密やかな噂が駆け巡る。家康はこだわらず、長男として信長の婿にもした。だが、長じるにつれて容貌が家康とは異なってきて、ますます噂が激しくなる。

「誰だ、誰の子だ?」「殿の血ではなかろう」

信康自身も噂を聞いて素行不良になっていく。しかも弟が2人になり、自分は娘しか持てなかった。母や嫁とも軋轢が生じて家康が浜松から駆けつけるほど揉めた。最後には側近5名とクーデタを企てる……。さすがに家康も庇いきれず、信長に「わが子ではなかった」と断って処断を家臣に任せた。家臣からすれば築山殿も同罪だとばかりに断罪し、信康にも詰め腹を切らせる。

大事な娘婿とはいえ、家康から「父は自分ではなく誰か判らない」と言われれば、信長としても何ともいえないだろう。放置すればむしろ同盟に瑕疵が生じる恐れすらある。

ごく普通の国衆であったなら「信康の出生は怪しい」ぐらいで済んだ筈が、勝ち組確定の織田家の同盟者という良い地位と、家康の強力なカリスマが、出生の疑義を許さなかった。

家康はどう思っていたのだろう。信康が噂に押し潰されて変わってしまうまで「それでもお前は俺の息子だ」と思って同陣し、後詰を委ねていたのではと思う。彼が後年事あるごとにブツブツ呟くのは、信康の能力を高く買っていたのに殺されてしまったという密やかな恨みがあったからではないか。

もしそうなら、生物学的に限りなく秀吉の子ではない秀頼を見て、その時複雑な思いを抱きつつ、彼を引き立てようとしながらも最後は殺すことになったのは運命の皮肉以外の何物でもないだろう。

そしてまた「性格が良いから」と忠長を後継者にしたがった息子夫婦や家臣たちに対し、長子相続を命じた際にも「性格で選ぶならなぜ信康を殺したんだ」という怒りが籠められていたように思う。

酒井忠次に「お前でも『息子』が可愛いか」と嫌味を言った意味合いが、様々な色を帯びて感じられる。