2023/01/08(日)徳川家康登場初期の考察

松平竹千代

徳川家康の幼名と思われる「竹千代」は、1550(天文19)年11月13日に、今川義元が天野孫七郎に宛てて「竹千代大浜之内藤井隼人名田之内五千疋、扶助之云々(戦今979)と記したのが初見。

この6日後の11月19日に義元は長田喜八郎宛てで「松平竹千代知行大浜上宮神田事」(戦今987)について規約を発行している。

翌年1551(天文20)年12月2日には、東条松平氏で甚次郎が織田方へ寝返ったことを受けて、その兄と思われる松平甚太郎宛てで出された血判起請文(戦今1049)には「御屋形様并竹千代丸江忠節之事候間」とある。起請文は飯尾乗連・二俣扶長・山田景隆の連名で出されており、今川家被官として松平甚太郎が忠節を遂げる相手として「御屋形様」とともに「竹千代」を挙げている。このことから、松平竹千代は東条松平氏への影響力が高かった可能性がある。

松平元信

徳川家康が「松平元信」として史料上登場するのは1555(天文24)年5月6日。石川忠成・青木越後・酒井政家・酒井忠次・天野康親の連署状(戦今1216)に「従元信被仰越候間、各一筆遣候」と言及されている。本人が文書発給していないことから、その能力をまだ備えていなかったようだ。

本人名義の文書は1556(弘治2)年6月24日の大仙寺宛黒印状が初見(戦今1290)。大仙寺には、6月21日に今川義元が判物(戦今1288)と条書(戦今1289)を出しており、その庇護に基づいて発行しているのが判る。また、当日付で元信の親類と思われる「しんさう」が副状(戦今1292)を出しているほか、元信自身は黒印を捺すに留まっている。元信より上位者の義元が花押を据えているにも関わらず印判で済ませていることから、元信自身が押印したかも疑わしい(この時に元信が使っている黒印は以前「しんさう」が使っていたもの)。

元信(家康)がこの時どこに所在したかは不明だが、義元の日付との差から見て三河吉田辺りに「しんさう」と共にいた可能性が大きい。

元服したはずの元信は主体性を持たないままで、それゆえか、彼は再び「竹千世」として登場する。大給松平氏の親乗が、留守を預けた田島新左衛門尉に宛てて「然者竹千世・吉田之内節々御心遣=ですから竹千世・吉田の内での折々のお心遣い」について感謝したものだ。この時親乗は、弟との所領訴訟で駿府に行っていた。

  • 戦国遺文今川氏編1345「松平親乗書状」(田島文書)

      猶以御辛労難申尽候、時分柄と申、すいりやう申候、
    急度申候、仍従御奉行其方へ依御理候、細川衆めしつれられ、早々御移、外聞実儀畏入候、此等趣、良善へ申入候、定而可被仰候、然者竹千世・吉田之内節々御心遣、別而無御等閑しるし忝存、与風此苻へめし下候、御訴訟大方ニも候ハゝ、我等罷上御礼可申候、城中之者共、不弁者之儀共候、御異見頼入候、万吉左右可申入候、恐々謹言、
    八月九日/松和泉守親乗(花押)/田嶋新左衛門尉殿まいる

 急ぎ申し上げます。御奉行からあなたへ説明されたように、細川衆を召し連れて早々の移動、外聞実儀に恐れ入っています。この趣旨は良知善左衛門へ伝えています。きっと仰せがあるでしょう。ということで竹千世・吉田内にも折々心遣いをいただき、放置されることもないのは特にありがたいことです。思いがけずこの駿府に招集されましたが、御訴訟が大方片付いたら、戻って御礼を申し上げましょう。城中の皆は使いづらいでしょうが、ご指導をお願いします。万事吉報を申し入れることでしょう。さらに御辛労は言葉に尽くしがたいことです。時節柄、ご推量下さい。

