2021/05/26(水)後北条氏の総動員と聚楽行幸

小牧・長久手の後日譚

天正12~13年、徳川家康は娘婿の北条氏直と同盟して、羽柴秀吉に当たる戦略を組んでいた。その状況が一変し、織田信雄の仲介で家康は秀吉に従属することを決断する。そのため、氏直の諒解を得てから上洛している。

天正14年11月15日、京から帰った家康は大急ぎで氏直に書状を送り、秀吉との調整がうまく落着したと伝え、関東に対する秀吉の要求を送った。内容は不明だが、恐らく氏直の上洛・出仕の要件が盛り込まれていたのは確実だろう。この時点で秀吉は関東案件を家康に委託し、今後は家康が提唱する「関東惣無事」に則ることを片倉・多賀谷・白土らに申し送っている。そして、九州に遠征する直前の翌年2月24日、家康に改めて依頼していた。

しかし、なぜか氏直も家康もその準備をした様子が全くないまま、秀吉が九州にかかりきりになっているのを横目に、1年もの間羽根を伸ばしていた。

そのまま時は流れる。天正16年12月12日に氏政は下総森山の仕置を行っていて、来春の再攻撃を予告し準備をしていた(12月5日に氏照が「来春者早々其表へ御出馬有之様ニ可令馳走候」と書いているので、この時点での家中共通認識と言っていいだろう)。

後北条氏の挙国防衛体制発動が突然発動

ところが12月24日になると「京勢催動之由」を真に受けた後北条家中は最高度の軍事緊張の中で右往左往しており、この状況は翌年1月14日まで続く。氏直・氏政だけではなく、氏照・氏忠・氏房も慌ただしく動いているから、かなり本気の対応。

その一方でこの時、家康はのんびりと鷹狩を楽しんでいたし、秀吉は肥後・豊前の一揆討伐を指示しつつ聚楽行幸の準備に忙殺されていた。この落差は何か。

後北条氏の「京勢」言及表現

天正15年

  • 12月24日:京勢至于初春可発向由告来間~万一京勢発向実儀ニ付而者(虎朱印)
  • 12月28日:京勢陣用意之由告来儀(氏政)
  • 12月28日:京勢催動儀、必然之様ニ告来間(氏政)

天正16年

  • 1月7日:京勢催動之由註進間(虎朱印)
  • 1月14日:京勢催動之由注進間(虎朱印2通)

史料を見ると、12月24と28日の記述では、羽柴方の出陣は1月とされている。そして1月7と14日のものは「京勢催動」が報告されている。

武田滅亡時に、情報がないとしてなかなか動けなかった後北条氏は、情報を得た甲信遠征では機敏に対応している。このことから考えると、確実な情報があったから動いたと見ていいだろう。

ではこの報告をしていたのは誰か。

京勢出陣の報告者

交戦中の佐竹・宇都宮や、その背後にいる上杉から流され、氏直は家康に確認。家康は否定したものの氏直は猜疑心から臨戦態勢に入ったとも考えられる。しかし、12月と1月で報告内容が「出陣準備」から「出陣」に切り替わっている。家康すら信用しなくなった氏直は、この情勢変化を誰から聞いたのかという疑問が残る。

あとは、家康が情報源だった可能性が考えられる。この時の家康の行動を家忠日記で見てみると、西三河での鷹狩を終えて12月20日前後に駿府へ帰っている。そのまま駿府で城の普請などを行ない、年が明けて1月29日に「中泉」(磐田)へ鷹狩へ。2月5日に帰還すると、17日に「聚楽行幸参加の上洛は28日」と布告(但しこれは雨天で順延し出発は3月1日)。

箱根を隔てた小田原で後北条分国が最大の臨戦態勢に入ったとは思えない行動だ。秀吉の出仕命令に服さない氏直に対して「羽柴方が出陣した」とブラフをかけたにしては、何とも緊張感に欠ける。

とすると、在京被官を活用した可能性がある。在京していれば、秀吉が聚楽行幸の直前に出陣するという荒唐無稽な情報を流すとも思えないが、京に慣れない小田原の者が行幸準備の慌ただしさを出陣準備と勘違いした可能性は捨てきれない。

この時期に在京した後北条被官は、笠原康明がいる。これは同年2月25日の施薬院全宗書状に名が出てくることからほぼ確実。

消去法になってしまうが、家康への不信感から、別個の情報源として急遽在京した笠原康明の早とちりが後北条の国家総動員を招いたというのが現状の結論になる。

御札殊臘燭一折、御懇情祝着仕候、随而従切流斎尊書并両種拝受候、忝存候、可然様御取成奉憑候、不計御上洛待入候、猶笠越可被申展候条、令省略候、恐惶謹言。尚ゝ、勅作薫物十貝・照布一端令進之候、表祝儀計候、二月廿五日/全宗(花押)/北条美濃守殿御返報戦国遺文後北条氏編4535「施薬院全宗書状」(韮山町・堀江伴一郎氏所蔵文書)天正16年比定

結局何も起きなかったことから氏直は警戒を解いて東部戦線に復帰するものの、家康への不信感は残っただろう。ちなみに、この失点があったからか、笠原康明はその後ぱっとした活躍はしなくなる。天正17年11月に沼田割譲の御礼で上洛したのは石巻康敬だった。

