2017/08/19(土)要検討史料の例

「要検討」とは何か?

史料集などで文書の備考に「要検討」「なお検討を要す」とあるものは、シンプルに言うと「これは偽文書の疑いが濃厚」ということ。ただ、その度合いは結構バラバラで、明らかに偽物だけど慎重に言っているものもあれば、記述者によって判断が分かれるぐらい微妙な疑いだったりする。要素としては、私が見たところでは以下のようなものだと思う。

  • 文言が類似の文書と甚だしく異なる(顕彰過多・近世的表現)
  • 発給者の花押が異なる
  • その時に存在しない人物が登場する
  • 同じ伝来で要検討が多数存在

今川義元を装った要検討史料

御宿藤七郎宛の今川義元感状写が2通、山梨県・白根桃源美術館所蔵の御宿文書にある。この文書写には花押が残っているのだが、これが太原崇孚のものに酷似しており、要検討とされる。ただ文言も装飾が激しくて花押形の話がなくても充分要検討となると思う。

去月廿三日上野端城之釼先、敵堅固ニ相踏候之刻、最先乗入数刻刀勝負ニ合戦、城戸四重切破抜群之動感悦也、因茲諸軍本端城乗崩、即遂本意候之条、併依得勲功故也、弥可抽忠信之状如件、
天文十八十二月廿三日/義元(花押影)/御宿藤七郎殿
戦国遺文今川氏編0927「今川義元感状写」

於今度安城度々高名無比類動也、殊十月廿三日夜抽諸軍忍城、着大手釼先蒙鑓手、塀ニ三間引破粉骨感悦至也、同十一月八日自辰刻至于酉刻、終日於土居際互被中弩石走等門焼崩、因茲捨敵小口、翌日城中計策相調遂本意之条甚以神妙之至也、弥可励忠懃之状如件、
天文十八十二月廿三日/義元(花押影)/御宿藤七郎殿
戦国遺文今川氏編0928「今川義元感状写」

これと同じ年月日の弓気多七郎宛の感状写が別の伝来で残されている。こちらも文言の装飾度合いが強く、花押形が残されていないにも関わらず、同系統の要検討文書であることは確実だ。

今度於三州安城、及度々射能矢仕、殊十一月八日追手一木戸焼崩、無比類働感悦之至也、又廿三日上野■南端城於右手ニ而も能矢仕、城中真先乗入、於本城門際、別而敵苦之条、神妙也、弥可抽忠功之状如件、
十二月廿三日/義元判/弓気多七郎殿
戦国遺文今川氏編0926「今川義元感状写」(三川古文書)

また更に、花押が太原崇孚に酷似している文書が長野県の真田宝物館に所蔵されている。こちらの文言は盛大に装飾した前記3文書とは違って「微妙な違和感」ぐらいな逸脱に過ぎないが、1555(天文24)年に亡くなっている崇孚の花押を1558(永禄元)年付けで用いていることから、要検討と言える。

去晦之状令披見候、廿八日之夜、織弾人数令夜込候処ニ早々被追払、首少々討取候由、神妙候、猶々堅固ニ可被相守也、謹言、
永禄元年三月三日/義元(花押)/浅井小四郎殿・飯尾豊前守殿・三浦左馬助殿・葛山播磨守殿・笠寺城中
戦国遺文今川氏編1384「今川義元書状」(長野県・真田宝物館所蔵文書)

偽文書作成者の意図

御宿藤七郎・多気弓七郎の文書は、下記の天野安芸守宛の感状と符合する。

去月廿三日上野端城乗取刻、任雪斎異見、井伊次郎同前ニ為後詰之手当相残于安城云々、誠神妙ノ至也、殊忠功肝要候、仍如件、
十二月七日/義元(花押)/天野安芸守殿
戦国遺文今川氏編0922「今川義元感状」(滋賀県長浜市・布施美術館所蔵文書)

このため、偽作者がとりえた手法は2通り考えられる。

  1. 天野文書を元にして一から創作した
  2. 天野文書に類似する原本があり、それを改変した

前者は、花押が異なることから考えづらい。922号の花押を模写しなかったのは、そもそも偽作者が義元の花押を知らなかったことを強く示唆している。

太原崇孚が発給した暫定感状しか存在せず、義元のものがなかったが故に改変したのだろう。前述の922号に「任雪斎異見」とあることから、崇孚が前線で指揮をとっていたことは確定できる。

太原崇孚が前線で感状を暫定発給したのは、天野文書に残されている。

去五日辰刻御合戦之様体、具御注進披露申候、御手負以下注進状ニ先被加御判候、追感状可有御申候、急候間早々申候、恐々謹言、尚々松井殿其方取分御粉骨之由、自諸手被申候、雖毎度之儀候、御高名之至候、
九月十日/雪斎崇孚(花押)/天野安芸守殿御報
戦国遺文今川氏編0841「太原崇孚書状」(天野文書)

これに対応して出されたのは下記の文書となる

去五日三州田原本宿へ馳入、松井八郎相談、以見合於門際、同名・親類・同心・被官以下最前ニ入鑓、各粉骨無比類候旨、誠以神妙之至也、殊被官木下藤三・溝口主計助・気多清左衛門突鑓走廻云々、弥可抽軍忠之状如件、
九月廿日/義元(花押)/天野安芸守殿
戦国遺文今川氏編0847「今川義元感状」(天野文書)

