2017/11/06(月)実隆公記 1498(明応7)年、1507(永正4)年記述抜粋

「鎌倉姫君将軍御妹」は、足利義澄の妹でこのあとに消息を絶つ。

明応7年

1月19日

向東隣、鎌倉姫君将軍御妹、此間今川■■■養也■■近日可御上洛、御京著之儀可為東隣■■ ■■■由聞及之間、罷向相談者也

1月24日

東隣、将軍御連枝姫君、自駿州上洛令留給云云

1月19日。今川氏に養育されていた将軍(足利義澄)の妹である鎌倉姫君が近日上洛し、東隣に向かうということを聞き及び、赴いて相談する。 1月24日。将軍の親族である姫君が駿河国から上洛して、東隣に滞在したという。

永正4年

2月13日

霽、自晩雨降、入夜甚、公兄朝臣明日可下向駿州云々、為暇請予罷向、於女中有杯酌、中納言以下参会

2月14日

晴、(中略)今日三条少将公兄朝臣下駿河、外祖母彼国守護今川母也、路粮料万疋上云々、

5月24日

霽、暁雨甚、玄清来、自駿河金代納之、先以蘇息者也、

2月13日。みぞれ。晩より雨が降り、夜に入ると激しくなった。三条公兄朝臣が明日駿河国へ下向するだろうという。あらかじめ挨拶に向かい、女中の酌で宴席があり、中納言以下が参会した。 2月14日。晴れ。(中略)今日三条少将公兄朝臣が駿河国へ下る。外祖母はあの国の守護である今川氏の母。移動費用が1万疋(100貫文)という。 5月24日。みぞれ。明け方に雨が激しかった。玄清が来る。駿河国の金を代納。まずは息がつけた。

2017/10/26(木)今川氏の対三河軍事年表

1543(天文12)年

8月20日

  • 今川義元、大館左衛門佐に御内書発行の礼を伝える

「就 禁裏様御修理之儀、日野町殿御下向、 御内書頂戴忝畏入奉存候」

10月15日

  • 今川義元、三河国今橋の東観音寺に禁制を発す

「於背此旨輩者、速可加成敗者也」

1544(天文13)年

9月22日 古記録

  • 定光寺年代記に織田信秀敗退が記される

「甲辰 十三 九月廿二日未刻、濃州於井ノ口 尾州衆二千人打死、大将衆也」

9月23日 年は比定

  • 斎藤利政は安心軒・瓦礫軒に水野十郎左衛門への連絡を依頼

「仍一昨日及合戦切崩討取候頸註文水十へ進之候、可有御伝語候、其方御様躰雖無案内候懸意令申候、此砌松次三被仰談御家中被固尤候、是非共貴所御馳走簡要候、就者談近年織弾任存分候、貴趣自他可申顕候、岡崎之義御不和不可然候」

9月25日 年は比定

  • 長井久兵衛、水野十郎左衛門に戦果を報告して織田信秀の排斥を勧める

「近年之躰、御国ニ又人もなき様ニ相働候条、決戦負候、年来之本懐此節候、随而此砌、松三へ被仰談、御国被相固尤存候、尚礫軒演説候」

閏11月11日 年は比定

  • 織田信秀、水野十郎左衛門尉に陣中の様子を伝えて油断のないように求める

「此方就在陣之儀、早々預御折帋、畏存候、爰許之儀差儀無之候、可被御安心候、先以其表無異儀候由」

12月某日

  • 入海神社檀那衆筆頭に水野十郎左衛門信近の名が出る

「入海神社奉造立御神殿壱宇 檀那衆伍貫文 水野十郎左衛門信近」

1545(天文14)年

11月9日 年は比定

  • 武田晴信が松井山城守に後北条氏との和平案を示す

「此度同心申相動候処、為始吉原之儀、御分国悉御本意、一身之満足不過之候、内々此上行等、雖可申合候、北条事御骨肉之御間、殊駿府大方思食も難斗候条、一和ニ取成候」

1546(天文15)年

3月28日 年は比定

  • 鵜殿長持は、織田信秀密書を飯尾致実に渡そうとしたとして、安心軒を譴責

「仍信秀より飯豊へ之御一札、率度内見仕候、然者御され事共、只今御和之儀申調度半候事候条、先飯豊へ者不遣候、我等預り置候」

6月15日

  • 今川義元、吉田近辺の3寺に禁制を下す

「当手軍勢甲乙人乱暴狼藉之事、堅令停止之訖」

9月28日

  • 牧野保成は今橋・田原・長沢を与えられるよう今川氏に申し出る

「一今橋・田原御敵ふせらるゝにおゐてハ、今橋跡職、名字之知にて御座候間、城共に可被仰付、御訴訟申候処、両所御敵を仕候間、今はし・田原之知行、河より西をさかい入くミなしに可被仰付候由候」「先日松平蔵人佐・安心軒在国之時、屋形被遣判形之上、不可有別儀候」

10月16日

  • 牧野保成は所領の不入を今川氏に求める

「拙者知行之内并家中之者共、御国之衆へ致被官之義、無御許容之事」

10月30日 年は比定

  • 岡部慶度が駿河衆の今橋攻撃に言及し、城からの迎撃もないので味方は無事であるとする

「阿大より可被申上とも、取乱候間無其儀候、駿河衆至今橋とりかけ候、今日迄させる行なとも候ハす候、味方中堅固被申付候、可被御心易候ゝゝ」

11月25日

  • 今川義元、今橋城攻撃での天野景泰の戦功を賞す

「今月十■日辰剋、同城外構乗崩之刻、不暁ニ宿城江乗入、自身■粉骨、殊同名親類被官以下蒙疵、頸七討捕之条」

12月14日

  • 太原崇孚、野々山甚九郎の忠節により兵員を増派する

「当城扶助員数、代官等為替地、細屋郷可被捕任也」

1547(天文16)年

2月3日

  • 今川義元、野々山甚九郎が今橋城で内通した功を称す

「■年於参河国今橋城、令内通存忠節、任契約之旨、細谷代官并給分■拾貫文令補任之」

7月8日 年は比定

  • 今川義元、天野景泰の医王山砦構築を称え、三河国本意のため近日出馬すると伝える

「去比医王山取立候、普請早出来、各馳走之段注進、誠以悦然候、近年者東西陣労打続候、勲功之至候、仍三州此刻可達本意候、近日可出馬候間、其心得肝要候」

閏7月23日 年は比定

  • 松平家広が本意を遂げて牢人から復帰する

「今度牢人仕候て其方へ憑入参候処、種々御懇候得共、殊過分之御取かへなされ、進退をつゝけ本意仕候」

8月25日

  • 今川義元は奥平定能と貞友に医王山砦での功を賞し、東西で紛争があっても所領は変わらないと保障する

「医王山取出割、就可抽忠節、以先判充行之上、当国東西鉾楯雖有時宜変化之儀」

8月26日 年は比定

  • 太原崇孚は牧野保成に陣備えを指示して今川義元出馬を予告

「世谷口重御普請太儀察存候、御取手之御太儀候共、其口ニ御人数百宛被置、長沢ニ五十計、両所百五十之分四番ニ被定候て、可為六百之御人数候、是も田原一途間、可被仰付候、近日可被出馬候」

8月29日 年は比定

  • 太原崇孚、牧野保成に援軍と兵糧について指示

「仍御人数之儀、飯豊・井次其外境目之衆悉被仰付、西郷谷へ可有着陣候、其地御用次第可被招置候、兵粮之儀肝要候、今橋へ弾橘入城候者、於彼地商買之儀、可為不弁之条、此方より尾奈・比々沢迄可届申候、其間之儀、御調法候てめしよセられへく候、兵粮方之儀者、涯分つゝけ申へく候、御本意之上、可有御返弁候、此由西郡へも申度候」

