2017/04/20(木)北条宗哲覚書フルテキスト

[]でくくった部分は、文の横に振ってっあった部分で、大体は振り仮名となっている。

おほえ
一、きら殿御屋かたと申されへし、こなたの御やかたをハ、おたハら御屋かたと申てよく候、又ハ小田原殿とも、様とも申されへく候
一、御もしうちにてハ、上さまと申候ハん事もちろん、こなたかたへの文の上かきせうがう候ハてかなハぬ事にて候、なに殿といふ御名[ナ]づけ候てもつとものよし、けんあん申候つると、大かた殿へ申給ふへく候、これハ正月の文より入候へく候
一、大かた殿をハ、御たいはうと申されへく候、たゝしこなたかたへの御文にハ、大かたとのとやわらけ御かき候てよく候、心ハ一つにて候
大方[たいはうこゑのよミ ひくわんしゆのことハおうかたよミ]これはひつきやうしてハおなし事也、大上様[おうかミさま]とも申物也一、きら殿の御前[マヘ]へゝまいり候ハん物、上らふとりつき給ふべく候、又後[ノチ]ゝの事ハ、あまりきやくしんも、かへりてわるく候へく候
一、しうけんのときのもやう、あなたのしたてしたる人の申やうにせられ候へく候、大くさなにと申なとゝたつね申候とも、おほえ候ハぬと、返[ヘン]たう候へく候
一、さためてつねの三こんにて候へく候、さやうに候ハゝ、ほんほんのしき三こんにて候へく候、さやうに候ハゝ、くほによくたつねられ候て、したいちかハぬやうに候へく候、つねの三こんにて候ハゝ、へちきなく候ほとに、やうかましく申されましく候
一、三こんの三さか月、しうけんのときハ三ツにて御まいり候物にて候、せつく、ついたちにハ、さ候ハねともくるしからす候、いわれハ御なりの時ハ、上に候かわらけ一ツにて三とまいり候
一、引わたしのときくハへの事、くハへハいて候へくとも、くハへ候ハぬ物也、そのことくに御さた候へく候、しき三こんの時ハもちろんにて候
一、みうち衆御れい申され候ハんやうたいの事
せたかや殿の御いへにつきたるおとなしゆをハ、一つれに、そのしゆはかり御あひしらい候へく候、三のまへん[御つきのさしきの事]にて、ひきわたしにて、上らふしやうはんしかるへく候、御つきと申ても、しやうしひとへの所なとハあしかるへく候
一、ほりこし殿の御いへよりつきてまいりたるおとなしゆをハ、一とに御あひしらい候へく候、あひしらいハおなし御事にて候
一、おとなしゆニ御さか月給ハん時、しやく申候ハん人なく候、上らふせんをおしやふり給ふて、おくへ御たち、御さか月にちやうしそへて、御いてまいらせ候、これにてよく候へく候
一、きんしゆの衆御れい申候ハんやうたいおとなしゆとすこし引かへて候てよく候、これもさしきハおなしさしきにて候へく候、御さかつきハかり給へく候、かさ月のくきやうにくミ付候物候
一、おとなしゆ、きんじゆ衆御返[ヘン]れいのありやうハ、一両日すき候て、御ひきよういちうもんそへ、高はしかうさへもんを御たのミ候て、つかハされ候へく候
一、高はしかうさへもんにこそて御やり候ハんハ、三日の御しうけんのうこ過候時[シ]ふん、御とをりへめし候て、つかハされ候ハんか、これハ大かたとのへよくたつね申され、御いけんのやうに候へく候、もしじよの人ゝおもふ所も候、むよう候と御いけん候ハゝ、ミつしむくのすけをつかゐとして、やとへ御おくり候へく候、さ候とも、ひろふたにハ入ましく候、つゝらなとふせいに入候て、とりいたし、ひたりのてにてすへ、右[ミギ]のてにてうへををさへ、まいらせ候へく候、一さい下ての人に御つかい候こそて、ひろふたにハすへ候ハぬ物にて候、たとへて申候、くほうさまより、三くわんれいはしめめんゝゝにくたされ候も、ひろふたさた候ハす候、御一そくの御かたきら殿、石[イシ]はし殿、しぶ川殿なとへ、御ふくまいられ候事も候つる時も、ひろふたハいて候ハぬよし、いせのひつちう物かたり候、そう二なとハ、きんしゆ候へハ、見およひ候つるとて候、くけ衆御けらいへも、同事とて候、みのとき殿にて、さくかくニいたされ候ことてを、れん中よりひろふたにすへていて候時、ほうこうのきやう衆はらい候つると、そう二物かたり申候、ついてのさいかく御心へ候へく候一、おたハら二御屋かたより御れいき候へく候、御つかゐおとなしゆ御あひしらいのことく引わたしにて候へく候、きんしゆの衆にて候とも、屋かたの御つかゐにて候ハゝ、御あひしらいハおなしかるへく候、屋かたハ今くわんれいにて候、その御つかゐハ御ほんそう候ハてかなハぬ事候