家康・秀吉が遅れて反応

しかしこの後、今度は秀吉・家康側で緊迫した状況になる。

家忠日記を見ると、天正16年4月27日に聚楽行幸を終えた家康が京から帰還すると、その翌日に「小田原江被仰様不相済候由候」とある。更に5月6日「相州と上と被仰様事きれやうニ」とあり、氏直と秀吉が決裂したとある。

聚楽行幸に際して家康が氏直を連れてくると秀吉が考えていて、恐らく家康は秀吉から氏直の不在を咎められたのだろう。2月25日に施薬院全宗が氏規上洛に言及していることから、家康としては「氏規をまず連れてきました」とごまかすつもりだったか(恐らく氏規上洛までは合意が取れていた)。

何れにせよ、不信感から後北条氏は音信を断っていたと思われる。

秀吉の剣幕に押された家康は5月12日に、氏直と氏政に向けて起請文を出し「今月中にせめて氏規の上洛を確約せよ」と迫っている。

何となくだが、怖い上司が長期出張している間、勝手な行動でさぼっていた部下同士のいざこざに見えてしまう。

1年以上にわたって家康と没交渉で状況が読めず、4ヶ月前までは上方との決戦を覚悟して身構えていた氏直からすると、ますます家康への疑心が強まったと思われる。

余談:聚楽行幸の序列

天正16年4月14日に行なわれた聚楽第への行幸には、織田信雄と徳川家康が参加している。3月19日に近江草津に到着した家康に比して、信雄上洛はかなり遅れたようだ(3月20日付で秀吉が「行幸前候間、早々上洛待入候」と信雄に書き送っている)。

もしもだが、聚楽行幸に氏直が参加したとして、彼はどの位置にいられたか。愛知県史にある順列を見てみる。武家で最前列に立つのは信雄。烏丸光基を挟んで家康、更に日野輝資を間に置いて秀長が続く。この後は公家衆が続き、先駆けの最後尾に秀家が納まる。

この後ろに増田や石田といった秀吉近臣がずらりと並んで、秀吉の乗輿が進み、それに扈従して利家を先頭に外様太守が列をなす。越後内乱で参加できなかったが、少将である景勝はこの序列の上位に入るだろう。更に後ろには秀勝・秀康のほか、長谷川秀一・堀秀政・蒲生氏郷らが名を連ね、最後尾が長宗我部元親。氏直が上洛した場合、入れてこの後ろ。むしろ、列にも入れなかった可能性が高い。家康被官の井伊直政ですら後ろから3番目に入っているのに。

奇跡的に氏直が上洛したとして、この扱いに彼が耐えられたかはかなり疑問。

2020/11/12(木)後北条氏の評定衆

前提

手持ちのデータとして集めた虎朱印状は1,010件あり、このうち虎朱印の下に被官・一門の名があるものは56%(563件)存在する。

従来の仮説では、これを「虎朱印を奉じる者=奉者」としてひと括りにしていたが、それらとは異なる独自の特徴を持つ一群が存在する。これを「評定衆」として定義してみる。両者を比較すると以下の差異がある。

評定衆 奉者
表記 名字を書かない 一門・出家以外は名字
肩書 評定衆を名乗る 名乗りなし
花押 原則据える 原則据えない
人数 8人 99人
件数 47 443

虎朱印の下に花押を据えた史料の一覧はこちら

まず登場したのは石巻家貞と狩野泰光。同じ年に、笠原綱信と清水康英が連署として「評定衆」を名乗った文書があるが、文書は写しである点、二人とも名字を名乗っている点、花押がない点から要検討として除外したい。

その後は狩野泰光が一貫して評定衆として登場し、永禄11年2月に評定衆としての活動を停止する。出家して一庵を名乗り、北条氏照の指揮下に異動したようだ。その4ヶ月後に石巻家貞が登場し、こちらもそれをもって活動を停止する。これを評定衆第1世代とする。

第2世代である石巻康保・依田康信・山角康定は、永禄12年~元亀3年の3年間で登場していく。その後、天正7年に康保の活動が停止するものの、康信と康定は後北条氏最末期まで活躍している。

  • 例外1:花押を据えた者としては、「奏者」と名乗った遠山直景のものが最も早い。1525(大永5)年だから、虎朱印の上に「調」朱印を捺されたりという形式模索が行われている頃でもある。ただ、直景の息子の綱景もまた虎朱印下の花押を据えている(34年後の永禄2年)。恐らくこれは、石巻家貞・狩野泰光らの評定衆とは別系統として存在した可能性がある。

  • 例外2:山中康豊は北条氏規の指揮下にあり、海に関する文書で登場する。康豊は永禄9年に1回だけ虎朱印下花押を据えている。「評定衆」の名乗りはないものの、「修理亮康豊」という名乗りは他の評定衆と同じ。この時期に虎朱印と評定衆のシステムで何かの異常が見られたか。

  • 例外3:石巻康敬は「石巻彦六郎」と名乗り、評定衆としては異例な名乗り。但し花押は据えている。この文書は、武田晴信の駿河侵攻に伴って北条氏政が駿東在陣していた際に発せられた軍事的指示。石巻家貞と康保の間にあって、石巻家が評定衆世襲だったすればだが、混乱があったと思われる。

  • 例外4:垪和康忠が天正9年に一度だけ評定衆となっている。これは天正7年に石巻康保が退場したことを受けて、康忠が評定衆に加わったかも知れない。康忠は奉者として最多の48回登場。奉者として突出した活躍が認められて、評定衆に登用されたか。

