2022/03/22(火)今川氏真帰国後の居所

掛川退去後の氏真はどこにいたか

永禄11年12月に本拠地である駿府を武田晴信に追われた今川氏真は、掛川で籠城する。ここで徳川家康に攻囲されるものの、伊豆から海路やってきた後北条方の援軍を得て善戦。やがて北条氏政が家康との停戦交渉に成功し、掛川から出ることとなる。遠江国は徳川分国となり、永禄12年5月、氏真は自身の被官と後北条方援軍を伴って駿河へ入った。

  • 5月18日:氏政は大叔父の北条宗哲への書状で状況を報告

    「氏真御二方各無相違、昨日蒲原迄引取申候」(戦国遺文今川氏編2367)

  • 5月28日:氏政は自身の被官清水新七郎へ、掛川に援軍として駐屯したことを賞しつつ氏真帰国に言及

    「終氏真并御前御帰国候」(戦国遺文後北条氏編1228)

  • 閏5月3日:北条氏康は、氏真被官の岡部大和守に戦況を報告

    「氏真御二方、無相違至于沼津御着候」(戦国遺文今川氏編2382)

  • 閏5翌4日:氏政被官の遠山康光は、上杉輝虎被官の松本景繁に戦況を報告し氏真近況に触れる

    「只今者、三島近所号沼津地被立馬」(戦国遺文後北条氏編1240)

  • 閏5月21日:氏真は輝虎に宛てた書状で近況を報告

    「去十五日駿州号沼津地納馬候、当地氏政陣下三島為近所之間、諸事遂談合」(戦国遺文今川氏編2400)

5月17日に遠江国の掛川から駿河国の蒲原に移る。ここには北条宗哲の息子である北条氏信が在城。翌閏5月3日には更に東へ移動して沼津に入った。黄瀬川を挟んだ三島には氏政の本陣があり、ここに居を据えて駿河国全域の奪還を目指すと上杉輝虎に伝えている。

このように、氏真を擁した後北条方は駿河国から武田方をほぼ撤退させるに至るものの、7月3日には富士大宮城を奪われてしまう。その後晴信の小田原急襲を経て、同年12月6日に蒲原城、12日には薩埵峠も失陥。深沢城・興国寺城は維持していたものの、戦況は悪化しており、氏真は沼津から離れたようだ。

  • 12月18日:氏真は自身の被官興津摂津守の功績を称える

    「就今度不慮之儀、当城相移之処、泰朝同前、不準自余令馳走之段忠節也」(戦国遺文今川氏編2434)

文面から緊急退避した様子が伺われる。対比先の「当城」は地理的に考えて韮山城だろう。

上記を勘案すると、閏5月3日から氏真は沼津にいて12月18日より前に韮山城へ退去したと考えるのが妥当である。氏真が退避したのは蒲原・薩埵の陥落によって沼津近郊の安全が保証されなくなったためだと思われる。

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氏真が大平にいたとする仮説の信憑性

通説での氏真は沼津から南にある戸倉か大平にいたとされる。戸倉にいたとするのは江戸期の編著史料である『北条記』によるもので、大平とするのは同時代史料の存在が影響している。

北条記による戸倉説は同時代史料の範疇外なので顧慮しないとして、氏真が駿河大平にいたというのは以下の虎朱印状の解釈による。

後北条家、吉原の矢部将監に鈴木某の身元調査を命ず

原文

鈴木令帰往由、入御耳候、彼者親敵へ相移由候条、実否可令糺明間者、可他出由申付処ニ、不審候、若者大平へ如何様ニも申上有仁、被為返候哉、自最前之筋目知候間、申付候、彼者糺明之間、吉原ニ置事無用候、此印判を大平へ致持参、右趣可申上候、猶鈴木父、信玄へ不出仕条、歴然之所申開ニ付而者、不可有別条状如件、
巳潤五月十五日/日付に(虎朱印)石巻奉之/吉原矢部将監殿

戦国遺文後北条氏編1250「北条家虎朱印状」(矢部文書)1569(永禄12)年比定

解釈

鈴木が帰住したと耳にした。彼の父は敵方へ移ったというので、実否を調査している間は追放せよと指示していた。不審なことだ。もしかしたら、大平に巧妙に申告した者がいて帰住したのだろうか。直近の状況を知っているので指示する。彼を調査している間は吉原に置くことは無用である。この印判を大平に持参し、右の趣旨を申し上げよ。なお鈴木の父が信玄へ出仕していないのが明白ならば、帰住に問題はない。

これは吉原の矢部将監に宛てたもので、鈴木某が吉原に帰住したと聞きつけた氏政が発したもの。これより先に、鈴木の父は武田方に寝返ったという情報があり、その真偽を確認するまでは鈴木を吉原から追い出せと指示していた。この時に氏政は「大平は鈴木父の件を知っているのか」と疑問を感じており、経緯を大平と共有するように矢部へ命じている。

