2025/06/01(日)『御内儀』の戦国期語意

先々週に思い立って、Geminiで以下の古文書の解釈を依頼した。

去十九日ニ於尾州口不慮之御仕合無是非次第候、然者左衛門佐殿無比類御動被思食御感候、就其被成御書候、此上之儀、御城之段、御油断有間敷候。尚以左衛門佐御事、日下者不聞得候、今度之儀者、真是非之無申事候、爰元之儀、涯分無油断被仰付候、可御心安候、境内之儀人質なと事、被仰付候者、御内儀可有之申候、恐々謹言、五月廿二日/三浦内匠助正俊(花押影)/松井山城守殿参御宿所戦国遺文今川氏編1537「三浦正俊書状写」(土佐国蠧簡集残編六)

この時のGeminiの回答は保存していないので、以下は私の記憶によるものだが、「左衛門佐」を織田信長に比定したり、「御内儀」は女性配偶者だと解釈したりしていた。そこで「左衛門佐は松井宗信」だし、「御内儀」はその前の部分が「被仰付候者」でこの主語は今川氏真だから「内々の意図」という意味だと伝えた。しかし、左衛門佐の比定はすぐに納得したのに「御内儀は妻だろう。人質管理も妻が関わっているのだから」と譲らなかった。

ということで手持ちデータから「御内儀」と「御内義」を抽出した結果、以下のようになった。

  • 明らかに女性配偶者    2例
  • どちらとも取れる     3例
  • 内々の意図の可能性が高い 4例
  • 内々の意図で確定     43例

https://docs.google.com/spreadsheets/d/1PIGRIlfygBFIB4tH4SQ0cTWwuzkbzsB7RYxQsUsskHU/edit?usp=sharing

上記より、戦国期の「御内儀」は殆どの場合「内々の意図」と見てよく、稀に女性配偶者を指すケースもあったとすべきだろう。

これを受けてGeminiともう一度話そうと考え、同一文書の解釈を依頼したところ、以下のように変わっていた。微妙に「御内儀」の直接解釈を避けている辺りが巧妙だなと感じつつ、2週間で反映するAIの学習速度が早いのも実感した。

  • Gemini回答

    去る19日に尾張の国境で予期せぬ戦が起こり、どうしようもない状況となりました。そのような中にあって、左衛門佐殿(恐らく、味方の重要な人物)は比類なき働きをなされ、そのご奮闘に大変感銘を受けました。つきましては、この書状を差し上げます。

今後のことですが、お城のことについては決して油断なさらないでください。さらに、左衛門佐殿については、今日に至るまでその安否が不明です。今回の件は、本当に善悪を論じる余地がないほどの出来事でした。

ここ(差出人のいる場所)のことについては、最大限に油断なく対処するよう命じられておりますので、ご安心ください。領内のことや人質のことについてご指示いただければ、当家で対応いたします。

2023/03/27(月)古文書との付き合い

初めての古文書

私が古文書に初めて触れたのは小学校6年の郷土史の授業。そこで用いられたのは当時刊行されて間もなかった神奈川県史資料編3下から引用されたものだった。

  • 神奈川県史資料編3下9277「北条家定書」(小沢秀徳氏所蔵文書)


    一、於当郷不撰侍・凡下、自然御国御用之砌、可被召仕者撰出、其名を可記事、但弐人
    一、此道具弓・鑓・鉄炮三様之内、何成共存分次第、但鑓ハ竹柄にても、木柄にても、二間より短ハ無用ニ候、然者号権門之被官、不致陣役者、或商人、或細工人類、十五・七十を切而可記之事
    一、腰さし類之ひらゝゝ、武者めくやうニ可致支度事
    一、よき者を撰残し、夫同前之者申付候者、当郷之小代官、何時も聞出次第可切頸事
    一、此走廻を心懸相嗜者ハ、侍にても、凡下にても、随望可有御恩賞事
    已上
    右、自然之時之御用也、八月晦日を限而、右諸道具可致支度、郷中之請負、其人交名をハ、来月廿日ニ触口可指上、仍如件、
    丁亥七月晦日/日付に(虎朱印)/栢山小代官・百姓中