では、何故義元の感状がなかったのか。後年になるが、今川家中で合戦時に報告の手違いがあって、訴訟に発展している。

壬戌年七月廿六日崇山中山落城之砌、其方為高名西郷新左衛門子令生捕、則良知披官中谷清左衛門ニ被相渡候処ニ、依取逃之、彼清左衛門于今ニ令山臨候処ニ、其方曲事之由大原肥前守被申候間、今度其子細申分之上被聞分候間、度々忠節奉公申候之 御判形、我等為奏者被下候所明鏡也、為向後候条、我等一筆進候、仍如件、
永禄六癸亥三月一日/関越氏経(花押)/田嶋新左衛門尉殿
戦国遺文今川氏編1897「関口氏経書下」(本光寺常盤歴史資料館所蔵田嶋文書)

田嶋新左衛門尉が合戦で西郷新左衛門の息子を生け捕った際、良知被官の中谷清左衛門に渡したところ逃がされてしまった。中谷は田嶋の過失だと現場指揮官の大原肥前守に報告して問題化したという。

これと同じようなことが御宿・弓気に起きたのではないか。戦後に情報を整理した結果、この2人の戦果は誤認だったと判り、義元の最終認定が得られなかった。何とか崇孚の臨時感状だけを残したところ、何者かが改変した。

そしてその段階で義元と崇孚の花押誤認が発生し、真田宝物館所蔵文書の偽作時に継承されたと。

偽造部分は見抜けるか

御宿・弓気の例では、この時代の感状をいくつか見たことのある人間であれば容易に違和感を受けるだろう。そう考えると、偽作者は商売として偽造はしつつ後世の識者が見れば一発で見抜けるように作成したのではと思うこともある。わざと変な表記にしたり、決定的に矛盾したりするような情報を故意に織り交ぜたような印象がある。

しかし一方で、疑わしき情報は悉く削り取り、精巧に文言を構成した写しの場合に、後世の人間が見抜くことは殆ど不可能だろう。それが存在しているかすら判らずに踊らされているものも実は多いのかも知れない。後世の我々は確証は絶対持てないためだ。

ただ、要検討を更に吟味して精度を高める試みは有効だと思っていた。他の例を増やしていくことで、偽造箇所が浮き彫りになるのではないかと。だがそれも昔日の夢想になりつつある。

結局はデッドエンド

前回検討した北条氏政書状(戦北2347)は、写しではないという認識が通例で、専門家もその正当性に疑問は持っていない。文言がおかしくても、伝来として不明な点が多くても、花押が奇妙でも、文書自体は要検討にはならず、それを元に比定や解釈をいじろうとしている。

それは逆ではないか?

何とも奇妙な光景だ。史料批判で諸要素の徹底的な検討を経なくてよいのだろうか。

勿論、真正の文書でも奇妙な表現が見られる例もあるだろうし、現状で把握している用例が追い付かずに奇妙に見えてしまっているようなパターンも存在するだろう。ただ、この氏政書状のようにおかしな部分が多数存在しているものは、一つ一つをきちんと検証したうえで用いるべきなのではないか。

2017/08/18(金)要検討でも写しでもない北条氏政書状への疑問

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滝川一益宛北条氏政書状写の検討

花押がおかしな北条氏政書状

隠居して大きく花押を変えたはずの氏政が、隠居前のものを用いているとされている文書がある。この文書については30年以上前から指摘があった。

『後北条氏の研究』(佐脇栄智編・吉川弘文館・1983)p124

『発給文書の基礎的研究と背景』「小田原北条氏花押考」(田辺久子・百瀬今朝雄)

原本は戦災により焼失したとのことで、実見することは出来なかったが、東京大学史料編纂所の影写本によってみる限り、書風は当時のものとして疑わしいところは見当たらない。けれども花押は、当時はすでに使用していない一類の最後の型に属するものである。既述の如く遅くとも天正九年十一月には二類の花押が使用されているのに、翌十年六月に至り、再び一類の花押を使ったということになるのである。氏政の花押の変遷は、全体として相当規則正しく行われているので、この時期だけ乱雑であったとは考えられない。

この疑問は継承され、下記でも取り上げられている。

本文書の氏政の花押は、天正四、五年頃のものであり、同十年のものとは全く異なる。但し本文書は、文言・書式などに特に疑点はない。

  • 小田原市史小田原北条2 p392

なおこの書状で注目されるのは、氏政が旧型の花押を据えていることである。氏政は天正九年五月(「寿命院文書」戦二二三五)から八月(「服部玄三氏所蔵文書」戦二三九一)の間に花押形を改判しているので、本来であればこの書状にも新型の花押が据えられるはずである。ここでわざわざ旧型の花押が据えられている理由については明確ではないが、花押形の改判以降、一益との間で連絡を取り合うことがなかったか、新型の花押は一益などの対外関係にはいまだ用いられていなかったか、いずれかであろう。

  • 『戦国北条氏五代』p159

伝来も微妙

この不可思議な文書を改めて考えてみる。原本は写しではないらしいのだが、一度東京大学史料編纂所に持ち込まれ影写された後に戦災で焼失したとのこと。高橋一雄という人物が所持していたのだが、その伝来は残されていない。