この鈴木某は、恐らく鈴木善右衛門尉だろう。開戦最初期の永禄11年12月24日に吉原へ宛てた虎朱印状では宛所の名義が「矢部将監殿・渡辺兵庫助殿・鈴木善右衛門尉殿・石巻代市川殿・山角代鈴木弾右衛門殿」となっているが、1月晦日の虎朱印状では「太田四郎兵衛殿・鈴木弾右衛門尉殿・矢部将監殿」と、後北条家中の江戸衆である太田四郎兵衛、小田原衆山角氏の被官鈴木弾右衛門尉の名が先に挙げられ、今川家中では矢部将監しか残されていない。

この「大平」を地名と解釈し、氏真が大平にいたと読んだのが大平居住説の論拠だろう。しかしこの解釈は無理がある。三島にいた氏政からすれば、吉原の矢部に「大平へ問い合わせろ」というよりも直接大平の氏真に確認した方が早い。その上で鈴木の帰住許可をどうするか矢部に指示するのが合理的だ。

武田家内通を疑っている人物が吉原に入り込んでいるかもしれない時に、氏政が「この印判を大平に持参しろ」と書いているのも妙だ。矢部が吉原から大平移動せねばならず、その間は吉原が手薄になってしまう。氏政は基本的に現場判断に委ねつつ「ちょっと事情を確認して。前に疑いがあったから」と、咄嗟の念押しをしている。仰々しく三島・吉原・大平を言ったり来たりするような内容ではない。

また、虎朱印状は後北条家中で効力を発揮するものであり、当主が被官に対して発するのが前提である。さらに言うと、朱印・黒印といった印判状は薄礼で後北条氏でも外交文書や感状にはほぼ使われない。分国が崩壊したとはいえ駿河太守である氏真に対して、この朱印状を見せろと言うだろうかと疑問に思う。虎朱印状内で「これを代官・抗議者に見せろ」と書いている例はあるが、家中外に向けて掲示させるような例はない(戦国遺文後北条氏編1776・小田原市史資料編小田原北条1391/1572など)。

対武田方戦をともに行なっていた今川家有力被官(富士兵部少輔・岡部和泉守・三浦左京亮)に対しても、氏政は虎朱印状を使わず書状で連絡している。

※一方で、矢部・杉本・秋山・武藤といった駿東の小規模被官には虎朱印状を用いている。これは永禄11年12月の開戦初頭からのもので、戦時制圧した領地は終戦まで実効支配するという枠組みによるものだろうか。この点は検討を要する。

何れにせよ、対等な太守である氏真を自身の朱印状で追求する行動を氏政がとるとは考えづらい。

このように、行動手順・書札礼から考えれば「大平」は人名で、吉原の後北条方拠点にいた責任者だったとする方が齟齬がない。

後北条方では4月15日に大平右衛門尉が確認できる。

  • 4月15日:虎朱印状で大平右衛門尉・江戸刑部少輔・江戸近江守を緊急動員

    「敵動火急之由告来候間、早ゝ人数を集、来廿一日当地迄着陣待入候、普請動無寸隙、御苦労無是非候、雖然、自敵至懸儀無拠候者、塩味専要候、猶御仁体へ、重而可申候」(戦国遺文後北条氏編1408)

この書状は永禄13年に比定されているが、その前年の比定でも矛盾は生じない。また、大平右衛門尉と同じく武蔵吉良家に仕えている高橋郷左衛門尉は永禄12年1月13日にはこの戦線への投入が確認されている。このことから、永禄12年閏5月15日時点で大平右衛門尉が吉原にいる可能性はある。

氏政が大平に直接朱印状を発しなかった理由は不明だが、吉原統括者となって日が浅い大平よりも、元から吉原にいた矢部を動かした方が早いと判断したと考えられる。

この時点で沼津が戦場だったか

もう1点、氏真が狩野川より南にいたと判断された根拠として武田晴信の3通の書状がある。永禄12年比定で「伊豆に攻め込み三島で勝利した」と自身の被官に報じたもの。これがあるため「武田方は三島まで攻め込んでいるため沼津は拠点確保できなかった」という先入観を持つこととなり「氏真が沼津に留まり続けられる筈がない」という予断を招いたものと思われる。

武田晴信、某に駿河国への攻撃状況を伝える

原文

今度向豆州出馬任存分、則当城へ移陣候、仍富士兵部少輔属穴山左衛門大夫、種々懇望之旨候、但分量之外訴訟数多之間、可赦免哉否思案半ニ候、何ニ当表之本意可為五三日之内候条、可心易候、次ニ由比又四郎召寄候之処、存命不定之煩、因茲先方万沢迄返候、猶土屋平八郎可申候、恐々謹言、
七月朔日/信玄御居判/宛所欠

戦国遺文今川氏編2407「武田晴信書状写」(塩山市・菅田天神社文書)1569(永禄12)年比定

解釈

今度伊豆国に出馬して思うがままにし、すぐにこの城へ陣を移しました。富士兵部少輔は穴山左衛門大夫に属したいと様々に懇望しています。ただ、とても訴訟が多いため、赦免するかどうかは思案半ばといったところです。どちらにせよこの方面で目標を達成するのは数日でしょうから、ご安心下さい・次に、由比又四郎を出仕させようとしたところ、生死も危うい病気ということで先方が万沢へ返しました。更に詳しくは土屋平八郎が申します。

