2017/04/20(木)次郎直虎出現の背景 井伊谷徳政を巡るゴタゴタ

井伊谷徳政を巡る文書8通を、戦国遺文今川氏編からデータ化。現代語に置き換えたものは、素人が手掛けた暫定のものなので、不明点があればご指摘下さい。

◆永禄10年6月30日 匂坂直興、祝田禰宜に、徳政推進の状況を伝える

彼一儀種々越後殿へ申候、先年御判形のすちめにて候間、御切紙御越候ともくるしからす候へ共、我等共御奉行まへにてさいきよニむすひ候て、御ひらうなきまへニいかゝのよしおほせ候、又二郎殿のまへをなにとかとおほしめし候やうに候間、小但へ申候而、次郎殿御存分しかときゝとゝけ候て、早々被仰付候而尤之由、次郎殿より関越ヘ被仰候様ニ、小但へ可被申候、我等方よりも小但へ其由申候、たとへ次郎殿より御状御越候ハす候共、小但より安助兵まて尤之由被仰候と、御切紙とりこされへく候、二郎殿もそれにて関越へ可申候、小但へ能々談合候へく候、恐々謹言、
六月卅日/匂左直興(花押)/祝田禰宜、「上書:自駿府 匂左近まいる ほう田の禰宜とのへ」
戦国遺文今川氏編2134「匂坂直興書状」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 あの一件を色々と越後殿(関口氏経)へ申しました。先年御判形で決まったことですから、御切紙をお送りいただいても構わないのですが、私たちが御奉行のもとで裁許を受けて、御披露する前に何を仰せなのか、また、次郎殿ことを何かとお心がけになるなら、小野但馬守へ申して、次郎殿ご存分を確実に聞き届けて、早々にご指示なさるのがもっともです。次郎殿から関口氏経へお伝えになるよう、小野但馬守へ申されますように。私の方からも小野但馬守へそのことを申します。たとえ次郎殿より関口氏経へご連絡がなかったとしても、小野但馬守より『安助兵』(安西)まで「もっともである」との御切紙をお送りになるように。次郎殿もそれを使って関口氏経へ申し上げますように。小野但馬守へよくよく相談なさいますように。

◆永禄10年10月13日 今川氏真、瀬戸方久に、買い取った土地の保証をする

於遠州井伊谷之内永代買之事。一、居屋敷壱所之事[本銭五貫文也、次郎法師有印判]、坂田入道前[伹是者助六郎買得云々、一、田畠弐段事[本銭四貫文也]、須部彦二郎前、一、都田瀬戸各半名事[本銭参拾貫文也、信濃守有袖判]、袴田対馬入道前、已上、右、何茂永代買得証文明鏡之条、縦彼売主等、以如何様之忠節雖企訴訟、一切不可許容、於子孫永不可有相違、信濃守代々令忠節之旨申之条、向後弥可勤奉公者也、仍如件、
永禄十丁卯年十月十三日/上総介(花押)/瀬戸宝久
戦国遺文今川氏編2150「今川氏真判物」(浜松市北区細江町中川・瀬戸文書)

 一、住んでいる屋敷1箇所のこと(本銭5貫文。次郎法師の印あり)。坂田入道の前(ただしこれは助六郎が買い取ったという)。一、田畑2段のこと(本銭4貫文)。須部彦次郎の前。一、都田・瀬戸それぞれ半名のこと(本銭30貫文。信濃守の印あり)。袴田対馬入道の前。以上。右は何れも永代で買い取った証文がはっきりしていますから、たとえ売主などがどのような忠節をなして、訴訟を企てたとしても、一切許容しない。子孫に至るまで相違があってはならない。信濃守の代々忠節のことを言ってきたので、今後はますます奉公を勤めるように。