内容分析

今十一未刻、自深谷之台一庵書状を指越候、抑京都之様子、自是も申届候キ、実儀候哉、自遠州も注進連続候、一、以早飛脚申届意趣者、此際堅固ニ其地被相拘専一候、当方へ毛頭御疑心有間敷候、千万一妄之模様ニ有之而者、此度之対逆心人、貴辺鬱憤之擬も更難叶儀候歟、乍出角氏政父子ニ被相談候者、始中終涯分無心疎、大小事共ニ可申合候、一、右之書状到来、則時ニ申達候、不可過勘弁候、軈以使可申候、恐ゝ謹言、
六月十一日/氏政(花押)/滝川左近将監殿進之候
戦国遺文後北条氏編2347「北条氏政書状」(高橋一雄氏所蔵文書)

まずは差出人と宛所を一旦抽象化して、単純に文面だけに注目。

第1項

今日11日未刻に、深谷の台より一庵が書状を送ってきました。そもそも京都の様子は、私たちからもお届けしていました。本当なのでしょうか。遠州よりも報告が連続しています。

第2項

一、早飛脚によってお届けした趣旨は、この際はその地を堅固に守ることが専一で、当方へのお疑いは毛頭お持ちになりませんように。万が一妙なことになったら、この度の『逆心人』に対する、あなたの鬱憤が更に叶い難くなることでしょうか。『出角』ながら、氏政父子に相談なされば、最初から最後まで心を疎かにせず、大小の事を共に協議できるでしょう。

第3項

一、右の書状が到来したのですぐにご報告します。『勘弁し過ぎる』ということはないでしょう。すぐに使者によって申すでしょう。

これらを項目ごとに考察。

第1項考察

冒頭は、これを書く契機になった狩野一庵書状が、11日未刻(13~15時前後)に到着したとある。受け取った<差出人>が<宛所>に向けて送ったのは文書日付が6月11日でその日のうちとなっていることから、急いでいたことが判る。一庵書状は、深谷の「台」から来たという。一庵は狩野一庵、深谷は埼玉県深谷市・神奈川県横浜市戸塚区深谷・千葉県いすみ市深谷の3か所に比定候補があるが、埼玉県深谷市は近隣に「上野台」という地名を持っていること、深谷衆は滝川一益に出仕していて関連することから、深谷市の比定で問題はないと思う。一庵は深谷城には入らず、「台」にいたことを強調しているように見える。

続けて「そもそも京都の様子」とある点は、少し唐突。ただ「こちらからも申し届けていました」と、既に<差出人>から情報提供をしたとあるので、共通の話題として成り立っていたことが判る。その上で<差出人>はこの様子を「本当か?」と疑っていること、徳川氏(遠州)から報告が連続して来たことを書いている。この時点で、<差出人>は結論を出していないため、ここで書状が終わっていたら、<宛所>に真偽を尋ねる内容だといえる。

第2項考察

これは前後とつながらない不思議なパラグラフ。<差出人>は、拠点防御に専念することを勧告し、自らを疑わないように指示している。そして次文に行くと一転して疑問形になり「万一疑うなら、逆心した者への鬱憤は晴らせなくなるのでは?」と尻すぼみになっている。「氏政父子」とあるのは、北条氏政・氏直のことで問題ない。「相談されたら、最後まで親身になるから、大・小の事柄を協議しましょう」という提案で締めくくっている。

第3項考察

最後の部分は、「右の書状が来たからすぐ報告した」とある。第1項の直後なら「右之書状」は一庵書状を指すと考えて問題ないのだが、第2項が長々と入っているために意図不明で、第2項自体が一庵書状だったのか、それを要約したものなのか、または無関係な文面なのかが判断しがたい。

そもそも第2項は氏政父子の行動を言明したもので、一庵が緊急時にそこまで明言できるかは疑わしい。<差出人>が「一庵書状の写し・現物を添えた」とも書いておらず、第2項と第3項の連携はほぼないといえる。

第2項は追而書?

第2項は追而書として書き込まれていたもので、これを改変して本文内に収納した可能性もある。その場合の解釈文を作ってみた。

今日11日未刻に、深谷の台より一庵が書状を送ってきました。そもそも京都の様子は、こちらよりお届けしていました。本当なのでしょうか。遠州よりも報告が連続しています。一、右の書状が到来したのですぐにご報告します。『勘弁し過ぎる』ということはないでしょう。すぐに使者によって申すでしょう。
追記:早飛脚によってお届けした趣旨は、この際はその地を堅固に守ることが専一で、当方へのお疑いは毛頭お持ちになりませんように。万が一妙なことになったら、この度の『逆心人』に対する、あなたの鬱憤が更に叶い難くなることでしょうか。『出角』ながら、氏政父子に相談なされば、最初から最後まで心を疎かにせず、大小の事を共に協議できるでしょう。

但し、これだと一庵書状が何だったのか判らないままだし、追而書が孤立し過ぎているように見える。また、第2項の中には以下の例外的語用が存在する。

  • 逆心人:見かけない言葉。とにかく逆心した人間の具体的な名を書くのが通例。
  • 乍出角:語感からして「差し出がましいことですが」程度の意味になりそうだが、同時代で用例がない。「乍聊爾」「乍卒爾」が近いかも知れないが、そもそも「差し出がましいこと」をわざわざ言う文化がないのかも知れない。

いっそのこと第2項を丸々抜いて考えると、第1項が真偽を確認するための情報共有という趣旨である点、第3項の取りまとめ的表現が非常にうまく呼応する。第2項自体、表現の怪しさ、後からの知見が込められたような饒舌さを考えると、第2項自体が創作され、挿入されたものだという可能性が高いと思う。