武田晴信、玉井石見守に駿河国内の戦況を伝える。

原文

従是可申越之処、態音問祝着候、抑今度向豆州、及不虞之行、三島以下之悉撃砕、剰於于号北条地、当手之先衆与北条助五郎兄弟遂一戦、味方得勝利、小田原宗者五百余人討捕候、則小田原へ雖可進馬候、足柄・箱根両坂切所候之条、駿州富士郡へ移陣候、然者大宮之城主富士兵部少輔、属穴山左衛門大夫、今明之内ニ可渡城之旨儀定、此上者早速可令帰国候、猶土屋平八郎可申候、恐ゝ謹言、
七月二日/信玄(花押)/玉井石見守殿

戦国遺文今川氏編2408「武田晴信書状写」1569(永禄12)年比定

解釈

こちらからご連絡しようとしたところ、わざわざご連絡いただき祝着です。今度は伊豆国へ思いがけず作戦を行ない、三島以下全てを撃破。更には北条という地で、こちらの先遣隊が北条助五郎兄弟と一戦を遂げて味方が勝利し、小田原方の主な者500人余りを討ち取りました。、すぐに小田原へ馬を進めようとしましたが、足柄・箱根の両坂は険難なので、駿河国富士郡へ陣を移しました。大宮城主の富士兵部少輔は穴山左衛門大夫に属して今日・明日のうちに城を明け渡すのは確実です。この上ですぐに帰国するでしょう。更に土屋平八郎が申します。

武田晴信、大井左馬允入道に駿河国の戦況を伝える

原文

従三島直ニ向大宮出張、諸虎口取破詰陣候之処、対于穴山左衛門大夫、城主冨士兵部少輔悃望之間、令赦免、城請取、当表悉達本意候、此上城内法置等成下知、三日之内ニ可納馬候、可被存心易候、恐々謹言、
七月三日/日下に(朱印「晴信ヵ」)/大井左馬允入道殿

戦国遺文今川氏編2409「武田晴信書状写」(大井文書)1569(永禄12)年比定

解釈

伊豆国三島からすぐに駿河国富士大宮に出撃し、諸虎口を破って陣を詰めたところ、穴山左衛門大夫に対して、城主の富士兵部少輔が懇願したので赦免して城を受け取りました。この方面は全て望み通りとなりました。この上は城内に法を置いて指示を下して、3日以内に帰陣するでしょう。ご安心下さいますように。

ところが、この段階で武田方が三島に到達した証跡はない。北の御厨口は深沢城があり、西は蒲原・薩埵・富士大宮を抑えている。この直後に武田方が富士大宮を無力化させたのは確かだが、三島から富士大宮に行ったのではなく、右左口か身延を経て甲斐から直接攻撃したのだろう。実際、武田家の禁制は身延から富士大宮に向かう範囲にのみ出されている(静岡県史資料編8_45・46・53・54・55・56・57・58)。

晴信は虚報を発する例がある。たとえば、下記のように「伊豆一国を撃破して先月下旬に帰還し、更に5日には武蔵国御獄城を乗っ取り軍備を整えた」とある。

武田晴信、太田資正に伊豆・武蔵の戦況を伝え協力を求める。

原文

其已後者、通路無合期故、絶音問意外候、仍去月、向豆州覃行、一国悉撃砕任存分、下旬之比帰府、剰云五日、武州御獄之城乗取、則令普請、移矢楯・兵粮、甲信之人数千余輩在城候、然而至関東、早々可致出陣候、弥味方中無異儀様、調略憑入存候、恐々謹言、
六月廿七日/信玄(花押)/太田美濃守殿

静岡県史資料編8_0039「武田晴信書状写」(太田文書)1569(永禄12)年比定

解釈

それ以後は交通阻害で意に反してご無沙汰していました。去る月伊豆国に作戦を行ない一国全てを撃破し思うままにしました。更には5日に武蔵国御獄の城を乗っ取ってすぐに普請し、矢盾・兵粮を移して甲斐国・信濃国の兵員数千人余りを在城させています。そして関東に向かって早々に出陣するでしょう。味方に対しては異議が発生しないように、ますますの調略をお願いします。

ところが実態は異なり、伊豆国襲撃がないどころか、武蔵国御獄城から上野国長根城付近に攻め込まれ小幡三河守が後北条方に寝返っている(埼玉県史料叢書12_0360/戦国遺文後北条氏編1265/1271)。対抗する後北条方が虚報を伝えている可能性もあるが、氏政から由良成繁への援軍依頼や、平沢政実による長根への禁制から見ると他者をより多く巻き込んでいる点や、文書で登場する地名・人名が具体的であることからその可能性はないと見てよいだろう。