評定衆をまとめると、以下のように分布している。

氏名 評定衆 奉者 日付 備考
石巻家貞 2 0 1555(天文24)年1月21日~1568(永禄11)年6月28日
狩野泰光 7 2 1555(天文24)年3月21日~1568(永禄11)年2月10日
山中康豊 1 0 1566(永禄9)年8月28日 評定衆記載なし
石巻康敬 1 8 1569(永禄12)年5月16日 評定衆記載なし・彦六郎名
石巻康保 11 4 1569(永禄12)年6月10日~1579(天正7)年6月20日
依田康信 10 0 1569(永禄12)年10月27日~1588(天正16)年7月20日 確実な登板は1577(天正5)年2月11日
山角康定 15 5 1572(元亀3)年3月21日~1589(天正17)年6月28日
垪和康忠 1 48 1581(天正9)年10月25日

虎朱印が受給者へと伝達されるルートがどのように区分けされたかを図にまとめると以下のとおり。

inban01.jpg

これら評定衆は、石巻・狩野・山角といった根本被官のみで構成されている。一方、奉者は、上は一門の北条氏規・氏照や氏邦から、下は「万阿弥」といった出家や「中将」という出自不明な人物などがごった返しているような状況。

名字は書かないことは、必ず花押を据えて個人特定を念入りにしている点と一見矛盾する。ただ、後北条の一門(氏規・氏照・氏邦ら)が名字を名乗らない(彼らの場合は受領名のみ記載)ことと合わせて考えると、評定衆たちは擬似的に北条一門の立場を持っていたのかも知れない。

後北条家中における、虎朱印奉者(取次・指南)とは異なる階層「評定衆」が存在したことの根拠史料

三例を挙げてみる。それぞれの動きを追ってみると図の通り。

inban_02.jpg

吉良氏朝の認識

吉良氏朝が山角康定に宛てた書状では、太守(氏政か氏直)への申し立てを康定経由で行おうとしたものの、康定が出陣して不在だったので幸田定治・板部岡融成と交渉した。ところがそれでは不安であり、康定の介入を要望している。

しかし、頼りにならないとした板部岡融成は40回、幸田定治は13回奉者として登場しており、奉者としてのみ見れば、氏朝が頼みに思った山角康定の5回を大きく上回っている(評定衆と奉者を合わせても20回であり、融成の半分でしかない)。

これは、評定衆の康定が奉者である定治・融成よりも上位に存在していたことを証明するものになる。

態申候、其城為在番越山之由、極熱之時分、大儀察入候、仍年来太守江申立存分■■御人数等をも被相竈御手透ニ候間、早々自身遂参府、可申立心底候処、其方其地他行、誠以恐怖千万候、雖然只今之御世間ニ無是非為如何可有之無儀候、従先段其方引付を以幸田相憑候之間、大方彼人相憑、先使者以卒■存分可得御内儀所存候、并近年加懇切候間、江雪斎をも引入可申条、両人江其方無拠在番故、氏朝申所委細有取成可被進之由、両所へ状被遣憑入候、誠其方取持之万之一も有之間敷候得共、余無際限打過儀、外聞実儀共氏朝心底可被察候、此度可取成与者不思候、責而御陣触■迄之儀候、御真実付而者、存分被立置書状待入候、委細者周防蔵人口上申含候、恐々謹言 追而幸大、江雪斎両所へ之書状之案文進置候、月日欠/氏朝(花押)/山角上野介殿

  • 戦国大名北条氏文書の研究p306「吉良氏朝書状」

折り入って申します。その城への在番のため越山とのこと。極熱の時分に大変なこととお察しします。さて、年来太守へ申し立てている存分ですが、■■兵員を籠もらせてお手すきになりましたら、早々に自身が参府を遂げて、申し立てようと考えていたところ、あなたがその地へ行ってしまい、本当に取り乱しています。とはいえ現在のところ世情ではいかんともしがたく、どのようにもならないことです。先段よりあなたが<書き留めたもの ※>を幸田に頼んでいますから、大方はあの人にお願いしています。先の使者が卒爾にもご内意を得ようとしています。そして近年は懇切を加えていますから、江雪斎も引き入れて申請していますから、両人へはあなたがよんどころなく在番しているので、氏朝の申す所を詳しく取り成してくれるとのこと。二人へ書状を送ってお願いしています。本当に、あなたの取り持ちに万が一のこともないとは思いますが、余りにも際限なく時間が経っていること、外聞といい実態といい、氏朝の心底をお察し下さい。この度の取り成せるとは思いません。せめて御陣触が終わるまでのことです。本当のところについて、存分を立て置かれた書状をお待ちしています。委細は周防蔵人の口上に申し含めました。追伸:幸田大蔵丞・板部岡江雪斎の両所への書状の案文をお送りします。

* 「引付」を訴訟案件として使用しているのは30例中で2例。25例は「味方に引き寄せる」の用例で、2例が書き留めておくこととなっている。このことと、文面から考えてこの場合の「引付」は「書き留めておいたもの」と考えてよいと思う。

野田景範の認識

野田景範は、依田康信に直訴を試みている。これは、景範と北条氏政との取次役が氏照であり、その氏照が訴訟を握りつぶしたための対抗策である。その際に康信を頼っているのは、彼が評定衆として奉者(氏照)の上位に存在していたためだろう。