今日11日未刻に、深谷の台より一庵が書状を送ってきました。そもそも京都の様子は、こちらよりお届けしていました。本当なのでしょうか。遠州よりも報告が連続しています。

一、右の書状が到来したのですぐにご報告します。『勘弁し過ぎる』ということはないでしょう。すぐに使者によって申すでしょう。

更に厳密に言うなら、第3項も「不可過勘弁」という妙な言い回しを使っている。他例を見ると「不可過御塩味」か「不可有御勘弁」とすべき部分で、違和感がある。

  • 不可過之 8
  • 不可過御塩味事 6
  • 不可過[工夫|狭量|推察|御計量|分別]候 7
  • 不可過両条・不可過十人・不可過勘弁 各1

この点から第3項も一旦排除すべきであり、そうなると、使用語句と語用から考えて第1項のみの身内同士の簡易な覚書だったのではないかと考えられる。具体例として、氏政から氏邦に送られたと思われる覚書、氏直から氏邦に送られた書状がある。

字之儀承候、進之候、又夜前さい藤書付披見、心地好専要候、又何方之押ニ候哉、昨日の所ならハ、昨日の松山与上州衆あかり候高山と、其間往覆の道ニなわしろ共多候キ、うちはを入こね候由、尤候、乍次申候、以上
月日欠/差出人欠/宛所欠(上書:房 截)
小田原市史資料編後北条氏編2240「北条氏政書状」(神奈川県横浜市・県立文化資料館所蔵小幡文書)

糊付之御状披見、得心申候、同者此度討つふし候ニ極候、恐々謹言、
九月八日/氏直(花押)/安房守殿
小田原市史資料編後北条氏編1915「北条氏直書状写」(武蔵古文書一)

身内の覚書だった場合、一庵が氏照配下である点から、氏照が発信者だったと見るのが妥当だろう。宛所は複数の可能性がある。

  • 氏直:当主であり甲信侵攻で氏照・氏邦と素早く動いている
  • 氏政:氏規と共に徳川・織田との折衝を担当している
  • 氏邦:滝川一益にも出仕していて、一益の近況は把握している

ここで論点となるのが、何故一庵が深谷の台にいたのかという点。一益は一貫して義氏・氏直らを無視しているから、一益が指示したとは思えない。そもそも「一庵」と言われて一益が把握できたかすら疑問。

となると、情報収集のため氏照が一庵を動かしたと見るしかない。

そして、氏直・氏政は小田原で情報を把握していた訳だから候補から外れ、氏邦に宛てたと考えるのが最も適切だと思われる。

つまり、上方・遠州からの情報を掴んだ氏照が一庵を移動させ、既に一益に出仕していた深谷で情報を探らせた。それを一益の元にいた氏邦に伝えて、情報共有を計ろうとした。

まとめ

原本が失われた点からして、既に要検討だと思うのだが、この文書は写しではないという認識から長らく要検討指定から外されてきた。語用や文脈の分析から見たように、第1項だけが現存していた断片的な書付がベースになったのだろうと思う。

もう少し突っ込んで考えるなら、作者はまず第2項を足したのだろうと思う。

一体、近世後筆による創作というのは後世から見て判り易いのが前提だと思う。先の第2項は、軍記で描かれる川越夜戦を想定している。家忠日記では「明智」と明記されている謀叛人を「逆心人」とぼやかしているのも特徴的で、同時代での呼称に自信がないため回避したのではないか。一益の下で果敢に戦ったと主張している上野国系の軍記が影響している感もある。

その後に、このままでは書状にならない点から第3項と氏政花押を付け足したのだろう。

参考データ

北条氏政が「氏政父子」と書くだろうか、という疑問

実は、その書状を見て私がまず疑問に思ったのが、隠居した北条氏政が「氏政父子」という表現をするだろうか、という点だった。

天正11年に家康宛てで送った書状でも「氏直大慶、於拙者も忝候」として一歩自分は引いている。

以鈴木申達候処、朝弥太郎被指添、始中終御懇答、殊七月可被入御輿儀、猶以御儀定之旨被顕御状候間、愚拙歓喜何事と可遂之候哉、心腹難尽筆紙候、就中五ケ条蒙仰候、一ゝゝ御返答申述候、然ニ沼田・吾妻急速可渡給由、弥御真実之模様、氏直大慶、於拙者も忝候、委曲使を指添申入候間、具御返答待入候、恐ゝ謹言、
六月十一日/氏政(花押)/徳川殿
戦国遺文後北条氏編2547「北条氏政書状写」(古案敷写)

その他の例を見ても、北条氏政は1580(天正8)年の家督譲渡後は一貫して隠居の立場を前提に動いていて、重大な外交決定では決裁を全て氏直に一任している。これは彼の死に至るまで一貫している。

だから、氏政が滝川一益への書状で「氏政父子」と自ら書いているのには強い違和感を感じてしまう。そもそも、氏政が隠居して花押を改める契機となったのが織田方との新たな交渉のためであったことを考えてみても、こういう書き方はしなかっただろう、としか思えない。