こうした晴信の虚報には氏康も翻弄されたようで、氏邦に対して注意を喚起している。

北条氏康、駿河国戦況を伝え、北条氏邦に武蔵国での軍事行動を指示

原文

■三日書状廿八日到来、具令披見候、一、今春向西上州相動、所ゝ放火敵数多討捕之由心地好候、各参陣人数又無分■人数書立令披見候、一、敵重而大瀧筋日尾之山口動候哉、か様之せゝり動ハ五■■七日不経可有之候、各為宗者懸廻ニ付而ハ不残可■兵候、其口ニ者請取之人数を定、切所際ニ指置郷人等をも相集、兼日ニ路次をも切塞、以普請待懸ニ付者、待方ニ可有勝利候、只兼日普請ニ極候、一、信玄ハ向富士城大宮ニ被陣取候、多勢之由申候、大瀧口へ出張者可為虚説候、口ゝにて信玄をかさし物ニ申候、大宮口ハ、歴然之陣取たる虚説有間敷候、一、矢鉄炮用所候由候、無際限召仕候、一疋一腰も不入候、何とて嗜無之候哉、不及是非候、一、御獄仕置先書如申、先当意者なため、小田原へ非可申入儀間、平沢・浄法寺共可致和融由、如何にも身ニ成懇ニ可被申候、猶致様者以使可申候、恐ゝ謹言、
六月廿九日/氏康(花押)/新太郎殿

小田原市史資料編小田原北条0978「北条氏康書状写」(新田文庫文書)1570(永禄13/元亀元)年比定

解釈

23日の書状が28日に到来し、詳しく拝見しました。
一、今春に西上州へ作戦を行ない、あちこち放火して敵を多数討ち取ったとのこと、心地よい思いです。おのおの参陣した兵員数の一覧を拝見しました。
一、敵は重ねて大瀧筋の日尾之山方面に動いているのでしょうか。そのようなつっつきは5~7日を経ずに起きるでしょう。おのおので主だった者を駆け回らせるよう兵を集めておくように。要路には受け持ちの部隊を定めて、要所に配置し村人も集めなさい。その前に道路を塞いでおき、普請して待ち受ければ勝利するでしょう。ひたすら、事前の普請で決まります。
一、信玄は富士城大宮へ陣取りました。多勢とのこと。大瀧口への出撃は虚説でしょう。口々に信玄をかざして言っているのです。大宮口は歴然とした陣取りで虚説ではありません。
一、矢・鉄炮が必要らしいですが、際限なく徴発すれば兵站は不要です。どうして事前の準備がないのでしょう。是非もありません。
一、御獄城の措置は先の書状で伝えた通りです。まず当意の者をなだめ、小田原へ訴えることがないように、平沢・浄法寺を和解させるよう、どうやっても懇切に説得するように。更なる指示は使者が申します。

まとめ

氏真滞在状況の史料精査から見て、彼が永禄12年の閏5月3日から12月17日までは確実に沼津に拠点を据えたと考えられる。

翌永禄13年4月26日に、北条氏康は小田原西方の海蔵寺・久翁寺に宛てて禁制を出し、この保証者に富士常陸守・甘利佐渡守・久保新左衛門を指名している。これは、早川右岸に今川被官が駐屯しており、近隣の寺社を保護する必要があったものと思われる(富士常陸守・甘利佐渡守については、後に武田氏が今川旧臣として記載)。

状況を考えると、永禄12年12月18日以降に氏真は韮山城を出て小田原西方の早川村近辺に転居したのだろう。

2022/03/21(月)連署の順番は序列を表すか

連署=序列かどうか

書状の差出人が複数存在する「連署」という形態がある。この時に記名の順番は地位の序列に基づくのか、基づかないとすればどのような基準で名の配置が決まるのかを考えてみる。

専門家の見解は少々ややこしい。

『古文書学』(伊木寿一)p108~109

上下両段に多数が連署する文書にあっては、上段は右から左に、下段は左から右にゆくにしたがってその人の地位が低くなり、最後の者が日附の下に署名することになっている。そしてこの日下署判の人がその文書の執筆者かあるいは取扱者であるのが通例である。

一般に充書に近い方が上位者で、日附の下の者が最下位かあるいは取扱者、責任者である。尤も上包みの懸紙では右が上位で左が下位である。

また親が後見で子が当主である場合には、当主が日下に署判し後見は次行に連署するなど、いろいろの仕方があるが、それも伊勢流・曽我流・大館流などの書札礼の規定と実際とでは必ずしも一致せぬ場合は少なくない。

この説明は奇妙に思える。日付の下の者が「最下位かあるいは取扱者、責任者」だと、最も地位が低い者と案件責任者が同一となってしまう。管理監督責任の概念が近代以前の日本には存在しないのであれば責任者=下位者もあり得るのだろう。しかし、少なくとも戦国期においては上位者になるほど決裁権限が強くなる傾向があり、その分だけ上位者の責任は重くなっている。

それでは、伊木氏の把握した文書解釈をどう理解すればいいだろうか。案じてみると、日付の下の者は「取扱者」であり、連署の順番は家中の序列を表さないという解釈であれば腑に落ちるような気がする。

つまり、日付の下に名を置いた者が文書を作成。その左側に、連帯承認者として連署してほしい者の名を記していき、最後に宛所を配置。作成者は稟議のような形で次の連署者に渡した。連署する順番に制約はないものの、後ろにいくほど最終確認者に近くなっていく。最後に花押を据える者が、他の連署者の花押状況を見て、最も確定した状態で文書を確認することになるからだ。このため、一見すると上位者のようにも見えてしまう。