9月2日

  • 今川義元、山中七郷に昨年一乱以前の返済を免除する

「去年一乱以前借物之事、就敵筋者、縦雖有只今免許不及返弁」

9月5日 年は比定

  • 天野景泰が負傷者一覧を今川家奉行に提出

「手負人数 天野小七郎 鑓手二ヶ所 松井二郎三郎  矢手三ヶ所 奥山小三郎  矢手壱ヶ所」

9月10日 年は比定

  • 太原崇孚、天野景泰の戦功を今川義元に報告したと伝える

「去五日辰刻御合戦之様体、具御注進披露申候、御手負以下注進状ニ先被加御判候」

9月15日

  • 今川義元、松井惣左衛門に、田原大原構での戦功を賞す

「去五日、於三州田原大原構、最前合鑓無比類働」

9月20日 年は比定

  • 今川義元は天野景泰が田原攻略で活躍したことを賞す

「去五日三州田原本宿へ馳入、松井八郎相談、以見合於門際、同名・親類・同心・被官以下最前ニ入鑓」

9月22日 年は比定

  • 日覚、越後本成寺に三河国を織田信秀が制圧したと報告

「三州ハ駿河衆敗軍の様ニ候て、弾正忠先以一国を管領候、威勢前代未聞之様ニ其沙汰共候」

10月20日

  • 松平広忠は筧重忠が松平忠倫を殺害したことを賞す

「今度三左衛門生害之儀、忠節無比類候、此忠於子々孫々忘間敷候」

11月23日 年は比定

  • 飯尾元時は天野景泰の軍功を報告した旨を本人に連絡する

「仍去年両度三州今橋・田原にての御走廻之段、懇披露申候」

1548(天文17)年

1月26日

  • 今川義元、奥平定勝が久兵衛謀反を通報して実子を人質に出したことを賞す

「依今度久兵衛尉謀反現形、最前ニ馳来于吉田、子細申分、則実子千々代為人質出置」

3月11日

  • 北条氏康、織田信秀の軍功を讃えつつ、自らは今川氏と同盟したことを伝える

「仍三州之儀、駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候」

3月28日

  • 今川義元、西郷弾正左衛門尉が小豆坂で活躍した功を賞し知行を与える

「今月十九日、小豆坂横鑓無比類之軍忠被励候」

4月15日

  • 今川義元、松井惣左衛門・宗信が小豆坂で活躍したことを賞す

「去ル三月十九日、於西三河小豆坂尾州馳合、最前入馬尽粉骨、宗信同前為殿之条」

7月1日

  • 今川義元、朝比奈藤三郎が小豆坂で活躍したことを賞す

「去三月十九日、於三州小豆坂、織田弾正忠出合、敵味方備処、加下知遂一戦、自身真先入馬」

12月20日

  • 今川義元、大村弥三郎が天文15年より今橋・了念寺・田原で活躍したことを賞す

「去々年参河今橋外構乗取之刻、於城際頸一討捕伊藤、蒙鑓疵鑓三本突折」

1549(天文18)年

8月1日

  • 武田氏、援軍今川方の荷物用伝馬手形を発行する

「従駿河合力衆荷物之事、任今川殿印判、当陣中伝馬可出」

8月3日

  • 今川義元、足利義輝に三河・尾張国境紛争の調停を依頼する

「三川・尾張之境、依令鉾楯緩怠候、宜預御執合候」

10月15日

  • 今川義元、幡鎌平四郎が吉良攻撃中に安城・桜井へ出撃した功を賞す

「去九月十八日、吉良荒河山在陣之刻、為打廻安城桜井江相動之折節、敵出合相支之処」

10月27日

  • 阿部大蔵・石河右近将監、天野孫七郎に佐久間切りの褒賞を与える

「今度佐久間切候事、無比類候、然者兼約之事ニ候得者、藤井隼人名田之内を以為五拾貫文出置候」

12月7日 年は比定

  • 今川義元、天野安芸守が安城守備に残ったことを評価

「去月廿三日上野端城乗取刻、任雪斎異見、井伊次郎同前ニ為後詰之手当相残于安城云々」

12月23日 年は比定

  • 今川義元、弓気多七郎が安城・上野で攻城に活躍したことを賞す

「今度於三州安城、及度々射能矢仕、殊十一月八日追手一木戸焼崩、無比類働感悦之至也、又廿三日上野■南端城於右手ニ而も能矢仕」

12月23日

  • 今川義元、御宿藤七郎の安城・上野端城攻撃での功績を賞す

「於今度安城度々高名無比類動也、殊十月廿三日夜抽諸軍忍城」「去月廿三日上野端城之釼先、敵堅固ニ相踏候之刻、最先乗入数刻刀勝負ニ合戦」

1550(天文19)年

5月10日

  • 津坂秀長、笠寺東光坊に山口平八遺領を保証する

「山口平八死迹之下地之儀、不及巨細候へ共、如前々、無御相違可被引得候」

8月20日

  • 葛山氏元、植松藤太郎に尾張出兵資金を拠出する

「今度尾州へ出陣ニ、具足・馬以下嗜之間、自当年千疋充可遣之」

9月17日

  • 今川義元、白坂雲高寺に禁制を発す

「軍勢甲乙人等、濫妨狼藉堅停止之訖、若於違犯之輩搦捕、急度依注進可処厳過者也」

9月19日 年は比定

  • 飯尾乗連・太原崇孚、牧野保成に長沢城接収を確認

「仍長沢之事、国一途之間者、駿遠御人数在城可被仰付由、是又別而御入魂御申、御祝着候」

9月27日

  • 今川義元、伊勢御師亀田太夫に重原を寄進する

「就今度進発、為立願於重原料之内百貫文」

10月10日

  • 今川義元、大樹寺に禁制を発す

「於背此旨輩者、速可処罪科者也」

10月12日

  • 今川義元、筧重忠に松平広忠からの給恩地を保証する

「広忠出置候給恩之事、右任彼定員数、無相違可令所務」

11月13日

  • 今川義元、天野孫七郎が佐久間九郎左衛門を切ったことを賞す

「於去年高橋衆任兼約之旨、佐久間九郎左衛門切候、依其忠節、竹千代大浜之内藤井隼人名田之内五千疋、扶助之云々」

11月19日

  • 今川義元、長田喜八郎に竹千代知行大浜上宮神田を与える

「先年尾州岡崎取合之刻、対広忠令無沙汰之条、彼神田召放、依為忠節、自去年出置之云々、然者勤相当之神役」

12月1日

  • 丹羽隼人佐が沓掛などの知行を安堵される。福外在城の功による

「去六月福外在城以来、別令馳走之間」

12月2日 年は比定

  • 今川義元、奥平定勝が高橋筋で奔走していることを労う

「就高橋筋之儀、早速至于岡崎着陣之由候」

12月15日 年は比定

  • 太原崇孚、牧野保成が長沢領を召し上げられた抗議を受け善処を約す。同書状内で岡崎筋で奔走していることを労う

「就高橋雑説、自最前岡崎筋御馳走」

12月23日

  • 織田信長、笠寺の権益を保証する

「笠寺別当職備後守任判形之旨、御知行分参銭・開帳、寺山、寺中御計之上者、雖誰々申掠候、不可有相違者也」

1551(天文20)年

2月13日 年は比定

  • 近衛稙家、朝比奈某に、足利義晴時代の尾張国権益返還合意の履行を打診

「雖未申通候、馳走候、抑今度尾州之儀属本意由候、天下之名誉不可如之候」

5月某日

  • 水野清近(信近)、尾張国祐福寺に禁制を発す

「於末代不可有相違、若当年面々於令違犯者、可処厳科者也、」

6月28日 年は比定

  • 足利義輝、織田信秀との和睦継続を今川家中に求めるよう近衛稙家を起用

「於参州織田備後守間之事、重不及鉾楯弥属無事、都鄙儀令馳走者可喜入之段、対今川治部大輔遺内書候」

7月4日

  • 今川義元、匂坂長能に長沢駐屯を命ず

「三州吉田以来田原本意之上迄、異于他励粉骨之条、忠功之至也、然上長沢在城所申付也」

7月5日 年は比定

  • 近衛稙家、今川義元・太原崇孚・朝比奈泰能・飯尾乗連に尾張国との和睦継続を依頼する

「仍就土岐美濃守入国之儀、尾州織田備後守令相談■由候、然者彼国境目等不及再■、弥無事之段」

8月2日

  • 今川義元、松平三蔵の所領を安堵

「去己酉年(天文18年)山口内蔵令同意、依可抽忠節造意現形、於尾州数ヶ所知行捨置馳来、其以来無足奉公、甚以忠節之至也、既安城陣之刻、以阿部大蔵」

11月5日 年は比定

  • 織田寛近、織田信秀の代わりに土岐小次郎に進退保障を行なう

「美濃守殿御儀、不慮之仕合、無是非儀ニ候、御身上之儀、相違有間敷候由、道三申候、委細可被任稲葉伊予守差図者也、備後守病中故、我等方より如此ニ候」

12月2日

  • 今川家家臣、松平甚太郎に、逆心した甚二郎の跡地を与える

「御屋形様并竹千代丸江忠節之事候間、甚二郎殿あとしき、無相違渡可申候」

12月2日

  • 今川義元、大村弥三郎が天文18年の吉良攻めで功績を挙げたことを賞す

「去酉年九月廿日、三河内吉良江取懸遂一戦敵追入、於端城随分之者討捕之旨」

1552(天文21)年

3月9日 年は比定

  • 織田信秀が没し、今川義元が八事に出兵する

「壬子 廿一 三月九日ニ織田備後殿死去、九月駿州義元八事マテ出陣」

6月3日

  • 今川義元、松平甚太郎配下の大給城での活躍を賞す

「去月廿六日、於大給城北沢水手、被官石原藤二郎・蜂谷又一郎・加納甚三・松平彦一・小者藤若、敵三人討捕之云々」

8月25日

  • 今川義元、岡部元信が小豆坂で活躍したことを賞す

「先年参州小豆坂合戦之刻、味方及難儀之処、自半途取返、入馬敵突崩得勝利」

11月22日

  • 今川義元、鱸越前守の新たな給地と従来の給地を書き出し保障する

「今度松平左衛門督逆心之刻、兄弟八人相談、九久平仁中条与三郎・松平田三左衛門尉楯籠之処、間廻計策城主市兵衛尉共立出、抽忠節之条」

1553(天文22)年

3月21日

  • 今川義元は奥平定勝の諸権益を安堵する

「知行分本知之事者、不入之儀領掌訖、新知分者可為如前々事」

3月22日

  • 備前国住人大村家盛、尾張国岩崎城主が駿河から来た福島氏であることを記述

「岩崎の城主福島、するかより被越て被持候」

4月26日

  • 備前国住人大村家盛、紛争勃発のため三河国岡崎より藤島に移動できず

「山中よりおかさきへこし、まヘハふし島へとおり候へ共、三河・岡崎取相にて、おかさきよりあふらさきへ行き」

9月4日

  • 菅沼伊賀、同三郎兵衛尉らの逆心を訴え賞される

「為帰忠以証文言上、甚以忠節之至也」

1554(天文23)年

9月2日 年は比定

  • 長坂虎房は天野安芸守に伊那郡制圧を伝え、遠山氏への仲介を依頼

「内々以此次遠山江可乱入之趣被申付候処、従貴所蒙仰候筋目則令披露候」

10月20日 年は比定

  • 織田信長、加藤図書助に山口孫二郎妻子の還住許可を通達

「山口孫八郎後家子共事、其方依理被申候、国安堵之義、令宥免之上者」

11月2日

  • 今川義元、匂坂長能に岡崎城勤務内容を指示

「就今度岡崎在城、長能・宗光両人江弐百五十貫文■令扶助之也」

12月某日

  • (斯波義達偏諱か?)織田達成、熱田の加藤順盛の権益を保証する

「於向後、為何闕所方、年記・徳政・国役・要脚・質物以下懸申候事雖有之、一切諸事令免許」

1555(天文24/弘治元)年

2月5日

  • 織田信長、今川方となった鳴海城主に同心した星崎根上の者の所領没収を命ず

「星崎根上之内今度鳴海江同心之もの共跡職、悉為欠所上者、堅可遂糺明者也」

10月23日 年は比定

  • 今川義元、荒川某に、西尾の吉良義昭(または義安)離反後の政治情勢を伝える

「西尾之御事、大方御心得候哉、義■御造意不及■■■、即時ニ御舎弟長三郎殿為人質緒川へ御越候而、緒川・苅屋之■■西尾城へ被入候、何御不足候哉」

閏10月4日

  • 今川義元、西条吉良氏が逆心したので鎮圧したと北条宗哲に報告

「其以後就被成吉良殿逆心、近日西条へ動之儀申付、彼庄内悉放火、二百余討捕候」

閏10月29日 年は比定

  • 今川義元、三条実澄に何事かの合力を了承する

「御合力之儀無相違申付候、可御心安候」

1556(弘治2)年

2月某日

  • 織田秀俊、白坂雲高寺に禁制を発す、

「依為無縁所、諸役等之儀、令免許訖」

2月3日

  • 今川義元、戸田伝十郎が上野城所用を果たした功を賞して知行を与える

「今度上野城所用、黄金百両・代物百貫、合参百参拾貫之分、令取越之条」

2月27日

  • 今川義元、松平亀千代の相続を保障し父の忠節を賞す

「去廿日、父忠茂於保久・大林討死、忠節之至也」

2月29日

  • 今川義元、大給山中方面での天野藤秀の戦功を賞す

「去年九月十四日大給山中筋諸手相勤、平五屋敷押破之刻」

3月22日 年は比定

  • 小渡・明智で遠山・鱸・広瀬の3氏と今川方が交戦

「鱸兵庫助小渡依致取出、為普請合力岩村衆并広瀬右衛門大夫令出陣、右衛門大夫去八日令帰陣処、阿摺衆馳合遂一戦、手負数多仕出、安藤藤三・深見与三郎両人者、安藤新八郎・同名宗左衛門討捕之段感悦也、此外七日・八日両日ニ於明智、近所通用之者六人討捕」