◆永禄10年12月28日 匂坂直興、祝田禰宜に、徳政が認可されるとの状況を伝える

月はくニ候而無御披露候ゆへ、当年相澄候ハす候而、此方ニ而越年候、さりなからかわる儀候ハぬ間、可有御心易候、就中、彼儀も御そうしや少も御隙なく候而、相とゝのわす候、はるハ早々相調可申候間、我等ニまかせられへく候、小但と此方ニ而談合申候、可有御心易候、何も此分御心得候へく候、よくゝゝそなたにて御おんみつニ候へく候、恐々謹言、
十二月廿八日/匂左近直興(花押)/祝田禰宜殿まいる、「上書:自駿府 匂左近 祝田禰宜殿まいる」
戦国遺文今川氏編2160「匂坂直興書状」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 年末でご披露がないので、当年では済まず、こちらで年を越します。とはいえ変わることはありませんので、ご安心くださいますように。とりわけ、あのことは仲介者に少しの隙もなくて調整できませんでした。新春は早々に調整していきますので、私にお任せ下さいますよう。小野但馬守とこちらで打ち合わせました。ご安心下さい。どれもこの調子で行けばご承認いただけるでしょう。くれぐれもあなたは内密になさいますように。

◆永禄11年8月3日 匂坂直興、祝田禰宜に、徳政執行に当たり礼物を出すことを要求する

徳政之事すまし候て、関越より御状井次ヘ一つ、家中衆へ一つ遣之候、先以御心易候、都田のも一つ取候、祝田・都田両郷之事ハ、何も惣次■■へく候、小但へ委細申候間、小但を能々被頼入候て、軈而井次より被仰付候様ニ尤候、此上者誰人も異儀被申間敷候、一ちんせんの事ハ銭主申やう有間敷候、我等主ニなり候て、御城の用意ニてつはうなり共たまくすりなり共、一かたかい候て御城ニ置候ハんよし、此方ニ而関越へも安助へも申定候、殊ニ二三年銭主方なんしう申候而、田畠渡候ハぬ上者、とかく申やう有ましく候由、小但へも申入候、能々小但ニ談合尤候、一御礼物之事、関越へ五貫文、安助へ三貫文ニ約束申候而、我等此方ニ而一筆を仕候、今度便ニ我等かたへ二三人より御礼物の借状可給候、大事の事ニ候間申事候、一都田の衆ハ礼物ハ別ニ可有候、借銭之多少ニよつて可有之候、此由瀬戸衆・都田衆へ内々にて可被申候、十郎兵ニも申候、此年来御百姓衆よりも我等口惜存候つるか本望候、百姓衆ハ我等せいニ入候事ハ■■[さほ]とハ御存有間敷候、一安助其地へ御越之事候間、今度徳政御きも入忝候とて、永楽二十疋の御樽代にて先々御礼申候て尤候、さやうニ候ハねハ百姓ハさのミそセう候ハぬに、我等きも入候なとゝ御そうしやも可被存候、たとへ銭主方此上 御上意へ御そせう申候共、何時も安助頼入候而可申入申候、今度先々御樽代にて出候て尤候、当所務被仕候て、やかて関越・安助御礼物之事ハとゝのい候やうに、かくこかんようにて候、其まへニさへ少ハ調度候、千ニ一つも銭主方 上様へ御訴訟申候共、あいてにハ此上ハ次郎殿にて可有候間、申やう有間敷候、殊ニ我等あいてにてい■■御心易可有候、又我等やとへ代物少の調候て御渡頼入候、すへのかんちやうニたて申へく候、長々在府之事候間、御すいりやう候へく候、や■へ用の事申越候間、まちまへニすこしなり共御わ■し頼入候、やとへも申こし候、返々本望候、恐々謹言、我等かたより岡殿井河へも申候、又其地さうせつのよし候間、とりしつめ候て被仰付候やうに、小但へ可被申候、
八月三日/匂左直興(花押)/禰宜殿参、「上書:自駿府 匂左近 祝田禰宜殿まいる」