そう考えると、「当主・隠居」の順番が一定でなかったり、花押を据えていない者が混じっていたり、略押・印判で代用する者がいたりする状況が理解できる。

実際の運用例

手持ちのデータで差出人が連署となっているものは301件。

差出人連署一覧 rensho_all.pdf

その中で数が多い羽柴秀吉を取り上げてみる。秀吉が入っているものは39例。

羽柴秀吉の連署状一覧 hideyoshi_rensho.pdf

位置がかなり変動しているのが判る。連署相手は丹羽長秀・明智光秀・滝川一益が目立つが、その順序は固定ではない。時間・地域の要素で使い分けているとも見えない。花押の有無も微妙で、場合によっては光秀が花押を据えたのに次の秀吉に花押がなく、その後ろの一益は花押を据えたというものもある。かと思えば秀吉花押があるものも存在するから、花押がないものは稟議時に秀吉が掴まらなかったからと考えた方が理解しやすい。

効率がよさそうな稟議ルートを起案者が設定でき、かつ押印不在でも通してしまう不文律があったのが戦国期連署状の有り様だろう。

稟議書を回した個人的経験によると、回覧や承認の順序はきちっと行なわれるわけではない。押印を渋る総務を説得するために先に法務押印をもらったり、留守がちな部門長の押印がなくても決裁が通ったりする。一見するときちんと承認されている稟議書だが、作成する際にはよく「ダンジョンのスタンプラリー」と揶揄されるほどに混沌した状況だったりする。

例外的な連署

日付の下の者は名だけなのに、続く者が花押を据えている例も4つあるが、それぞれの状況が乖離していて解釈が難しい。作成者が連署者の一段下の奉者という位置づけだろうか。

  • 「藤吉郎秀吉・次秀勝(花押)」

    豊臣秀吉文書集0311「羽柴秀吉・秀次連署判物」(鈴木康隆氏所蔵文書)

天正9年2月のもので野村弥八郎の跡目を相続を認めたもの。8年3月の奉加状では「羽柴藤吉郎秀吉(花押)・羽柴次秀勝(花押)」と連署しているから、野村からの要望を受け秀吉が名前だけ書き加えた例外的措置だろうと思われる。

  • 「伊勢千代丸・孝哲(花押)」

    戦国遺文下野編1281「小山秀綱・政種連署書状」(奈良文書)

小山伊勢千代丸は天正3~5年で4通の文書を独自発給しているが、いずれも幼名名乗りで花押がない。この無理が通らなくなったのか、連署として父の秀綱が自署している。ただしあくまでも発給主体は伊勢千代丸であることを示したかったのかもしれない。

  • 「幻庵奏者大原丹後守・宗哲(花押)」

    戦国遺文後北条氏編1591「北条宗哲判物」(宝泉寺文書)

これは寺領地図に北条宗哲の朱印「静意」が3つ捺されている特殊なもの。このため、奏者として大草丹後守(康盛)は花押を据えず、宗哲のみに承認者を絞ったのではないか。

  • 「馬場美濃守奉之・(武田勝頼花押)」

    静岡県史資料編8_1331「武田勝頼感状」(荻野三七彦氏所蔵文書)

こちらは朱印状とするべきところを急遽判物に変えたものだろう。感状は通常花押を据えるものだが、馬場が勘違いして作成してしまったのだろう。

※更にこの類例として、宛行状写での「朝比奈紀州奉之・氏真(花押)」(戦国遺文今川氏編1592)があるが、これは文言から信憑性に課題があるので考察範囲から除外している。

まとめ

連署の順番は序列ではなく、稟議順である可能性が高い。根拠は、同一人物・同一時期の連署で並びが入れ替わること、花押を欠いたままの人物がいても発給されることが挙げられる。連署の先頭(日付の下の人物)はその文書の発給主体(発議者)であり、本人だけの署名では効力が弱いために連署者を指定して稟議にかけていると見られる。

2021/05/29(土)天正元年の韮山城攻防戦

北条氏規と韮山合戦

北条氏規の書状を新たに見つけたので解釈・考察を試みる。

天正元年8月、駿河侵攻中の武田晴信に韮山城が攻撃されていた時のもので、岩田弥三という人物に韮山籠城の状況を伝えつつ、銃器の増援を要請している。

原文

急度注進申上候、今日者敵未明ニ当城へ取懸申候、かつ田も不致候、町場・和田島両口へ取寄申候キ、町場を致払候、我々自身懸合申江川はし前より押返申候、■■■山角物主ニ御座候、大藤涯分走廻候、然者和田島ハ伊奈四郎・小山田・武田左馬助此衆物主、両度対和田島致可払由候キ、涯分及坊戦押返、今日者為焼不申候、定而明日者惣手を以、可致候由存候、見合指引可申付候、乍去御心安可被思召候、随者今、午尾、遠山新四郎かせ者、敵へ走入申候、其後信玄はたもとしゆ十八町へ鑓を取候而、段々ニ被帰候間、十八町へてつほうを重堅固申付候、只今申被引退候、惣手之人数入申候、先日も申上候てつほう不足ニ御座候、はなしてハ御座候間、筒ハかり借可被下候、若十八町之■やく何共迷惑奉存候、有様ニ申上候旨、可預御披露候、恐惶謹言、
八月十日/助五郎氏規/岩田弥三殿
鉢形領内に遺された戦国史料集第三集p104「北条氏規書状写」(岩田家系録文書)