一、一そくのしゆ、さん三との、新三郎ことき、いつれもれい申候ハんつかゐ、御屋かたの御つかいとハすこしかわり候へく候、大かたとのへ御たんかう候て、あひしらゐ給ふへく候
一、水主むくのすけ、比木つしよ、すへゝゝまてもまいりかよふへく候か、御ねんころ候へく候、大屋、なかたなとも、ひくわん一ふんのものにて候、御めかけ候て、御ようをもおほせつけ候へく候
一、清水[シミツ]、笠原[カサハラ]御れいにまいり候ハゝ、おとな衆御あひしらいのことくにて候へく候
一、御むかゐにまいりたるおとなしゆへハ、つきの日ミつしむくのすけつかゐとして、よへハ、御しんちうと、上らふより仰とゝけ、よく候へく候、たつしいかゝ候ハん哉らん、かうさへもんに御たんかう候へく候、御れい申され候て後にも、つかゐ御やり候ハんか、かうさへもんいけんに御まかせ候へく候
一、しん三郎かたへの御れいきハ、春よく候へく候、大かた殿へたつねあわせ申され候へく候
一、あき人しゆ御れいにまいり候へく候、御あひしらい、此ほと大かた殿ニなされつけたるやうにあるへく候
以上、大りやく此ふんか
一、正月くわんさんよりかゝミ、子のひ、七日、十五日いわゐ、大かたとの此とし月なされつけたることくにて候へく候、そのふんけんあん申候つるよし、御ことわりよく候へく候
三月三日、五月五日、みな月、七月七日、八さく、九月九日、いつれもおなし
一、いのこもちゐの事、きんねんおたハらにしかゝゝと御いわゐ候ハぬまゝ、やうたい人わすれ候、されともきゝおよひ申候ふんハ、御まへゝまいり候四はうの上につミたるもちを、一つつゝ御はさミ、ちやくさのめんゝゝ衆ハ三くわんれい、山名[ナ]、一色[シキ]以下[イケ]のかたゝゝへ被進候、其後[ソノノチ]たれにても御ともしゆ御せんをもちて、御とをりへいてられ候て、しこうの御ともしゆ、きんしゆへいたるゝさよし承候、国ゝにある大めいハ、代官をのほせはいりやう候、大裏[リ]の御やうたいをも、西[にし]殿へ尋申候、当関白さいせんにはいりやう候て、したいに大なこんまてはいりやう候、これハ女房[ほう]しゆのいたさるゝとみえ候よし、御物かたり、しか■ハ御いわゐ候ハん時ハ、上らふへハさしきにハさミてまいらせられ候へく候、中らうへハ上らふはさミ候ていたされしかるへく候、おもてハ、おもてにての御いわゐにて候へく候まゝ、申事なく候、このいわゐハ、天りやくの御かとの御とき康保[かうほう]年ちう、むらさきしきふいたしたると、ふるき物にハみえ候、大りの御まつりことかくゝゝのうちにて候、ぶ気[ケ]に御いわゐも、たかうちいらゐハくけに御なり候まゝ、御いわゐにて候へく候、ついてのなまさいかく申候
一、さとうしゆまいり候ハゝ、御さか月給、御ひき給候へく候、あたなかたに候ハんするさとうしゆまいり候ハゝ、御ねん比ハ候へく候、なれなれゝゝしくハ御おき候ましく候、ついてに御心へ候へ、さとうとても、おとこのめのくらきにて候、女中[シヨチウ]かたへあんないなしに立[タチ]入物にてハなく候、てんかそのふんにて候、やすき事やうしゆゐん殿の御とき、うちつなくわ一と申候けんきやう候つる、へいけ御きゝ候とて、われゝゝおほえ候て、からかミのまへ、一とめし候つる、その時もやうしゆゐんとのハおくのまに御さ候、きんねんさとうと申せハ、いつれもおくかたへまいり候、心へかたく候へとも、御国ふりにて候まゝ、一人して申されす候、たゝしミん一なとまいり候ハゝ、御心やすく御よひ候てもくるしからす候、おさなくより御しり候、又としよりぬ候か、ふつつか物にて候、御ねんころよく候へく候、さ一これ又おなしこときの物にて候、その外ハなれゝゝとハめし候ましく候、さて候とも、さとうしゆなと、三こんのなとのうちにハ、御しやうはんにハめし候ましく候、御つきにて給候か、又御またせ候て、のちに御さかな給候て、くこん給候へく候、うこの時ハ、御しやうはんくるしからす候、てんしんとうせんの事候、かやうの事ハ、へいせいもかたきをめされつけ候て御をき候へく候、きんねんこゝもとさためかたく候て、きハゝゝとも候ハす候、するかなとハ、さやうの事、きハめてしきはうゝゝにて候、御かくこ候へく候、
十二月十六日/そう哲(花押)/宛所欠
戦国遺文後北条氏編3535「北条宗哲覚書」(立木望隆氏所蔵宮崎文書)

