2022/03/21(月)連署の順番は序列を表すか

連署=序列かどうか

書状の差出人が複数存在する「連署」という形態がある。この時に記名の順番は地位の序列に基づくのか、基づかないとすればどのような基準で名の配置が決まるのかを考えてみる。

専門家の見解は少々ややこしい。

『古文書学』(伊木寿一)p108~109

上下両段に多数が連署する文書にあっては、上段は右から左に、下段は左から右にゆくにしたがってその人の地位が低くなり、最後の者が日附の下に署名することになっている。そしてこの日下署判の人がその文書の執筆者かあるいは取扱者であるのが通例である。

一般に充書に近い方が上位者で、日附の下の者が最下位かあるいは取扱者、責任者である。尤も上包みの懸紙では右が上位で左が下位である。

また親が後見で子が当主である場合には、当主が日下に署判し後見は次行に連署するなど、いろいろの仕方があるが、それも伊勢流・曽我流・大館流などの書札礼の規定と実際とでは必ずしも一致せぬ場合は少なくない。

この説明は奇妙に思える。日付の下の者が「最下位かあるいは取扱者、責任者」だと、最も地位が低い者と案件責任者が同一となってしまう。管理監督責任の概念が近代以前の日本には存在しないのであれば責任者=下位者もあり得るのだろう。しかし、少なくとも戦国期においては上位者になるほど決裁権限が強くなる傾向があり、その分だけ上位者の責任は重くなっている。

それでは、伊木氏の把握した文書解釈をどう理解すればいいだろうか。案じてみると、日付の下の者は「取扱者」であり、連署の順番は家中の序列を表さないという解釈であれば腑に落ちるような気がする。

つまり、日付の下に名を置いた者が文書を作成。その左側に、連帯承認者として連署してほしい者の名を記していき、最後に宛所を配置。作成者は稟議のような形で次の連署者に渡した。連署する順番に制約はないものの、後ろにいくほど最終確認者に近くなっていく。最後に花押を据える者が、他の連署者の花押状況を見て、最も確定した状態で文書を確認することになるからだ。このため、一見すると上位者のようにも見えてしまう。

そう考えると、「当主・隠居」の順番が一定でなかったり、花押を据えていない者が混じっていたり、略押・印判で代用する者がいたりする状況が理解できる。

実際の運用例

手持ちのデータで差出人が連署となっているものは301件。

差出人連署一覧 rensho_all.pdf

その中で数が多い羽柴秀吉を取り上げてみる。秀吉が入っているものは39例。

羽柴秀吉の連署状一覧 hideyoshi_rensho.pdf

位置がかなり変動しているのが判る。連署相手は丹羽長秀・明智光秀・滝川一益が目立つが、その順序は固定ではない。時間・地域の要素で使い分けているとも見えない。花押の有無も微妙で、場合によっては光秀が花押を据えたのに次の秀吉に花押がなく、その後ろの一益は花押を据えたというものもある。かと思えば秀吉花押があるものも存在するから、花押がないものは稟議時に秀吉が掴まらなかったからと考えた方が理解しやすい。

効率がよさそうな稟議ルートを起案者が設定でき、かつ押印不在でも通してしまう不文律があったのが戦国期連署状の有り様だろう。

稟議書を回した個人的経験によると、回覧や承認の順序はきちっと行なわれるわけではない。押印を渋る総務を説得するために先に法務押印をもらったり、留守がちな部門長の押印がなくても決裁が通ったりする。一見するときちんと承認されている稟議書だが、作成する際にはよく「ダンジョンのスタンプラリー」と揶揄されるほどに混沌した状況だったりする。

例外的な連署

日付の下の者は名だけなのに、続く者が花押を据えている例も4つあるが、それぞれの状況が乖離していて解釈が難しい。作成者が連署者の一段下の奉者という位置づけだろうか。

  • 「藤吉郎秀吉・次秀勝(花押)」

    豊臣秀吉文書集0311「羽柴秀吉・秀次連署判物」(鈴木康隆氏所蔵文書)

天正9年2月のもので野村弥八郎の跡目を相続を認めたもの。8年3月の奉加状では「羽柴藤吉郎秀吉(花押)・羽柴次秀勝(花押)」と連署しているから、野村からの要望を受け秀吉が名前だけ書き加えた例外的措置だろうと思われる。

  • 「伊勢千代丸・孝哲(花押)」

    戦国遺文下野編1281「小山秀綱・政種連署書状」(奈良文書)

小山伊勢千代丸は天正3~5年で4通の文書を独自発給しているが、いずれも幼名名乗りで花押がない。この無理が通らなくなったのか、連署として父の秀綱が自署している。ただしあくまでも発給主体は伊勢千代丸であることを示したかったのかもしれない。

  • 「幻庵奏者大原丹後守・宗哲(花押)」

    戦国遺文後北条氏編1591「北条宗哲判物」(宝泉寺文書)

これは寺領地図に北条宗哲の朱印「静意」が3つ捺されている特殊なもの。このため、奏者として大草丹後守(康盛)は花押を据えず、宗哲のみに承認者を絞ったのではないか。

  • 「馬場美濃守奉之・(武田勝頼花押)」

    静岡県史資料編8_1331「武田勝頼感状」(荻野三七彦氏所蔵文書)

こちらは朱印状とするべきところを急遽判物に変えたものだろう。感状は通常花押を据えるものだが、馬場が勘違いして作成してしまったのだろう。

※更にこの類例として、宛行状写での「朝比奈紀州奉之・氏真(花押)」(戦国遺文今川氏編1592)があるが、これは文言から信憑性に課題があるので考察範囲から除外している。

まとめ

連署の順番は序列ではなく、稟議順である可能性が高い。根拠は、同一人物・同一時期の連署で並びが入れ替わること、花押を欠いたままの人物がいても発給されることが挙げられる。連署の先頭(日付の下の人物)はその文書の発給主体(発議者)であり、本人だけの署名では効力が弱いために連署者を指定して稟議にかけていると見られる。