解釈

取り急ぎ報告します。今日は敵が未明に当城へ攻撃してきました。苅田もせず、町場・和田島の両口へ攻め寄せました。町場からの『払い』をするため、我々自身が応戦し、江川橋の前から押し返しました。山角が物主で、大藤がとても活躍しました。

そして和田島へは伊奈勝頼・小山田信茂・武田信豊が物主となり、二度にわたって和田島に対して『払い』を試みていたようですが、目一杯防戦して押し返し、今日は焼かせませんでした。

きっと明日は総攻撃をかけてくるだろうと思います。とはいえ、状況に応じた駆け引きを指示しますから、ご安心下さい。そしてこの午の下刻、遠山康英のかせ者が敵方へ逃げ込みました。その後、武田晴信旗本衆が鑓を取り、十八町へ徐々に帰っていきましたから、十八町へ鉄炮を追加配備するよう指示しました。

現状では敵が退いていますが、全ての兵力を入れてくれば、先日も申しましたように鉄炮が不足します。射撃手はいますので、銃身だけをお貸し下さい。十八町への供出といわれてもお困りでしょうが、ありのままを申し上げます。宜しくご披露下さい。

考察

各地名

伊豆の国市が公開している『韮山城「百年の計」』内の「第2章韮山城跡の調査・研究1韮山城跡の研究史(p21~)、2韮山城跡の発掘調査概要(p31~p50)」の6ページ目に詳しい。

稀出語

「致払」が固有語のように使われている。他例がないが、一定領域に対して敵軍を排除する意味合いだと思われる。

「走入」の解釈

引用元の戦国史料集では「突撃」と解釈しているが、他例の「走入」は戦場だと「敵に投降する」ことを指す。後北条は兵数が劣っていたため、「かせ者」(武家の付き人)が逃げ込んだのだろう。武田方がそれを受けて兵を引いたのは、かせ者から情報を得るためだと考えられる。

誰に伝えたものか

結句の「恐惶謹言」が厚礼であること、鉄炮供出を岩田弥三が「披露=具申」するように求めていることから、氏規は弥三を介して上位者に呼びかけたものと思われる。8月13日付の「大石芳綱書状」から、氏康・氏政は小田原、氏邦は鉢形にいることが確実なので、氏照かも知れない。8月21日に泉郷へ禁制を出している宗哲が最も可能性が高そう。同じ韮山城に入っている氏忠にこのような戦況を報告するとも思えないので、宗哲が三島に入っていたか。山角康定書状から、韮山城の軍勢が寄せ集めであることが判る。そう考えると、宗哲の下につけられた岩田弥三は氏邦から貸し出された人材だったかも知れない。

関連文書

1)北条氏政から北条高広に宛てた書状

原文

九日之註進状、今十二未刻、到来、越府へ憑入脚力度ゝ被差越由、祝着候、然而敵者、去年之陣庭喜瀬川ニ陣取、毎日向韮山・興国相動候、韮山者、于今外宿も堅固ニ相拘候、於要害者、何も相違有間敷候、人衆無調、于今不打向、無念千万候、縦此上敵退散申候共、早ゝ輝虎有御越山、当方之備一途不預御意見者、更御入魂之意趣不可有之、外聞与云、実儀与云、於只今之御手成者、笑止千万候、能ゝ貴辺有御塩味、御馳走尤候、恐々謹言、
八月十二日/氏政(花押)/毛利丹後守殿
小田原市史資料編小田原北条0985「北条氏政書状」(尊経閣所蔵尊経閣文庫古文書纂三)

解釈

9日の報告書が今日12日未刻に到来しました。上杉輝虎への依頼で度々飛脚を出されているそうで、喜ばしいことです。

さて敵は、去年黄瀬川に陣取って、毎日韮山・興国寺へ動いています。韮山は今も外宿を堅固に維持し、要害はどこも相違ありません。兵数が準備できずに今は出撃できず無念千万です。

この上で敵がたとえ退散したとしても、輝虎が早々にご越山し、当方の備えを一途にご意見を預けないなら、さらに昵懇の意趣があってはなりません。外聞といい実儀といい、今のご所作は悔やまれてなりません。よくよくあなたもお考えになり、奔走するのがよいでしょう。