6月21日

  • 今川義元、三河国大仙寺の寺領を安堵する

「一 東者限沢渡、西者限小縄手田端、南者限往復道谷合末迄、北者限田端、令寄附之事」

6月24日

  • 松平元信、三河国大仙寺の寺領を安堵する

「東ハさわたりをきり、みなミハ海道をきり、同谷あひすゑまて、西ハこなわて田ふちをきり、北も田ふちをきり、末代ニおいて令寄進畢」

6月24日

  • しんさう、松平元信の三河国大仙寺寺領安堵を補足する

「返々大せんしの事、道かんにも、いまの三郎にも、われゝゝつかひ申てまいらせ候」

8月13日

  • 今川義元、能勢甚三の三河国千両口での戦功を賞す

「今月四日、於三州千両口大代官所、合鑓敵追入」

8月16日

  • 今川義元、小笠原美作守が作手方面での苅田作戦で活躍したことを賞す

「去四日、作手筋諸口苅田動之儀申付之処、名化筋同名美作守等相動、依為切所各味方及難儀之刻」

9月4日

  • 今川義元、野馬原での松井左近尉活躍を賞す

「去三月、織田上総介荒河江相動之処、於野馬原遂一戦」

1557(弘治3)年

1月2日

  • 武田晴信、下条兵部少輔が武節谷で活躍したことを賞す

「旧冬三州武節谷へ遣士卒砌」

1月13日

  • 今川家正月恒例の歌会始が氏真屋敷にて初めて行なわれる

「十三日、戊辰、天晴、正月中、自大方小袖、織物、袷、浅黄、一重、○賜之、今日之会始ニ可着之由有之、今日之懐紙調之、如此」

1月23日

  • 今川義元・氏真、井上但馬守が買収した金原屋敷の明細を連署して保障する

「「義元」袖判 「氏真」袖判」

1月29日

  • 今川義元屋敷で急遽歌会始が行なわれる

「廿九日、甲申、晴、三条亜相ニ申香之筒十五人分書事出来到、并今日太守之和歌会始可来之由俄被申云々」

2月10日 年は比定

  • この日までに武田方が明智・串原を制圧/本隊が木曽経由で東濃に侵攻

「仍明智・櫛原之属御存分由目出度奉存候、右意趣以使者申上処、安点良表江国中衆出勢与相見候」

5月8日

  • 今川義元、三河国永源寺(豊田市篠原町)に禁制を下す

「山林見伐所令停止之也、弥修造勤行不可有怠慢者也」

6月22日

  • 今川義元、武田方への援軍として出征した井出甚左衛門尉が病死したことを認定

「去々年信州江富士下方之人数為甲州之合力差遣之処」

6月26日

  • 今川義元、奥平定勝が彦九郎を成敗したことを賞し、知行を与える

「同名彦九郎自去年春逆心事、沙汰之限也、雖然定勝事、無二存忠節、彦九郎遂成敗段神妙也」

7月22日 年は比定

  • 朝比奈親徳・由比光綱、良知善左衛門に松平和泉守の状況を伝える

「只今大給用心大切之旨、従其方田嶋方被仰付、松平久助方へ有談合、人数十四五人も御越可然候歟、和泉方も軈而可被罷上候」

8月9日 年は比定

  • 松平和泉守、田嶋新左衛門尉に大給城内の統括を委託

「仍従御奉行其方へ依御理候、細川衆めしつれられ、早々御移」

9月5日

  • 今川義元、菅沼定俊の布里撤退の手際を賞す

「去年菅沼十郎兵衛尉・同八右衛門尉帰参之刻、林左京進・菅沼三右衛門布里江打入之処、以敵猛勢相勤之旨、夜中令告知人数無相違引取之段」

10月9日

  • 今川義元、三浦左京亮に西尾城番を指示

「就西尾在城参百貫文之分、所宛行之也、昼夜用心普請已下、無油断先二三ヶ年可遂在城」

10月27日

  • 今川義元、牧野右馬允に某城の在城法度を指示する

「在城五ヶ年之内」

11月11日

  • 松平元信の臣石川忠成ら、三河国浄明寺の不入を認める

「広忠・元信末代諸不入ニ御寄進之うへハ」

12月3日

  • 今川義元、鳴海神社・八幡の所領を安堵し、在城衆にも通達したと告げる

「近年押領之禰宜雖令難渋、不可許容、在城衆存此旨堅可申付者也」

1558(弘治4/永禄元)年

2月26日

  • 寺部城を攻撃中の匂坂長能に、今川義元が作戦指示

「向寺部可取出之旨領掌訖、然者寺部城領半分令扶助間」

3月3日

  • 今川義元、葛山・三浦氏らが笠寺への夜襲を撃退したことを賞す

「去晦之状令披見候、廿八日之夜、織弾人数令夜込候処ニ早々被追払、首少々討取候由」

3月18日 年は比定

  • 織田弾正忠、尾張国龍泉寺城を築き始める

「戊午 永禄元 三月十八日龍泉寺織田弾正忠城之鍬始在之」

4月12日

  • 今川義元、松平次郎右衛門に、寺部での戦功を賞し知行を与える

「今度鱸日向守逆心之刻、走廻リ日向守楯出寺部城請取処、其上親類・被官就相替、日向守重而令入城処、相戦蒙疵、殊息半弥助・同被官名倉、遂討死罷退候」

4月13日

  • 今川義元、奥平定勝に、三河国大野田を返還する

「菅沼新八郎爾雖令扶助、今度忠節之上、遂其理、為本地之条、如前々還附訖」

4月26日

  • 今川義元、足立右馬助・甚尉がこの年4月24日・弘治2年に活躍したことを賞す

「去廿四日寺部へ相動之刻、廣瀬人数為寺部合力馳合之処、岡崎并上野人数及一戦砌、弟甚尉最前ニ入鑓、粉骨無比類之処、当鉄炮令討死、因茲各重合鑓、遂粉骨之間、即敵令敗北之条、甚以忠節之至也、彼者事者、去辰年上野属味方刻、勝正同前ニ従岡崎上野城へ相退砌も、既尽粉骨之上、彼城赦免之儀相調之間、彼此以忠功令感悦者也」