  • 解釈

    規定
    一、この郷においては武家と一般人を選ばず、万が一御国の御用があった際には、召集する者を選び出して、その名を記すこと。但し2名とする。
    一、この武器は弓・鑓・鉄炮の3種類のうちでどれでも希望に合わせる。但し鑓は竹柄であっても木柄であっても、2間より短かいものは無用である。そして権門の被官であると称して陣役を担わぬ者、もしくは商人、細工人の類いでも、15~70歳で区切って記載すること。
    一、腰の指物の類いはヒラヒラと武者めくように支度すること。
    一、よき者を選ばず、人夫同前の者を選出したならば、この郷の小代官を、いつでも聞き及び出次第、首を切るだろうこと。
    一、この活躍を心がけ励む者は、侍でも一般人でも望みのままに御恩賞を与えるだろうこと。
    以上。
    右は、万が一の時の御用である。8月晦日までに、右の諸道具を支度するように。郷単位で請け負って、その人名一覧を来月20日までに触口へ提出せよ。

1587(天正15)年に、羽柴氏との決戦を覚悟した後北条氏が分国内に広く発布した朱印状で割合有名なものである。

これを用いて教師は「栢山の住民で動員令が敷かれて、15歳以上の男性は皆徴兵対象になった。当時とでは社会環境が異なっているものの、中学校卒業前後の男の子は無理やり武者っぽい格好をして参集しろと言われたのだ」と説明したのを覚えている。「栢山ってあの栢山? じゃあ箱根でも集められたのか」とクラスの皆は愕然としていた。

一方で私は「400年前の記録がそのまま残っているのは凄い」と感心してしまった。藁半紙で配られたプリントにあった漢字だらけの文章に惹かれていくのが判った。その後戦国遺文後北条氏編が刊行され、少しずつ古文書を読んでいった。

途中で進路に史学科を選択する可能性もあったのだけど、趣味と生業を混交しては楽しめないと考えてあえてその道は選ばなかった。

画期となったのは、「ひらゝゝ、武者めくやうニ」との出会いから20年経ってから。太田牛一が書いたとされる『信長公記』での桶狭間合戦のくだりを読んで頭の中が疑問符だらけになった。「事実しか書いていない」と本人が書いたということで一級史料と呼ばれ、この記述の真意を巡って諸説が入り乱れているのだけど、到底真実とは思えない。そこで、もっと信憑性の高い同時代史料を徹底的に読み込んでみようと思い立った。この辺の経緯は、小説として公開している『パラフレーズ』に書き込んでみた。

そこから一気に古文書解釈の面白さに取り憑かれ、気の向くままに史料をデータ化していったのだけど、やはり土地鑑のある東駿河・西相模が調べやすくて徐々に興味対象が東に流れていった。

古文書を解釈する際の手順

それが合っているかは判らないけれど、私が解釈を施す際の手順や注意点を書き記してみる。

1)原文を全て入力する。

意外とここが大事。一語ずつ入力していくことで、記述者の文章構成を追体験できる。数をこなしていけば、頻出する語や繋がりが見えない文節に徐々に気づくようになる。

2)本文を最後まで現代語に置き換えてみる。

意味不明なものは括弧でくくってそのままにしておく。ここで無理に解釈してしまうと、後々自己矛盾を生じる可能性が高くなるため、疑問に思った文は迷わず括弧内に入れてしまうこと。

3)辞書で語義を確認。

意味のとり方が怪しい語があれば、辞書は当てにせず、他例から検索して事例集を作成する。「被越」や「走廻」のような頻出語であっても、用法に疑問を感じたら丹念に他例を負うのが望ましい。意外な語彙を見つけることも多い。

4)比定していく。

「比定」というのは、具体的な情報への置き換えを指す。たとえば、漠然と「屋形様」とか「上総介」とか書かれているものを、具体的に誰なのかを確定させていく。現在の通信と同じく、当事者同士が熟知している事項はあえて書かれたりはしない。このため、具体的に何を指すのかを推測していかなければならない。非常に重要な作業。

まず、その文書の前後関係を年表やコーパスから抽出し、差出人と宛所、言及事項がそれぞれどういう状況かを調べる。この際に人名・地名・年の比定をしっかり行なう。調査範囲によるが、後北条氏所領役帳・武蔵田園簿が比定に役立つ。同時代史料を用いた検索も同時に行なうこと。

5)文章の肉付けをしていく。

文章の構成や表現方法などから、差出人がどのような心情で、何を伝えたかったのかを検討する。たとえば、言いづらいことを書く際に人は2つのアプローチをする。まずありそうなのは、曖昧な言い方を連ね諄いほどの言葉を溢れさせる場合。そして、それとは真逆でそっけなくささっと短く書いてしまう場合。どちらにしても、その違和感を感じ取って深追いしなければならない。そうなると逆に「読み込み過ぎでは?」という疑念を自らに抱くようになるだろう。それは必須の留意点で、いつでも原文に舞い戻り吟味に吟味を重ねることで見えてくるものがある。