(前欠)小田原へ申上候処ニ、其時之様子書付を以可申越候、可預御裁許之由蒙仰候段、氏照御返答候之間、同十四日ニ相認、滝山へ申届候処ニ、尓今不被御披露候之哉、唯今之紙面者、拙者召仕之者矢ヲ放之由被申候、都筑与申者、拙者披官山中与申者ニ矢ヲ射付申、其侭押懸、両人打留由、拙者召仕之者逃返申事ニ候、如此之仕合失面目候条、則雖可及其意趣候、無二ニ進退奉任候之間、小田原御下知を以可達本意与存知、尓今堪忍令申候、此段々難尽紙面候、此趣幾度歟源三殿迄申達候処、無御披露候事、無是非存知候、此意事宜御裁許可為過分候、以上、 拾月廿七日/野田右馬助景範/依田大膳亮殿

  • 埼玉県史料叢書12_0377「野田景範書状案」(野田家文書)1569(永禄12)年比定

小田原へ申し上げるため、その時の様子を書付にして報告しました。それを預かってご裁許するとの仰せと、氏照がご返答しましたので、同日14日に作成し滝山に届けました。今に至っても披露されていないのでしょうか。現在の紙面は、拙者が召し使っていた者が矢を放ったとのことを申しています。都筑という者が、拙者の被官山中という者に矢を射掛け、そのまま押しかけて両人が死んだとのこと。拙者が召し使っていた者が逃げ帰って申したことです。このような成り行きで面目を失ったので、すぐに意趣返しに及ぼうとしましたが、判断をどうにか保留して、小田原のご命令をもって本意を達しようと考え、今も我慢しています。この状況は紙面での説明が難しいところです。この趣旨を何回か源三殿まで報告したのにご披露されないなら、どうにもならないと思います。この意を宜しくご裁許いただければ幸いです。

落合三河守の訴え

関山隼人と当麻宿の権益を巡って係争した落合三河守は、評定衆に当てて反訴状を提出している。その中で三河守は「山角康定は自分に遺恨があるから、担当から外してほしい」と願い出ている。これは、評定衆が複数人員で構成され、利害関係によっては担当が変更になったことを示す。原告の関山隼人に勝訴を伝えた際の虎朱印状には、康定が奉者として登場している。最終通知で康定が奉者としてのみ登場したのは、この件で彼が評定衆から一旦外れ、奉者としての権限で虎朱印状を取り次いだことになる。

乍恐相書付を以申上候 一、此度当麻問屋之儀ニ付而、拙者非分ニ一月■内を上十五日、関山隼人前より取はなし、下之宿より上之宿江取上申様ニ、御侘言被申上候事、不当ニ奉存候 一、下之宿ニ問屋御座候ニ付而、下宿者いかにもさかり申候、上之宿者町人も退転申、去年之御陣返之刻ニ者、御伝馬上宿ニ相当申候得者、町人退転ニ付而、下之宿より六十疋余備申、御伝馬走廻申候、是ニ付而問屋之処、一月之内上十五日之分を、上宿江可被指上之由申断候処ニ、かんてん不被申候キ 一、上之宿江問屋被上間敷ニ付而者、他之宿なミに、上下之宿 御公用無退転様ニ、替所問屋役ニ指引可被成候由、申断候処ニ、是又かんてん不被申候 右之条ゝ、御かんてんなく候て、御伝馬参候而、上宿ニ余候御伝馬、替所迄越可申候由、町人共申断候ニ付而、如何与分別被申候哉、三月より今日ニ至而、一月之内を上十五日、上之宿江売人指上被申候間、此上者、宿中もさかり可申与存、拙者知行之内過分ニそん物を仕、宿をわりなをし、町人を置付申、 御公方用走廻候処ニ、只今事を取立、御侘言被申上候儀、不審ニ存候、但是者山角殿我等ニ四五ヶ条之御いこん御座候由及承候、以此意趣御取成候歟、此上者可然様ニ御裁許奉仰入候、以上 追而申上候、四五ヶ条之、山角殿背御機嫌候儀共、御尋之上、可申上候、以御検使御尋被成可被下候、以上、七月十六日/落合三河守(花押)/御評定衆、御披露

  • 戦国遺文後北条氏編2971「落合三河守陳状」(関山文書) 1586(天正14)年比定

恐れながら、反訴状として申し上げます。 一、この度の当麻問屋の件。拙者が無法に1ヶ月のうち上旬15日の売上を関山隼人から奪い、下の宿から上の宿へと取り上げた、という言い分で告訴されました。これは不当だと考えています。 一、下の宿に問屋がある件。下宿は盛況で上の宿の町人は退去しています。去年の帰陣される際に御伝馬を上宿に割り当てられましたが、町人が退去していたので、下の宿から60疋余りを用意して御伝馬で活躍しました。これについて問屋として、1ヶ月のうち上旬15日分をよこすように上宿に伝えたところ、承知しませんでした。 一、上の宿へ問屋が上がらないようにした件。他の宿に準じて上下の宿が御公用から逃げ出さないように、『替所』の問屋税に充当するように申し伝えたところ、これもまた承知しませんでした。 右の条項に承知がないまま、御伝馬が来ました。上宿で余っていた御伝馬を『替所』まで持ってくるように町人達に通達したところ、どのような考えでしょうか。3月から今日に至るまで、1ヶ月のうち上旬15日、上の宿へ売人をよこすように言ってきました。この上は、宿中も盛んになるだろうと考えて、拙者知行から自腹で賄い、宿の割り当てを直して、町人を置いて御公用に活躍しました。こうしたところで、今は事を荒立てて訴訟に及んだのは不審なことです。但し、山角殿が私に4~5ヶ条のご遺恨があると聞いています。この意趣によって取りなしを得ようとしているのでしょうか。この上はしかるべきご裁許をお願いします。 追伸:4~5ヵ条のことは、山角殿のご機嫌に逆らうことになりますが、お尋ねがあったので申し上げます。御検使を調査に派遣して下さい。

