2017/05/11(木)仮説の導き方

自己流だけど、史料を読む際の段取りを挙げてみる。全ての読み込みでこの手順を徹底している訳ではないけど、主要な解釈ではなるべくカバーするよう心掛けている。

他に要素がありそうな気もするけど、とりあえず。後で足すかも。

留意点

  • 同時代史料のみを使う(発生から20年前後)
  • 古記録より古文書を優先
  • 人名・地名の比定を他史料で確認
  • 後世編著と専門家解釈はあくまで参考例
  • 結論ありきの推論にしない→証明不能でもよい

手順

  1. 前後1年以上の流れ、もしくは関係者の動きを史料で細かく見る
  2. 類似した例がないかを調べる
  3. 収集した史料の原文と解釈文をデータ入力
  4. 一旦ストーリーを組み立て仮説にする
  5. 確定できる点と曖昧な点、仮説にそぐわない点を整理
  6. 「自分の仮説は成り立たない」という前提で反論者として考え直す
  7. 文章として構成する

2017/05/09(火)「とにかく一刻も早く帰還せよ!」命令

北条氏文書写に、不気味な文書が遺されている。

「用事がなければ人衆は、夜中であっても早く帰して下さい。返す返すも人衆を在所へ帰して下さい。以上。(追記:返す返すも帰して下さい。返す返すも帰して下さい)」

宛所はなく、差出人も氏政とされているものの、埼玉県史料叢書12では氏邦かと推測している。これは、同じ10月20日付けで氏邦が岡谷隼人に部隊の一部を帰すように命じた文書があったからだと思う。

しかし、謎の文書と氏邦文書には差異があって安直に氏邦とは考え難いようにも思う。

  1. 氏政は「用事がなかったら」と条件は挙げているが細かくは書いていない
  2. 「夜中も」とあって、夜間であっても一刻も早く帰るよう指示している
  3. 本文で2回、追記で2回繰り返して強迫するかのように「帰せ」と書いている

  1. 氏邦は「馬廻衆30名を城の番にして、残りを戻せ」としている
  2. 氏邦が指示した戻り先は「陣場」であって「在所」ではない
  3. 氏邦は「明日」と指示している

上記から考えると、月日は同じであっても、氏邦はごく常識的な指示。氏政が出したと思われている謎の文書はけたたましく叫んでいるような筆致で、むしろ関連があるとは思えない。

では氏政と思われる人物がこのヒステリックな書状を送ったのはいつのことだろうか。兵力を移動させるのではなく、とにかく武装を解除して各部隊を在所に帰還させることが目的で、それは結構特殊だと思う。

思い当たるのは、1569(永禄12)年。

越相同盟の交渉過程で北条氏照は関宿城攻めからなかなか手を引かなかった。「とにかく一刻も早く帰還してくれ」という文面は適している。

5月7日に氏照は柿崎景家・山吉豊守に「同盟成立が起請文で成されれば山王砦を破却して撤退する」と伝えている。そして閏5月5日に簗田晴助は父子が直江景綱・山吉豊守に「昨日山王砦が破却された」と書いている。この撤退劇では、氏康・氏政とは異なり氏照が独断で関宿に留まっていることが考察されていることから、5月20日にこの催促状が出されたとする考え方もできるだろう。

但し、「五」と「十」の誤写は考えづらい。とすれば、「七」の誤写ではないか。

同年7月17日に氏照は輝虎に宛てて「御不審之由」を聞いたと弁明しているが、既に関宿攻囲を解いたこの段階でも輝虎は氏照を警戒し、氏照の動向に気を配っていた。7月20日以前に氏照が何らかの動きをして輝虎から苦情が入り、氏政が慌てて撤退を呼びかけたという考えも可能だと思う。