戦国遺文今川氏編2181「匂坂直興書状」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 徳政のことを済ませまして、関口氏経からのお手紙を井伊次郎へ1つ、家臣たちへ1つ出しましたので、まずはご安心下さい。都田にも1つ取りました。祝田・都田の両郷のことは、どちらも惣次で行なうように、小野但馬守へ詳細を申しましたので、小野但馬守をよくよく頼み込んで、すぐに井伊次郎より指示を出されるのがもっともなことです。この上は、誰であっても異議を唱えることはなりません。一、陣銭のことは、銭主が介入するのはなりません。私が主となってお城の備えとして鉄砲なり弾薬なりを一通り購入して城内に備蓄すると、関口氏経にも『安西』にも報告しています。特に2~3年は銭主が難渋すると言って来ても、田畑を渡さない上は、何も言わせませぬよう、小野但馬守にも伝えています。よくよく小野但馬守と相談するのがもっともです。一、ご礼物のこと。関口氏経へ5貫文、『安西』へ3貫文の約束で、私がこちらで一筆いたしました。今度の手紙で私の方に2~3人からご礼物の借状をいただくように。大事なことだから申します。一、都田衆の礼物は別にあるように。借銭の多少によって用意するよう。このことは瀬戸衆・都田衆に内々で伝えますように。十郎兵にも伝えて下さい。この年来、御百姓衆よりも私が悔しく思っていたので本望です。百姓衆は私が努力したことはそれほどご存知ないでしょう。一、『安助』がその地へお越しになりますので、「今度の徳政を援助いただいてありがたい」として、永楽20疋の御樽代でまずはお礼を申し上げるのがごもっともです。そのように言わなければ、百姓はそれほど訴訟していないだろうから、私が助力するまでもないと御奏者がお考えになるでしょう。たとえ銭主の方でこの上にも御上意を得ようと御訴訟したとしても、いつでも『安助』を頼んでおけばよいので、今度はまず御樽代を出すのがもっともなのです。この所務を取り回して、すぐに関口氏経・『安助』への御礼物のことが調うように覚悟が肝心です。その前であっても少しは調えたく。千に一つでも、銭主から上様へ御訴訟があったとしても、相手にはこうなったら次郎殿がいるでしょうから、訴状は上がらないでしょう。特に私が相手になりますから、ご安心下さい。また、私の宿所へ物品を少し用意してお渡し下さるようお願いします。細かい勘定に用立てます。長々駿府にいましたので、ご推察下さいますよう。宿所へ用事をご連絡されるかもしれないので、町前に少しでもお渡しいただけるようお願いします。宿所にも伝えてあります。返す返す、本望です。 私から『岡殿井河』へも伝えます。また、その地で不穏な噂があるそうなので、取り静めて報告するように小野但馬守にお伝え下さい。

◆永禄11年8月4日 関口氏経、井伊次郎法師に、徳政の執行を命ず

其谷徳政事、去寅年以 御判形雖被仰付候、井主私被仕候而、祝田郷中・都田上下給人衆中、于今徳政沙汰無之候間、本百性只今許詔申候条、任 御判形旨可被申付候、寅年被仰付候処ニ、銭主方令難渋、于今無其沙汰儀、太以曲事ニ候、此上銭主方如何様之許詔申候共、許容有間敷候、為其一筆申入候、恐々謹言、
八月四日/関越氏経(花押)/井次参
戦国遺文今川氏編2183「関口氏経書状」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 その谷の徳政のこと。去る寅年にご判形をもってご命令になったとはいえ、井伊主水佑が私的譲歩をして、祝田郷中と都田上下の給人衆中が今も徳政を行なっていないと、本百姓が現在訴訟してきたので、ご判形の通りにせよと申し付けられました。寅年に仰せ付けられましたところに、銭主が難渋して、今もその処置がないこと、本当に遺憾です。この上は、銭主がどのような訴えを申し立てても、許容することがあってはならない。そのために一筆を申し入れます。