評定衆の人選

依田康信の正体

一族が後北条氏の根本被官として活躍する山角康定・石巻康保・垪和康忠・狩野泰光とは異なり、依田康信には謎が多い。

永禄10年12月17日の北条氏邦朱印状の奉者「依田大膳守」として登場しつつ、同年同月には野田景範の訴訟案件を受け付けており、元亀3年には垪和康忠と並んで武田家との同盟交渉に当たっている。これは、根本的には氏規被官であった山中康豊と似ているが、康豊と違って康信が長期間にわたって評定衆として活躍しており、少し状況が異なるように思える。

依田康信は天正6年から虎朱印状に登場し、評定衆とある。ただ、永禄12年の野田景範書状では、北条氏照との訴訟を康信宛てで送っており、この頃から評定衆となっていた可能性が高い。

天正13年の虎朱印状で「依田下総守殿・同大膳亮殿」とあり、彼の官途名「大膳亮」を後継者が名乗っている。このことから、康信は狩野泰光の後継者だったのではないか。

天文24年の虎朱印状に「狩野介・同大膳亮・山角四郎左衛門・松田尾張守」が奏者となった相州天十郎宛てのものがある。そして、同年3月21日の天十郎宛てでは虎朱印状の評定衆として「狩野大膳亮」があり、狩野介の後継者が狩野大膳亮泰光だったのが判る。

この狩野内膳亮は、永禄9年10月2日に「評定衆飛騨守泰光」と名乗り、11年2月10日まで活動が見られる。そのあとの永禄12年11月7日の北条氏照朱印状で奉者「狩野一庵」が登場することから、泰光と一庵が同一人物と比定される。そもそも官途「大膳亮」は文明年間から「狩野大膳亮為茂」が見られ、本来は伊豆狩野氏が称したもの。天文~永禄で活躍した狩野介は、駿河吉原城を松田弥次郎と共に守備したり、松山衆の筆頭を務めるなどしてかなり中枢に近い位置にいた被官。

つまり、官途「大膳亮」の評定衆という切り口で見てみると、

  • 狩野介
  • 狩野大膳亮 → 狩野飛騨守泰光 → 狩野一庵(氏照配下)
  • 依田大膳守(氏邦配下)→ 大膳亮康信 → 依田下野守康信
  •                      依田大膳亮

となり、狩野から依田へと名字は変わっているがきっちりと後継者に承継されている様子が判る。

してみると、評定衆は官途名に基づいた承継が前提になっていたのかも知れない。

  • 下野守家:石巻家貞・石巻康保
  • 大膳亮家:狩野泰光・依田康信
  • 上野介家:山角定吉?・山角康定

ただ、山角康定だけは前代の山角定吉の官途名が不明だが、仮名は「四郎左衛門尉」で合致しており、官途の「上野介」も同一だったと思われる(定吉自体が評定衆であった確証はないが、当麻宿訴訟では康定の前々代である定澄から関わっていたという記述があり、康定の評定衆資格は父祖から継承したと理解できる)。

第1世代と第2世代の間の断絶

第1世代を石巻家貞・狩野泰光・山角定吉と考えると、永禄7年に戦死したとされる定吉が最も早く脱落している。これを受けてか、氏規配下の山中康豊が永禄9年に登場しているが、史料では1点しか確認できず定着してはいないように思える。その後永禄11年をもって家貞・泰光も評定衆として終見となる。泰光が出家して氏照配下に転じたのを考えると、偶然残りの二人が隠居したというよりも、何らかの意図的な人事異動を想起させる。

 この直後に武田晴信の駿河侵攻があって慌ただしくなるなか、石巻康敬がイレギュラーな形式で1回登場したあとで、石巻康保・依田康信が登場して第2世代を形成する。

 この第1世代の終了は、瞬間的ではあるが評定衆自体の廃絶の可能性を秘めていたように思える。

 表で区分けしてみる。

第1世代 2人・9件

氏名 評定衆 奉者 日付 備考
石巻家貞 2 0 1555(天文24)年1月21日~1568(永禄11)年6月28日
狩野泰光 7 2 1555(天文24)年3月21日~1568(永禄11)年2月10日

過渡期 2人・2件

氏名 評定衆 奉者 日付 備考
山中康豊 1 0 1566(永禄9)年8月28日 評定衆記載なし
石巻康敬 1 8 1569(永禄12)年5月16日 評定衆記載なし・彦六郎名

第2世代 4人・37件

氏名 評定衆 奉者 日付 備考
石巻康保 11 4 1569(永禄12)年6月10日~1579(天正7)年6月20日
依田康信 10 0 1569(永禄12)年10月27日~1588(天正16)年7月20日 確実な登板は1577(天正5)年2月11日
山角康定 15 5 1572(元亀3)年3月21日~1589(天正17)年6月28日
垪和康忠 1 48 1581(天正9)年10月25日

 廃絶が試みられた契機は、通貨納税から現物納税への切り替えがちょうど永禄9~10年で行なわれていたことに関係すると考えてみた。良貨による通貨納税は永禄元年から後北条氏が積極的に推進していたものだが、徐々に良貨の納税率を下げざるを得ず、永禄8年5月25日には良貨30%での納税を認めざるを得なくなっていた。ただ、この流れに逆らうかのように、この翌年5月15日に先代当主の氏康が自身の朱印状によって「良貨50%とせよ」との指示を出してみたものの、同年閏8月7日には「良貨がなければ物納を認める」と再び後退。これは、郷村の退転という激しい抗議に屈した形になる。