2017/04/20(木)北条氏政引き籠り事件はあったのか?

上洛を嫌って引き籠もったという説を持っている北条氏政だが、事実はどうだったのかを史料から検討

 「氏政が上洛を渋った」という論拠になったかも知れないのが『氏政引き籠もり事件』の存在。これは北条氏規書状写(11月晦日付け・酒井忠次宛・戦北3548)に書かれている。戦北ではこの状況を開戦直前の天正17年に比定、その前後にある「氏政上洛遅延」と絡めて解釈している。ここから「上洛するのが嫌で開戦した氏政」みたいな評価にも繋がっている可能性があるなと。

 ただこの文書は、下山年表や黒田基樹氏『小田原合戦と北条氏』で天正16年比定としていて、私もこちらの比定が正しいと考えている(11月に入ってすぐに名胡桃事件が発生していてタイミングがおかしい点、引き籠もりの契機となった氏規上洛は天正16年8月で、それが同年11月まで継続したと考えた方が自然な点から)。

 問題の箇所は、氏規が忠次に書いたと思われる書面「御隠居様又御隠居」に対応して、その理由を説明した部分になる。

問題箇所原文

去拙者上洛之時分より無二御引籠、聊之儀ニも、重而者御綺有間敷由、仰事ニ御座候シ、無是非御模様与奉存候

下山氏

北条氏政は氏規の上洛に反対して屋敷に引き籠もり無言の抵抗をしている

黒田氏

氏規の上洛以後、それに反発して政務の場に出なくなって、一切政務に口出ししないという状態

高村

前に私が上洛した時分から強引にお引き籠もりになり、少しのことであっても、再び変更を言い立ててはならないと仰せになっていました。揺るぎないご様子だと思っています。

 下山氏・黒田氏ともに、フィルタを通して解釈してしまっているように見える。氏政の上洛が遅延したことは事実であり、それと結び付けて「氏規の上洛に反対する氏政」という思い込みから解釈しているのではないか。

 また、恐らく「重而者綺有間敷」と「無是非御模様」の解釈も、それぞれの両義性を無視してしまい、一面的に解釈しているのではないか。

 「綺=いろい」の意味は実例を見ても「異議申し立て・再審議要求」で問題ないと考えられる。下山・黒田各氏の解釈だと「(上洛してほしくない氏政の気持ちには)少しも再度の変更はない」といった感情面に行き過ぎた、括弧書きの多い内容になってしまう上、「綺」をこのような用途には使わないという点に難がある。