家督継承前

1579(天正7)年比定2月24日付・清水入道宛・氏政名義

  • 「氏直をハ不同心候、当城ニ為立馬申候、為心得申遣候」戦北2055

家督継承

1580(天正8)年8月19日付・截流斎名義

  • 「天正八年庚辰八月十九日、氏直江直ニ相渡者也、仍如件」戦北2187

家督継承後

従金山之一札到来、先段者給候ニ内儀候間、愚意委細申越候キ、何時も河辺之人衆、被引立候者、自元大途事ニ候間、直ニ氏直江被相達可然候、其勘弁肝要候、猶ゝ給候者、内談候得者、其筋目申候、扨又、見当而可被致筋目候者、尤旁ゝ可有御出陣上ハ心易候、恐ゝ謹言、
二月十五日/氏政(花押)/安房守殿
戦国遺文後北条氏編2305「北条氏政書状」(根岸浩太郎氏所蔵文書)1582(天正10)年比定

願書右趣意者、信長公兼日如被仰定、御輿速当方江被入、御入魂至于深重者、即関東八州氏直本意暦然之間、当社建立之事、早速対氏直可令助言者也、仍如件、
天正十年三月廿八日/氏政(花押)/三嶋神主殿
戦国遺文後北条氏編2329「北条氏政願文」(三嶋大社所蔵)

所存江雪所へ被申越候、尤ヶ様之儀、意見神妙候、任申遣願書候、国主之儀候間、氏直可遣子細候へ共、輿之一ヶ条肝要ニ候条、氏直者難書子細、依之愚老如此遣之候、又なて物之事ハ、本人之を置物候間、陣中へ早ゝ可被申上候、恐々謹言、
三月廿八日/氏政(花押)/清水上野入道殿
戦国遺文後北条氏編2330「北条氏政書状」(東京都練馬区清水宏之所蔵)1582(天正10)年比定

今度之模様無是非候、然者長新就在府、初中後共様子有様ニ相談、自彼方使被指越候、委細可為演説候、向後之儀者氏政可為証人由候、隠遁之上雖思慮候、相任其儀上者聊別儀有間敷候、勘弁之上早々落着専肝候、恐々謹言、
十二月七日/氏政(花押)/岡部左衛門尉殿
埼玉県史料叢書12_0731「北条氏政書状」(岡部忠勝家文書)1584(天正12)年比定

北条氏政の念押し文書

氏政については、1569(永禄12)年に越相同盟交渉中の上杉家被官に、武田方との戦闘状況を伝えているものがある。見て判るように平明な書き方であって、例の文書に見られる混乱した表記はない。

雖未申通候、令啓候、抑駿・甲・相年来令入魂候処、武田信玄被変数枚之誓約之旨、駿州へ乱入、当方之事、無拠候条、氏真令一味、駿州之内至于薩埵山出張、自正月下旬于今、甲相令対陣候、因茲先段以天用院・善得寺、愚存之趣、越へ申届候キ、猶彼御出張此時候条、以遠山左衛門尉申候、畢竟各御稼所希候、恐ゝ謹言
追而、松石越府へ被打越由候間、不及一翰候、以上、
三月七日/氏政(花押)/河田伯耆守殿・上野中務少輔殿
戦国遺文後北条氏編1173「北条氏政書状」(上杉文書)

里見義頼の情報

天正10年6月に、例の文書とほぼ同時に里見義頼が出した書状では、情報の出どころとして徳川氏が挙げられ、同時に、氏直から出陣催促があったと告げている。一方で、上方・信濃・越後・駿河の状況について何か情報がないかと太田資正・梶原景政に質問している。そして、この情報は佐竹義重もほしがっていると書いており、徳川・後北条以外からの情報が途絶したようにも見える(上野国の滝川一益は話題に上っていないので不明)。

徳川家康注進之由、随而自相府如被申越者、於京都信長御父子生涯之由候、依之氏直早速出陣候間、当方も加勢所望候、一、上口之様子并信・駿之儀如何被聞召候哉、一、越国之模様是又承度候、一、義重以切紙申通候、自其御届頼入候、如兼約此度以使雖可申述候、其筋之様子難測候条、遅退非疎折候、恐々謹言、
六月五日/義頼(花押)/梶・三
埼玉県史料叢書12_0627「里見義頼書状写」(温故知新集)6月15日の可能性を示唆。

徳川家康が報告したとのこと、それに従って小田原からの使者が話していたのは、京都において信長御父子が死んだということです。これによって氏直から、すぐ出陣するから加勢するようにと指示が来ました。一、上方方面の様子と、信濃国・駿河国のことはどのようにお聞きになっていますか? 越後国の状況も伺いたく思います。一、佐竹義重が切紙で申し通してきました。そちらよりのお届けを頼み入ります。兼ねてからの約束通り、この度は使者によって説明するでしょうが、その筋の様子は予測しがたく、遅滞をしても粗略に思ってのことではありません。

2017/08/17(木)遠山康光の実像

2009(平成21)年のNHK大河ドラマ『天地人』で過剰な悪役演出をとられ、またWikipediaの記述も現在停止中となっている遠山康光について、その実像に近い情報を掲出してみたいと思う。

武蔵遠山氏の概要

『北条早雲と家臣団』『後北条氏家臣団人名辞典』より、まとめてみる。

この氏族は、幕府奉公衆だった美濃国明智景保の嫡男直景が堀越公方の足利政知に従って伊豆に行き、後に伊勢宗瑞に仕えたのが始まりという。美濃遠山庄は、天竜寺香厳院に1460(寛正元)年に寄進されており、この香厳院は足利政知が入院したことがある。この縁で同行したのだろう。遠山直景というと、江戸衆を率いて第1次国府台合戦に勝利した功績が大きく取り上げられるが、実態としては内務官僚であり、寺社や古河公方との折衝も務めた。