6月2日

  • 今川義元、奥平松千代が岩小屋城後詰の遠山氏を名倉舟渡橋で撃退したことを賞す

「去月十七日、三州名倉於舟渡橋、岩村人数出張候処」

閏6月8日

  • 今川家家臣、奥平監物が岩小屋城後詰の遠山氏を名倉舟渡橋で撃退したことを賞す

「先度於舟渡橋、岩小屋江後詰之人数多之討捕」

閏6月20日

  • 朝比奈泰朝、岡崎雑説に触れ、大樹寺に来秋参陣することを告げる

「今度岡崎雑説出来候処、無別儀無事候間、可為御大慶候、何様来秋必可令参陣候条」

7月4日

  • 今川義元、伊東貞守が1月に河合源三郎、3月に菅沼大膳亮を撃退したことを賞す

「去正月、河合源三郎令逆心敵引入処、一類等奥山能登守かたへ相渡、無二令味方段、神妙也、又至于三月菅沼大膳亮お源三郎相催、屋敷構江攻入之刻、尽粉骨」

8月16日

  • 今川義元は御油宿で伝馬の法を定める

「当宿伝馬之儀、天文廿三年仁以判形五箇条議定之処」

8月20日

  • 今川義元は天野小四郎に、天野安芸守の岩小屋在城に扶助を与える

「就同名安芸守岩小屋在城令扶助」

11月23日 年は比定

  • 陣中で連絡を受けた織田信長、秋山虎繁に大鷹の進呈を申し出る

「先度者陣中江御使本望候、仍雖不思召寄申事候、大鷹所望候、誰々就所持者、御調法候而、可被懸御意候」

12月某日

  • 織田信長、白坂雲高寺に禁制を発す

「右当寺依為無縁所、諸役等令免許畢、若有違犯之輩者」

1559(永禄2)年

2月2日

  • 織田信長、上洛する

「自尾州織田上総介上洛云々、五百計云々、異形者多云々」

2月7日

  • 織田信長、京を発つ

「尾州之織田上総介晝立歸國云々」「有雑説俄罷下云々」

2月22日

  • 今川氏真は松井左衛門佐が父の遺言状の通り領地を継承することを保障する

「父貞宗譲与之旨、永領掌不可有相違」

3月20日

  • 今川義元、戦陣での規則を定める

「一兵糧并馬飼料着陳之日ヨリ守為下行事」

4月15日

  • 甲斐都留郡では巨大な雹が降る

「四月十五日大氷降。」

5月16日

  • 徳川家康、訴訟や人事について定める

「一元康在符之間、於岡崎、各批判落着之上罷下、重而雖令訴訟、一切不可許容事」

8月8日

  • 今川氏は皮職人大井掃部丞に来年分の皮も一括して納入するよう指示

「来年可買分、如相定員数、只今為急用之条」

8月15日 年は比定

  • 今川義元は伊勢外宮に、三河国の遷宮費徴収は関口刑部少輔が連絡するだろうと伝える

「将又参州萱米之事、委曲関口刑部少輔可申候」

8月21日

  • 今川義元は朝比奈筑前守に大高城番を命ずる

「今度召出大高在城之儀申付之条」

9月9日 年は比定

  • 時宗体光上人は今川義元が尾張に出陣することを祝う

「向尾州御進発」

9月27日 年は比定

  • 武田晴信が木曽義昌に濃尾連合から高森(苗木城)を守るよう依頼。今川氏を引き合いに出す

「就高森之儀、■■■預御飛脚候、祝着存候、諸口御味方相調、城中堅固之由肝要候、晴信駿州へ入魂之事者、可有御存知候歟、若高森之城尾州・井口へ有御渡者無曲候」

10月23日 年は比定

  • 今川義元は奥平監物・菅沼久助が大高補給作戦時に奮戦したことを褒める

「去十九日、尾州大高城江人数・兵粮相籠之刻」「去十九日、尾州大高城江人数・兵粮相籠之刻」

11月19日 年は比定

  • 今川義元は『水上』に、自身が戦闘に参加し長陣を耐えていることを労う

「今度依大夫殿自身御合力、■■■祝着候、殊長陣労功無是非候」

11月26日 年は比定

  • 今川義元は伊勢内宮に、志摩国人退治の願文を奉納

「近有仮義元力欲追伐彼悪徒之輩、即差遣人数事」

12月7日

  • 甲斐都留郡では大雨と土石流が発生

「十二月七日ニ大雨降。俄ニ雪シロ水出テ。法ケ堂悉皆流レ申候。又在家ノ事ハ中村マルク流シ候無限」

1560(永禄3)年

2月20日

  • 甲斐都留郡では大雪が降る。この時期飢饉が継続し、永禄1~3年で疫病が蔓延する

「二月廿日大雪降。<ツツカイ(筒粥)ニハ何モ不入候得共>」

3月12日

  • 今川義元、中間藤次郎に、駿河国清水湊に繋留する新船一艘の諸役を免除する

「清水湊・沼津・内浦・吉原・小河・石津湊・懸塚、此他分国中所々」

3月20日 年は比定

  • 関口氏純は伊勢外宮に三河国からの遷宮費徴収を確約、さらに今川義元が近日中出陣することを告げる

「近日義元向尾州境目進発候」

4月12日 年は比定

  • 今川義元は水野十郎左衛門尉に出陣を告げる

「夏中可令進発候条、其以前尾州境取出之儀、申付人数差遣候、然者其表之事、弥馳走可為祝着候」

4月24日

  • 今川氏真、丸子宿に伝馬の規則確認を行なう

「但し、地下宥免の上、公方儀無沙汰せしめ、その上在所衰微せしむに於いては、此の定め相違有るべきの旨、先の印判に任す所」

5月某日 年は比定

  • 伊勢外宮は今川氏に三河国だけでなく遠江国の遷宮費徴収も催促

「因茲去年夏自作所令注進之処、三州之儀雖為御合点、遠州之儀者、就浅間御造営無同心之由」

5月6日

  • 今川氏真、神原三郎左衛門の与力を補充する

「高林源兵衛狼藉之砌、屋鋪に相移、其上被官人討死手負数多出来、捨身命存忠節候」

5月8日

  • 今川義元は三河守、氏真は治部大輔に任官

「朝廷口宣」

5月22日 年は比定

  • 三浦内匠助は松井山城守に19日の戦闘で松井左衛門佐が活躍したことを褒める

「去十九日、於尾州口不慮之御仕合、無是非次第候」

5月25日 年は比定

  • 今川氏真は天野安芸守の守備を褒め、不慮の合戦があったことを告げる

「今度不慮之儀出来、無是非候、然者当城之儀、堅固申付之由喜悦候、軈而可出馬候」

6月3日

  • 徳川家康、三河国碧海郡崇福寺に禁制を発す

「右之条々、於違犯之族者、可処厳科者也」

6月8日

  • 今川氏真は鳴海城を死守し、刈谷城の水野藤九郎を討ち取った岡部五郎兵衛尉を褒める

「今度尾州一戦之砌、大高沓掛両城雖相拘、鳴海堅固ニ持詰候……(中略)……剰刈谷城以籌策城主水野藤九郎其外随分不(己+大)他也」

6月10日

  • 佐久間信盛は伊勢内宮に今川義元を討ち取ったと報告

「今度就合戦之儀、早々御尋本望存候、義元御討死之上候間、諸勢討捕候事、際限無之候」

6月12日 年は比定

  • 今川氏真は鵜殿十郎三郎の大高付近での戦功を賞する

「去年十一月十九日、去五月十九日於尾州大高口、両度合戦之時」

6月13日

  • 武田晴信は鳴海城を死守した岡部五郎兵衛尉を褒める

「抑今度以不慮之仕合、被失利大略敗北、剰大高、沓掛自落之処、其方暫鳴海之地被踏之其上従氏真被執一筆被退之間」

  • 甲斐都留郡では6~10月まで長期降雨

「此年六月前ハ日ヨリ同六月十三日ヨリ雨降始。来ル十月迄降続候間。耕作以下何モ無之」

6月16日

  • 今川氏真は2度の戦闘で奥平久兵衛尉・鱸九平次を討ち取り、城を守った簗瀬九郎左衛門尉を褒め領地を保障する

「今度当城堅固爾相踏、殊於両度遂一戦」

6月23日 年は比定

  • 武田晴信は幡竜斎の駿府滞在を労う

「長々其府滞留御辛労察入候」

6月27日 年は比定

  • 今川氏真は熊野大社への返書で不慮の合戦が起きたことを告げる

「於尾州不慮之儀出来」

7月28日

  • 今川氏真、鱸内三の遺領相続を認める

「如父六郎左衛門尉時、於当城走廻之上者、如前々不可有相違」

7月29日

  • 今川氏真は平野鍋松の父が5月19日の合戦で討ち死にしたことを認め、鍋松の相続を承認する

「五月十九日於尾州天沢寺殿御討死之刻、父輝以無比類令討死段甚以忠節之至也」

8月3日

  • 今川氏真、本間兵衛五郎が福島氏反乱を鎮圧した功を褒める

「今度福島彦次郎構逆心、各親類・同心以下令同意処」

8月16日 年は比定

  • 朝比奈丹波守親徳は安房国妙本寺に、自分が三河国に在陣していること、今川義元が討ち死にした際は鉄砲による負傷で居合わせなかったことを告げる

「仍不慮之仕合義元討死無是非次第、不可過候推察候、拙者儀者最前鉄鉋ニ当不相其仕場候、雖然至于只今存命失面目候、就中当屋形可有御音信之旨候、拙夫于今三州在陣之儀候条」

9月1日

  • 今川氏真、岡部元信の鳴海城守備を讃え父の遺産相続を認める

「剰今度一戦之上、大高・沓掛雖令自落、鳴海一城相踏于堅固、其上以下知相退之条」

10月7日

  • 今川氏真、同年5月19日に菅沼久助が武節に籠城していたことに言及

「然者去五月十九日於尾州一戦之刻、武節筋堅固走廻之段、太神妙也」

10月8日

  • 今川氏真、岩瀬雅楽助が牧野氏逆心時に忠義を尽くしたことを賞し知行を与える

「父雅楽助先年牧野民部丞雖企逆心令内談に、八太夫不同意罷退之段、為忠節之条」

10月10日

  • 今川氏真、岩瀬雅楽助の父和泉入道を赦免する

「父和泉入道身上之事、先度子細雖相尋、猶以無疎略之旨、以罰文申上走朧段、明鏡之略申趣聞届候条令赦免畢」

10月16日 年は比定

  • 千草有吉、近江国四本衆によって三河商人の木綿が押収されたことを伝える

「今度三河商人、此方山中木綿通申候処、四本衆被押留候、自先規きわたなと被留候事、一切無之儀候」

10月18日 年は比定

  • 布施公雄ら、三河商人の木綿について調停し、六角氏への礼物を催促する

「三河商人木綿之事■■■■■被申扱、速水勘解由左衛■■■■為礼物三百疋三種二荷持参■■■商人中合点にて相■候由」

11月15日

  • 今川氏真、原田三郎右衛門が11月1日に八桑を攻撃したことを賞す

「今月朔日、簗瀬九郎左衛門令八桑江其行、城廻小屋五六十放火、敵四五十人討捕之旨」

12月某日

  • 織田信長、尾張国知多郡常滑東竜寺に禁制を発す

「右当寺依為無縁所、諸役等令免許(己+十)、若於違犯之輩者、速可処厳科者也」

12月2日

  • 今川氏真は松井八郎に、父親である左衛門尉宗信の奮戦を褒める

「去五月十九日、天沢寺殿尾州於鳴海一戦、味方失勝利処、父宗信敵及度々追払、数十人手負仕出、雖相与之不叶、同心・親類・被官数人、宗信一所爾討死」

12月11日

  • 今川氏真、挙母衆である大村弥右兵衛の所領を補償する

「今度衣衆等彼地依出置之、為其替地同国和田郷・同吉田郷都合百三拾三貫文分也」

1561(永禄4)年

2月28日

  • 今川氏真、尾上彦太郎の弟に、兄彦太郎が昨年5月19日の合戦で討ち死にしたことを賞し知行を安堵する

「去年五月十九日、兄彦太郎尾州一戦之刻致天沢寺殿供無比類遂討死」

3月某日

  • 織田広良が尾張国剣光寺に禁制を発す

「禁制 剣光寺」

閏3月4日

  • 今川氏真、小倉内蔵介に酒匂の越後衆が撤退したことを告げる

「坂匂陣取之敵退散候間、様躰追而可申越候」

閏3月10日

  • 今川氏真は沓掛城で土地の証文を失った大村弥右兵衛に証文を再交付

「去年五月十五日合戦之砌、於沓掛令失却之旨申候条」

4月22日

  • 今川氏真、畑彦十郎が後北条氏援軍として活躍したことを賞す

「河越籠城中尽粉骨走廻之旨、氏政感状所令披見也」

4月25日

  • 今川氏真、小倉内蔵助が後北条氏援軍として活躍したことを賞す

「今度越国人数、向小田原相働之刻、為加勢申付候処、以一身之覚悟、武州河越令籠城、数度竭粉骨」

5月某日

  • 織田信長が尾張国北野村真福寺に禁制を発す

「禁制 北野村真福寺」

5月1日 年は比定

  • 北条氏康は水野下野守・酒井左衛門尉に今川氏と松平氏の仲介を依頼

「抑近年對駿州被企逆意ノ由、誠以歎敷次第候、就之自駿府當方へ出陣ノ儀承候間、氏康自身出馬據歟」

5月13日

  • 梅龍寺に、斎藤義龍死去に伴う尾張衆乱入が記される

「永禄四年辛酉五月十一日義龍死去、尾軍乱入、同十三日従尾州乱入、別傳漸ク遁殺害奔出、不知落処、龍谷同前」

6月某日

  • 織田信長が美濃国平野・神戸市場に禁制を発す

「平野之内 神戸市場」

7月12日

  • 今川氏真、田嶋新左衛門が嵩山市場口長沢で戦功を挙げたことを賞す

「去六日、於嵩山市場口長沢、最前入鑓走廻之由神妙也」

7月20日

  • 今川氏真は、前年吉田城で情報撹乱があった際に岩瀬雅楽介が守備に徹して吉田城を守ったことを褒める

「然而去年吉田雑説之時分、天慮方へ依令内通、彼城于今堅固之儀」

8月26日

  • 今川氏真、去年9月10日に梅坪を攻撃した際の鱸信正の戦功を賞す

「去年九月十日向梅坪相動之刻、於鑓下弓仕敵数多手負仕出」

8月26日

  • 今川氏真、伊勢神宮に三河国から寄進を行なう旨確約し、但し混乱があるためまず駿河・遠江から毎年200俵を奉納すると申し出る

「就三州本意者、於彼地一所永可奉寄附之、但錯乱之間者、先於駿・遠之中毎年弐百俵、為日御供奉納之処」

9月21日

  • 今川氏真、野々山四郎右衛門尉が岡崎逆心に同意しなかったことを賞す

「殊今度岡崎逆心之刻、出人質捨在所無二為忠節之条」

11月14日

  • 今川氏真は刈谷出陣時の負担によって百姓が逃げ出したため、陣夫の義務を免除する

「当郷年来陳夫之を相勤むと雖も、刈屋陳の刻、百性等困窮に就いて逐電に及ぶの上」

12月9日

  • 今川氏真、岩瀬小四郎が菅沼新八郎逆心に同意しなかったことを賞す

「今度菅沼新八郎令逆心之処、不致同意、従野田牛久保江相退無二忠節馳走之段」

1562(永禄5)年

1月20日 年は比定

  • 足利義輝は今川氏と松平氏の戦闘を仲裁

「一就氏真与三州岡崎鉾楯之儀、関東之通路不合期之条、不可然候」

3月某日 年は比定

  • 今川氏真、渡部平内次が天文19年の白鳥山、その後の武節籠城で活躍したことを賞す

「去戌三冬、三州津具於白鳥山令忠節候、先判有之候、其後武節之城相籠之刻走廻」

7月21~29日?

  • 葛山氏元は刈谷・笠寺出陣時に定めた伝馬制度を維持するよう指示。1560(永禄3)年以降、伝馬制度の維持が難しくなっていることが判る

「自苅屋・笠寺陣之時相定之処、去々年以来依令難渋」

1563(永禄6)年

2月24日

  • 今川氏真、沓掛城で土地の証文を失った田嶋新左衛門に証文を再交付

「庚申年於沓掛令失却之由之条」

1567(永禄10)年

8月5日

  • 今川氏真、鈴木・近藤氏に替地を給付する際、徳川家康が逆心した日時に言及

「去酉年四月十二日岡崎逆心之刻」

2017/10/26(木)椙山陣考再録

椙山陣考-1 『杉山城問題』と『椙山之陣』

 『杉山城問題』と言われる、歴史学上の解釈の議論がある。埼玉県嵐山町杉山に遺構が存在する杉山城に関して、発掘された陶磁器の年代測定にて1450~1525年頃という見解が出されたことに端を発している。その見解が出るまでは、縄張り構成から城郭研究者が天文末年以降の後北条氏築城と唱えていた。このため、発掘調査の結果と齟齬が発生した。同時に、継続して発展・拡張されたものではなく1度使った後は放棄されたとの見解が発掘者から出てきた。こうなると、「じゃあどちらなのか?」的な議論になってくる。

 その後『戦国遺文古河公方編』が、毛呂土佐守宛・足利高基書状写の「椙山之陣」を嵐山町杉山に比定した。このために「発掘調査と文書が適合した」とする主張が出てきた。書状写内の足利高基・上杉憲房の活躍時期から、後北条氏が進出する前に杉山城が存在したというのである。

 この主張をしているのは、『千葉史学51号「戦国前期東国の戦争と城郭-「杉山城問題」に寄せて-」』(竹井英文氏)と『中世東国の領域と城館』(斎藤慎一氏)の2論文である。

 この問題の詳細については、静岡のお城というサイトの「お城の研究」>「最新の研究動向紹介」に判りやすくまとめられている。私の稚拙で駆け足な説明では心もとないので、興味を持った方は是非ご参照を。

『杉山城問題』の論点を短くすると以下のようになる。

  • 城郭研究:後北条氏がその城郭技術を用いて築造した高度な設計と定義
  • 発掘結果:後北条氏が川越を領有する1537(天文6)年以前と指摘
  • 文献研究:「椙山之陣」=嵐山杉山城と比定し、山内上杉氏関与と指摘

私は研究史に疎いのでちょっと胡乱だが、研究として先行したのは縄張りを現地に行って調べて回る城郭研究だと思っている。年代測定の技法・発掘状況を考えると考古学的研究は最近のものだろう。そして、文献研究についても自治体史を中心とする文書の編年列挙・釈文化が本格化したのは80年代以降だと思うので、実は新参としての側面がある。であれば、先行する城郭研究は後進に否定されたことになり、ここに、この懸案が純粋論理で展開できていないように見える素地が隠されているような気もする。

文書をちょっと調べてみた

 縄張り論や遺物論への知識はないが、古文書であれば私にも少し判る。その書状写を読んでみた。

足利高基、毛呂土佐守が上杉憲房を守って活躍したことを賞す

  • 戦国遺文古河公方編0606「足利高基書状写」(山田吉令筆記所収家譜覚書)

    椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙之至候、謹言、
    九月五日/足利高基ノ由花押/毛呂土佐守殿

非常に短い。一読すると「『椙山之陣』からずっと毛呂土佐守が上杉憲房を守備したと、足利高基が誉めた」という内容だ。文中で登場する上杉憲房の生没年は1467(応仁元)年~1525(大永5)年。1450~1525年という発掘調査結果と合致している。なるほどと思いつつ、少し疑問が出てきた。

この文書は正しいものか?