 「聊之儀ニも=ほんの少しのことでも」「重而者=かさねて=二度と」「綺有間敷=異議申し立てしてはならない」と言って氏政は引き籠もったのであって、そのまま解釈すればよいと思う。

 ということで、異議申し立てを禁止するからには何かを決定したのだろう。そして、その決定の再審を封印するために隠居の上の隠居を敢行したと言える。

 一方の「無是非=ぜひもない」は実例を見るとA~Dの4パターンが存在する。私が収集した文書データで検索をかけると、この文書を除いて48例が見つかった。

  • A)やむを得ない 19例 不本意な状況で
  • B)明白・明らか 16例 証明する状況で
  • C)手の打ちようがない 7例 状況不明で
  • D)弔辞 6例 「不本意」のバリエーション

 基調となる意味は「論ずるまでもない」でよいのだが、語の範囲が広い。氏政の行動を「無言の抵抗」とまで言う下山氏解釈はA、それよりは中立的な黒田氏解釈はCに該当すると思われる。私は、再審を禁じた氏政の行動を受けての文なのでBではないかと考えている。

 では、氏政が固守しようとした「決定」とは何なのか。

 北条氏規の上洛は天正16年8月のこと。この前の5月21日付けの家康起請文で「進退の保証はするから兄弟衆を上洛させよ。従わないなら家康娘を返してほしい」と言われている時期で、7月23日になっても「濃州上洛依遅延」で家康から催促されている。この混乱を経た氏規上洛で「後北条は羽柴に出仕する」という関係が固められた。氏政籠居はこの従属関係を固定させるためのもので、何者かが「従属か決戦か」の判断を覆し、再論にまで引き戻そうとしていたのだと考えられる。

 この、通説と異なる氏政像は他の文書と矛盾するだろうかと、色々と見ているがこれまでのところ矛盾は見つからず、かえって補強する材料が出てきている。

 たとえば、沼田接収での差配も氏政が氏邦に指示を出しているし、その書状の中でも自身の上洛を「我ゝ一騎上ニ而済候、多人衆不入候」と、少人数での実施として現実的に想定している(小田原市史資料編小田原北条1952・北条氏政書状)。

 では、何故氏政が主戦・独立派として通説に上がってくるのか。

 天正15年と17年の12月、戦闘が近づくと氏政は招集や普請に関する書状を出し始める。これをもって、氏政が独立派であり上洛を忌避したというストーリーが組み立てられたのではないだろうか。

 ところが、史料から見られる像としてはむしろ氏規と連携した従属派に近いと思う。独立派として私が現段階で想定しているのは、伊達家との同盟を過信した氏直・氏照だが、こちらはまだまだ実証にまでは至らない。

 実はこの文書、とても重要なことが書かれているのは確かなのだけど、読めば読むほど解釈が判らなくなる魔魅のような存在で、私の力量では仮説を立てるのも覚束ない難物。このほかにもいくつもの疑問点があるが、上記のように、とりあえず判るところだけを書きぬいてみた。

原文

内ゝ今日者可申上由、奉存候処、一昨廿七日之御書、只今未刻奉拝見候、一、軈而御帰可被成由、被仰下候、此度者懸御目不申候事、折角仕候、二月者御参府ニ可有御座間、其時分懸御目申候て可申上候、一、御隠居様又御隠居之由、被仰下候、去拙者上洛之時分より無二御引籠、聊之儀ニも、重而者御綺有間敷由、仰事ニ御座候シ、無是非御模様与奉存候、一、一両日以前、妙音院・一鴎参着、口上被聞召届候哉、拙者所へも冨田・津田状を越申由、一昨廿七日之御書、参候シ、自元口上者、是非不承届候、将亦一昨日朝弥・家為御使参候、此口上を家へも自関白殿被仰越候間、可然御返事尤由、比一理にて参由申候シ、朝弥、自妙音院申候とて物語申候分者、此度之儀者、沼田之事ニ参候、御当方御ために可然御模様之由申候シ、定而御談合可有御座候、珍儀御座候者、可被仰下候、一、足利之儀、如何様ニも可被為引付儀、御肝要与奉存候、定而自方ゝ扱之儀、可有御座候、御味方ニさせらるゝ程之儀ニ御座候ハゝ、殿様御手前相違申候ハぬやうニ、兼而被御申上、御尤ニ御座候歟、但何事も入不申御世上ニ御座候、我等式者、遠州之事ニも何ニも取合不申候、年罷寄候間、うまき物を被下度計ニ御座候、返ゝ此度懸御目不申候事、何共ケ共迷惑不及是非奉存候、猶自是可申上旨御披露、恐惶謹言、追而、一種被下候、拝領過分奉存候、併はや殊外之まつこに罷成候、又一種進上仕候、御披露、
十一月晦日/美濃守氏規(花押)/酒井殿
戦国遺文後北条氏編3548「北条氏規書状写」(武州文書十八)