直景の嫡男綱景は父の活動を継承し、鎌倉代官も務めて江戸城代・葛西城主となる。しかし1564(永禄7)年1月の第2次国府台合戦で嫡男隼人佑とともに戦死。この辺りから遠山氏の影響力は低下し始めていく。

遠山康光の出自

康光は綱景の弟で、氏康側近となり『康』の偏諱を受ける。官途名は左衛門尉で略称が「遠左」。仮名、生没年は不詳。嫡男は新四郎康英で、官途は同じ左衛門尉。康英の息子が新次郎直吉なので、康光の仮名は「新~郎」だった可能性がある。

妻は三郎景虎の母(氏康側室)の姉だと伝わる。これは恐らく系図からの引用だと思われるが、ごく普通に考えれば康光の義妹が氏康側室だったというより、綱景・康光の妹が氏康の側室になったと理解した方が、綱景の母である「まつくす」が氏康・宗哲と並んで氏康室を気にかけていたこととも自然に連携できる。

生年は伝わっていないが、1544(天文13)年には外交交渉を担っていること、永禄初年に息子の康英が活動を開始していることから考えると、氏康とほぼ同年代か少し上かと思われる。

康光のように有力被官の分家が当主側近をつとめた例は、ほかに笠原康明・垪和康忠・大道寺直昌がある。彼らは本家筋との関係よりも、側近としての活動内容が多いのが特徴。

特に遠山康光は、それまでの大道寺盛昌・石巻家貞といった軍政両面を見た第一世代から分離して、当主のエージェントをしての色合いを帯びた最初の人物といえるだろう。

笠原康明・大草康盛が永禄初年、康忠が永禄12年に登場したことを考えると、天文20年には活動し始めていた康光は彼らの先駆的存在で、のちに安藤良整・板部岡融成・幸田与三などの官僚的奉者制度を具現化した人物ともいえる。

虎朱印状の初期奉者

虎朱印状に出てきた最初の奉者は康光の父である直景。その後で康光も登場していることから、内務官僚・側近としての職務は、兄の綱景ではなく康光が継承したと判る。

  • 1522(大永2)年09月11日 遠山[直景]・奉之戦北0052「伊勢家朱印状」(三島神社文書)

  • 1523(大永3)年3月12日 奉者・遠山[直景](花押)戦北0055「伊勢家朱印状」(長慶寺文書)

  • 1533(天文2)年3月18日・石巻勘解由左衛門[家貞]・奉戦北0105「北条家朱印状写」(弘明寺文書)

  • 1553(天文22)年閏1月19日・大道寺源六[周勝]・奉之戦北0431「北条家朱印状」(仏日庵文書)

  • 1553(天文22)年4月1日・遠山左衛門尉[康光]・奉之戦北0437「北条家朱印状写」(武州文書所収比企郡永福寺文書)

  • 1554(天文23)年10月06日・大道寺駿河守[周勝]・奉之戦北0472「北条家朱印状」(小幡洋資氏所蔵文書)

弘治年間になると多様な奉者が登場してくるが、その前段階では奉者は選ばれた少数の者しかいない。

改めて史料から追ってみる

遠山康光の文書初出は1551(天文20)年。

  • 「巳年遠山左衛門尉駿府へ被遣候」(戦北405「清水康英屋敷売券写」)

巳年は天文13年で、駿府の今川氏と小田原の後北条氏は交戦状態にあった。但し、翌年11月に武田晴信が「北条事御骨肉之御間、殊駿府大方思食も難斗候条、一和ニ取成候」(戦今783)と言及しており、難航はしているものの、今川・後北条間の和睦の案件があり、それで駿府に向かったのだと思われる。後北条が一方的に押されている状況で敵国本拠に乗り込んだことは、康光の交渉能力を氏康が大いに買っていたことを示すだろう。

1557(弘治3)年比定の北条氏康書状では、某(晴氏室?)の危篤状態を救った豊前山城守に感謝の意を伝える使者として名前が出ている。古河公方が絡んでいること、この時に氏綱秘蔵の太刀を贈呈していることを考えると、康光が儀礼と外交の両方に通じているからの起用だったかと思われる。

今度彼病者、療治手尽既事極処、以良薬得減気、打続本覆之形ニ被取成候、誠不思議奇特、於愚老大慶満足不過之候、 鎌倉様へも意趣具可言上候、於東国御名誉不及是非存候、仍刀菊一文字、氏綱不離身致秘蔵候、此度進置候、猶遠山左衛門尉可申候、恐々謹言、
八月廿日/氏康(花押)/宛所欠(上書:豊前山城守殿 氏康)
戦国遺文後北条氏編1092「北条氏康書状写」(豊前氏古文書抄)

軍事的な活動としては、1558(弘治4)年には浦賀で水軍を率いている部隊に名が出ている。

  • 「左衛門大夫父子・遠山左衛門・布施・笠原已下人数、たふゝゝと指置候、可被存心安候」(戦北675)

更に1568(永禄11)年には、帰国したがる梶原水軍を慰留する虎朱印の奉者をつとめている(戦北1087)。

このほかにも寺社への禁制発給や代官職の遂行などで活躍している。

補記:越相同盟以降

その後どうなったかは概略で。

ここまでは側近としてエリートコースを歩んでいた康光が、ついに越相同盟に関わる瞬間がやってくる。

永禄12年2月2日の遠山康英覚書に「拙者親子」として登場する。最終的に越後へ行き戦死した康光が大きく印象に残っているが、越相同盟に関しては、当初康英も大きく関わっていた。