2)上記氏政書状への山角定勝添え状

原文

去九日之御状、十二参着、七日之御状、同前ニ為申聞候、御精ニ被入、切ゝ預御飛脚ニ候、祝着之由被申候、然者信玄至于今日、豆州にら山口日ゝ相動候、此時者、可被打置儀ニ無之候間、為可被遂一戦、人数悉被相集候、物主衆ハ何も懸被付候へ共、人数無調ニ候間、一両日相延、来十八九之間、必乗向可被致一戦候、勝利無疑候、敵ハ八千計ニ候、此方ニも、城ゝニ被籠置候へ共、自当地打立人数七八千可有之候、殊ニ地形可然所ニ候間、信玄可打取儀眼前ニ存候、にら山籠衆氏政舎弟助五郎并ニ六郎、其外清水・大藤・山中・蔵地・大屋三手ニ及楯籠候間、城内之儀者、可御心易候、去九日、町庭口と申所、にら山之城より、一里計外宿ニ候所ニ、山形三郎兵衛・小山田・伊奈四郎為物主、五六手寄来候所ニ、自城内人数を出相戦、敵十余人城内へ討捕候、彼地形一段切所ニ候間、敵手負無際限由申候、委氏照可申達候間、無其儀候、然ニ越御出馬御遅ゝ、不及是非候、急候間、早ゝ及御報候、恐ゝ謹言、
八月十二日/山四康定(花押)/毛丹御報
戦国遺文後北条氏編1435「山角康定書状」(尊経閣文庫所蔵文書)

解釈

去る9日の書状が12日に到着し、7日の書状も同じく伺いました。熱心にも、事あるごとに飛脚を送っていただき、祝着であるとのことです。

そして武田晴信は、今日になって伊豆国韮山に向かって毎日作戦しています。こうなると放置できないので、一戦を遂げるために軍勢を集められています。物主衆が全て駆けつけていますが、兵数が揃わずに一両日延期となり、18か19日に必ず乗り向かって一戦するでしょう。勝利は疑いありません。

敵は8千人ばかり。こちらでも城々に籠城させ、当地より出撃した兵数は7~8千になるでしょう。殊に地形が有利なので、晴信を討ち取るのは眼前だと思います。韮山に籠城しているのは、氏政舎弟の氏規と氏忠、そのほか清水・大藤・山中・倉地・大屋が三手に分かれて立て籠もっていますから、城内についてはご安心下さい。

9日に、町庭口という韮山城より1里ばかりの外宿に、山県昌景・小山田信茂・伊奈勝頼を物主として、5~6手が攻め寄せたところ、城内から兵を出して戦い、敵を十余人城内へ誘い込んで討ち取りました。その地形は一段と切所だったので、敵の負傷者は際限がなかったそうです。

詳しくは氏照がご報告しますので、省略します。しかるに、越後衆の御出馬が遅れられているのは、どうにもなりません。急いでいますから、早々にお知らせ下さい。

3)大石芳綱書状写

原文

今月十日、小田原へ罷着刻、御状共可差出処ニ、従中途如申上候、遠左ハ親子四人韮山ニ在城候、新太郎殿ハ鉢形ニ御座候間、別之御奏者にてハ、御状御条目渡申間敷由申し候て、新太郎殿当地へ御越を十二日迄相待申候、氏邦・山形四郎左衛門尉・岩本太郎左衛門尉以三人ヲ、御状御請取候て、翌日被成御返事候、互ニ半途まて御一騎にて御出、以家老之衆ヲ、御同陣日限被相定歟、又半途へ御出如何ニ候者、新太郎殿ニ松田成共壱人も弐人も被相添、利根川端迄御出候て、御中談候へと様ゝ申候へ共、豆州ニ信玄張陣無手透間、中談なとゝて送数日候者、其内ニ豆州黒土ニ成、無所詮候間、成間敷由被仰仏、払、候、去又有、御越山、厩橋へ被納 御馬間、御兄弟衆壱人倉内へ御越候へ由、是も様ゝ申候、若なかく証人とも、又ぎ、擬、見申やうニ思召候者、輝虎十廿之ゆひよりも血を出し候て、三郎殿へ為見可申由、山孫申候と、懇ニ申候へ共、是も一ゑんニ無御納得候、余無了簡候間、去ハ左衛門尉大夫方之子ヲ、両人ニ壱人、倉内へ御越候歟、松田子成共御越候へと申候へ共、是も無納得候、 御越山ニ候者、家老之者共、子兄弟弐人も三人も御陣下へ進置、又そなたよりも、御家老衆之子壱人も弐人も申請、滝山歟鉢形ニ可差置由、公事むきニ被仰候、御本城様ハ御煩能分か、于今御子達をもしかゝゝと見知無御申候由、批判申候、くい物も、めしとかゆを一度ニもち参候へハ、くいたき物ニゆひはかり御さし候由申候、一向ニ御ぜつないかない申さす候間、何事も御大途事なと、無御存知候由申候、少も御本生候者、今度之御事ハ一途可有御意見候歟、一向無体御座候間、無是非由、各ゝ批判申候、殊ニ遠左ハ不被踞候、笑止ニ存候、某事ハ、爰元ニ滞留、一向無用之儀ニ候へ共、須田ヲ先帰し申、某事ハ御一左右次第、小田原ニ踞候へ由、 御諚候間、滞留申候、別ニ無御用候者、可罷帰由、自氏政も被仰候へ共、重而御一左右間ハ、可奉待候、爰元之様、須田被召出、能ゝ御尋尤ニ奉存候、無正体為体ニ御座候、信玄ハ伊豆之きせ川と申所ニ被人取候、日ゝ韮山ををしつめ、作をはき被申よし候、已前箱根をしやふり、男女出家まてきりすて申候間、弥ゝ爰元御折角之為体ニ候、某事可罷帰由、 御諚ニ候者、兄ニ候小二郎ニ被仰付候而、留守ニ置申候者なり共、早ゝ御越可被下候、去又篠窪儀をハ、新太郎殿へ直ニ申分候、是ハ一向あいしらい無之候、自遠左之切紙二通、為御披見之差越申候、於子細者、須田可申分候、恐々謹言、追啓、重而御用候者、須弥ヲ可有御越候哉、返ゝ某事ハ爰元ニ致滞留、所詮無御座候間、罷帰候様御申成、畢竟御前ニ候、御本城之御様よくゝゝ無体と可思召候、今度豆州へ信玄被動候事、無御存知之由批判申候、以上、
八月十三日/大石惣介芳綱(花押)/山孫参人々御中
神奈川県史資料編3下7990「大石芳綱書状」(上杉文書)