写しというよりは家譜内に記されただけの文書であることから、綿密な検討が必要だろう。毛呂氏の諸系図には一次史料で判っている人物が入っていない(三河守・季長・左衛門丞)。特に三田氏から毛呂幻世の養子に入ったことが確実な季長は、永正年間に元服しており、今回の文書とほぼ同時期に活躍した人物だ(武蔵三田氏 論集・戦国大名と国衆4/黒田基樹)。毛呂氏にとっても中世末期の最重要人物だが、何故か系図には存在しない(毛呂山町史料集第3集)。

その一方で、旗本として近世中期に仕官した毛呂長敬・大谷木季貞は出てくる。となるとこれらの系図は長敬・季貞の仕官用に作成された可能性が高く、戦国期以前の信頼性には問題があると思う。『毛呂山田系譜』では永和~応永年の人物と、1567(永禄10)年卒の義春で官途を『因幡守』としていることから、上野国佐貫の別系統『茂呂』氏から文書を買い取った可能性もあるだろう。

文書の解釈は正しいのか?

まず、「以来」という語の扱いが気になっている。竹井氏・斎藤氏の杉山嵐山説では、「椙山之陣」発生時と高基発給時を近い日取りで考えているようだ。しかし、他の文書を見る限り「以来」は結構遡れる表現である。また、「相守」については物理的な守備・警護を意味していないことが歴代古河公方文書で判った。1と合わせて次回検討してみる。

土地の比定は嵐山のみか?

「杉山」は、高山・松山などとともに、割合普遍的に存在している地名ではないだろうか。地名辞典を見ても他の候補は存在した。そこで、それぞれを列記して検討する。

椙山陣考-2 『相守文書』

私は今川・後北条の文書は少しばかり読んでいるが、古河公方については義氏のものを何通か解釈しただけである。それにつけても、懸案の文書は少し短過ぎて異常に感じられる。

椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙之至候、謹言、
九月五日
足利高基ノ由
花押
毛呂土佐守殿

そこで、「相守」をキーワードに諸史料を当たったところ、『椙山之陣』文書は、古河公方が代々発給していた一定のテンプレートに添った文書であることが判った。

『相守文書一覧』

文書自体の意味を考えると、古河公方から陪臣(家臣の家臣)に出されている点から、宇都宮成綱・小山成長らの統制力を増すために出されたように見える。

「相守」という言葉は『相守文書』以外の文書でも使われており、物理的な守備・護衛ではなく、忠義を守るような意味合いと指摘できるだろう。

上杉顕定、長尾景春に、久下信濃守の伊勢参拝道中を保障するよう、伊勢宗瑞への仲介を依頼する

  • 神奈川県史資料編3下6478「可諄書状案写」(榊原家所蔵文書)

    久下信濃守事、累年相守当方、忠節異于他候、寔可被聞及候、仍近日可参宮分候、然者東海道於可透候間、往還無相違様、伊勢宗瑞方へ懇被申越候者、可喜入候、恐ゝ謹言、
    正月晦日/可諄判/長尾左衛門入道殿

「以来」の用法にこだわってみると……。

古河公方が陪臣に向けて直臣への忠義を認めるという文書の意味合いから考えて、「以来」はその陪臣が忠義を行なった由緒を示すものとなる。つまり、毛呂土佐守は「椙山之陣」からずっと憲房に忠義を尽くしていたのだから、その契機は遡るほど評価が高いことになる。

「以来」という語の使い方を見ても、今川氏親書状では9年遡った例がある。

今川氏親、本間宗季の軍忠状を認定する

  • 戦国遺文今川氏編0232「本間宗季軍忠状写」(本間文書)

    遠江国山名郡石野郷内小野田村之事。右、任本地致知行、御入国以来忠節仕条々。一、座生御城江信州一国罷立相攻候処、久野佐渡守及難儀半、属福嶋左衛門尉助春手彼城中ニ走入、励軍忠久野同前得勝利候。一、天方城敵相楯籠候時、久野并渋谷相共遂合戦、佐野小次郎討捕、其頸福嶋玄番允渡之畢、馬伏塚敵可乗取支度仕候時、宗季最前彼城エ懸入、依助春令知之、企謀略之族則令出奔畢、関東御進発御供仕、於武州立河原御合戦大利上軍功其一数候。一、三州江福嶋玄蕃允為助春代、罷立候時、令同心候、其後御進発之刻、御供仕、今橋城攻仁百余日尽忠功候、同於石巻之城、渋谷同前六十余日粉骨、無其隠候、以此条々下給御証判、可備後代亀鏡之旨、宜預御披露候、仍目安状如件、
    永正七庚牛年三月廿日/本間源次郎宗季/披見申候(今川氏親花押)

この文書の発給は1510(永正7)年、遠江国蔵王城を信濃国衆が攻めたのは1501(文亀元)年頃。少なくとも、後の項目で挙げられた立河原合戦が1504(永正元)年であることは確実なので6年以上遡っていることは確実である。「以来」の契機がどこまで遡れるかは特定できないので、椙山之陣発生時期は憲房初陣まで範囲に入るだろう。

また、『椙山之陣』は憲房の指揮下に入った契機であることしか示さないので、この陣に憲房が存在しなくてもよい。究極を言えば、憲房も毛呂土佐守も別の場所にいたのだが、契機としては『椙山之陣』があったという理解も成り立つ。とはいえ忠義を称える文面から、土佐守はこの陣にいたと考える方が自然だと考えている。高基に関して言えば、この陣で憲房と没交渉、もしくは敵対していたとしても問題はない。発給時点で憲房と協調関係にあればよい。

以上から、高基が発給した年と、『椙山之陣』が発生した年は別個に存在することを検討しなければならない。勿論、両者が同年であるという比定も可能だ。年比定については項を改めて検討する。

とにかく例外が多すぎる。

そして、表中で目に付くのが07号とした『椙山之陣』文書の例外ぶりである。まず利根川右岸の、しかも山内上杉氏を媒介にしているのは異様である。赤井氏・冨岡氏との関連から考慮すると、後に後北条氏方として登場し佐貫(赤井氏旧領)を拠点として冨岡氏と連携している茂呂因幡守宛と考えるのが自然に思う。原文書が武蔵毛呂氏に渡り、近世になって宛所が書き換えられたのではないか。

その改変に伴って、「無二」を伴わない文頭である「椙山之陣以来」と、文末の「謹言」が書き加えられたとするならば、07号文書の原型はようやく、一連の相守文書と親和性が確保できる。改変の可能性を示唆するのが竹井氏論文である。

  • 千葉史学51号「戦国前期東国の戦争と城郭-「杉山城問題」に寄せて-」(竹井英文)

注書き内

「なお、「家譜覚書」に[史料1]と同文で「憲 花押」とある史料があることも知った。そこには、「仕山内上杉管領 文亀三年癸亥豆州杉山役以有働自上杉家賜書」と注があり、[史料1]に「■■文亀三年ト有」と注があるのは、このことを指すと思われる。しかし、その根拠は不明確で、注の内容も事実関係として全く合わない。内容的にも足利高基書状とみて間違いないと思われる。」(101ページ)

確かに指摘通りで、1503(文亀3)年当時の山内家当主は顕定であって憲房・憲寛は該当しない。また、伊豆国に「杉山」という地名があったかは判らない。但し、1496(明応5)年に相模西郡に山内方が侵攻したという顕定書状、矢野憲信が顕定の指示で駿河国御厨に在陣したという顕定書状はあるので、伊豆国での紛争に憲房が参加した可能性はわずかにある(1503年だと憲房は36歳前後)。

それはさておき、このような写しの存在は07号文書への改変が試みられたという証左である。他の『相守文書』との文言的乖離と合わせてこの点は強く指摘したい。

椙山陣考-4 比定地候補

『椙山之陣』を嵐山町の杉山とする根拠は、竹井英文氏と斎藤慎一氏が言及している。

  • 千葉史学51号「戦国前期東国の戦争と城郭-「杉山城問題」に寄せて-」(竹井英文)

    「毛呂氏が本拠とする武蔵毛呂郷の地理的位置、高基と憲房と毛呂氏が連携して戦争を行っていること、先述したように憲房が主に武蔵と上野で戦争を行っていることを念頭に「椙山」という地名を探すと、それは佐藤氏の比定通り、杉山城が存在する埼玉県嵐山町と考えられる」(91ページ)

  • 中世東国の領域と城館(斉藤慎一)

    「冒頭の「椙山之陣」について、『戦国遺文』では埼玉県嵐山町の注を付している。上杉憲房・足利高基・毛呂氏の三者の地理的状況を考えれば、同所に比定されるのは必然的と思われる。」(251ページ)

本当にそうだろうか。武蔵国に他の候補はあるのに、どちらの論文にもそれらを検討・除外したという記述はない。改めて考えてみたい。

『角川書店地名辞典』から候補地を列挙してみる。

埼玉県本庄市杉山

利根川と烏川の合流地点にあり、平井城の憲房が鉢形城にいた顕実と家督を争った際に憲房が陣を張ったと想定できる。

ここにある日輪寺は元応年間創建と伝わっており、当時杉山という地名が存在していた可能性も高い。また、連歌師宗長は『東路のつと』で、1510(永正7)年に鉢形から長井まで道案内した者の名を「杉山」と書いている。日没前に宿所に辿り着けなかった宗長は、恐らく杉山の案内で道を引き返してようやく宿を探し当てた。この杉山某は本庄市杉山の住人だったのではないか。

具体的には、古河公方と上杉氏が最初に戦った際に上杉方陣地として用いられた五十子陣の北方にあることから考えて、1511(永正8)年から翌年にかけて、平井城の憲房が鉢形城の顕実と争った際に使用したと想定できる。顕実が新田近辺に出撃する予定があったことは政氏書状で確認できる。与同する足利長尾氏・横瀬氏の渡河地点を確保しつつ、和解に尽力する扇谷朝良の拠点川越から距離を置くとなるとこの候補地は有力だろう。

神奈川県横浜市西区

地名辞典に掲載されているのは昭和3~41年の町名だが、名前の由来である杉山神社は多摩川右岸(横浜市・川崎市・町田市)に多数存在しており、町田市三輪には「椙山之陣」と同字の「椙山神社」が現存する。1510(永正7)年に権現山で上田氏が蜂起し、山内・扇谷の上杉氏が連携してこれを攻めた際に、山内方の後方陣地として機能した可能性がある。