一、此度以使僧、氏康父子証文可被進置由候事
一、相甲御対陣間近間、御弓矢火急候、同者越之御人数、早ゝ被打出、沼田御在城衆ハ、青戸・岩櫃筋へ、被上火手様、念願被申候、此方之人数ハ、自其方随作意可被及行事
一、彼飛脚、来十四五可致帰路歟、十六七ニ拙者親子之間、金山迄可被指越由、内儀候、御両所於半途有御対談、可被仰合歟、然者御日限可蒙仰事
以上、
二月二日/遠山新四郎康英(花押)/松本石見守殿・河田伯耆守殿・上野中務少輔殿
戦国遺文後北条氏編1147「遠山康英覚書」(上杉文書)

数ある同盟交渉の中でも異例の難航ぶりを示した越相同盟交渉で、康光は徐々に責任を押し付けられていく。難航した要因は康光の不手際だと、そもそも無理筋の同盟を号令した氏康から指弾される状態にもなり、後北条家中で身の置き所を失っていく。これは氏康が卒中で倒れた後に加速していき、元亀元年8月に小田原の様子を記した大石芳綱書状では「殊ニ遠左ハ不被踞候、笑止ニ存候」とあり、「混乱の責任をとれ」とばかりに、あちこちに駆り出されている状況が判る。

越後に行った康光はその後史料で見られなくなるが、御館の乱では三郎景虎と北条氏政との連絡に活躍する。1578(天正6)年10月28日、赤川新兵衛尉宛の景虎朱印状で奉者として名があるのが終見。

康光嫡男の康英は関東に留まり、後北条滅亡後は中村一氏に出仕したという。

参考:大石芳綱書状 1570(永禄13/元亀1)年比定

今月十日、小田原へ罷着刻、御状共可差出処ニ、従中途如申上候、遠左ハ親子四人薤山ニ在城候、新太郎殿ハ鉢形ニ御座候間、別之御奏者にてハ、御状御条目渡申間敷由申し候て、新太郎殿当地へ御越を十二日迄相待申候、氏邦・山形四郎左衛門尉・岩本太郎左衛門尉以三人ヲ、御状御請取候て、翌日被成御返事候、互ニ半途まて御一騎にて御出、以家老之衆ヲ、御同陣日限被相定歟、又半途へ御出如何ニ候者、新太郎殿ニ松田成共壱人も弐人も被相添、利根川端迄御出候て、御中談候へと様ゝ申候へ共、豆州ニ信玄張陣無手透間、中談なとゝて送数日候者、其内ニ豆州黒土ニ成、無所詮候間、成間敷由被仰払候、去又有、御越山、厩橋へ被納 御馬間、御兄弟衆壱人倉内へ御越候へ由、是も様ゝ申候、若なかく証人とも、又ぎ[擬]見申やうニ思召候者、輝虎十廿之ゆひよりも血を出し候て、三郎殿へ為見可申由、山孫申候と、懇ニ申候へ共、是も一ゑんニ無御納得候、余無了簡候間、去ハ左衛門尉大夫方之子ヲ、両人ニ壱人、倉内へ御越候歟、松田子成共御越候へと申候へ共、是も無納得候、 御越山ニ候者、家老之者共、子兄弟弐人も三人も御陣下へ進置、又そなたよりも、御家老衆之子壱人も弐人も申請、瀧山歟鉢形ニ可差置由、公事むきニ被仰候、御本城様ハ御煩能分か、于今御子達をもしかゝゝと見知無御申候由、批判申候、くい物も、めしとかゆを一度ニもち参候へハ、くいたき物ニゆひはかり御さし候由申候、一向ニ御ぜつないかない申さす候間、何事も御大途事なと、無御存知候由申候、少も御本生候者、今度之御事ハ一途可有御意見候歟、一向無躰御座候間、無是非由、各ゝ批判申候、殊ニ遠左ハ不被踞候、笑止ニ存候、某事ハ、爰元ニ滞留、一向無用之儀ニ候へ共、須田ヲ先帰し申、某事ハ御一左右次第、小田原ニ踞候へ由、 御諚候間、滞留申候、別ニ無御用候者、可罷帰由、自氏政も被仰候へ共、重而御一左右間ハ、可奉待候、爰元之様、須田被召出、能ゝ御尋尤ニ奉存候、無正躰為躰ニ御座候、信玄ハ伊豆之きせ川と申所ニ被人取候、日ゝ薤山ををしつめ、作をはき被申よし候、已前箱根をしやふり、男女出家まてきりすて申候間、弥ゝ爰元御折角之為躰ニ候、某事可罷帰由、 御諚ニ候者、兄ニ候小二郎ニ被仰付候而、留守ニ置申候者なり共、早ゝ御越可被下候、去又篠窪儀をハ、新太郎殿へ直ニ申分候、是ハ一向あいしらい無之候、自遠左之切紙二通、為御披見之差越申候、於子細者、須田可申分候、恐々謹言、追啓、重而御用候者、須弥ヲ可有御越候哉、返ゝ某事ハ爰元ニ致滞留、所詮無御座候間、罷帰候様御申成、畢竟御前ニ候、御本城之御様よくゝゝ無躰と可思召候、今度豆州へ信玄被動候事、無御存知之由批判申候、以上、
八月十三日/大石惣介芳綱(花押)/山孫参人々御中
神奈川県史資料編3下7990「大石芳綱書状」(上杉文書)