 興味深いのは、永楽通宝を意味する「永楽」の文言が、今川・後北条ともに永禄11年から登場する点。それまでは「精銭」と呼んでいたものが切り替わっている。「精銭」の終見は永禄11年8月10日(北条氏康朱印状)で、「永楽」初見は8月3日(匂坂直興書状)。

「銭」という言葉は北条氏康が永禄元年に「品質の悪い銭を除外せよ」と通達したのが初見。このあと、永禄3年の虎朱印状で、この通貨選別によって選ばれたものを「精銭」としている。ここから考えると、「銭」に着目した氏康の時代は、永楽通宝をもって精銭とする「永楽」表記によって新しい局面に入り、この永楽表記は近世を通じて用いられていく。

 経済政策の煽りで評定衆廃止が検討されたことを考えると、市中に対する司法業務よりも金融財政に主眼が置かれた近世の江戸町奉行を想起させる。

 廃絶を企図したのは一見すると当主氏政のようにも見えるが、氏政は独自構築した岩付衆において「評定衆」を導入している。先行していた玉縄衆・八王子衆・鉢形衆・江戸衆では見られないことから、この第2の評定衆導入は氏政の意向を反映したものと考えていいだろう。であるならば、廃絶は氏康の意向と見てよいだろう。実際、氏政が駿河から帰陣するのに合わせるように評定衆の第2世代が稼働を始める。