◆永禄11年8月4日 関口氏経、井伊氏一門・被官に、徳政の執行を命ず

其谷徳政之事、去寅年以 御判形雖被仰付候、井主私被仕候而、祝田郷中并都田上下給人衆之中、于今徳政沙汰無之間、本百性只今許詔申候条、任 御判形之旨ニ可被申付候、寅年被仰付候処、銭主方令難渋、于今無沙汰儀、太以曲事ニ候、此上銭主方如何様之許詔申候共、許容有間敷候、為其一筆申候、恐々謹言、尚以、各々無沙汰無之様ニ可被申付候、以上、
八月四日/関越氏経/伊井谷親類衆・被官衆中
戦国遺文今川氏編2184「関口氏経書状写」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 その谷の徳政のこと。去る寅年にご判形をもってご命令になったとはいえ、井伊主水佑が私的譲歩をして、祝田郷中ならびに都田上下の給人衆中が今も徳政を行なっていないと、本百姓が現在訴訟してきたので、ご判形の通りにせよと申し付けられました。寅年に仰せ付けられましたところに、銭主が難渋して、今もその処置がないこと、本当に遺憾です。この上は、銭主がどのような訴えを申し立てても、許容することがあってはならない。そのために一筆を申し入れます。追記:さらにもって、各々が無沙汰にならぬようにご指示下さい。以上。

◆永禄11年9月14日 今川氏真、瀬戸方久に、井伊谷で買い取った土地を保証する

於井伊谷所々買徳地之事。一、上都田只尾半名、一、下都田十郎兵衛半分、永地也、一、赤佐次郎左衛門名五分二、一、九郎右衛門名、一、祝田十郎名、一、同又三郎名三ケ一分、一、右近左近名、一、左近七半分、一、禰宜敷銭地、瀬戸平右衛門名、已上、右、去丙寅年、惣谷徳政之義雖有訴訟、方久買得分者、次郎法師年寄誓句并主水佑一筆明鏡之上者、年来買得之名職同永地、任証文永不可有相違、然者今度新城取立之条、於根小屋蔵取立商買諸役可令免許者也、仍如件、
永禄十一戊辰年九月十四日/上総介(花押)/瀬戸方久
戦国遺文今川氏編2188「今川氏真判物」(浜松市北区細江町中川・瀬戸文書)

 井伊谷において買い取った土地のこと。一、上都田の只尾半名。一、下都田の十郎兵衛半分(これは永地である)。一、赤佐次郎左衛門名の五分の二。一、九郎右衛門名。一、祝田十郎名、一、同又三郎名3分の1。一、右近左近名、一左近七の半分。一、禰宜の敷銭地、瀬戸平右衛門名。以上。右は去る丙寅年に谷全体で徳政のことで訴訟があったとはいえ、方久が買い取った分は次郎法師と家老の誓紙、井伊主水佑の一筆で明瞭であるから、今まで買い取った名職・永地は、証文の通りに末永く相違がないように。ということでこの度新城を築造しているので、根小屋・蔵の建設を負担するので商売の税は免除する。

◆永禄11年11月9日 関口氏経・次郎直虎、祝田禰宜・百姓に、徳政の実効を保証する

祝田郷徳政之事、去寅年以 御判形雖被仰付候、銭主方令難渋、于今就無落着、本百性令許詔之条、任先 御判形旨許詔、不可許容者也、仍如件、
永禄十一辰十一月九日/関口氏経(花押)・次郎直虎(花押)/祝田郷禰宜其外百姓等
戦国遺文今川氏編2193「井伊直虎・関口氏経連署状」(浜松市北区細江町中川・蜂前神社文書)