今月10日小田原へ到着した際に、御状などをお出ししたので、途中から申し上げます。遠山左衛門尉(康光)は親子4人で韮山に在城しています。新太郎殿(北条氏邦)は鉢形にいらっしゃいますので、別の取り次ぎ役では御状の条目を渡せないと言われ、新太郎殿がこちらに来るのを12日まで待ちました。氏邦・山角四郎左衛門尉(康定)・岩本太郎左衛門尉(定次)の3人が御状を受け取って翌日お返事なさいました。

 互いに途中までは1騎でお出でになり、家老衆を使って同陣の日限を定めるか。または、新太郎殿に松田なりとも1人も2人も添えて、利根川端までお出でになって会談されては、と申しましたが、伊豆国に信玄が陣を張っており、手が足りないので、会談などといって数日を送るなら、その間に伊豆国が焦土と化して困るので、行なえないと却下されました。

 そしてまた、御越山により厩橋に馬を納められた前提として、ご兄弟衆1人を倉内へ送らせる件ですが、これも色々と難航しています。

 もし長く証人となるなら、また知行宛行ないを考えようとの(輝虎の)お考えがあり、輝虎が10~20も指から血を出して血判し三郎殿(景虎)へ見せるだろうと、山吉孫五郎が申していると、親しく申したのですが、これも全員ご納得なく。

余りに理解がなかったので、ならば左衛門尉大夫(北条綱成)の子を、どちらか1人倉内へ送るのか、松田(憲秀)の子でもいいので送ればと申しましたが、これも納得ありませんでした。

ご越山が実際に行なわれてから、家老たちの子・兄弟を2人も3人も御陣の下に進め置き、またそちら(越後)よりも、ご家老衆の子を1人も2人も申し受けて滝山か鉢形に置いておくだろうとのことを、建前論で仰せられました。

ご本城様はご病気が進んだか、今は子供たちをはっきりと見分けられなくなったとの風聞があります。食べ物も、飯と粥を一度に持って行けば、食べたい物に指だけをお指しになるとのこと。一向に舌が回らぬようなので、大途のことなどは何もご存知ないとのこと。少しでも快復なさっていれば、この度の事柄は一気にご意見あるのでしょうか。

一向に定まりませんので、是非もないこととそれぞれが噂しています。(こういう状況で)特に遠山左衛門尉は奔走させられていて、気の毒なことです。

私のことは、ここに滞留して一向に用事もないのですが、須田を先に返し、私はご連絡あるまで小田原にいるようにとご指示がありましたから、滞留しています。別段用事がないのであれば帰ってよいと氏政からも言われてはいますが、重ねてご連絡があるまでは、待つつもりです。

こちらの様子は、須田を呼び出して色々とお尋ねになるのがよいでしょうが、正体のない体たらくと言えます。信玄は伊豆の黄瀬川というところに陣取っています。毎日韮山を攻撃して、作物を剥いでいると申されました。以前は箱根を押し破り、男女のほか出家まで切り捨てたので、いよいよこちらは手詰まりです。

私に帰るようにと、ご指示されるなら、兄である小二郎にご指示下さい。留守に置いた者ではありますが、早々に(こちらへ)送って下さいますように。また、篠窪治部のことは、新太郎殿へ直接申しています。これは一向に応答がありません。

遠山左衛門尉から振り出された切紙(書状)2通を、お見せするためお送りします。詳細については、須田が申すでしょう。

追伸:追加の御用では、須田弥兵衛尉を派遣されるのでしょうか。繰り返しますが、私はこちらに滞留し、することもありません。なので、帰還のご指示をなさるよう、御前にてご申告下さい。御本城様の様子は全く体をなしていないとお考え下さい。この度伊豆国へ信玄が出撃したこともご存じないのだと噂になっています。

残筆

1578(天正6)年に比定されている、由良成繁の書状写がある。私が好きな文書の一つで、切なく優しい文面は読むほどに引き込まれる。

不思儀之便候間、以切紙申候、さてもゝゝ近年於其国之御苦労、不及申次第候、景虎江御家督参候由承及、目出御本望令察候、然者、小田原御一類、何茂無何事御繁昌候、可御心安候、就中愛満殿、氏直へ一段御意能御奉公之間、可為御悦喜候、自新四郎殿去十日計以前ニも、貴所之御左右有御聞度候由、示給候キ、御世上在御一統、以面上連続之義申承度心中迄ニ候、将又、此方無何事候、可御心易候、三山又六殿御堅固候哉、御床敷之由、御伝語頼入候、申述度儀雖千万候、残筆候、恐ゝ謹言、
卯月晦日/信濃守成繁/遠左御宿所
戦国遺文後北条氏編4479「由良成繁書状写」(歴代古案一)

越相同盟で共に苦労した遠山康光に宛て、三郎景虎が上杉の家督となること、そして小田原では息子康英が活躍し、孫の愛満(後の直吉)も氏直の覚えがめでたいことを伝え、祝している。家族ぐるみの付き合いがあったのだろう。

この直後に成繁は没し、康光もまた史料から姿を消す。自身の余命、距離、政情から、成繁は「直接会って話したい」とは書けなかったのだろうけれど、文末の「申述度儀雖千万候、残筆候」からその思いが感じられる。