但し憲房自身は権現山合戦を「上田一戦」と書いている(「発知山城入道宛書状」駿河台大学論叢41号13)。何れかの杉山神社に本陣を据えていたと伝聞した高基が「椙山之陣」と記す可能性は捨てきれないものの、この点から候補地としては難しいように思う。

ちなみに、町田市三輪の椙山神社の近くには、後に北条氏照が言及した沢山城跡があり、式内論社(延喜式に載った杉山神社はどれか判らなくなっているため「論社」と呼ばれる候補がいくつかある)3つ(茅ヶ崎ノ杉山神社・中川ノ杉山神社・吉田ノ杉山神社)が集中する中心部には、茅ヶ崎城が存在する。

御殿峠(八王子市片倉町・町田市相原町)

1569(永禄12)年に北条氏照が言及した「杉山峠山」。多摩郡から相模国当麻宿に抜ける鎌倉街道があり、滝山城攻囲を切り上げた武田晴信は杉山峠を越えて小田原に向かった。殿丸という高台や屋敷跡地の伝承もあり、陣所として機能した形跡もある。「御殿峠」という名称になったのは明治以降だということで、比定地としては問題ない。

山内・扇谷の両上杉氏が争った長享の乱では、山内氏が相模に何度も侵入している。1488(長享2)年の実蒔原合戦、1496(明応5)年の西郡一変、1504(永正元)年の立河原合戦から椚田奪還、実田攻めという流れから考えると、川越を攻めつつ、三田・大石といった有力家臣の勢力がある多摩郡から相模国へ転進したのが山内氏の戦略であったのだろう。さらに、1510(永正7)年には5月以前に椚田が1日だけ自落しており、7月の権現山合戦との関連性も考えられる。相模国西部から伊勢宗瑞が来ることを考慮すると、前線部隊を権現山に送りつつ、憲房自身は杉山峠にいて伊勢氏を牽制していた可能性がある。

杉山(嵐山町)

場所から考えて、1488(長享2)年の須賀谷原合戦との関連が高いように思う。しかし、6月の須賀谷原合戦の直後の11月、扇谷方に高見原まで攻め込まれていること、1494(明応3)年にも同じく高見原まで扇谷定正が侵攻していることから、ここに陣を置く局面があったかは不明。

竹井氏・斎藤氏の論文では、長享の乱後を想定している。『勝山記』『石川忠総留書』から両上杉氏に抗争があり、その際に『椙山之陣』が置かれたという考えだ。しかしこの時期の扇谷氏は東進する北条氏綱への対策に奔走しており、勢力も弱くなっている。憲房が嵐山杉山に陣を置くほどの軍事的緊張があったとは考えがたい。

むしろ、氏綱に川越を奪われた1535(天文4)年8月以降の方が自然である。川越奪回を狙う扇谷方の拠点として両上杉氏が共同構築したのであれば、現在残っているという技巧を凝らした縄張りも首肯し得るだろう。但しそうなると『椙山之陣』文書に登場する人物がつながらない。足利高基は同年6月に死去、上杉憲房に至ってはその10年前に亡くなっている。また、毛呂土佐守は1524(大永4)年以前に氏綱方に変わっている。

※黒田基樹氏比定では1511(永正8)年となっている、「釜形陣以来」という表現のある憲房書状がある。文中に「可諄も同意候き」とあることから顕定生前のものとされているようだが、「釜形」を嵐山町鎌形と考えると1524(大永4)年の毛呂城争奪に関係していると思われる。この点は別記事で何れ検討したい。

上記をまとめると、Cの杉山峠は長享の乱を通じて可能性があり、また権現山合戦時でも想定が可能である。ここが第1候補といえる。Aの本庄杉山は憲房・顕実係争時にしか比定できないが、利根川渡河地点との関連性を考慮すると充分可能性はある。Bの杉山神社群は比定地が曖昧で絞りきれない点と憲房が「上田一戦」と表現している点が弱い。今後新情報が出た際には考慮すべきかも知れないが、現時点では明確な候補地にはなり得ない。Dの嵐山杉山については、完全に否定するところではないものの解釈が最も苦しいと言わざるを得ない。

ちなみに近世の『武蔵田園簿』に出てくる「杉山村」は、本庄市と嵐山町の2つのみである。

椙山陣考-5 近世毛呂氏年表

毛呂氏の軌跡を可能な限り追ってみたところ、3つの系統が見つかった。□は小浜藩に近代まで残った川越山田系(家譜は■で示す)、○は近世初頭に小浜藩に入り後に追放された忠衛門系、△は出羽国松山藩に入り左沢領代官を勤めた善太夫系となっている。

■1596(慶長元)年 山田吉之が生まれる(山田家譜)

 1609(慶長14)年 酒井忠利が川越に大名として赴任

■1624(寛永元)年 山田吉之が酒井忠勝に出仕(山田家譜)

■1628(寛永05)年 *毛呂長兵衛死去(山田家譜)

 1634(寛永11)年 酒井忠勝が川越から小浜へ転封

□1636(寛永13)年 *毛呂長兵衛死去(榎本弥左衛門覚書)

○1637(寛永14)年 百五拾石 毛呂忠衛門(小浜藩分限帳)

○1640(寛永17)年 *毛呂長兵衛死去(川越行伝寺過去帳)・百五拾石 毛呂仁右衛門(小浜藩分限帳)

○1641(寛永18)年 御代官一同 無呂仁左衛門・高嶋代官 百五拾石 山田弥五右衛門(小浜藩分限帳)

○1642(寛永19)年 毛呂仁右衛門追放・山田弥五右衛門出仕(酒井忠勝書状)

△1645(正保02)年 毛呂善太夫藤正が江戸に生まれる(巨海院酒井直次墓域悉皆調査)

 1647(正保04)年 左沢領が出羽松山藩領となる

□1653(承応02)年 *花厳院宗浄・毛呂長兵衛殿・辰年四月。承応二年三月、過去帳表具之紙は山田久兵衛造立す(川越行伝寺過去帳)

□1658(万治元)年 米拾五表二人扶持 山田九太夫(小浜藩分限帳)

○1665(寛文05)年 毛呂仁右衛門が『新木古庭村山改帳』『山検分帳』を提出(伊東家文書)

 1669(寛文09)年 仙石政勝が毛呂本郷・大八木村などを拝領 宝永6年からは仙石領(角川地名辞典)

△1675(延宝03)年 毛呂八郎兵衛季方が江戸に生まれる(巨海院酒井直次墓域悉皆調査)

□1680(延宝08)年 毛呂長敬が旗本として出仕(寛政譜)

 1696(元禄09)年 仙石政勝隠居

□1705(宝永02)年 大谷木季貞が旗本として出仕(寛政譜)

△1742(寛保02)年 毛呂八郎兵衛が生まれる(巨海院酒井直次墓域悉皆調査)

○1748(寛延元)年 拾七俵三人扶持 毛呂英吉(小浜藩江戸分限帳)

■1758(宝暦08)年 *山田吉之曾孫毛呂武伝太が追放され断絶(1774(安永3)年小浜藩家臣由緒書)

大雑把な略年表ではあるが調べたことを下に書き留める。

山田家譜は余り当てにならないように思う。そもそも日蓮宗の山田氏は松山の上田氏重臣であって、毛呂よりは上田を名乗りたがるのでは、と思ってみた。では何故、川越の山田氏が「本姓は毛呂」にこだわるのか。

そう疑問を持って年表を見てみよう。面白いのは、寛永19年。川越で被官となった毛呂忠衛門の息子、仁右衛門は出世を重ねて小浜藩で代官に取り立てられる。が、この年追放されてしまう。入れ替わりに入ってきたのが、山田弥五右衛門。この山田家は後北条出身と語るが、「天正17年に相模国の八王子城に篭城」と言っている辺りはかなり怪しい。ちなみにこの系統は毛呂氏を名乗っていない。小浜藩には川越で仕官した者が多かったので、「八王子篭城」は一種のブランドだったのかも知れない。

山田吉令の先祖である山田九太夫が仕官するのはこの追放劇の16年後。毛呂氏を名乗るのはさらに100年後であるため、新入りであるが故に由来を強化するため僭称を画策したのだと思われる。

毛呂仁右衛門については、追放の23年後にひょっこりと姿を現わす。葉山から東にいった木古庭山村で山林の調査を行なっていた。この人は行政官としては無能ではなかったように思う。酒井忠勝が追放を命じたのは、代官仁右衛門が土地の都合も考えず徴税したことが原因だが、他ならぬ忠勝はその前年に「年貢が少ないからちゃんと徴税するように」と厳命を下している。察するに、江戸詰めとなって在地掌握ができない主君によってスケープゴートにされたのではないか。そして、毛呂仁右衛門は武蔵毛呂山の毛呂氏ではなかったようにも思う。確証はないのだが、この頃、後に庄内支藩松山藩の毛呂氏の祖となる善太夫が江戸に生まれている。まだ毛呂・大八木氏が旗本となる前なので、代官職を求めて放浪していた仁右衛門が江戸で求職中に善太夫を成したのではないか。そして、今度は左沢代官として陸奥の地に旅立っていったと。

旗本となった毛呂・大八木氏が何故仕官したかというと、毛呂山が天領から仙石政勝所領になったのが契機だと思われる。その後彼らは江戸に詰めて明治を迎えることから、代官志向の仁右衛門系統とは異なるように感じられる。

最大の謎は、忌日が3つある毛呂長兵衛だが、手習いを受けていた榎本弥左衛門の証言から経済的困苦にあった点、それを父母に隠していた点を勘案すると、武家として落魄した上野国の佐貫茂呂氏の系統を髣髴とさせる。また、同時期に川越にいてこちらはうまく小浜藩に入れた毛呂忠衛門・仁右衛門と同族であった可能性も高いだろう。忌日がぶれたのは小浜藩への仕官の5年前に山田久兵衛が回向を手向け、更に山田家が系図で1628(寛永5)年にまで遡らせたためだ。

山田久兵衛が毛呂長兵衛の名跡を何らかの理由で利用したと思われるが、ここから先は手がかりがない。参考までに、小浜市史に記載された毛呂・山田氏の記録を記す。

  • 安永三年小浜藩家臣由緒書

 本国備中松山 生国若狭、寛永十九年被召出。安永三年迄百三十三年
当午二拾二歳 山田甚内
一先祖者相州小田原北条之家臣毛呂土佐守義可与申候。天正十七年相州八王子ニ而討死仕、二男刀太郎与申候致浪人罷在、其子長兵衛与申、其子弥五介与申堀尾帯刀様江知行弐百石ニ而罷出、其子弥五右衛門与申堀尾家御断絶ニ付浪人仕、備中松山江引込罷在候。
初代 山田弥五右衛門盛重
一忠勝様御代、寛永十九年被召出知行百三拾石被下置、御国中江州敦賀川除普請奉行。忠直様御代、寛文二年三方郡気山村之川除普請場ニ而病死。

寛永19年の忠勝覚書9月18日に山田弥五右衛門に屋敷を与えた記述あり。

本国武蔵生国三河、寛永四年別当被仰付。安永三年迄六十八年
当午五十六歳 山田半助
一曽祖父山田藤兵衛吉之儀、忠利様御代、寛永元年於川越被召出御宛行七石弐人扶持、其後度ゝ御加増被下置候。忠勝様御代、寛永十五年新知五拾石。忠直様御代、寛文二年五拾石御加増都合百石、同十一年隠居忰九太夫部屋住ニ而被下置。名道無与改、天和二年病死。忰九太夫吉久儀藤兵衛惣領ニ而忠勝様御代、慶安二年被召出御切米拾五俵二人扶持、其後五俵宛両度御加増都合弐拾五俵弐人扶持。忠直様御代、寛文十一年家督無相違百石。忠隆様御代、貞享三年隠居忰定右衛門部屋住ニ而被下置候御切米拾五俵為隠居料被下置。忠音様御代、享保六年病死。九太夫惣領定右衛門家督相続仕候処、定右衛門孫毛呂武伝太代ニ至、忠與様御代、宝暦八年永之御暇被下置家断絶仕候。

