2017/06/12(月)後北条奏者を悩ませた「不動院問題」 その2

翻刻・比定が埼玉県史料叢書で大きくアップデートされていた

以前考察した後北条奏者を悩ませた「不動院問題」で、解釈の元に据えた文書の翻刻文・比定が埼玉県史料叢書12で更新されていることに気づいた。この変更によって戦国遺文後北条編とは解釈が異なるため、差異点をいくつか挙げてみる。

新:埼玉県史料叢書12_付144「垪和康忠書状写」(寺院証文一)

貴札披見仕候、仍不動院事、兼日以江雪斎御用等走廻候、手筋相違之所、陸奥殿へ被仰届候つる哉、無御余儀奉存候、我事も去比者御次申来候処、近年相違無心元候、雖然小田原玉瀧坊致様与存過来候、今度上洛ニ付而、当地被罷越路次等之儀、被相頼之間、前ゝも取次申間、其段五日以前披露申候、然処御書中昨十一参着、披見申候処、奉対月輪院江慮外自分ニ身上仕立之由、被露御紙面候、加様之企始承候、兼而存知候ハゝ、其理をも可申候、不存候故如此候、今度一廻之義者披露之上ニ候、重而之事者其身存分通をも致糺明、奥州得御内儀、月輪院御為可然様ニ可申調候、岩付領ニ屋敷以下被遣儀、一円不承届候、其分ニ付てハ拙者可存子細候、不真存候、承届候者可申達候、今度之事、八幡大菩薩御照覧候へ、御飛脚以前披露申候由、可得貴意候、恐ゝ謹言、
七月十二日/垪和伯耆守康忠判/天神島人々御中(上書:天神島貴報 垪和伯耆守)

旧:戦国遺文後北条氏編4200「垪和康忠書状写」(寺院証文一)

貴札披見仕候、仍不動院事、兼日以江雪斎御用等走廻候、手筋相違之所、陸奥殿へ被仰届候つる哉、無御余儀奉存候、我事も去比者御次申来候処、近年相違無心元候、雖然小田原国ゝ新坊致様与存過来候、今度上洛候付而、当地被罷越路次等之儀、被相頼之間前ゝも取次申間、其段五日以前披露申候、然処御書中昨十一参着、披見申候処、奉対月輪院江慮外自分ニ身上仕立之由、被露御紙面候、加様之企始承候、兼而存知候ハゝ、其理をも可申候、不存候故如此候、今度一廻被成者披露之上ニ候、重而之事者其身存分通、近日致糺明、奥州得御内儀候、月輪院御為可然様ニ可申調候、岩付領ニ屋敷以下被遣儀、一円不承届候、其分ニ付てハ拙者可存子細候、不真存候、承届候者可申達候、今度之事、八幡大菩薩御照覧候へ、御飛脚以前披露申候由、可得其意候、恐ゝ謹言、
七月十二日/垪和伯耆守康忠判/天神島人々御中(上書:天神島貴報 垪和伯耆守)

解釈文の変更は、大きなものが2点。前の記事から変更になったところを赤字で表記。

ご書状を拝見しました。さて不動院のこと。先日江雪斎によって御用などで走り廻りました。手筋が相違したところを、陸奥殿へご報告になったのでしょうか。いかんともしがたいことと思います。

私も以前取次をさせていただきましたが、近年相違があって心元なく思っていました。そうはいっても、小田原の玉瀧坊が行っているだろうと過ごしていました。

今度の上洛については、当地からの出発準備などのことでお願いをされ、前に取次をしていましたから、その件は5日以前に披露しました。

そうしたところご書状が昨日11日に到着。拝見したところ、月輪院に対して慮外で身びいきな仕立てであると書かれていました。このような企ては初めて聞きました。兼ねてから知っていたなら、その事情も申していたでしょう。知らずにいたのでこのようになりました。

今度の一連の出来事は報告した上でのことです。重ねて、その者の存分の通りをも調査します。奥州にも内々の諒解を得ます。月輪院のおためになるよう、しかるべく調整します。

岩付領に屋敷以下を与える件は、何も聞いていません。その状況は私が把握できます。本当に知らないのです。聞いていたらお伝えしています。

今度のことは、八幡大菩薩にご照覧いただきたい程です。ご飛脚が以前報告したことは、その意を得るでしょう。

「天神島」という人物の比定

この他に、埼玉県史料叢書ではこの文書の宛所を一色義直としている。下総の天神島にいたという比定。これを補強するものとして、天正18年に一色義直が浅野長政に送った書状で使者が「不動院」と明記されている点を挙げている。

昨日者、不動院を以啓上候、岩付素城ニ被成候、心地好御仕合、不及是非候、定而三日中落居必然与存候、此口各ニ雖仰付者無之候、何分ニも某事令得御下知候、委細八島久右衛門尉方へ申渡候、恐々謹言、
五月廿一日/宮内太輔義直(花押影)/浅野弾正少弼殿御宿所
埼玉県史料叢書12_0922「一色義直書状写」(賜蘆文庫文書十三)

一色義直は、古河公方被官である一色直朝(月庵)の嫡男とされている。

『後北条氏家臣団人名辞典』によると、一色直朝は幸手城主で、天神島城下にも屋敷があった。相模国十二所の月輪院は古河公方足利氏の護持僧の寺院であったが、一色直頼の弟増尊は月輪院僧で以後は月輪院の僧は一色氏から出すことになったという。天正4年5月5日に飛鳥井自庵が古河を訪れた際は、氏照と共に饗応役をつとめた人物。1597(慶長2)年没。

月庵(義直)が月輪院と関わったのは以下の文書を参照。

同名河内守一跡之事并東大輪郷、為院領進置候、速可有御知行候、恐々敬白、
永禄十二年十月廿一日/月庵(花押影)/月輪院
埼玉県史料叢書12_0375「一色直朝寄進状写」(寺院証文一)

暫定の考察

  1. 天神島は一色義直、不動院はその使者でどちらも下総在。
  2. 月輪院・氏照ともに義直に非常に近しい存在。
  3. 天神島の奏者は当初は垪和康忠で後に玉瀧坊となっていた。
  4. 不動院と板部岡融成を巡って何らかの錯誤が存在した可能性が高い。
  5. 岩付屋敷が訴因らしいが被疑者が書かれておらず未詳。
  6. 天正18年には羽柴方にしっかり転向していることから、一色義直は京と繋がりがあったか。