  • 戦国遺文今川氏編1341「由比光綱・朝比奈親徳連署状」(田島文書)1557(弘治3)年比定

    急度申候、松知泉長々就在府被成候、彼家中申事候哉、殊舎弟次右衛門方種々之被申様候、此方にてハ山新なと被取持、三内被頼入候、先日同名摂津守方被罷越候、内々談合ける由其沙汰候、雖然 上様御前無別条候、只今大給用心大切之旨、従其方田島方被仰付、松平久助方へ有談合、人数十四五人も御越可然候歟、和泉方も軈而可被罷上候、其間御用心のために候、就中和泉方息吉田ニ被置候、是をいたき可取なとゝ、風聞候、宿等之儀用心可被仰付事尤候、恐々謹言、
    七月廿二日/朝丹親徳(花押)・由四光綱(花押)/良知善参

 急ぎ申し上げます。松平和泉守が長々と駿府に滞在なさっています。彼の家中から報告ありましたでしょうか。特に弟の次右衛門から色々と報告があるようです。こちらでは山新(山田景隆?)などが仲介して三内(三浦内匠助?)に頼み込んでいます。先日同姓摂津守が来訪して内々で話し合ったのも、その沙汰についてでした。とはいえ上様(今川義元)の前では別状ありません。現在は大給での用心が重要であること、あなたから田嶋に指示するように。松平久助と打ち合わせて軍勢を14~5人も派遣すべきでしょうか。和泉守も早々に向かうでしょう。それまでは御用心下さい。中で和泉守の息子が吉田に置かれているのを、抱き取るだろうなどと噂が流れている。宿営地のことは用心を命令することはもっともなことです。

この時に親乗が元信を「竹千世」と書いたのは、同族であることの気安さもあったろうと思うが、自らの子息(後の真乗)が竹千代と一緒に起居していたのでどうしても幼名が先立ってしまったのかと考えられる。

さて、親乗がなぜ駿府に行かなければならなかったかというと、大給松平家では、親乗とその弟次右衛門との間で係争があったようだ。1557(弘治3)年7月22日に、親乗サイドの朝比奈親徳・由井光綱が三河の良知善左衛門に送った書状(戦今1341)によると、訴訟元からのルートは以下の構成。

 <訴訟元>    <現地担当>     <駿府取次役>

  • 松平親乗 ー 良知善左衛門 ー  朝比奈親徳・由井光綱 →
  • 松平次右衛門 ー 山田景隆 ー 朝比奈摂津守・三浦正俊 →

※大給城は良知が田島新左衛門尉・松平久助を派遣して留守居。吉田にいる親乗の息子を次右衛門が略奪する噂が流れており、警戒中。

この書状の「然者竹千世吉田之内節々御心遣別而無御等閑しるし忝存」を巡っては「竹千代は吉田にいた」とする平野明夫氏の仮説と「竹千代は駿府から吉田に心遣いをした」とする本多隆成氏の仮説がある(戦国史研究54号・55号)。

この時に親乗は訴訟のため駿府にいたのは確実で、戦今1341で確認できるほか言継卿記でも交友相手として登場する。

この書状では駿府に長期滞在する親乗が、自身に変わって三河大給城を守っている田島新左衛門尉に感謝を伝えたもの。だから、この文中にいきなり「駿府の竹千代が吉田の人質達に折々お心遣いをいただき、とりわけ親身になっているのはかたじけないと思う」が混入するのは違和感がある。「(田島が)吉田の人質達(竹千代・親乗子息を含む)にも折々お心遣いをいただき~」と解釈する方がより自然だろう。元信が駿府にいて親乗と会っていたなら、その成長を見た親乗も「竹千代」という幼名は使わなかっただろう。

また、駿府で親乗が元信に会っていたというなら、元信が吉田へ気配りしたことをわざわざ田島に謝すのかもよく判らない。やはり、駿府から三河に書状を発した親乗が、現地の今川被官達(田島・良知・朝比奈)へ吉田人質(竹千代や親乗子息)への気配りを感謝したと見るのが自然だろう。

このような挙動の親乗に対して、後世編著の『改正三河後風土記』では、

其中に徳川家を離れ、駿州に在勤し、時におもねり、世に媚る者松平和泉守親乗・松平内膳正清定・酒井将監忠尚・同左衛門尉忠次等数多し

とする。また、言継卿記で男性の僧が出てくる華陽院に関しても奇妙な記述をしている。

御外祖母(清康君御室大河内氏)玉桂慈泉尼公も尾州より来り給ひて、ひとかに今川家の権臣等になげき給ひ、御幼稚の間介抱ましましける。この尼公は後に華陽院殿と申、永禄三年五月六日駿府にてうせ給ひける。神君御代しろしめして後、其御葬地駿府の知源院をこと更造営ましまし、寺料あまた寄られ、今は其寺を華陽院といふ