  • 原文

北条氏政(?)が某に部隊の早急な帰還を命じる

 返々人衆かへり候へく候、返々人衆かへすへく候、
用所なくハ人衆、夜中も早々かへり候へく候、返々人衆さいしよへかへすへく候、
 以上
十月廿日/氏政書判在/宛所欠
埼玉県史料叢書12_付214「北条氏邦ヵ書状写」(北条氏文書写)

北条氏邦が岡谷隼人に、馬廻衆30名以外の帰還を命じる

其方召連候人衆之内、馬廻衆卅召連、其地実城之外張番申付、然与可有之候、残人衆ニ者明日陣場へ可相返候、何分ニも対馬守■■有談合、可被走廻候、以上、
十月廿日/氏邦(花押)/岡谷隼人佐殿
戦国遺文後北条氏編3998「北条氏邦書状」(岡谷文書)

2017/05/04(木)川越と「そのはら」について

長野業尚と想定される、大熊伊賀守宛ての書状。酉年ということで1501(文亀元)年に比定されている。一方で、戦国遺文後北条氏編で、他の文書群と浮いている1608号にある「蘇原表」が「そのはら」と合致する場合が考えられる。その場合は写し文書の「元亀」と「文亀」が誤写である可能性が高い。であれば「房兼」は何れかの上杉氏だろう。

(注記:上杉顕定公之旗頭長野信濃守より御書写)
今日巳刻かわこへ・ふかわ江被成御働候間、当一族中同前ニふかわさいしよを御馬めくりニてちらされへきの由候間、たうてのこと御さきせひとしてふかわへ押込あいちらし候、近年ちらされす候ちを人すくなニていたし候間、おのゝゝたちうちいたし候間、かくハしやうけん手さきかけてうちしに候下人壱人つれ候、当手の事のこらす手おひ候、中々申候事も候ハす候、そのはらへたへしめんほくなく存候、せつしよの事ニて候間、一所ニても候ハす候、中々申事なく候、心中おしはかり存候、直ニ折かみをこし候事、めんほく候へ共、ほとゝをく候事にて候間、申越候、こさい使申へく候、謹言、
やかたよりそのほうへ御書をなされ候、打死候へとも、せめてのめんほくニて候、
(注記:右之書付共、大熊林庵所持仕候)
酉十二月廿六日/(注記:本ノママ)業尚在判/大熊伊賀守殿
埼玉県史料叢書12_7「長野業尚ヵ書状写」(高崎近郷村々百姓由緒書)
1501(明応10/文亀元)年 ★12月26日 比定


今日巳刻、川越・府川へ出動なさいましたので、この一族こぞって府川の在所を御馬廻として追い払うようにとのことで、私の部隊を先鋒として府川へ押し込んで追い払いました。近年は攻撃されていなかった土地で人が少なかったため、各自が応戦しましたので、『かくわしやうけん=各和将監?』の部隊から先駆けをして討死した下人が1名いました。私の部隊は残らず負傷しています。なかなか、言うに言えないことです。『そのはら=蘇原?』へ対し面目なく思っています。切所(要衝)のことなので、一ヶ所でのことでもありません。なかなか、言うに言えないことです。心中をお察しいただけますか。直接お手紙をいただいたのは面目(光栄)ですが、(お褒めの言葉とは)程遠いことですから、ご連絡します。詳しくは使者が申しましょう。

追伸:お屋形様(顕定)よりあなたに御書をお送りします。(私が)討死したとしても、これはせめての面目となります。


今度於蘇原表働、頸一被討捕候、殊敵鑓一本分捕、一段神妙、御感不斜候、仍先為御扶持、於御代官所千疋被遣候、尚明所於在之者、可遣知行由所也、恐ゝ謹言、
元亀三八月廿日/房兼(花押)/西又十郎殿
戦国遺文後北条氏編1608「某房兼感状写」


このたび、蘇原方面において、首級1つを討ち取られました。特に、敵之鑓を1本分捕り、一段と神妙で御感は斜めならざるものです。よって、とりあえずの御扶持として御代官所として100貫文を遣わします。更に明いた土地がありましたら知行として下されるとのことです。