2020/11/12(木)後北条家の虎朱印状で、朱印の下に花押を捺す用例

虎朱印状のうち、以下の条件を満たすものを抽出。

  • 日付の上に虎朱印が捺されているもの
  • 虎朱印状の下に被官の名前と花押が記されているもの

※項番6は虎朱印が日付の下に捺されたとされるが、写しである点、文言が要検討である点から、項番5と同じ位置に虎朱印が捺されたと考え、暫定的に表内に入れている。

●一覧

項番 朱印下の名前 肩書 表記上の名 宛所 用途 種別 年月日 出典
1 遠山直景 奏者 遠山(花押) 相州・豆州 過所 郷村 1523(大永3)年3月12日 小田原市史資料編小田原北条50「伊勢家過所」(熊谷市・長慶寺所蔵)
2 石巻家貞 評定衆 石巻下野守判 矢野右馬助殿 訴訟 武家 1555(天文24)年1月21日 小田原市史資料編小田原北条0324「北条家裁許朱印状写」(紀伊国古文書)
3 笠原綱信・清水康英 評定衆 笠原美作守・清水太郎左衛門尉 伊豆大夫 免許 職人 1555(天文24)年3月21日 小田原市史資料編小田原北条331「北条家裁許朱印状」(練馬区・清水宏之所蔵)
4 狩野泰光 評定衆 狩野大膳亮 天十郎 免許 職人 1555(天文24)年3月21日 小田原市史資料編小田原北条332「北条家裁許朱印状」(相州文書・足柄下郡天十郎所蔵)
5 遠山綱景 丹波守綱方(花押) 森彦七郎殿 相続 寺社 1559(永禄2)年1月26日 小田原市史資料編小田原北条413「北条家虎朱印状写」(世田谷区・慶元寺蔵玉川文庫文書)要検討
6 遠山綱景 遠山丹波守綱方(花押) 江戸与三郎殿 宛行 武家 1559(永禄2)年2月17日 小田原市史小田原北条415「北条家虎朱印状写」(世田谷区・慶元寺所蔵玉川文庫文書)要検討
7 狩野泰光 評定衆 大膳亮泰光判 玉瀧坊 訴訟 寺社 1559(永禄2)年7月21日 小田原市史資料編小田原北条418「北条家裁許朱印状写」(古証文之写)
8 狩野泰光 評定衆 大膳亮泰光(花押) 藤沢客寮中 訴訟 寺社 1560(永禄3)年4月25日 小田原市史資料編小田原北条433「北条家裁許朱印状」(藤沢市・森万佐子所蔵)
9 狩野泰光 評定衆 大膳亮泰光(花押) 酒匂代官小島左衛門太郎 訴訟 代官 1560(永禄3)年5月15日 戦国遺文後北条氏編630「北条家裁許朱印状写」(相州文書所収足柄下郡徳右衛門所蔵文書)
10 狩野泰光 評定衆 大膳亮泰光(花押) 豆州八幡野百姓 訴訟 郷村 1564(永禄7)年12月28日 小田原市史資料編小田原北条610「北条家裁許朱印状写」(肥田氏由緒書)
11 狩野泰光 評定衆 飛騨守泰光(花押) 天十郎 訴訟 職人 1566(永禄9)年7月10日 小田原市史資料編小田原北条647「北条家裁許朱印状写」(足柄下郡天十郎所蔵)
12 山中康豊 修理亮康豊在判 西来寺 訴訟 寺社 1566(永禄9)年8月28日 小田原市史資料編小田原北条656「北条家裁許朱印状ヵ写」(相州文書・三浦郡西光寺所蔵)
13 狩野泰光 評定衆 飛騨守泰光(花押) 成福寺 免許 寺社 1566(永禄9)年10月20日 小田原市史資料編小田原北条667「北条家裁許朱印状」(戸田村・宝徳寺所蔵)
14 評定衆 宛行 武家 1567(永禄10)年4月20日 小田原市史資料編小田原北条680「北条家裁許朱印状」(原文書)
15 狩野泰光 評定衆 飛騨守泰光(花押) 小窪六右衛門尉殿 宛行 武家 1568(永禄11)年2月10日 神奈川県史資料編3下7584「北条家裁許朱印状写」(武州文書所収高麗郡新五郎所蔵文書)
16 石巻家貞 評定衆 下野守家種(花押) 石切左衛門五郎 相続 職人 1568(永禄11)年6月28日 小田原市史資料編小田原北条722「北条家裁許朱印状」(清水市・片平信弘所蔵青木文書)
17 石巻康敬 石巻彦六郎(花押) 矢部殿 指示 武家 1569(永禄12)年5月16日比定 小田原市史資料編小田原北条834「北条家虎朱印状」(矢部文書)
18 石巻康保 評定衆 勘解由左衛門尉康保(花押) 愛染院 宛行 寺社 1569(永禄12)年6月10日 戦国遺文後北条氏編1259「北条家裁許朱印状」(小出文書)
19 石巻康保 評定衆 勘解由左衛門尉康保(花押) 西郡鋳物師 訴訟 職人 1570(永禄13/元亀元)年3月28日 小田原市史資料編小田原北条952「北条家裁許朱印状写」(公用永代書留諜)
20 山角康定 評定衆 四郎左衛門尉(花押) 大納言尊良 相続 寺社 1572(元亀3)年3月21日 小田原市史資料編小田原北条1100「北条家裁許朱印状写」(相州文書・鎌倉郡我覚院所蔵)
21 石巻康保 評定衆 勘解由左衛門尉康保(花押) 宮城四郎兵衛尉殿 訴訟 武家 1572(元亀3)年6月21日 戦国遺文後北条氏編1598「北条家裁許朱印状」(内閣文庫所蔵豊島宮城文書)
22 石巻康保 評定衆 勘解由左衛門尉康保(花押) 三保谷鈴木 訴訟 百姓 1572(元亀3)年10月16日 小田原市史資料編小田原北条1118「北条家裁許朱印状」(鴻巣市・鈴木和男所蔵)
23 石巻康保 評定衆 勘解由左衛門尉康保(花押) すな原百姓中 訴訟 百姓 1573(元亀4/天正元)年12月10日 戦国遺文後北条氏編1677「北条家裁許朱印状写」(武州文書所収足立郡三太夫所蔵文書)
24 石巻康保 評定衆 勘解由左衛門尉康保(花押) 大宮社人中 訴訟 寺社 1574(天正2)年6月22日 小田原市史資料編小田原北条1154「北条家裁許朱印状」(大宮市・氷川神社所蔵)
25 山角康定 評定衆 四郎左衛門尉康定(花押) 閼伽井坊 訴訟 寺社 1574(天正2)年9月10日 小田原市史資料編小田原北条1164「北条家裁許朱印状」(桶川市・明星院所蔵)
26 山角康定 評定衆 四郎左衛門尉康定(花押) 保正寺 訴訟 寺社 1574(天正2)年9月10日 戦国遺文後北条氏編1728「北条家裁許朱印状写」(武州文書所収足立郡法性寺文書)
27 石巻康保 評定衆 下野守康保(花押) 金剛頂寺 訴訟 寺社 1575(天正3)年12月10日 小田原市史資料編小田原北条1211「北条家裁許朱印状」(平塚市・金剛頂寺所蔵)