別記事の徳川家康の前室についてでも書いたが、徳川家康の幼少期駿府在は胡乱な話だろう。

確実な同時代史料に基づく限り、徳川家康が1582(天正10)年以前に駿府に入った確証はない。  →上記記述は誤り。論拠は後述。

元信から元康へ

その後家康は「元信」としてきちんと花押を据えるようになる。

  • 戦国遺文今川氏編1333「松平元信判物」(岡崎市高隆寺町・高隆寺文書)

    高隆寺之事
    一、大平・造岡・生田三ヶ郷之内、寺領如先規可有所務事
    一、洞屋敷并五井原新田、如前々不可有相違之事
    一、野山之境、先規之如境帳、不可有違乱事
    一、於伐取竹木者、見相ニ可成敗事
    一、諸役不入之事、然上者坊中家来之者、縦雖有重科、為其坊可有成敗事、条々定置上者、不可違乱者也、仍如件、
    弘治三年五月三日/松平次郎三郎元信(花押)/高隆寺

「元信」の終見は、1557(弘治3)年11月11日の石川忠成等連署状案(戦今1365)。この後は「元康」として登場するのだが、この要因としては武田晴信書状(戦今1547)から窺われる岡部元信の今川家帰参が挙げられる。岡部元信は、小豆坂合戦での戦功として家中での軍装「筋馬鎧并猪立物」の独占使用を求めた(戦今1106)ことから、同一家中にいた若輩が同名の「元信」を名乗ることを許容したとは考えにくい。

「元康」初見となる1559(永禄2)年の定書の第2条によると「元康が在府の間は岡崎で各々が議論して結論を出して連絡せよ」とある。このことから、永禄2年段階で家康は岡崎に居を定めつつ、時折駿府へ滞在することがあったと判る。

  • 戦国遺文今川氏編1455「徳川家康定書」(桑原羊次郎氏所蔵文書)


    条々
    一、諸公事裁許之日限、兎角申不罷出輩、不及理非可為越度、但或歓楽、或障之子細、於歴然者、各へ可相断事
    一、元康在符之間、於岡崎、各批判落着之上罷下、重而雖令訴訟、一切不可許容事
    一、各同心之者陣番並元康へ奉公等於無沙汰仕者、各へ相談、給恩可改易事、付、互之与力、別人ニ令契約者、可為曲事、但寄親非分之儀於申懸者、一篇各へ相届、其上無分別者、元康かたへ可申事
    一、万事各令分別事、元康縦雖相紛、達而一烈而可申、其上不承引者、関刑・朝丹へ其理可申事、付、陣番之時、名代於出事、可停止、至只今奉公上表之旨、雖令訴訟、不可許容事
    一、各へ不相尋判形出事、付、諸篇各ニ不為談合而、一人元康へ、雖為一言、不可申聞事
    一、公事相手計罷出可申、雖為親子、一人之外令助言者、可為越度事
    一、喧嘩口論雖有之、不可贔屓、於背此旨者、可成敗事、付、右七ヶ条於有訴人者、遂糾明、忠節歴然之輩申旨令分別、随軽重、可加褒美者也、仍如件、
    永禄二未己年五月十六日/松次元康(花押)/宛所欠

今川家中で「在府」とは駿府滞在を示す(戦国遺文今川氏編537/634/709/763/942/1047/1341/1358/1460/1671/1775/2181)。

2023/01/05(木)氏政妻付きの被官は存在したか

後北条氏の例を見ていると、男子が養子入りした際には決裁権を持った付き家老とでもいうべき被官がつけられて入部することが判っている。

では女子が後北条氏に嫁入りした際にこのような被官が付けられるのかを検討してみたい。

吉良氏朝妻の例

実例を見るとすれば、北条宗哲の娘が、当主氏康の養女として武蔵吉良の氏朝に嫁ぐ時に、実父の宗哲が与えた覚書(戦北3535)が参考になるだろう。

ここでは、儀式次第については大草康盛、台所の作法については久保某に彼女自身が質問することを前提した条項がある。これらは後北条家で事前確認する部分なので、お付きの被官とは関係がない。