解釈

今月10日、小田原へ到着した際に御書状などをお出ししたので、途中から申し上げます。

遠山康光は親子4人で韮山に在城しています。氏邦殿は鉢形におられ、別の取り次ぎ役では御状の条目を渡せないと言われたので、氏邦殿がこちらに来るのを12日まで待ちました。氏邦・山角康定・岩本定次の3人が御書状を受け取り翌日お返事なさいました。

互いに途中までは1騎でお出でになり、家老衆を使って同陣の日限を定めるか、または、氏邦殿に松田などの1人か2人を添えて、利根川端までお出でになって会談されては、と申しました。

しかし、伊豆国に信玄が陣を張っていて手が足りないので、会談などといって数日を送るなら、その間に伊豆国が焦土と化して困るので、行なえないと却下されました。

そしてまた、御越山により厩橋にご出馬する前提で、ご兄弟衆1人を倉内へ送らせる件ですが、これも色々と難航しています。もし長く証人となるなら、知行を与えようとのお考えもあり、輝虎が10~20も指から血を出して血判し三郎殿へ見せようと山吉豊守が申していると、親しく申したのですが、これも全員ご納得ありませんでした。

余りに理解がなかったので、ならば北条綱成の子を、どちらか1人倉内へ送ればどうか、または松田の子でもいいと申しましたが、これも納得ありませんでした。

ご越山が実際に行なわれてから、家老たちの子・兄弟を2人でも3人でも御陣下に置き、またそちら(越後)よりも、ご家老衆の子を1人でも2人でも滝山か鉢形に置けばよいと、建前論で仰せられました。

ご本城様はご病気が進んだか、今は子供たちをはっきりと見分けられなくなったとの風聞があります。食べ物も、飯と粥を一度に持って行けば、食べたい物に指だけをお指しになるとのこと。一向に舌が回らぬようなので、大途のことなどは何もご存知ないとのこと。少しでも快復なさっていれば、この度の事柄は一気にご意見あるのでしょうか。一向に定まりませんので、是非もないこととそれぞれが噂しています。特に遠山左衛門尉は定まりません。気の毒なことです。

私はここに滞留しても一向に用事もないのですが、須田を先に返し、私はご連絡あるまで小田原にいるようにとご指示がありましたから、滞留しています。別段用事がないのであれば帰ってよいと氏政からも言われていますが、重ねてご連絡があるまでは、待つつもりです。こちらの様子は、須田を呼び出して色々とお尋ねになるのがよいでしょうが、正体のない体たらくと言えます。

信玄は伊豆の黄瀬川というところに陣取っています。毎日韮山を攻撃して、作物を剥いでいると申されました。以前は箱根を押し破り、男女のほか出家まで切り捨てたので、いよいよこちらは手詰まりです。

私に帰るようにとご指示されるなら、兄である小二郎にご指示下さい。留守に置いた者ではありますが、早々にお寄越し下されますように。

また、篠窪治部のことは、氏邦殿へ直接申していますが、一向に応答がありません。遠山康光から振り出された手形2通を、お見せするためお送りします。詳細については、須田が申すでしょう。

追伸:追加の御用は、須田弥兵衛尉を派遣されるのでしょうか。繰り返しますが、私はこちらに滞留して用事もありませんので、帰還するようご指示を。最終的には御前のお考えに従います。御本城様の様子は全く体をなしていないとお考え下さい。この度伊豆国へ信玄が出撃したこともご存じないのだと噂になっています。

4)北条宗哲禁制(泉郷=現在の清水町)

原文

禁制、泉郷右、当郷江罷越、作毛刈取事、堅令停止了、若押而於刈取者、即搦捕可申上者也、仍如件、
午八月廿一日/日付に(朱印「静意」)/宛所欠
戦国遺文後北条氏編1440「北条宗哲禁制」(泉郷文書)

解釈

禁制、泉郷右の郷にやってきて、農作物を刈り取ることは堅く停止させる。もし強引に刈り取る者がいれば、すぐに捕縛して申し出るように。