28 山角康定 評定衆 上野守康定(花押) 大井郡番匠勘解由 訴訟 職人 1576(天正4)年4月28日 小田原市史資料編小田原北条1216「北条家裁許朱印状」(小田原市・和田慎平所蔵)
29 山角康定 評定衆 上野守康定 中村八郎左衛門殿 訴訟 武家 1576(天正4)年4月28日 小田原市史資料編小田原北条1217「北条家裁許朱印状写」(駿河志料八十一)
30 依田康信 評定衆 下総守康信(花押) 内田孫四郎殿 訴訟 武家 1577(天正5)年2月11日 戦国遺文後北条氏編1892「北条家裁許朱印状写」(屋代典憲氏所蔵古文書之写)
31 依田康信 評定衆 下総守康信(花押) 泉郷 訴訟 郷村 1577(天正5)年3月10日 戦国遺文後北条氏編1893「北条家裁許状写」(判物証文写北条)
32 石巻康保 評定衆 下野守康保(花押) 苅野庄百姓杉田源左衛門尉とのへ 訴訟 百姓 1577(天正5)年3月20日 戦国遺文後北条氏編1897「北条家裁許朱印状」(杉田彬氏所蔵文書)
33 山角康定 評定衆 上野介康定(花押) 小幡太郎左衛門尉殿 訴訟 武家 1577(天正5)年4月10日 小田原市史資料編小田原北条1244「北条家裁許朱印状写」(諸氏家蔵文書)
34 石巻康保 評定衆 下野守康保(花押) 西浦百姓大川兵庫助(上書:西浦百姓 大川兵庫助 評定衆) 訴訟 百姓 1577(天正5)年4月10日 戦国遺文後北条氏編1900「北条家裁許朱印状」(国立史料館所蔵文書)
35 依田康信 評定衆 下総守康信(花押) 清水上野入道殿 訴訟 武家 1578(天正6)年12月10日 小田原市史資料編小田原北条1299「北条家裁許朱印状」(練馬区・清水宏之所蔵)
36 依田康信 評定衆 下総守康信(花押) 泉郷百姓窪田十左衛門 訴訟 百姓 1578(天正6)年12月20日 小田原市史資料編小田原北条1302「北条家裁許朱印状写」(判物証文写今川一)
37 山角康定 評定衆 上野介康定(花押) 岩付衆中村右馬助殿 訴訟 武家 1579(天正7)年6月10日 戦国遺文後北条氏編2081「北条家裁許朱印状写」(武州文書所収埼玉郡吉兵衛所蔵文書)
38 石巻康保 評定衆 下野守康保(花押) 南条織部同心関主水助殿 訴訟 武家 1579(天正7)年6月20日 戦国遺文後北条氏編2084「北条家裁許朱印状」(高杉光穂氏所蔵文書)
39 石巻康保 評定衆 下野守康保(花押) 鳩ヶ谷百姓舟戸大学助 訴訟 百姓 1579(天正7)年6月20日 戦国遺文後北条氏編2085「北条家裁許朱印状」(牛込武雄氏所蔵文書)
40 垪和康忠 評定衆 伯耆守康忠(花押) 大平百姓宮内隼人(上書:大平百姓、宮内隼人 評定衆) 訴訟 百姓 1581(天正9)年10月25日 小田原市史資料編小田原北条1400「北条家裁許朱印状」(修善寺町・宮内英太郎所蔵)
41 山角康定 評定衆 上野介康定(花押) 柳川百姓武井善左衛門 訴訟 百姓 1583(天正11)年12月20日 小田原市史資料編小田原北条1559「北条家裁許朱印状」(秦野市・武井孝雄所蔵)
42 山角康定 評定衆 上野介康定(花押) 狩野牧百姓三須孫次郎 訴訟 百姓 1583(天正11)年12月20日 小田原市史資料編小田原北条1560「北条家裁許朱印状」(修善寺大川文書)
43 依田康信 評定衆 下総守康信(花押) 大乗院 訴訟 寺社 1584(天正12)年2月10日 小田原市史資料編小田原北条1570「北条家虎朱印状写」(相州文書・大住郡東光寺所蔵)
44 依田康信 評定衆 下総守康信(花押) 前川百姓五郎左衛門 訴訟 百姓 1584(天正12)年3月2日 戦国遺文後北条氏編2637「北条家裁許朱印状」(所蔵未詳)
45 依田康信 評定衆 下総守康信(花押) 沼上出羽守殿 訴訟 武家 1584(天正12)年3月2日 戦国遺文後北条氏編4749「北条家裁許朱印状写」(模写古文書四)
46 依田康信 評定衆 下総守康信(花押) 伊勢阿闍梨 訴訟 寺社 1584(天正12)年11月10日 小田原市史資料編小田原北条1631「北条家裁許朱印状」(南足柄市・田代克己所蔵)
47 山角康定 評定衆 上野介康定(花押) 西浦之百姓、大川兵庫助 訴訟 百姓 1586(天正14)年10月20日 小田原市史資料編小田原北条1774「北条家裁許朱印状」(国文学研究資料館所蔵大川文書)
48 山角康定 評定衆 上野介康定(花押) 鈴木但馬守殿 訴訟 武家 1586(天正14)年12月25日 小田原市史資料編小田原北条1788「北条家裁許朱印状」(鈴木文書)
49 依田康信 評定衆 下総守康信(花押) 後閑殿代、安蛇井志摩守殿 訴訟 武家 1587(天正15)年4月20日 小田原市史資料編小田原北条1812「北条家裁許朱印状」(京都大学文学部博物館所蔵後閑文書)
50 山角康定 評定衆 上野介康定 伝肇寺 訴訟 寺社 1587(天正15)年4月28日 小田原市史資料編小田原北条1814「北条家裁許朱印状」(小田原市・伝肇寺所蔵)
51 山角康定 評定衆 上野介康定判 山川備中守殿・上原出羽守殿 訴訟 武家 1587(天正15)年5月18日 小田原市史資料編小田原北条1820「北条家裁許朱印状写」(上杉系図)
52 山角康定 評定衆 上野介康定(花押) ■■■豊後 訴訟 武家 1588(天正16)年6月日 小田原市史資料編小田原北条1905「北条家裁許朱印状」(厚木市・木村憲一所蔵)
53 依田康信 評定衆 下総守康信書判 田島豊後守とのへ 訴訟 武家 1588(天正16)年7月20日 埼玉県史料叢書12_0861「北条家裁許朱印状写」(会田家譜)
54 評定衆 (異筆:中山)法華経寺 訴訟 寺社 1589(天正17)年2月14日 小田原市史資料編小田原北条1935「北条家裁許朱印状」(市川市・法華経寺所蔵)
55 山角康定 評定衆 上野介康定(花押) 正覚院 訴訟 寺社 1589(天正17)年6月28日 小田原市史資料編小田原北条1947「北条家裁許朱印状」(修禅寺所蔵)
56 山角康定 評定衆 上野介康定(花押) 修禅寺 訴訟 寺社 1589(天正17)年6月28日 小田原市史資料編小田原北条1948「北条家裁許朱印状」(修禅寺所蔵)
57 松■・雲■ 松■(花押)・雲■(花押) 賀藤讃岐とのへ 指示 武家 年月日欠 戦国遺文後北条氏編4986「北条家虎朱印状」(清水文書)