  • 原文

    一、しうけんのときのもやう、あなたのしたてしたる人の申やうにせられ候へく候、大くさなにと申なとゝたつね申候とも、おほえ候ハぬと、返たう候へく候

  • 解釈

    一、さためてつねの三こんにて候へく候、さやうに候ハゝ、ほんほんのしき三こんにて候へく候、さやうに候ハゝ、くほによくたつねられ候て、したいちかハぬやうに候へく候、つねの三こんにて候ハゝ、へちきなく候ほとに、やうかましく申されましく候

  • 原文

    祝言のときの状況は、あちらの世話人のいう通りにするように。大草などに質問したとしても、覚えががないと返答されるだろう。

  • 解釈

    きっと常の三献だろう。であれば、本式の三献ということだろう。ならば、久保によく質問して作法を間違えないようにしなさい。常の三献であれば、別儀はないだろうから、うるさく言わないことだ。

その一方で、水主杢助・比木図書は細かい案件を任せられるとし、その下の扱いになっている大屋・中田の両名についても折に触れて用事を頼むのがよいと告げている。

  • 原文

    一、水主むくのすけ、比木つしよ、すへゝゝまてもまいりかよふへく候か、御ねんころ候へく候、大屋、なかたなとも、ひくわん一ふんのものにて候、御めかけ候て、御ようをもおほせつけ候へく候一、清水、笠原御れいにまいり候ハゝ、おとな衆御あひしらいのことくにて候へく候一、御むかゐにまいりたるおとなしゆへハ、つきの日ミつしむくのすけつかゐとして、よへハ、御しんちうと、上らふより仰とゝけ、よく候へく候、たつしいかゝ候ハん哉らん、かうさへもんに御たんかう候へく候、御れい申され候て後にも、つかゐ御やり候ハんか、かうさへもんいけんに御まかせ候へく候

  • 解釈

    一、水主杢助・比木図書は、細かいことでも連絡すべきだろう。親しくするように。大屋・中田とも、被官なのだから、目をかけて用事を命じるように。一、清水・笠原がお礼に来たら、大人衆のように扱うように。一、お迎えに来た大人衆へは、次の日に杢助を使いとして呼び、気持ちを上臈から連絡してよいだろう。ただ、どうなのだろうか。高橋郷左衛門に相談するように。お礼をした後で使いを送るのだろうか。郷左衛門の意見に任せるように。

このことだけでなく、吉良家中で後北条氏に最も親しい高橋郷左衛門尉の意見を全面的に仰ぐように別条で伝えている。彼女の身近にいて諮問を受けられるのは郷左衛門尉という認識なのだろう。

ここで名が出た水主杢助・大屋・中田は後北条当主の虎朱印状の奉者として名が挙げられていて、それは宗哲娘が嫁した後も同じである。このことから、彼らは吉良家にはいなかったと見てよいだろう(小田原市史435・719・2114/戦北855・1076・1274・1621・1846・2225)。此木図書については史料になかったので不明だが、水主杢助と同じ立ち位置だろうと思われる。

気安く用事を言いつけるように言われた水主杢助や大屋・中田が、氏朝妻の近辺に常駐していた訳ではなく、小田原で当主に仕えている身であるものの、氏朝妻から連絡があれば対処する存在であったといえる。

以上をまとめると、氏朝妻に付けられた者に有力な被官はおらず、吉良家中の高橋郷左衛門尉に直接相談するか、実家の諸被官(水主杢助・此木図書・大屋某・中田某)に連絡するという状況にあったことになる。

氏政妻を巡る状況

では武田家から後北条家に嫁いだ氏政妻の場合はどうだったか。彼女に関しての史料はほとんど残されていないが、永禄2年の「武田家朱印状」(戦武655)で「就小田原南殿奉公、一月ニ馬三疋分、諸役令免許者也、仍如件。奏者、跡部次郎右衛門尉。天文廿四年三月二日、向山源五左衛門尉」とある。