2017/04/20(木)消えた井伊次郎

戦国期に井伊家が代々使っていた「次郎」の仮名が直政以降使われなくなったことを確認し、その特異性を指摘。ただ、要因は全く見当がつかず。

「井伊次郎」といえば今川家と遠江国の関わりで何度も出てくる存在で、井伊谷で仮名「次郎」を継承している系譜。「井次」と略されつつ永禄9年まで確認できる。

その近世的後継者である彦根の井伊家は「次郎」を名乗ったかというと、それはない。『藩史大事典』による通称名一覧では以下の順番で並んでいる。

直政 虎松
直継 万千代
直孝 弁之介
直澄 亀之介
直興 全翁

「全翁」は隠居名じゃないかという疑問はさておき、その後は、兵助、安之介、金蔵、又五郎、金之介、又五郎、金之介、又五郎、?、庭五郎、弁之介、鉄三郎、愛麻呂と並ぶ。ちなみに有名な直弼は鉄三郎。

じゃあということで『寛政譜』を当たる。こちらには直政より前が記されているし、もう少し詳しい。直政より前代を見る。

直宗 宮内少輔
直満 彦次郎
直盛 虎松、内匠助、信濃守
直親 亀之丞、肥後守
直政 虎松 万千代、兵部少輔、侍従

何とも謎なのが綺麗に「次郎」を消していること。

同時代史料を全て見た訳ではないが、直政自身が「次郎」を名乗ったものは見つけられていない。彼が従五位下に叙任されたのは天正16年4月なので、それ以前は仮名も使わずに「兵部少輔」一本で貫いたことになる。次郎を避けたのは直政からという認識でよいと思う。

そこで、井伊と同じように側近から急成長した榊原家を見てみる。

清長 孫十郎、七郎右衛門
長政 孫十郎、七郎右衛門
清政 孫十郎、七右衛門
康政 童名亀、小平太、式部大輔、従五位下
忠政 国千代、五郎左衛門、外祖父康高の養子
忠長 伊予守、従五位下、
康勝 小十郎、遠江守、従五位下

忠長が受領名しか伝えられていないが、これは15歳以前に叙任したことと慶長9年に20歳で早世したことが影響しているのか、たまたまなのか。

叙任との関係性ということで、高家の吉良家を見た。

義定 三郎、上野介、寛永4年死
義満 民部、左兵衛督、慶長13年に13歳で従五位下に叙任、左兵衛督に改める
義冬 左京大夫、若狭守、侍従、寛永3年に20歳で若狭守に叙任
義央 三郎、左近、上野介、侍従、明暦3年に16歳で従四位下侍従となり上野介を名乗る

無官だった義定はさておき、20歳叙任の義冬が仮名を残さなかったのに対して、16歳で父より上位に叙任された義央が曾祖父と同じ「三郎」を名乗っているということは、義満・義冬も共に三郎を名乗ったものの伝わらなかっただけという可能性が高い。

徳川重臣の主だったところを見ても、藩祖の仮名は確実に伝えられている。

洒井忠次 小平次、小五郎
本多忠勝 鍋之介、平八郎
本多正信 弥八郎

やはり時代を遡ってまで「次郎」を消し、直政も忌避した点が特異に感じられる。

また更に、井伊谷の近在にいた高家・大沢家も仮名を持たない。しかもこちらは、今川家の関連文書を見ても「左衛門佐」という官途しか出てこない徹底ぶり。

一体どういう現象なのだろう……。