 祝田郷の徳政のこと。去る寅年に御判形によってご命令になったとはいえ、銭主が抗議して今も落着しない。本百姓が訴訟してきたので、先の御判形のとおりに許容しない。

2017/04/20(木)北条氏直が「沼田は落とした」と書いてしまった件

原豊前守は実名が胤長で、千葉邦胤の後見役。反後北条もいた千葉宗家で親後北条として指示に従っていたらしい。その胤長へ氏直が送った書状がまた勢い余っている(天正13年比定・戦北2855)。

原胤長はどうやら援軍要請を氏直に出したようなのだが「それどころじゃない」的な文面であれこれ書いている。沼田を攻め落として越後国境まで平定し終わったみたいに書いているが、実際には沼田城は落とせていない。誇大報告は戦国大名がよく出すけど、ちょっと盛り過ぎじゃないかなあ。

書面之趣一ゝ得心候、然者其地為仕置、疾雖可令出勢候

書状の趣旨は一つ一つ諒解した。だからそちらへの措置のため、早く出勢するべきだが、

遠州衆於信州真田与対陣、沼田表へ之手合頻ニ所望候間、令出馬

徳川が信濃で真田と対陣し、沼田方面へ援護攻撃するよう頻りに要望するので出馬した。

森下城不移時日責落、楯籠候敵数百人切掛

森下城は時間もかけずに攻め落として守備していた数百人を切り殺し、

其上向沼田城押詰陣取、越国境奥境迄、在ゝ所ゝ不残一宇、沼田庄打散、明隙候

その上で沼田城に向かって陣取り、越後国境の奥までの村は一軒残らず、沼田庄は打ち壊して手が空いた。

此上遠州衆へ立使候条、依彼返答、直ニ其表へ可令出馬候

この上で徳川へ使者を出したから、その返答によっては直接信濃へ出馬するだろう。

其半之仕置、何分ニも堅固ニ可被申付候

そちらの半手(?)の措置はどれも堅固に指示するように。

万乙無心元道理有之而、人衆所望ニ付者

万が一心もとないということで部隊要請があるならば、

出馬以前為加勢、一手も二手も可遣候

出馬する前に加勢として一手も二手も派遣する。

存分重而以糊付可被申越候、恐ゝ謹言

存分は重ねて糊付けの書状で送る。

猶以不及申候へ共、畢竟其方稼ニ相極候

更に、言うまでもないことだが、全てはあなたの活躍で決まることだ。

原文

書面之趣一ゝ得心候、然者其地為仕置、疾雖可令出勢候、遠州衆於信州真田与対陣、沼田表へ之手合頻ニ所望候間、令出馬、森下城不移時日責落、楯籠候敵数百人切掛、其上向沼田城押詰陣取、越国境奥境迄、在ゝ所ゝ不残一宇、沼田庄打散、明隙候、此上遠州衆へ立使候条、依彼返答、直ニ其表へ可令出馬候、其半之仕置、何分ニも堅固ニ可被申付候、万乙無心元道理有之而、人衆所望ニ付者、出馬以前為加勢、一手も二手も可遣候、存分重而以糊付可被申越候、恐ゝ謹言、猶以不及申候へ共、畢竟其方稼ニ相極候、
九月八日/氏直(花押)/原豊前守殿
戦国遺文後北条氏編2855「北条氏直書状」(東京国立博物館所蔵文書)

2017/04/20(木)白読のすすめ

解釈が原文と乖離することがあって、それは比定というファジーなものが入っているからじゃないか。だったらその手前に比定を入れない白読を入れたらどう? という話。

古文書の解釈というのは、実は白読と比定に分かれると考えている。

<白読は「文の意味を深読みせずに文をストレートに読む」こととしてここでは述べる>

白読自体は、そんなに特殊技術じゃなくて、ある程度の経験をこなせば独学でも可能だ。どちらかというと、他の文書と語の使い方を比較して意味を追い詰めていく作業になる。

その後で、白読だけでは確定できない人名や地名と年月日を推測していく。これが比定。年が判らないから人物から追ったり、人物を決めるのに年を使ったり、地名も合わせて試行錯誤を繰り返していく。比定者の知識が問われるほか、確証バイアスがかかるから、人によってずれることもある。