ここをどう解釈すべきだろうか。「小田原南殿」は北条氏政に嫁いだ武田晴信娘で間違いないだろう。その奉公のため、向山源五左衛門尉は伝馬課税を免除されている。ここで判るのは、源五左衛門尉が月2頭までの伝馬課税を免除されていることと、その理由が氏政妻への奉仕によるもの、ということである。

先の北条宗哲覚書とを併せて考えると、源五左衛門尉は小田原で南殿に近習したのではなく、一族の向山又七郎と同じく小山田氏同心として氏政妻と甲府との連絡担当者として甲斐国内にいたと見るのが妥当だろう。

一方で、所領役帳に「向山」という人物がいたことから、向山又七郎か源五左衛門尉が氏政妻付きの被官として後北条家中に取り込まれたとする仮説を見かけたことがある。

しかし、役帳の「向山」は他国衆に属しており、小山田弥三郎・小山田弥五郎・飯富左京亮に続いて記載されている。役帳の他国衆というのは、後北条氏がその知行を把握できていない者達で、そのうちで後北条分国内での彼らの知行を書き記している特例の存在。小山田弥三郎は武蔵小山田庄を中心にした知行を持っているため、甲斐郡内に移る前の小山田氏本知行を維持していたものと思われる。しかし、小山田弥五郎は伊豆、飯富左京亮は小田原千津島、向山は小机に知行を持っている。これを合わせて考えてみると、弥五郎の本地を承認する一方で、彼の同心達には後北条直轄領を与えたと思われる。彼らが直轄領を手にできたのは、津久井衆の知行地に「敵半所務」が多数見られることと関係しているように思われる。散財する小山田氏との半所務を整理する中で、本来の知行を手放して区画整理に応じた見返りとして、後北条当主が知行地を与えたものではないだろうか。

それに加えて、氏政妻付きの被官が他国衆として知行を与えられているとすれば、今川家から嫁した氏康妻付きの被官がこの他国衆に見られないのは違和感がある(他国衆には今川系の人物が見当たらない)。

該当するとすれば御家中衆にいる「興津殿」だが、興津氏は花蔵の乱で今川義元と決別した一族がいたようで、この中の一人を縁戚に取り込んだものだろう。

  • 戦国遺文今川氏編0561「今川義元判物写」(国立公文書館所蔵諸家文書纂所収興津文書)

    其方扶助同者親類等、聊就有疎儀者、堅可加下知、万一於属他之手輩者、手分之事者御房可為計者也、仍如件、
    天文五丙申年十月十七日/義元(花押)/興津彦九郎殿

あなたが扶助する者と親類で少しでも疎意があるならば、堅く下知を加えるだろう。万一にでも他家に属す輩がいるなら、分離内容については御房(出家した先代の興津藤兵衛正信?)の計画通りにするように。

※宛所の彦九郎はこの文書を最後に今川家から姿を消し、正信から衣鉢を継いだ弥四郎が今川分国に留まる。その後、弥七郎は今川滅亡後の1571(元亀2)年に北条氏繁の被官として登場する。

まとめ

北条宗哲覚書には、後北条氏が現役の関東管領であり武蔵吉良は将軍御一家衆であると明言されている。このことから、後北条家と武蔵吉良氏との婚姻は太守間での婚姻に相当するものといえる。細かく見ると、娘(吉良氏朝妻)への忠告にも氏綱妻(養珠院殿)と氏康妻(瑞渓院殿)の行動が言及されており、氏朝妻が太守妻に比せられており、この見解を裏付けられる。そして氏朝妻には有力被官は付けられておらず、吉良家中に単身置かれていた(身分の低い小者はいただろうけれど)。

このことと、従来言われていた向山氏が氏政妻付きだったという仮説に確証がなく成り立たない可能性が高いことを考えると、少なくとも氏政妻に付けられた有力被官はいなかったと思われる。

2022/11/28(月)花木集団 浄土宗と臨済宗

この記事は下記の考察を元に行なっているため、事前のご一読をお薦めする。

北条氏規妻の実体

北条氏時・為昌の出自

花木隠居・花木殿・花之木の実体

相模朝倉氏の概要

玉縄と花木

それぞれの役割分担

新参者の福島為昌に異例の抜擢がされた理由として、その妻である花木隠居(養勝院殿)の資金力がありそうだ。彼女自身が資産家の側面を持っているほか、その実家である伊豆朝倉氏は、相模・伊豆で資産家として活動している。