寛永十四年分限帳
百五拾石 毛呂忠衛門

寛永十七年分限帳
百五拾石 毛呂仁右衛門

寛永十八年分限帳
御代官一同 無呂仁左衛門
高嶋代官 百五拾石 山田弥五右衛門

万治元年分限帳(この分限帳は元治2年に山田吉令が写したもの)
五拾石弐人扶持 山田藤兵衛
御扶持方衆
拾五人扶持 山田宗久
米拾五表二人扶持 山田九太夫
同拾五表右同断 山田次兵衛
弐人扶持 山田万五郎

寛延元年江戸分限帳
拾七俵三人扶持 毛呂英吉

椙山陣考-6 伝来時の改変経緯を推測

最後に個人的な推論を述べておこうと思う。『相守文書』で考察したように、毛呂土佐守宛07号文書の存在は不自然な点がある。

01)文書の分布から、武蔵国入間郡の毛呂氏よりは、上野国邑楽郡佐貫の茂呂氏が適切

02)01と同様に、山内上杉家督・関東管領である憲房よりは、富岡氏・茂呂氏の上位である赤井氏(重秀・文六・刑部大輔 など)が適切

03)「無二」を伴わないことから、「相守」の前にある「椙山之陣以来」の存在は不自然であり、後世付加の可能性が高い

04)03と同様に、「謹言」も他文書に見られず後世付加の可能性が高い

05)発給者は「高基」「政氏」「晴氏」全ての可能性があるが、誰だったかは不明。「走廻之条、神妙之至」が同文言であることから、晴氏の09号文書に仮託しておく。

改変を想定するとして、どのような段階や意図を経たものかを検討してみよう。

Version_A

相守千代増丸走廻之条、神妙之至也、

天文十六年 九月五日

(足利晴氏花押)

茂呂因幡守とのへ

これが私の考える文書の原型だ。ベースとしている09号文書(富岡主税宛・足利晴氏書状)は、1547(天文16)年の年次が記載されている。赤井氏と富岡氏が関連すること、後の1552(天文21)年には、後北条政権下で茂呂氏が富岡氏を指揮下においていることから、確度は高いものと思う。

そして、この文書が上野茂呂氏から武蔵毛呂氏に渡ったのち、自家の文書とするために擦り消しが行なわれたのではないだろうか

Version_B

相守■■■走廻之条、神妙之至也、

■■■■■ 九月五日

(足利晴氏花押)

■呂■■守とのへ

更にその後、確実に自家のものとするべく異筆による書き足しが行なわれた。これがバージョンB。

Version_C

相守■■走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

(足利晴氏花押)

毛呂土佐守殿

VersionBとCが同一人物かどうかは不明だが、「相守」の対象人物はこの段階では特定できていなかったものと考えている。擦り消されたままで放置されたからこそ、現存文書に見られる混乱があったと想定しているからだ。

ここで、実際に残された下記の残存形態の方に視点を移してみる。山田吉令が書き留めた記録は2種類ある。

Version_Z(現存の形態)

椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

足利高基ノ由

花押

毛呂土佐守殿

註「■■文亀三年ト有」

Version_Y(Zの一つ前の形態)

椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

憲 花押

毛呂土佐守殿

註「仕山内上杉管領 文亀三年癸亥豆州杉山役以有働自上杉家賜書」

現存する文書(Z)では、「相守」の対象が上杉憲房に固定され、その契機として「椙山之陣」が記載されている。「無二」を伴わないことから見て「椙山之陣以来」の後世追記は確実として、なぜ唐突に「椙山之陣」が登場するのかが判らない。

また、当初は入っていて擦り消された年次が、なぜ1503(文亀3)年になっているのか。興味を引くのが、Zが矛盾してしまっている点だ。文書の発給が文亀3年だとすると足利高基改名(1509(永正6)年)と合わないのだが……。その一方、文亀3年が「椙山之陣」(杉山役)発生年としているYでは矛盾が発生しないにも関わらず、発給者を「憲■」とぼやかしている。Y/Zともに年次の矛盾解消で混迷した気配がある。

ここでヒントとなるのは『吾妻鏡』。近世になって流布したこの書物には毛呂氏が出てくる。毛呂季光が、伊豆に流された頼朝の下人を助けたことを賞され、1193(建久4)年に所領を与えられている。そしてこの間に頼朝は「椙山之陣」を経験している。

1180(治承4)年8月24日。石橋山の合戦で破れた頼朝は「椙山」に退いて辛くも虎口を逃れる。椙山は相模西郡の湯河原の北方にあるが、伊豆国までの境界は2~3km。現代でも、湯河原・真鶴・熱海・函南を、神奈川と静岡どちらか混同している人間は多い。原文にある「椙山」という表記といい、伊豆国という記載といい、改変者が湯河原の椙山を意図した可能性は高いだろう。

挙兵前の頼朝に与しながらも、季光が石橋山に参戦した記録はない。そこで、無勢の頼朝と共に戦ったという勲功を偽装するために第2の改変者は以下のバリエーションを用いたのではないか。

Version_D(想定始祖から一つ進めた形態)

椙山之陣以来、相守■■■走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

(足利晴氏花押)

毛呂土佐守殿

註「仕鎌倉殿、豆州椙山役以有働癸亥賜書」

この改変者は、Version_Cまでを仕立てた人物とは別に存在すると思う。何故なら、年代の把握が出来ておらず、鎌倉初期の文書形式とは異なることに頓着していないからだ。第2の改変者は、鎌倉幕府草創期を意図して「椙山之陣以来」を追記する。また、註書きでは干支のみの「癸亥」に「賜書」したのだと残す。擦り消された人名に「武衛」を入れさせたかったのだろうが、頼朝を表わす言葉を限定しきれず摺り消しのまま残したように思う。ここの癸亥は、時期から考えて1203(建仁3)年が該当する。この年は頼家が危篤に陥ったことから比企能員の乱が誘発され頼家は9月7日に出家させられている。9月5日という日付は、頼家が最後に出した書状にしたいと目論んだのではないかと思われる(ということはこの日付自体この時点で改変されたとも考えられるが、その根拠はないため現時点ではこの点に言及しない)。

その後、第4の改変者が登場。ここで再び、年代の比定が変わる。この改変者は花押が関東公方であろうと判断できる人物で、「鎌倉殿」を関東公方と考えたのだ思う。また、この癸亥は、室町期だと1503(文亀3)年・1563(永禄6)年のどちらかだ。伊豆国で戦闘があったとしていることから、永禄6年(足利義氏・北条氏政)よりも文亀3年(足利政氏・上杉顕定)を採用したはずだ。註の「椙山」を異字として「杉山」とし、古河公方・上杉氏と伊勢宗瑞・今川氏親との抗争を想定したのではないだろうか。

Version_E

椙山之陣以来、相守顕定走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

政氏(足利晴氏花押)

毛呂土佐守殿

註「仕古河殿、豆州杉山役以有働癸亥賜書」

ところが、実際に残された文書では、「相守」の対象は「憲房」で、花押は「高基之由」としており、どちらも1世代後になっている。さらに、癸亥は「椙山之陣」発生年ではなく、文書の発給年に切り替わっている。バージョンYをもう一度読み返してみよう。

Version_Y

椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

憲 花押

毛呂土佐守殿

註「仕山内上杉管領 文亀三年癸亥豆州杉山役以有働自上杉家賜書」

更なる改変があったのかも知れない。一つ考えられるのが、文亀4/永正元年の立河原合戦への参戦経験が毛呂氏に伝わっていたため、その前年の武功としたかった意図だ。ついで、発給者を古河公方にしたメインバージョンと、関東管領発給としたサブバージョンを用意した。2つ用意した理由は判らないが、下書きだったサブが偶然残ったのかも知れない。

そしてこの後改変がないことから、その固着契機を仕官時の証拠整理と見るならば、毛呂長敬を第4改変者に充てられるだろう。原文書はその際に失われたものと思う。

但し、下記目撃者の記憶から、07号文書は「足利高基朝臣感状」という認識で書状の複写版として保存されていたことが判る。であれば、2つのVersionは写し文書の中に書き込むなどの手法で並存していたのだろうか。この点は今後調べる上での課題となりそうだ。

資料一

足利高基朝臣感状
同 晴氏朝臣感状
北條氏政臣人馬■■

同書
毛呂仙千代知行書立
毛呂参三郎同
右は当郷伝来古文書口写し
毛呂郷長栄寺之納置もの也
嘉永七年甲寅年 若狭家臣
九月日 山田九太夫吉令

資料二

  • 毛呂山田系譜 一冊
  • 伝来古文書写 一袋
  • 若狭家臣 山田九太夫納之

    (中略)筆者は長栄寺が火災にあう前まだ毛呂氏の研究があまり進んでいない三十年程前同寺住職笠松師から北條氏政文書写し二通を経眼した事があった。此の文書は忠実と言うか詳細に写され文書の虫喰い部分もそのまた写されて虫喰いと書入れてあった事を記憶している。(『あゆみ第21号』毛呂山郷土史研究会・63ページ)

残された課題

縷々書き立てた内容は、憶測の上に憶測を重ねて更に仮定していることから、多分に恣意的な観測である。とはいえ、茂呂氏宛て文書からどのような意図で改変されたかの道筋がつながりうることを示せたものと思う。この仮説が今後の議論を促進するものになれば幸甚である。

椙山陣考-7 余録

「椙山之陣」について検討してきたが、まとめると以下のようになる。

  1. 「椙山之陣」の記載のある文書は類似文書の分布から改変された可能性が高い
  2. 「椙山」の比定地は嵐山町以外にも複数存在しそれぞれ仮設が成立しうる

ということで結局「古文書から見てもよく判らない」が結論になってしまった。それも後ろ向きなので、「では嵐山杉山城は何なのか?」について、私自身の仮説も余録として書いておこう。

行ってもいない城についてあれこれ。

実はこの城は訪れていないので、よく判らない。『日本城郭大系』を見ると、「築城教本」といえるほど緻密な縄張りを持ち、屏風折りが特長だという。他のサイトの情報も参考にしてみよう。

埋もれた古城 ~杉山城~

「城攻めの訓練用施設だったのでは?」

このサイトでは城郭大系の「築城教本」から一歩踏み込んで、実際に訓練施設だったのではないかと指摘している。この仮説は充分にあり得ると思った。

長篠落武者日記 ~杉山城~

気がつけば横矢。そんな感じ。

なんか、築城者の執念を通り越した「情念」を感じさせます。この城の築城に出役した住民にしてみれば、「殿様も、ここまでやらんでもええんではないかのぅ・・・。」と、思わずつぶやきたくなるんじゃないでしょうか。

『長篠落武者日記』のうらにわ氏は2012年に訪れ、周辺の松山城、鉢形城との比較を体験に基づいて生々しく紹介している。特に、辟易するほど手間をかけておきながら伝承が残らない点に地域領主不在を推測しているのは卓見だと思う。