方向性から見て両者は異なる。だからシンプルに考えて、白読と比定は分けた方がいいはずだが、この白読的な事柄は余り戦国史では表に出てこない。一気に比定して解釈に行き着いてしまう。

なぜ切り分けないかというと、比定を重視して白読自体を変えてしまうことがあるからだろうと思う。誤記や筆写誤解などもあるし偽文書だってある。だから文書群全体の整合性を優先して比定の流れを作っていくのは確かに有効だろう。

ただ比定を重視し過ぎるのはおかしくないだろうか。

今ちょうど調べている文書を例にして説明してみる。

飛札令披閲候、氏政上洛延引之儀、内証被申聞、喜悦之至ニ候、秀吉心底難量候上者、於氏政可為隔意候歟、猶期後慶時候、恐ゝ頓首
十二月八日/氏直(花押)/前田源六郎殿御宿所
小田原市史資料編後北条氏編1985「北条氏直書状写」(古文状)

白読「飛脚の書状を拝見しました。氏政上洛延期の件、内証で申し聞かせていただき、とても喜んでいます。秀吉の心底が測りがたい上は、氏政においては隔意をなすだろうというのでしょうか。さらに後の慶時を期します」(高村)

この解釈は下山治久氏監修の2書で分かれている。

「北条氏直が前田源六郎に、北条氏政の上洛の遅延について羽柴秀吉の内々の気持ちの情報提供に謝礼し、秀吉の本心を知らなければ氏政の心を動かせないと述べる」(『戦国時代年表後北条氏編、』以下『年表』と略す)

「前田源六郎に北条氏政の上洛が延期されて嬉しいと延べ豊臣秀吉の心底は計り知れないと伝えた」(『後北条氏家臣団人名辞典』以下『家臣団辞典』と略す)

年表の「秀吉の本心を知らなければ氏政の心を動かせない」という部分は解釈者の思惑が入り過ぎているように感じる。秀吉内心が測り難いに続く「上は」を重視して仮定文にしたのかも知れない。秀吉の本心が判らないならば→氏政は隔意を抱き続ける、という図式だろう。しかし、続く文が「歟」で終わる疑問文だから仮定とは考え難い。現代語でいう「上は」ではなく「上に」という文意だとすると「秀吉の本心が判らない上に、氏政が隔意をなすというのでしょうか」となって自然な流れになると思う。

私が見た文書では現代語「上に」も「上者」を用いていることがある。逆に「上ニ」「上仁」は見つけられず、この時代は「上者」が「上に・上は」を兼ねていたのかも知れない。

家臣団辞典の「氏政上洛が延期されて嬉しい」は明らかにおかしい。この前日付けの条書で氏直は、氏政上洛遅延を叱責し交戦状態に入ろうとしている羽柴方に釈明をしている。延期されていないのは氏直が承知している。

思うに「喜悦之至」言葉に引きずられ「であれば上洛延期交渉が成功した」と比定者は推測したのだろう。しかし氏直が喜んでいたのは「内証被申聞」という源六郎の内密の連絡に対してである。それは白読から見ても正しい繋がりだ。

こうして見ると、年表は後半が、家臣団辞典は前半が白読と乖離して比定者の予断を取り込んでしまっている。最終的な解釈に至る前に、文章本来の姿である白読部分を確定させると、こういった混乱は防げるのではないかと思う。

※両書ともに、なるべく同時代史料によって記述され文書番号も記載している手堅い内容なのだけれど、それでもこういった予断が入り込むことがある。というか、むしろ目立つからこそ私のような素人でも指摘し易い。そして、リファレンスを見たら必ず原史料を確認する必要があると改めて痛感する。