  • 花木隠居:役帳に買得地だけで名が載っているのは彼女だけ
  • 相模朝倉氏:伝肇寺との土地売買で係争、文官として名が見える
  • 駿河朝倉氏:長津俣の地を浦田又三郎から借金の見返りとして入手

後北条氏としては、この朝倉一族を取り込む意図があり、為昌を氏綱養子に取り立てて北条の名字を与えて一門扱いした。ただ一方で、実名での通字「氏」を許可することはなかった。これは為昌が比較的早く死去した要因もあるものの、遠江福島氏出身で妻も相模朝倉氏で血縁が薄かった異分子だったのが大きいだろう。息子の綱成が氏綱娘を娶ってようやく氏綱の偏諱を受け、孫の康成が氏康娘を娶るに至ってようやく「氏繁」の名を名乗れた。為昌一族が後北条一門に正式に認められるまでには、かなり長い年月がかかっている。

為昌は小田原の本光寺に葬られるが、この寺は臨済宗で為昌戒名は後北条一門と同じ「宗」が使われている。この本光寺を中心にした集団は所領役帳でも見られる。御家門衆の中に「本光院殿衆」が3名残っており、それなりの規模の家臣団だったことが推察できる。

  • 山中彦十郎(知行168貫文)
  • 仙波藤四郎(知行90貫文)
  • 山本太郎左衛門(135貫文)

本光寺の所在地は不明だが、為昌妻が「花木隠居」、綱成妻が「花木殿」、氏繁が「花之木」と呼称されたことを踏まえると、小田原の花ノ木に所在したと見てよいだろう。花ノ木の蓮上院は宗哲率いる久野北条家と関わりがあるが、その宗哲妻が開基となった「栖徳寺」が本光寺住持職継承に関与している文書がある。この関連性から見ても、為昌菩提寺は花ノ木で蓮上院を介して久野北条と繋がっていたと思われる。

  • 小田原市史資料編小田原北条0428「北条家虎朱印状写」(本光寺文章)1560(永禄3)年

    本光寺住持職之事、任和尚御遺言筋目、初首座可有住、其外寺内之仕置等、長老被仰置如筋目、万事栖徳寺可有異見、然者、衆中一人モ無異儀、在寺肝要候、是則被対檀那申、各被重可為意趣状如件、
    永禄三年二月九日/「虎印」/本光寺僧衆中栖徳寺

浄土宗との関わり

死後は後北条一門と同じ臨済宗の戒名がつけられた為昌だが、彼の周囲を見ると、浄土宗の関係者が多いことに気づく。

玉縄北条・為昌近辺の浄土宗

  • 氏時の位牌が伝わる二伝寺は浄土宗寺院
  • 養勝院殿の木像、大頂院殿の位牌が伝わる大長寺は浄土宗寺院
  • 養庄院殿木像で菩提を弔ったのは浄土宗の高僧(安養院住持第十六代高蓮社山誉大和尚)
  • 朝倉氏は当初曹洞宗で、能登守から浄土宗へ転出した痕跡あり
  • 吉良頼康、朝倉能登守は熱心な浄土宗徒
  • 大道寺氏は河越蓮馨寺の創建に関わり、一門から浄土宗の僧を輩出
  • 小田原伝肇寺の移転で朝倉右京が関与

為昌が最初に発した文書(朱印状)は鎌倉光明寺への優遇策

為昌初見文書は、三浦郡の全域の一向衆を全て鎌倉光明寺に所属させるというもの。鎌倉光明寺はこの時点で関東最大の浄土宗寺院で、同宗白旗派の中心となっていた。

  • 戦国遺文後北条氏編0102「北条為昌朱印状」(光明寺文書)

    三浦郡南北一向衆之檀那、悉鎌倉光明寺之可参檀那者也、仍如件、
    享禄五壬辰七月廿三日/日付に(朱印「新」)/光明寺

後北条氏が一向宗の拡大を禁じていたのは下記の文書でも見られる。

  • 小田原市史資料編小田原北条0664「北条家掟書」(港区・善福寺所蔵)