2018/11/05(月)長尾景虎書状を巡る疑問点

長尾景虎書状に関して、門外漢がこの文書のみを読んだという前提で疑問点を挙げてみる。私の知識は今川・後北条関連に大きく偏っているため、越後国の表現や語用は判らないまま読んだ。

広い範囲で関連文書を読み込めばこのような疑問は解消するのだろうと思う。とはいえ、上杉輝虎に疎い初見者の感触だと「どこに引っかかってしまうのか」の記録として何かの役に立つかも知れないので、記しておく。

兄候弥六郎兄弟之者ニ、黒田慮外之間、遂上郡候、覃其断候処、桃井方へ以御談合、景虎同意ニ可加和泉守成敗御刷、無是非次第候、何様爰元於本意之上者、晴景成奏者成之可申候、恐々謹言、
十月十二日/平三景虎(花押)/村山与七郎殿

  • 『上杉謙信「義の武将」の激情と苦悩』(今福匡)37~38ページ

「遂上郡候」

これは「逐上郡候」の誤記で、「上郡を逐う」と読むのだろうと思う。「遂」と「逐」はこの時代だとよく取り違えられている。こういった追放処置であれば、この後に「その断に及び候ところ」との繋がりがよい。ただ、このような表現は手元史料では見られず当て推量ではある。他家だと「追放」「追却」「追払」を使う。

「兄候弥六郎」

手元の他例を見ると「兄ニ候」「弟候」の後に続く人名は、差出人の兄弟だった。これに従って弥六郎が景虎の兄だとすると、これに続く「兄弟之者」が、持って回った表現になっていて奇妙。「兄の弥六郎の兄弟に」であれば、「私の兄弟に」と書くか、「兄候」もしくは「弟候」の後に直接その人名を書けばよい。このことから、差出人の兄ではない可能性は高いように見える。

また、弥六郎=晴景だとすると、文頭では兄としてくだけた感じで仮名を書いているのに、文の後ろでは畏まって実名を呼び「奏者」を介して報告する権威を強調している。ここに乖離があるような感触。

一方、与七郎の兄が弥六郎だとすれば、長兄弥六郎が相続その他で係争し、与七郎たち兄弟に「黒田」の知行を巡って慮外の行動を起こしたと理解可能(「兄弟共」ではないのが少し気になる)。その場合、上郡から逐われたのは弥六郎となる。

「黒田」

兄弟の知行争いであれば地名だと考えられる。そうではなく人名だとすると、上郡を逐われたのは黒田某になる。しかし、追放・成敗の事態に至る行動が「慮外」では弱い表現に感じる。他家への侵害であれば「横合非分」や「非儀」という強い表現を使うのではないか。「慮外」は利用範囲が広く、無沙汰を詫びる際にも使われる。

「無是非次第候」

「和泉守」に成敗を加える裁定に「景虎同意」したことに対して「無是非次第」とあるのは、和泉守成敗が景虎・与七郎にとって良くない決定だったとする意にもとれそう。「無是非次第」は好悪どちらにも使われるものの、それに続けて、「どうなったとしても晴景には取りなす」ような書き方をしている。これは、和泉守成敗という不利な状況で与七郎が動揺しないように書き添えたようにも見える。

「和泉守」

この人は少なくとも「弥六郎」「黒田」と同一人物ではないように見える。このどちらかが上郡追放になった措置のあとで、和泉守の成敗が行なわれているためだ。そしてまた、この成敗の動議が桃井某を経て行なわれたことから、「桃井」でもない。成敗に景虎同意が求められたことから考えると、景虎に近い人物であるかも知れない。

兄弟の知行争議だった場合は、官途名乗りであることから一族の年長者である可能性が高い。弥六郎と与七郎の騒動で和泉守が初期に調停をして、景虎を頼った。結果として弥六郎追放となったが、「御談合」「御刷」の中で、和泉守も責任を問われて処罰されたと考えられる。であれば、和泉守処分に景虎同意が必要とされ、景虎も「御談合」「御刷」に逆らえず同意した。この文脈であれば、すっきり読める。

「晴景成奏者成之可申候」

これを読み下すと「晴景の奏者となり、これをなし、申すべく候」という妙な言い回しになっている。ここは意図が推測できない。表現を迂遠にしてぼやかしたのかも知れない。