どちらの訪問者も凝った縄張りを記している。だが、杉山城はそれほど大きくない城だった筈だ。

近隣の城郭の面積を比較してみる。

それぞれはWeb上の情報などから取り込んだので正しいかは不明だが、大体の広さは合っているように見える。

※以下単位はヘクタール

  • 相模・小田原348(惣構概算/国指定史跡範囲は24)
  • 武蔵・八王子154(国指定史跡範囲)
  • 武蔵・滝山132(国指定史跡範囲)
  • 武蔵・川越32.6(近世最大拡張時)
  • 武蔵・鉢形24(国指定史跡範囲)
  • 伊豆・山中城20(城跡公園敷地/国指定史跡範囲は11.7)
  • 武蔵・松山16(県指定史跡範囲・主郭部)
  • 武蔵・岩槻14.5(城跡公園敷地)
  • 武蔵・菅谷13(国指定史跡範囲)
  • 武蔵・勝沼12(都指定環境保存地域)

  • 武蔵・杉山7.6(現地看板/国指定史跡範囲は13.6)

  • 武蔵・滝の城6.6(城跡公園敷地)

  • 相模・石垣山城5.8(城跡公園敷地)
  • 武蔵・片倉5.7(城跡公園敷地)
  • 武蔵・茅ヶ崎5.5(城跡公園敷地)
  • 武蔵・小机4.6(城跡公園敷地)

小田原・八王子は国内でも特殊な例、川越は近世のものとして比較対象から除外した方がいいだろう。後北条一門衆の居城である鉢形・岩槻も外すと、比較対象になりそうなのは、残存状態が良好で縄張りの複雑な滝山と山中になる。

  • 滝山132ヘクタール(13曲輪・11虎口)
  • 山中20ヘクタール(11曲輪・12虎口)
  • 杉山城7.6ヘクタール(10曲輪・10虎口)

曲輪と虎口の数は私が縄張り図を見て大まかなところを書き出した。このように比較すると、杉山城は面積の割に縄張りが複雑過ぎるといえる。近隣の菅谷城だと面積は2倍近いものの曲輪5の虎口7でしかない。

一方で、狭い範囲の凝った縄張りとして似た存在に石垣山城があり、こちらは実戦よりは威嚇を目的としている。このため、杉山城にも戦術以外の目的があったと考えた方が合理的だ。であるならば、やはり築城モデル説は可能性が高いと個人的には思う。

では、誰がいつ作った?<

非常に凝った作りのくどい縄張り。訓練用に城が作れるほどの、地域領主より大きな権力。私が見た範囲に限定されるが、古文書から見ると杉山城築造者と思われる人物が思い当たらなくもない。

北条氏政、岡本越前守に、其城普請の不備を糺す

  • 戦国遺文後北条氏編2381「北条氏政書状写」(岡本氏古文書写)

    廿二日之文、廿三[酉口]披見、普請積見届候、一所ニこそより候物なれ、高山之上ニ付芝迄可致積ハ、何事ニ候哉、近比うつけたる致様ニ候、一井ツゝなとハ、時分時刻ニこそより候へ、来年しても来ゝ年しても不苦、井ツゝなとをふしんの積ニ致候、是ほとのうつけたる事致し候ハン与ハ、ゆめゝゝ不覚悟候、はや年寄候まて物をも申付候間、しんさうきやう遠近を分別いたすへき間、先さし当り五日三日之内ニ敵を可請ふしん計こそ可致ニ、なんてもなき事計を書立候、普請所なき故に致たる事歟、一向不及分別候、来一日も有之而人足を仕払、二日ニ其地を罷出、可致帰参、畢竟所によりてふしんハ致物ニ候、其地なとハいちご井ツゝなとなくても不苦候、尺木や竹ニ而ゆいまハしおく物ニ候、此ようにふしんの積致候ハゝ、いつかたも出来すましく候、無用の所をやめ、さしかゝり敵へ向而可入事計致候、くゝり木戸なとの積もへたにて候、小田原にてさへ一二ケ所より外無之候、か様ニ分別之たらさる者ニ候哉、以上、追而内藤連判故歟近比不得聞候、
    七月廿四日/氏政判/岡本越前守殿

この文書、実は私が初めて解釈を試みた思い出深いものだが、それはさておき。岡本越前守政秀は何故高度な築城計画を氏政に提示できたのかという点に着目したい。政秀はもともと門松奉行だった。それが、1581(天正9)年前後に築城関連の氏政側近となっている。にわか作りの技術官僚といったところか。この書状で氏政は、過剰な工事をした政秀を激しく叱っている。緊急時の築城では必要なものだけを作れ、ということらしい。では、政秀はどこで「高山之上ニ付芝」や「井ツゝなとをふしん」を学んだのだろうか。「くゝり木戸なと」は「小田原にてさへ一二ケ所より外無之」という代物だ。後北条の本拠である小田原城を上回る、非常に精巧なモデルを元に設計したと考えられないだろうか。そのモデルは、高低差のある斜面に芝を植え、立派な井戸を持ち、くぐり木戸も多数持っていた。しかも、小田原より小規模だった(政秀が怒られた城は、「明後日には引き払って戻って来い」と言われる程度の小規模なもので、だからこそ氏政が「小田原にてさへ」と引き合いに出したものと思われる)。

政秀が手本にしたのは杉山城だとすれば、諸々納得がいく(杉山城は多数の虎口を持ち、井戸曲輪もある)。

隠居となった1580(天正8)年以降、氏政は政治の表舞台から遠ざかる。その頃に杉山城を築造し、現物の築城教科書にしたのではないか。訓練設備なら、曲輪内は簡易な宿泊施設があっただけだろうし、什器が古いのも納得がいく。また、燃やされて廃棄されるのも容易だろう。

地域的には、北条氏康・氏照・氏邦が候補者でも構わない筈だが、城郭への拘りが最も高いのは氏政だ。氏政書状のこだわり部分を抜粋してみよう。

  • 北条氏政、松田尾張守に土塁の構築方法を指示する(戦国遺文後北条氏編1976「北条氏政書状」)

    殊小わり共ニ候間、一間之内にて人ゝ之手前各別候者、必合目より可崩候

土塁を複数人で構築する場合に、担当エリアの接合部は脆くなるという点を指摘している。細かい。ここまで大名が関与するものかという気がする。

  • 北条氏政、猪俣邦憲に上野国権現山の普請難航の事情を問う(戦国遺文後北条氏編3446「北条氏政書状」)

如何様之品ニ候哉、委細ニ成絵図、重而早ゝ可申越候、一段無心元候

「何で普請が遅れているんだ」と問い詰めつつ、状況を図面で提出せよと言っている。政秀を叱責した際の「積=計画書」のようなものだろうか。

  • 北条氏政、猪俣能登守に上野国沼田城の重要性を説き備えを厳にさせる(小田原市史小田原北条2011「北条氏政書状」)

普請者、猪俣自身鍬を取者、其地ニ普請せぬ者ハ有間敷候

同じく猪俣邦憲宛てで、普請のコツを伝授している。「城主が鍬を持てば全員が作業せざるを得なくなる」というのは、自分の経験を語っているような感じがする。

「適当な山を自由に使って、自分の好きな縄張りで城を作る」というのは、城郭に興味のある者なら現代でも夢想することだと思う。それを実地で行なう素地が氏政にはあったように見える。

以上から、今後の史料や発掘データ次第では、氏政による築城教本説も考慮していきたい。

杉山城問題について思うこと

ちょっと偉そうなことを書いてみる。

論文を書いた訳でも著作を世に問うた訳でもない、それどころか史学を学んだこともない身では無謀だと思うが、ネットの片隅ででも指摘しておきたい。

結論ありきの仮説を思いついて、「これなら色々と説明がつきそうだ」と立論してみるのは問題がない。「『椙山之陣』=『杉山城』だとしたら、杉山城問題へのアプローチが変わるかも」という仮説はOKだと思う。

しかし、その仮説を更に客観的に見て磨くことがないと恣意が過ぎる、つまり「都合のよい論点だけ強調し、都合の悪い論点は語らない」という悪論になる。

『戦国前期東国の戦争と城郭~「杉山城問題」に寄せて~』で竹井氏が「文献史学からのアプローチがほとんどないという点が何より問題」「丹念に文献を読み込んで明らかにする作業こそが基本であり必要」としながら、自らが引用した『戦国遺文 古河公方編』に掲載されていた6点の「相守」類似文書への言及がない。これは奇妙に感じる。「文献史学」を標榜するなら、古文書に目を通すのは当然なのに。

また、このことに縄張り論・考古学の諸氏からの指摘も管見の限り見られない。『戦国遺文』は書店でも購入できるし大きめの図書館なら置いてある。しかも古河公方編は1冊なので、1時間もあればざっと目を通すことは可能だろう。余りに横着ではないか。

何故に古文書を等閑にするのか?

「椙山之陣」と書かれた書状が出てきただけで、それを「杉山城問題」に直結してしまう短絡さはどこから来るのだろう。文書が他とどう連携しているのか、「椙山」「杉山」という地名はどういう文書で出てくるのか……それらをクリアしなければ、椙山之陣=杉山城問題とはならない。

それこそ、竹井氏が指摘する「丹念に読み込む」作業が欠如している。できるだけ文書の解釈を遠ざけたいという秘かな意図すら感じられる。

この辺の事情は、戦国時代の史料を体系的に分析した解釈用例集がないという点に起因すると思っている。全体の流れを掴むには、逆説的ではあるが、1点ずつ古文書を解釈していくしかない。その蓄積がないために、類例探しや比較が疎かになっているように感じられる。

そもそも用例集がないというのは、学問の入り口にいる者は大変困る(研究家として既に名を成している方は多数の文書を読んで覚えているのだろうけれど)。『時代別国語辞典』があるにはあるが、語彙も文脈によって変わるものだから、やはり用例が豊富にないと修得は難しい。初心者から言えば、根拠とする文書1つ1つを、その研究家がどう読んだか書いておいてほしい。しかし、それを試みているのは『戦国のコミュニケーション』(山田邦明氏)、『武田信玄と勝頼』(鴨川達夫氏)、『戦国時代年表 後北条氏編』(下山治久氏)ぐらいでしかない。

ではどうすれば?

きちんと逐語訳のような形で残していかないと、後進も同じ時間を費やして解釈に取り組まなければならず、長い目で見ると無駄が増えてしまう。伝統工芸の秘伝技みたいな状況を何とか変えた方がよいのではないか。せめて何らかの公的DBのようなものを用意して、「自分の著作で使った文書は、ここに解釈文を載せること」という決まり事を作るとか。

現在話題になっているSTAP細胞論文を調べた際に、生物学では実験の生データを登録する公式DB(NCBI Databeses)があると知った。これが史料研究でもほしいと切実に感じた。

1文書の比定(場所・年・人物)がずれると、必然的に他の文書にも一斉に影響が出るわけで、それが武田とか後北条とかの権力ごとに分かれた現状の研究体系では拾い切れない……というかデジタル技術が使えるのだから拾えるようにしてほしい。

統一DBでは解釈を巡っては論争が絶えないだろうけど、用例が増えていけば止揚して細かい点まで解釈を掘っていけると思う。

椙山陣考-8 再びの余録

最近になって知ったが、非常に趣旨の近しい論文が発表されていた。

「椙山之陣以来」にある「椙山之陣」は何を指すのか?
―竹井英文氏「その後の「杉山城問題」 」における批判に応える―
中西義昌・著

史学論叢第 44 号(別府大学史学研究会)

湯河原の「椙山」に着眼した点が私と同じであったが、竹井・斎藤の両氏が年次比定の考古学的根拠としていた『藤澤「編年案」』自体に信憑性がない点を指摘しており、大変興味深かった。

また、『山内上杉氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)』(黒田基樹・戎光祥出版)が2014年5月に刊行されたが、その中に今回多く言及した竹井英文氏の論文「 戦国前期東国の戦争と城郭 「杉山城問題」に寄せて」が所収されている。従来は広く閲覧することが難しい研究機関誌でしか読めなかったものが、一般に公開されたことは喜ばしいことだと思う。