    一、去今両年、一向宗、対他宗度ゝ宗師問答出来、自今以後被停止了、既一向宗被絶以来及六十年由候処、以古之筋目、至于探題他宗者、公事不可有際限、造意基也、一人成共就招入他宗者、可為罪科事
    一、庚申歳長尾景虎出張、依之、大坂へ度ゝ如頼入者、越国へ加賀衆就乱入者、分国中一向宗、改先規可建立旨申届処、彼行一円無之候、誠無曲次第候、雖然申合上者、当国対一向宗不可有異儀事
    右、門徒中へ此趣為申聞、可被存其旨状如件、
    永禄九年丙寅十月二日/日付に(虎朱印)/阿佐布

1566(永禄9)年の60年前というと1506(永正3)年で、為昌が三浦郡一向宗を鎌倉光明寺に帰属させたのは時間軸からして合ってはいる。しかし、鳥居和郎氏の下記論文の史料解釈を見る限り、為昌のこの朱印状には単に一向宗禁圧の方針からの発給ではないようだ。

『戦国大名北条氏と本願寺―「禁教」関係史料の再検討とその背景―』

この論文によると、後北条氏の禁教は政治的宣伝が主目的で、実際に抑圧した確証はないという。氏康は永禄4年の上杉輝虎侵攻を受けて、越中の一向宗門徒を活発化させるため本願寺に恩を着せたかったようだ。浄土真宗の動向としては、むしろ甲斐との関係性・日蓮宗との対立の方が要素として大きいという。確かに、上杉侵攻時に本願寺と氏康を仲介したのは武田晴信だし、晴信の駿河侵攻で氏康と敵対した際に、相模・伊豆の浄土真宗寺院を氏康は警戒している。

とすると為昌が鎌倉光明寺に便宜を図ったのは独自判断によるもので、為昌もまた浄土宗に帰依していた。もしくは、浄土宗徒であることが確実な妻の懇願によって自身が影響力を行使できる三浦郡へ浄土宗拡大の指示を出したものと思われる。

ただし、既に記述したように為昌は死後に小田原の臨済宗本光寺に菩提を持っているから、北条養子入りを機に臨済宗へ転身したと思われる。

花木集団 浄土宗と臨済宗の混淆

後北条一門に列した為昌の菩提寺本光寺(臨済宗)が、花木集団の象徴になったことは確実だろうと思われるが、その一方で浄土宗と連携した相模朝倉氏が集団の母体になっており、それが集団の捻れた二重構造に繋がったのではないか。その点を少し検討してみる。

宗派を継承すること

譜牒余録 二十四松平相模守家臣

良正院殿が息子の松千代(照澄)の初お目見えの際に、父である家康に願い出て、松平姓を願い出て許された件。記録では良正院が「母である西郡殿の日蓮宗を受け継いだが、自分は家康と同じ浄土宗に改修するので、日蓮宗を松千代に継がせたい」と願い、家康が「であれば西郡殿の宗派を受け継ぐのだから、松千代には松平を名乗らせよう」と受諾したという。

これはかなり奇妙な話だ。徳川・松平は浄土宗徒だから、普通に考えれば「祖母も母も日蓮宗だが、松千代は浄土宗にする」と良正院が願い出た結果として、松平姓を名乗らせる方が自然に見える。

また、鵜殿氏系譜の西郷殿が日蓮宗であるのは確度の高い話だが、彼女は駿府の宝台院に葬られており、最終的に浄土宗に改宗したことは確実。

この話には裏があったと考えて解釈すると、良正院殿は自らも母と同じく改宗するので、息子の松平改姓と日蓮宗信仰を保証してもらったのではないかと気づく。

つまり、家康の子女は全て浄土宗に統一しようという政策がまずあった。しかし、鵜殿氏の頃から熱烈な日蓮宗徒だった良正院は、自らの改宗に交換条件をつけた。それが、息子の松千代の日蓮宗信仰保証と、松平を賜姓されることだったのだろう。譜牒余録の記録は、それを受けた小芝居だろうと思われる。

このことから、母から娘・息子に向けて宗派の継承がなされていたこと。それは家長の意向というよりは、個人的な嗜好によるものだったことが判る。

上記より、以下が推察される。

  • 自然な状態では、太守家中でどの宗派を信仰するかは自由だった
  • 個人が持つ宗派は、母系で継承される例があった
  • 太守の体面を保つために、一門が宗派を当主と合わせる必要があった

