2017/11/06(月)実隆公記 1498(明応7)年、1507(永正4)年記述抜粋

「鎌倉姫君将軍御妹」は、足利義澄の妹でこのあとに消息を絶つ。

明応7年

1月19日

向東隣、鎌倉姫君将軍御妹、此間今川■■■養也■■近日可御上洛、御京著之儀可為東隣■■ ■■■由聞及之間、罷向相談者也

1月24日

東隣、将軍御連枝姫君、自駿州上洛令留給云云

1月19日。今川氏に養育されていた将軍(足利義澄)の妹である鎌倉姫君が近日上洛し、東隣に向かうということを聞き及び、赴いて相談する。 1月24日。将軍の親族である姫君が駿河国から上洛して、東隣に滞在したという。

永正4年

2月13日

霽、自晩雨降、入夜甚、公兄朝臣明日可下向駿州云々、為暇請予罷向、於女中有杯酌、中納言以下参会

2月14日

晴、(中略)今日三条少将公兄朝臣下駿河、外祖母彼国守護今川母也、路粮料万疋上云々、

5月24日

霽、暁雨甚、玄清来、自駿河金代納之、先以蘇息者也、

2月13日。みぞれ。晩より雨が降り、夜に入ると激しくなった。三条公兄朝臣が明日駿河国へ下向するだろうという。あらかじめ挨拶に向かい、女中の酌で宴席があり、中納言以下が参会した。 2月14日。晴れ。(中略)今日三条少将公兄朝臣が駿河国へ下る。外祖母はあの国の守護である今川氏の母。移動費用が1万疋(100貫文)という。 5月24日。みぞれ。明け方に雨が激しかった。玄清が来る。駿河国の金を代納。まずは息がつけた。