これらの要件が後北条家でも適用される前提で、引き続き浄土宗からの観点で俯瞰してみる。

誉号を巡る課題点

誉号とは、浄土宗の戒名で用いられる名称で、五重相伝を授けられた者だけに与えられる名誉称号。これを持っていれば浄土宗徒であることは確実だと思われる。玉縄北条家の面々を調べてみると……

  • 誉号を持たない者為昌・為昌妻・綱成・氏繁・氏繁妻・氏秀・氏勝・直重

  • 誉号持ち大頂院(為昌母ヵ)・綱成妻・氏規・氏盛

  • 戒名不明氏規妻・氏盛妻

為昌妻の戒名は「養勝院殿華江理忠大姉」で誉号はない。とはいえ、高蓮社山誉が逆修を執り行っているし大長寺も浄土宗。これは夫が臨済宗となったため、露骨に浄土宗と判る誉号を回避した可能性が高いだろう。

※ちなみに、戒名に「誉」があるのが浄土宗戒名かと思いきや、大磯地福寺の僧に「良誉」がいた。高室院月牌帳に「権大僧都法印良誉」と記されているこの人物は、相模国中郡大磯の在所となっており、「地福寺為菩提也」と補記されている。地福寺は真言宗なので、たまたま法名に「誉」が入ったのだろうか。

花木集団のその後

 為昌妻、綱成妻、氏規妻が北条家過去帳に現れないのはなぜか。為昌妻はともかく、綱成妻は氏綱の娘だろうし、氏規妻は狭山藩祖の妻でもある。この要因を考えてみると、小田原開城後に花木集団は氏直・氏規・氏勝と袂を分かったのではないかと推測できる。

1595(文禄4)年10月27日付けの「京大坂之御道者之賦日記」(埼玉県史料叢書12_参12)で氏規・氏盛の一家が登場するが、その記述で「美濃守御前さま」を通説では氏規妻と比定している。

北条一睡入道様
北条助五郎殿様
北条御辰様
美濃守御前さま
同御つほねさま

しかし、この当時氏規は隠居しているから「美濃守御前さま」は氏盛妻(寛政譜によると船越景直の娘)。また、従来の通説だった高源院殿(北条家過去帳で氏宗曾祖母を記される人物)が氏規妻ではないという考察(北条氏規妻の実体)も合わせて考えると、氏規妻は過去帳類の記録に登場しなかったのだろう。とはいえ「北条美濃守御前」が1589(天正17)年11月に存命であるのは確実でもある(戦北4969)。

してみると、氏規妻は後北条滅亡を契機に独自の行動をとっていたと考えるのが妥当なように見える。夫の子息(氏盛・勘十郎)の実母ではなかったのかもしれない。独自行動をとったとすれば、その際、こちらも恐らく存命だったろう母(花木殿・綱成妻)と共に行動した可能性が高い。

ここで気づくのが、江戸の種徳寺。為昌の菩提寺である小田原本光寺を移設したものとされている。この寺は小笠原康広に嫁したといわれる氏康娘「種徳寺殿恵光宗智大姉」が開基となっている。種徳寺殿は他の史料に一切出てこないためその実態は判らないのだが、本光寺を移設して継承したことから、為昌娘ではないかという指摘もある。ただし、種徳寺殿は死去が1625(寛永2)年6月5日(御府内備考続編)なので氏康世代だと100歳を超えてしまう。

※夫とされる康広死去は1597(慶長2)年12月8日で享年67歳(寛永諸家系図伝)。

没年から考えると、種徳寺殿は旧新小笠原康広に奉じられた氏規妻(綱成娘)の方が可能性が高くないだろうか。その所伝が後に粉飾され氏康娘・康広妻となったとすれば、年齢的な矛盾は回避される。

種徳寺殿が氏規妻の後身だったとするなら、氏康娘でありながら一門とは違う誉号の戒名を持った母とは異なり、本光寺の為昌菩提を継承するために臨済宗の後北条一門流の戒名を選んだことになる。この点は更に検討の余地がありそうに思う。